土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

紫式部も参籠、源氏物語を執筆したと伝わる、石山寺を訪ねました。

2011年05月24日 | 滋賀の古寺巡り


(2011.05.21 訪問)

晴れそで晴れない、降りそで降らないムシムシの日です今日は。琵琶湖瀬田川の
西側丘陵地に境内を広げ、奇岩硅灰石上に堂宇が並ぶ石山寺はアップダウンがキ
ビシ~イお寺ですボクにとっては。この日はもう一か寺予定していましたがバテ
バテで遠慮しました。
お寺にいるより門前のコーヒーショップでのだらだら時間の方が長かったです。
この夏が思いやられますワ。

▼石山寺門前


[ 石山寺 ] いしやまでら
●山号 石光山(せっこうざん)
●寺号 石山寺(いしやまでら)
●宗派 東寺真言宗
●勅願 聖武天皇
●開基 良弁僧正
●創建 天平十九年(747年)
●本尊 如意輪観世音菩薩(秘仏 三十三年に一度、天皇御即位の翌年に開扉)
●西国三十三所観音霊場第十三番札所

石山寺縁起
東大寺大仏造立のための黄金不足で聖武天皇が、この地に伽藍を建て如意輪法を
修すようにとの夢告を受け、良弁僧正を開基として開かれた寺院だそうです。石
山寺の寺名由来は境内や伽藍堂宇が奇岩硅灰石上に建造されたからと伝わります。

▼東大門(重文)


▼寺標


▼金剛力士阿形像


▼金剛力士吽形像


▼提灯


▼参道
東大門越しの参道。


▼参道


▼手水舎


▼境内中心への石段


▼蓮如堂(重文)
硅灰石の崖にせり出し、懸造の堂宇ですがわかります?


▼毘沙門堂
正面三間、宝形造。


▼毘沙門堂本尊 兜跋毘沙門天立像(重文)
木造、平安時代。脇侍 吉祥天、善貮師童子。


▼御影堂(重文)
正面三間、宝形造。
弘法大師、良弁僧正、淳祐上人を祀っています。


▼硅灰石(天然記念物)
石山寺の寺名由来になっている奇岩。




▼本堂参道


▼本堂(国宝)
本尊 如意輪観世音菩薩。(重文)
柱間7間、寄棟造の本堂と柱間9間、寄棟造で懸造の礼堂を繋ぐ相の間で構成、総
檜皮葺の複雑な構造です。
巨大な硅灰石の上に建てられています。


▼本堂源氏の間
本堂東側に張り出して設えられている部屋。このお寺の売りの一つ。この部屋で
紫式部は源氏物語を執筆したと伝わります。


▼紫式部が源氏物語を執筆中。
紫式部は、石山寺参篭中に中秋の名月が琵琶湖に美しく映るのを見て、源氏物語
の構想を得て「須磨」の帖から書き始めたと言い伝えられています。式部の後ろ
の女性はどなたでしょう?


▼本堂
周辺を回りましたが、全景を撮れるところはどうも無いようです。






▼鐘楼(重文)
重層袴腰、檜皮葺、入母屋造。立派な鐘楼です。鎌倉時代後期。


▼多宝塔への石段、短いですが皆さんフーフー。


▼多宝塔(国宝)
源頼朝寄進、鎌倉時代、建久五年 (1194) 建立された日本最古の多宝塔。日本三
大多宝塔の一つ。ちなみに日本三大多宝塔とは
●石山寺多宝塔(大津市)
●金剛三昧院多宝塔(和歌山高野町)
●浄土寺多宝塔(尾道市)


▼多宝塔本尊 大日如来坐像(重文)
大日如来坐像はどうしても円成寺の運慶作を思ってしまいますが、両者とも密教
儀軌通りの作法でなされているのでしょう、ほとんど変わりません。ただ一か所、
玉眼は、運慶の方はやや半眼の伏目気味で静を、快慶の方はキリッと正面を凝視
で動の感じ。堂内光にもよるでしょうが、この大日如来の目は非常に印象強く残
りました。運慶と快慶ライバル同士の競演と云ったところでしょうか。
鎌倉時代、建久五年 (1194) 造像。寄せ木造、玉眼、像高102cm、
快慶作と伝わります。


▼頼朝宝篋印塔(重文)
高さ128cm、南北朝時代造。
多宝塔のすぐ横に建てられています。源頼朝の供養塔と伝わります。


▼芭蕉庵
松尾芭蕉ゆかりの茶室。非公開です。


▼月見亭
後白河上皇行幸に際して建立。近江八景の一つ「石山秋月」はここ。瀬田川の流
れを眼下に名月を愛でるいにしえ人の心を想うのは、真っ昼間はいけません。風
流を感じません。


▼心経堂
本尊 如意輪観世音菩薩半跏像。般若心経写経を永久保存用のお堂。
平成二年三月落慶。緑の中で朱が映えています。


▼光堂
鎌倉時代に存在したと伝えられる光堂(慰霊堂)を平成二十年(2008)復興再建。


▼紫式部銅像
牡丹園に囲まれて像はありますが、その周りをおばさん方が取り囲んでました。
一瞬の隙ですこの写真。


▼無憂園
綺麗に手入れのされた回遊式庭園 無憂園。琵琶湖をかたどった池や滝のある庭園
では、今、花菖蒲が盛りです。春夏秋冬、季節の旬には花々が乱れるそうです。


右に見えるのは休憩所です。


▼無憂園黄菖蒲


▼無憂園黄菖蒲




▼無憂園しゃが


▼無憂園小川


巡拝コース最後に無憂園はあり、広い綺麗な休憩所があります。回遊式庭園を眺
めながらしばしの一刻、紫煙を燻らす贅沢な一刻を過ごさせていただきました。
お寺の配慮に感謝。実感!

石塔寺のシンボルはアショーカ王塔。

2011年05月18日 | 滋賀の古寺巡り


(2011.05.14 訪問)

石塔寺は全山石塔と石仏だらけ、その名の通りのなんともユニークなお寺です。
永源寺から国道421号を戻り、名神八日市IC手前県道46号を左折、名神八日市
カントリーの中を通り抜けるとスグの所にお寺はあります。

▼阿育王塔(アショーカ王塔)


[ 石塔寺 ] いしどうじ
●山号 阿育王山(あしょかおうざん)
●寺号 石塔寺(いしどうじ)
●宗派 天台宗
●開山 聖徳太子
●再興 一条天皇
●本尊 聖観音菩薩(秘仏) 御前立 十一面観音菩薩

石塔寺縁起
聖徳太子建立近江四十八院の満願のお寺といわれ旧名本願成就寺が草創。しかし
伝承寺の多くが辿るその後衰退。平安中期、今のお寺のシンボル、阿育王塔が発
見され、時の一条天皇が再興、寺号を阿育王山石塔寺と改めた。

▼参道口 寺号石標より立派な下馬碑が立っています。


▼参道


▼山門 偏額は阿育王山と揮毫されています。


▼本堂


▼本堂偏額


▼本堂須弥壇の御前立ちの十一面観音立像


▼境内に立つガンダーラ風釈迦立像


▼阿育王塔(アショーカ王塔)への参道石段
アホらしいとおもいつつ何段あるか数えながら登りました。158段ありました。
そこで新発見!!
石段嫌いの皆さん、下を向いて段数を数えながら登るといつの間にかテッペンに
つきます。上を向いて登るとエ~まだまだや~とバカらしくなり、しんどさ倍増!
上を向いていいのは九ちゃんの歌だけです。
欠点、周囲の景色が見えません。アシカラズ!! 注:おりる時に見て下さい。


▼参道左脇にはギッシリ五輪塔や石仏がイッパイです。
この写真はおりる時、上を向いて撮りました。


▼阿育王塔(アショーカ王塔)(重文)
参道石段を登りきると視界がバッと開け、一瞬異様さに目が回りました。ボクに
はスグ目が回る持病があります。
三層の石塔。塔高約8m、笠厚約70cm。
現存する最古の石塔で日本最大、朝鮮百済風の塔姿。
紀元前3世紀頃インドマウリヤ王朝第3代の王、アショーカ王が仏舎利を納めた仏
舎利塔を8万4千基建立したと伝えられ、その内の1基がこの塔だと云う伝承が残っ
ています。 誰がどうして運んできたのでしょう、気になりません?




▼五輪塔群
阿育王塔を中心に小型五輪塔が整然と並べられているのは壮観です。鎌倉以降市
井の人々が奉納するようになり数万基?あるそうです。


▼阿育王塔(アショーカ王塔)を取り巻く五輪塔群


▼石仏群
五輪塔群から細道が200mほど続き、その両側にこれまた石仏がギッシリ。


▼鐘楼
この場所ではチョット場違いな感じが。


数万基と云われる石塔石仏が山上の平坦地に整然と並べられているのは、強烈な
インパクト。異様ではあるけれども三重石塔への熱烈な信仰エネルギーを感じま
す。7世紀以降この湖東一帯は滅亡百済渡来人の居住地、彼等の故国を思う思慕が、
彼等のシンボル三重石塔にエネルギーを集中させたのでは。

湖東臨済禅の名刹、永源寺へ。

2011年05月17日 | 滋賀の古寺巡り


(2011.05.14 訪問)

琵琶湖東岸一帯は、比叡山の影響下で平安以降、天台宗の有名無名を問わず多く
のお寺が今にその法灯を伝えています。また湖東から湖北にかけての近江路には
多くの十一面観音像を見ることができるのは皆さまよくご存じの通りですよね。
そんな天台勢力の中で湖東に臨済禅の名刹があるというのを聞いていたので、そ
の名刹、永源寺を訪ねました。湖東三山の一つ、百済寺の近くです。

[ 永源寺 ] えいげんじ
●山号 瑞石山(ずいせきざん)
●寺号 永源寺(えいげんじ)
●宗派 臨済宗永源寺派大本山
●開山 寂室禅師(正燈国師)
●本尊 世継(よつぎ)観世音菩薩(秘仏)

永源寺縁起(永源寺HPから)
南北朝時代の興安元年(1361)、近江守護職、佐々木六角氏頼が入唐求法の僧、
寂室元光禅師(正燈国師)に帰依し、領内の土地寄進、伽藍を創建したことが草
創。二千人の修行僧と、五十六坊の末庵を有したと云われているそうです。

▼参道前のサイン


▼参道前から見る愛知川の流れ
二日前の雨のせいでしょうか、スゴク濁った水です。


▼羅漢坂参道
イヤになりますわ、石段は。


▼十六羅漢石像
羅漢坂の左岩に釈迦三尊石像と十六羅漢石像が祀られています。岸壁に彫られた
ものではありません。






▼手水鉢


▼総門


▼山門(重文)
享和二年(1802年)建立。
本尊 釈迦三尊。釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、十六羅漢が祀られています。


▼山門上層への階段
両サイドに階段がありますが、いずれも登段禁止。


▼鐘楼
袴腰の立派な鐘楼。梵鐘は苦労があったみたいですよ。安永元年(1772年)再建。


▼本堂
本尊 世継(よつぎ)観世音菩薩。(秘仏)
正面八間の豪快な本堂の屋根は葦葺き。
本尊御開帳はおよそ四半世紀に一度らしいです。
康安元年(1361年)創建。兵火、火災に被災、明和二年(1765年)再建。


▼本堂偏額
山号 瑞石山と揮毫されています。


▼本堂外陣
さて何畳位か判りませんが、とにかく広いです。




▼芭蕉句碑
こんにゃくの さしみもすこし 梅の花


▼法堂
享保十三年(1728年)再建。


▼法堂須弥壇
本尊 釈迦如来、脇侍として十大弟子の迦葉尊者、阿難尊者が祀られています。
三尊は後水尾天皇より寄進されたものだそうです。


▼開山堂
寂室禅師(正燈国師)を祀るお堂。


▼開山堂偏額


▼開山堂須弥壇


▼境内からの愛知川、後ろの山並は鈴鹿山系。
緑一色の境内を取り巻く多くは楓もみじ、陽射しを通す青もみじのグラデーショ
ンに紅葉時期の全山赤を想像してしまいました。


▼経堂
応永十一年(1404年)創建。延宝四年(1676年)南嶺禅師が再建。明版大蔵経が
納められています。


▼経堂正面には道教神でしょうか?
中央 傅大士、右 普健童子、左普成童子。


▼道場入口門
左門札に正法眼蔵三百則提唱とあります。永源寺は臨済禅です。なぜ曹洞祖師道
元さんの正法眼蔵なのですかと、僧侶の方に聞いたところ、「宗派を越えて禅の
教えは不変、その心を学びます。」 ごくあたり前の答えです。
宗派間の確執が目立ち、釈迦仏教の哲学はどこへ行ったのか、誰もが思い起こそ
うとはしない。あたり前が出来てないように見える今日の日本仏教界の中で、チ
ョット見直しました。ボクの主観ですので念のため。
もともと永源寺は臨済宗東福寺派だったそうです。


愛知川沿い、鈴鹿の山懐に抱かれた地に永源寺は650年ほどの歴史を縫っています
が、京の雅びと時の権力者が競った美の競演とはいささか趣きの違いを感じます。
地に根を張った信仰の重さの違いなのでしょうか。

それでは、ここからチョット南の石のお寺へ向かいます。





達磨大師と聖徳太子邂逅の地、片岡山の達磨寺へ。

2011年05月12日 | 奈良の古寺巡り


(2011.04.30 訪問)

聖徳太子ゆかりのお寺第二弾、達磨寺に向かいます。県道7号を北に少し戻ると
国道25号に交差、それを左折、聖徳太子の本家本元法隆寺の松並木参道を右手に
見チョットご挨拶、さすがGW、25号はクルマ一杯、駐車場は満杯、松並木は皆
さんゾロゾロ! しばらく走ると竜田川に架かる竜田大橋です。
竜田川のさくら凄いですよ!見事ですよ!ボクはもちろん知りませんが。
竜田大橋を左折、渡ってからですよ!国道168号を南へ、王寺の中心を過ぎると
スグ、道沿いに達磨寺駐車場があります。

[ 達磨寺 ] だるまじ
●山号 片岡山(かたおかさん)
●寺号 達磨寺(だるまじ)
●宗派 臨済宗南禅寺派
●勅願 推古天皇
●開基 聖徳太子
●本尊 三本尊 千手観音菩薩坐像 達磨大師坐像(重文) 聖徳太子坐像(重文)

達磨寺縁起
日本書紀、片岡山飢人伝説で著名なお話。613年聖徳太子が片岡遊行中飢異人を
救済したが翌日亡くなり衣を着せてそれを弔い、後日人をやり検したところ、衣
だけが棺上に残されていた。その異人こそ達磨大師だった。太子はその地に達磨
塚を築き、さらに精舎を建立。これが達磨寺の草創、らしいです。

▼南門


▼寺名石標


▼境内


▼藤棚
小さい藤棚ですが咲き誇ってました。


▼手水舎


▼鐘楼


▼本堂
平成16年4月11日落慶。本堂はもともと古墳の上に建てられていたそうで、この
古墳(3号墳)こそが達磨大師の墓所と伝承されているそうです。三本尊が祀ら
れていますが、祀ると云うよりも博物館の展示の様、須弥壇のしつらえや堂内荘
厳はなく、お寺の本堂と云う感じはありません。


▼本堂編額


▼本尊 中尊千手観音菩薩坐像 1667年 雲渓作 木造
お体に比してお顔はかなり大きく、岩座に座られているのはかなり珍しいですね。
脇小手の数は定かではありません。


▼本尊 左尊達磨大師坐像(重文) 1430年 集慶作 木造 像高87cm


▼本尊 右尊聖徳太子坐像(重文) 1277年 院恵作 木造 像高94cm


▼九重石塔
1239年達磨大師のために建立されたと伝承。基壇と軸部にくらべて笠が大きくバ
ランスが不安定、笠間の軸がなく笠も不揃い、寄せ集めの感が。


▼聖徳太子愛犬雪丸塚
聖徳太子は、愛馬黒駒といい愛犬雪丸といいよほど動物好きな方だっんですね。


▼一夜竹
達磨大師が竹を植えたところ一夜で芽を出したと云われる竹の今の姿。どなたが
こんなこと云い出したんでしょう。


▼古墳 達磨寺境内に三つの古墳があります。
1号墳。
径16m、高さ4m、円墳。全長8m横穴式石室、羨道から内部に入れ、円墳頂部に
役行者を祀っています。


2号墳。
1号墳の南側に径16m、高さ2mの円墳。
3号墳。
平成14年に本堂の建て替え時、発掘調査で本堂の下80cmの縦穴に、幅31.5cm
高さ73.5cmの二上山凝灰岩製宝篋印塔が安置、中に水晶製五輪等型舎利容器が
有り、水晶製舎利が納められていたそうです(本堂内説明文から)

▼西門
国道168号に面して西門はあります。いわば駐車場専用門みたいなものでしょうか。


額安寺も達磨寺も、聖徳太子の面影を偲ぶことは少々無理でした。
GWの「土曜日は古寺を歩こう」 はこの日だけ。残り8日間家で何をしていたのか
忘れました。

熊凝精舎のいま、額安寺。

2011年05月11日 | 奈良の古寺巡り


(2011.04.30 訪問)

慈光院から県道7号を南へ約5km、GWにも関わらず道はよく空いています。唖
然とするくらい空いています。スグ着きました近所までは。
しかしお寺へは行き着きません。数回付近をグルグル、入るべき道が発見出来ま
せん。やっと見つけたおばさんに尋ねると「そこの広い道を左、すぐ左に入る道
を真っすぐ、ここからスグですがな」お礼とグチをいいながらやっと着きました。
お寺の方にグチると「ナビ付クルマでも、どなたも一発で来た方はいません」。
ですって。

[ 額安寺 ] かくあんじ
●山号 熊凝山(くまごりさん)
●寺号 額安寺(かくあんじ)
●宗派 単立 以前は真言律宗
●開山 聖徳太子(数説有)
●一世 道慈律師
●本尊 十一面観音菩薩立像

額安寺縁起
聖徳太子が、釈尊の祇園精舎に倣って創建した学びの道場「熊凝精舎」が額安寺
の前身で、推古天皇が額に瘍を病まれた際に、熊凝精舎の薬師如来に祈願された
ところ、快く平癒されたことから額(ひたい)安らかなる寺「額安寺」の名を賜
ったと伝えられているそうです。

▼山門
近年、山門をはじめ境内が補修改装され、生け垣に囲まれた山門は、豪邸の門の
ような感じ。


▼参道


▼手水鉢


▼本堂
桁行五間寄棟造、建造江戸初期。
堂内はけっして大きくはありませんが須弥壇以外は荘厳を排除した簡素な造りで
内陣の広さを強調しているようです。西大寺の本堂を小さくしたような感じがし
ました。




▼本堂内陣須弥壇
ご本尊は中央お厨子の中に祀られています。保存状態はとても良好、彩色は見事
に残っています。お厨子両扉絵がまた見事、不動明王と諸天が描かれています。


▼本尊十一面観音菩薩 室町中期の造像。
お厨子の中なので頭上の化仏やお顔の全貌は見にくいですが、お顔は丸く、童顔、
目は半眼に近く童顔にもかかわらず艶かしさも持ち合わせているように見えます。
お口の紅が妙に印象的なご本尊です。


▼虚空蔵堂


▼虚空蔵菩薩半跏像(重文)
木心乾漆造、額安寺の根本本尊。奈良時代から平安時代初期の作。
一世道慈律師が招来。
ガラス越しですが真近で拝せます。彩色もよく残り、乾漆の見事さは、胸飾や天
衣、条帛の精巧な作りに目を見張ります。ただ右手に蓮を持っている所などは、
全て左手に三鈷鉤を持つ神護寺五大虚空蔵菩薩との差異はあります。これも儀軌
が確立された東密と奈良時代における雑密の時代差でしょうか。


▼宝篋印塔 (大和郡山市指定文化財)
造塔記銘を持つ宝篋印塔では我国二番目といいます。
1261年石工大蔵安清作と刻されています。


文献上の事はよく知りませんが、聖徳太子の名残や香りは感じることはできませ
ん。ただ推古天皇の伝承云々はまんざら伝承と片付けられない一面があるのでは
ないでしょうか。この地一帯は額田部郡、古代豪族額田部氏の発祥の地といい、
往時の皇統子女は時の豪族が養育にあたったと云います。推古天皇の幼名額田部
皇女という諱は何か関連がありそうに思えますが…。

聖徳太子伝承が残るもう一つのお寺、達磨寺に向かいます。