土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

[ 雑感 ] 東寺への道

2006年02月06日 | 京都の古寺巡り
昨秋、秋真っ只中といっても京の秋は遅かった。紅葉の名所で錦秋という彩りにほど遠い状況は何故か損をした気分になる。七条の国立博物館、三十三間堂から東山を巡りながら界隈の社寺はパスして四条までブラブラ、久しぶりに加茂川沿いを南に下り五条通りを西に烏丸通りをまたまた南へ歩をとる。同行の我女房殿から「あんたお金無いのん」とかなんとか言われながらもなおも歩く。およそ1000年の古都に相応しくないと思いたくなるような京の玄関口JR京都駅の地下で遅い昼食をとった。ここでも女房、「さぞ美味しいもん食べさせてくれるんやろね」と嫌みの一つも言われながらも軽くすませた。これから目指すは東寺、あの空海さんのお寺であることを告げる。女房、「フーン、歩いていくのん」、当たり前であると毅然と言ってやった。七条から約8kmさすがにしんどかったが 顔には出さず毅然とした態度も崩さず歩く、されど足どりは重く我ながらヨタヨタ、精神力と体力とは加齢による反比例の顕著さであることを実感、精神力で体力を補うということはあり得ない。追い打ちをかけるように「お疲れの様子やね、どこかでお茶する」とイヤーな一言。やっと辿り着いたという感じで南大門をくぐると人、人、人の大洪水、参詣者ではなくどこかの区の運動会みたいな行事の真っ最中。出店もいっぱいで、女房、「ここほんとにお寺ァ」「なんでお寺でこんなことするのん」「なんでパトカーが境内にとまってんのよ」そんなこと知るかい東寺に聞け、と言いたいのをグッとこらえて、お寺も生き残りをかけて大変な時やからなァと答えになっているのかいないのか訳の分からないことで逃げておいた。拝観受付から一歩柵内にはいると、さすが由緒伝統のかたまり大寺院の閑寂ではあるけれどもどことなく緊張感が流れている。「この感性がお寺なのよね」と女房殿。柵外の騒然とした様子と柵内のこの静けさの差は一体なんだろう、同じ境内の平面上で何故こうも違うのだろう。これはお寺の深い配慮があってのこと、柵外現世の騒々しい世界が一歩柵内に入ると曼茶羅の世界、大日如来の慈悲が遍く行き渡る彼岸の世界を五感で体得、体感出来るようにとのお寺の深い深い慈悲の心があってのことである。と私は理路整然と女房に言った。女房殿曰く「拝観料払うか払わないかの差じゃないの」。うーん、妙に納得。