土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

金戒光明寺は浄土宗最初の寺院。

2011年09月29日 | 京都の古寺巡り


(2011.09.24訪問)

金戒光明寺は幕末のドサクサに京都守護職松平容保が会津藩本陣とし、会津藩兵
千名を置き、最後の守りに備えたと云います。
都の東山裾に南は知恩院、北にこの黒谷金戒光明寺を城備えとし、西には二条城
を備え、中央の御所に最大の睨みを効かせた江戸のたぬきの強かさを思いながら、
権力を前にした時の寺の儚さと、より強かさを、夕刻の参拝者のいない境内に立
ちフッと感じました。夕のお勤めでしょうか、朗々のお経が聞こえてきます。

[ 金戒光明寺 ]
●山号 紫雲山(しうんざん)
●寺号 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
●宗派 浄土宗大本山
●開山 法然房源空上人
●創建 承安5年(1175)
●本尊 阿弥陀如来坐像

金戒光明寺縁起(金戒光明寺HPから)
黒谷は法然上人がはじめて草庵を営まれた地である。十五歳で比叡山に登られた
上人が承安5年(1175年)四十三歳の時、念仏の教えを広めるために、山頂の石の
上でお念仏をされた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから、
この地に草庵をむすばれた。これが浄土宗最初の寺院となった。

▼西門(高麗門)。
堂々の門、まさに城門の感じ。左に石垣が見えますが、往時の備えは相当なもの
だったのでしょう。



▼修復中の山門。
万延元年(1860年)完成。正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。
残念ながらこの勇壮な門を見ることも、通ることもできませんが、足場を通して
見てもその偉容はわかります。



▼鐘楼。



▼手水舎。横に地蔵菩薩が祀られています。



▼御影堂。
本尊 宗祖法然上人75歳坐像。昭和19年(1944年)再建。



▼鎧掛けの松。
熊谷直実が法然上人を慕い、方丈池で鎧を洗い、この松に掛け出家した。この松
は二代目らしいです。



▼御影堂と鎧掛けの松。



▼阿弥陀堂。
本尊 阿弥陀如来坐像。
慶長10年(1605年)豊臣秀頼が再建。金戒光明寺諸堂中最古の堂宇。



▼阿弥陀堂須弥壇の本尊阿弥陀如来坐像。
恵心僧都作、如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められているそうです。
唯一開かれていたお堂。若い僧が数名、お経を唱和していました。聞こえていた
お経はここからでした。



▼納骨堂。
阿弥陀堂の西隣あります。新しいお堂で夕日に映えてます。



▼納骨堂。



▼露座の阿弥陀如来坐像。
西陽受けて極楽浄土からお迎えの様、御影堂西側に坐します。



▼修復中の山門を内側から。



夕刻と云ってもまだ陽は射しています、人のいない境内は、妙に清々しい雰囲気
に包まれ、西陽の強さに阿弥陀来迎の情景と法然さんの念仏が、阿弥陀堂から聞
こえてくる読経にとけてしばらくベンチで聞き惚れていました。
拝観時間が遅かったもので、お寺案内も入手できず、入堂出来ず、話も聞けずの
参拝でした。
帰りは南門から辞しましたが、よく考えて見ると三重塔のエリアへ行くのを忘れ
ました。

僧侶といえども生身の人間、安楽さん、住蓮さんはお気の毒。そんな法然院を訪ねました。

2011年09月27日 | 京都の古寺巡り


(2011.09.24訪問)

京都は快晴でした。この日は、何を思ったか法然さんの旧跡を訪ねようと、蹴上か
ら南禅寺をスルー、哲学の道を北行、先ず法然院へ。そして黒谷の金戒光明寺を訪
ねました。大阪を出たのが午後からでしたので、さてスケジュール消化は?

▼白川疎水の鯉。
来月の受注何とかならんかと、あれこれ思い巡らしながら哲学の道を歩いています
と、小橋小橋でカメラおじさんたちが川中を狙っています。
よく肥えた大きい<あらい>が悠然と泳いでいます。うまそ~。



  鯉のあらいレシピ
  1.包丁の背で頭を叩いて気絶させ内臓を抜く。
  2.三枚におろし、皮をひき、身を薄く削ぎ切りにする。
  3.身を氷の上に盛り付けます。
  4.酢みそでいただく。

こんなバチアタリを云ってる場合ではありません。これからお寺を訪ねるんですよ、
法然院へ急ぎましょう。

[ 法然院 ]
●山号 善気山(ぜんきさん)
●院号 法然院(ほうねんいん)
●寺号 萬無教寺(ばんぶきょうじ)
●宗派 浄土宗単立寺院
●開基 法然上人
●創建 鎌倉初期
●中興 萬無上人、忍澂上人
●本尊 阿弥陀如来坐像

法然院縁起(法然院HPから)
鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・
住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。1206年(建永元)
12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕
って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安
楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初
期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に
念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎
が築かれた。

▼参道入り口に、円光大師御旧跡(法然上人)の石標。



▼参道入り口。
和装のおねえさんお二人が下りてきました、何をお願いしたんでしょうか。



▼石段上部に黒門風の門が、ここから左に曲がります。



▼山門が見えてきました。



▼山門。
春夏秋冬、常に絵になる茅葺き屋根、苔が美しく光ります。



▼白砂壇(びゃくさだん)。
山門を入ると、両側に壇状の盛り砂。水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を
清めて浄域に入ることを意味しているとか。



▼蹲の水落ち。
木の葉に小石を置き水を落とす、何ともオシャレな感じ。



▼複雑な木。
どれが幹やら枝やら、相当悩み深き性格の木なんですね。



▼も一度、山門。



以上、非常にモノタリナイ法然院訪問で、法然さんのほの字も感じることは叶い
ませんでした。 以下言い訳!

拝観について(法然院HPから)
行事のないかぎり、本堂前までの参道を開放いたしております。
本堂への入堂はご遠慮いただいておりますので縁側からのご参拝となりますが、
本尊阿弥陀如来像にはおまいりいただけます。(この日、本堂は閉まっていました)
方丈庭園や方丈の襖絵、中庭の三銘椿等のご拝観は、
4月1日7日と11月1日7日の伽藍内特別公開の期間のみとなります。ご了承下さい。

そういう事情なので法然院 オ シ マ イ

光源氏に逢いに、嵯峨釈迦堂 清涼寺へ。

2011年09月23日 | 京都の古寺巡り


(2011.09.18訪問)

愛宕念仏寺を辞して、目指すは光源氏の清涼寺、嵯峨釈迦堂として三国伝来釈迦
像が有名ですね。

[ 清涼寺 ] せいりょうじ
●山号 五台山(ごだいさん)
●寺号 清涼寺(せいりょうじ) 通称 嵯峨釈迦堂
●宗派 浄土宗
●開山 ちょう然上人
●創建 寛和3年(987年)
●本尊 釈迦如来立像(国宝)

清涼寺縁起
清涼寺の前身は、嵯峨天皇皇子源融(みなもとのとおる)の別荘棲霞観で、融没後
子息たちによって棲霞寺(せいかじ)と改め、釈迦三尊が刻され本尊として今ある
阿弥陀堂が建立された。天慶8年(945)醍醐天皇の皇子の重明親王が亡き妃のため
に新堂を建て釈迦如来を安置した。これが釈迦堂の名前の由来とされたそうです。
その後寛和元年(985年)東大寺僧ちょう然上人が曰く因縁付きの釈迦如来立像を
唐から持ち帰り、釈迦堂に祀り本尊とし清涼寺の歴史が始まったそうです。

▼清涼寺石標。



▼仁王門。
豪快な二層八脚門で、左右に金剛力士が控えています。



▼仁王門扁額。
山号五臺山と書かれています。



▼法然上人像。
仁王門の左に立つ法然上人24歳の像です。



▼手水舎。



▼本堂(釈迦堂)。間口14間、奥行き13間。元禄14年(1701年)再建。
本尊 釈迦如来立像(国宝)。像高162.6cm、栴檀木造。北宋時代(985年)の造像。
三国伝来(インド→中国→日本)の生身の釈迦如来として有名ですね。 清涼寺式釈
迦如来像の原像。鎌倉以降この像の模刻が流行、全国に百余体在るそうです。



ラッキーでした。たまたま開帳日でボクは今日初めてジックリ拝することが出来
ました。以前西大寺で模刻像に拝しましたが、本家本元は初めてです。
螺髪ではない縄目状の宝髻はガンダーラ仏を彷彿とさせ、通肩の衣文は左右対称
流水状。肉髻は大きくないぶん、肉髻珠は大きく輝いています。狭い額に比して
白毫は大きく、目はややたれ目気味が印象的でした。以上双眼鏡観察記でした。



▼本堂扁額。
栴檀瑞像と揮毫されています。



▼渡廊下。
本堂裏から大方丈に繋がる渡り廊下です。放生池を左に見ながら方丈へ向かいま
す。写真前方が本堂です。



▼放生池。



▼方丈池小島に建つ弁天堂。唐破風付き宝形造。江戸後期の建築。



▼放生池。



▼阿弥陀堂。
もと源融(みなもとのとおる)の別荘棲霞観で、源融没後、寛平7年(895年)、子息
が棲霞寺阿弥陀堂として建立。
文久3年(1863年)再建。



▼一切経蔵。



▼一切経蔵の輪蔵。
この輪蔵の中に明版一切経が収められています。これを廻すことにより、一切経
を読んだのと同じ功徳があるそうです。一回100円、高いか安いかあなた次第。



▼鐘楼。



▼多宝塔。



▼聖徳太子殿。法隆寺夢殿を模した八角円堂。



▼聖徳太子殿の前に咲く彼岸花一輪。



▼源融(みなもとのとおる)墓。
ご本人のお墓かどうかハッキリ云って不明。別人との説もあるそうです。



またまた失敗!
棲霞寺当初の本尊、阿弥陀三尊像を拝しそこねました。このお像こそ光源氏のモ
デル説のある左大臣源融さんを写したお像と云われているのは、皆さんご存知の
通り。いまは霊宝館に安置されているのですが、霊宝館閉鎖中!
しばらくお逢いしていないので残念でした。毎年春と秋にオープンとのことです。

羅漢さんの表情がお一人お一人違う、愛宕念仏寺。

2011年09月22日 | 京都の古寺巡り


(2011.09.18訪問)

二尊院から鳥居本みち(愛宕古道街道)を北へ羅漢さんのお寺、愛宕念仏寺へ向か
います。おたぎねんぶつじです。
またまた暑い上にだらだら坂道、両側にお食事処、喫茶処、お土産処のお店が並
んでいます。皆さんダラダラ歩いてます。ボクはチンタラ歩いてます。もう歩く
のはイヤです。よって喫茶処に飛び込んだのは云うまでもありません。

▼よう来た! よう来た!ワッハッハ。



[ 愛宕念仏寺 ] おたぎねんぶつじ
●山号 等覚山(とうかくざん)
●寺号 愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ) 愛称 羅漢さんのお寺
●宗派 天台宗
●開基 称徳天皇
●創建 天平宝字から神護景雲年間(764~770年)
●復興 千観内供
●再興 西村公朝
●本尊 千手観音菩薩立像

愛宕念仏寺縁起
称徳天皇(764~770年)の開基でいまの東山の地に愛宕寺(おたぎでら)として創建。
平安初期、鴨川の氾濫洪水で七堂伽藍が流失。天台僧千観内供が醍醐天皇の勅に
より等覚山愛宕院として再建。その後栄枯盛衰、興廃を繰り返し現在地に移し復
興を目指すも荒れ放題。1955年、住職を拝命した西村公朝は復興再興に邁進、本
堂、地蔵堂、仁王門などを整備し現在のお寺の寺観を整えた。

▼愛宕念仏寺石標。



▼仁王門。
清滝に向かう清滝道沿いに立ってます。クルマの方、トンネルに入る前、チラッ
と左を見て下さい、丹色のきれいな山門です。



▼地蔵堂。
この参道を登り切ったところに舞台造、宝形造本瓦葺のお堂が。
本尊 火除地蔵菩薩坐像。



▼ふれあい観音堂。可愛いお堂に公朝さん作の可愛い観音さまが。手で触れるこ
とで心身の痛みを癒して下さいますヨ!



▼思案中の羅漢さん。



▼本堂(重文)。
鎌倉中期の再建。桁行五間、単層入母屋造り、本瓦葺。



▼本堂内陣。
天井は小組格天井、本尊上部は二重折上格天井で繊細で優美な構造になっていま
す。見えます? スンマセンねぇ、ヘタな写真で!



▼本尊 千手観音菩薩立像。
お顔は丸形、やや童顔で伏し目、可愛い小さなお口です。舟形向背を持ち、主手
は中央で合掌し脇手にはそれぞれ観音持物を持っています。厄除け観音として平
安時代から篤い信仰を集めているそうですヨ。



▼清水寺貫主大西良慶さんの板書。
良慶さんは復興再建のため公朝さんを叱咤激励したそうです。



▼多宝塔。
本尊 石像の可愛い釈迦像。左に伝教大師最澄さんがお立ちです。



▼千二百羅漢。
境内入って先ずビックリするのと同時にボクたちの心を和ませてくれるのは、個
性的で表情豊かな羅漢石像がなんと千二百体。
昭和56年(1981年) 仁王門の解体修理の際に、寺門復興興隆を願って修復費用捻
出のため境内を羅漢石像で一杯にしたいと発願したのが始まりだそうです。最初
五百体の羅漢を全国に募集、一体一体すべてが一般の参拝者の手によって彫られ
たもので、発願10年後には千二百体となり千二百羅漢と呼ぶようになったそうで
す。







美術院国宝修理所所長、仏像修理技師、東京芸大教授、仏像彫刻家、仏像研究者、
僧侶として縦横に活躍した西村公朝さん、公朝さんなくして今の愛宕念仏寺はな
かったでしょう。
公朝さんは愛宕念仏寺前住職。境内ではふれ愛観音、訶梨帝菩薩、石像釈迦像な
どの仏像や仏画がみることができます。

さて、愛宕古道街道を戻ります。戻りは下り、楽チンです。ボクの好きな源融さ
んに会いに清涼寺へレッツゴーですヨ!

二尊院は、お釈迦さんと阿弥陀さんのダブル本尊のお寺です。

2011年09月20日 | 京都の古寺巡り


(2011.09.18訪問)

久しぶり嵐電で嵐山にやってまいりました。今回は嵯峨野巡りをと意気込んでま
いりましたが天気はヤッパリ不安定、ムシムシの小倉山麓です。にも拘らず皆さ
んお好きですネ、嵐山駅とメイン道路は満員御礼ですワ。
初訪問の二尊院は、名の通り、ご本尊がダブルのお寺。五本線の格を誇るお寺で
すが、静かな境内は上品さに充ち満ち、イイ雰囲気でとても気持ちの落ち着くお
寺です。しかし紅葉の時期はヒックリ返るのでは。

[ 二尊院 ] にそんいん
●山号 小倉山(おぐらさん)
●寺号 二尊院(にそんいん) 正称 二尊教院華台寺(にそんきょういんけだいじ)
●宗派 天台宗
●勅願 嵯峨天皇
●開山 慈覚大師円仁
●創建 承和年間(834~847年)
●中興 湛空上人
●本尊 釈迦如来立像(重文) 阿弥陀如来立像(重文)の二尊。

二尊院縁起
平安初期円仁さんの開創と云われていますが、その後荒廃、法然さんのお弟子湛
空さんが再興。またも応仁の乱で全山焼失、永正18年(1521年)本堂と唐門が再
建、本堂勅額はそのとき後奈良天皇から下賜されたものと云います。その後徐々
に復興、御所の仏事を司り、勅使参詣があり、旧摂関家との交流で格式五線のお
寺として今在ります。

▼総門。京伏見城の薬医門を慶長18年(1613年)角倉了以が移築したもの。さす
が城門、堂々とした八脚門で参道紅葉の馬場が一直線に見渡せます。



▼紅葉の馬場(参道)。両側はほとんどがもみじ、紅葉時期はさぞやの感じです。



▼高貴な石積土塀の五線。



▼勅使門(唐門)。



▼本堂。永正18年(1521年)再建。御所紫宸殿を模して造営されたそうです。



▼本堂扁額。後奈良天皇宸筆揮毫の勅額。二尊院と書かれています。



▼本堂内陣。



▼本尊
ご本尊二尊は横並びでほぼ左右対称の像形、上衣、天衣、裙のデザイン差と印相
差以外ほとんど変わりません。元は漆箔か金泥による仕上げと思われますが、今
は漆黒の姿で蓮花上に佇んでいます。
二尊は、それぞれ現世へと送り出す釈迦如来の本願、発遣(ほっけん)の釈迦、極楽
浄土迎えいれる阿弥陀如来本願、来迎(らいごう)の弥陀と呼ばれているそうです。
鎌倉時代作らしく、仏師名は判りませんが、送迎二体のご本尊は珍しいのでは。
内陣の撮影はOK!



右、釈迦如来立像(重文)。像高78.8cm。玉眼。鎌倉時代。
左、阿弥陀如来立像(重文)。像高78.8cm。玉眼。鎌倉時代。

▼法然上人足曳きの御影(模作)。



▼本堂。



▼九頭竜弁財天堂。



▼鐘楼。



▼八社ノ宮。



次は愛宕念仏寺にツヅクのです。あの羅漢さんのお寺です。