土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

高貴寺は鬱蒼の緑の中に。

2011年06月27日 | 大阪の古寺巡り


(2011.06.25 訪問)

葛城山西麓大阪府河南町平石の山中に千三百年の法灯を今も伝える高貴寺を訪ね
ました。役行者小角さんや空海さん、嵯峨天皇と歴史の彼方の人々が登場するこ
の高貴なお寺は深山幽谷そのままの山中にひっそりと置かれています。鬱蒼の緑
は梅雨晴れの陽射しも遮り、ところどころの木漏れ日が僅かに陰翳の変化を感じ
させます。閑です、とにかく深閑が辺りを包み、風の音すら聞こえず踏む落ち葉
の音だけが耳に入ります。庫裡の玄関で作務衣姿の青年僧と少しばかりお話をし
ていると、お一人参拝の方が見え朱印を求めてました。ボクは古図の入ったガイ
ドをいただいて奥の院に向かいました。そう広くない境内から奥の院への道は響
き渡る無言の気と静のエネルギーが降り注いでいるようでゾクッとしました。供
養塔や墓標が連なる陽の差さない参道、ハッキリ云って怖かったです。

▼河南町平石の里に向かう途中、富田林PLの塔が遙かに。



[ 高貴寺 ] こうきじ
●山号 神下山(こうげさん)
●寺号 高貴寺(こうきじ)
●宗派 高野山真言宗
●開基 役行者
●開創 697年
●中興 慈雲尊者
●本尊 五大明王

高貴寺縁起
文武年間、役行者が葛城行場の一つとして開基。その後、空海さんが三十二歳の
時この寺で安居、高貴徳王菩薩を感得しそのお像を刻し高貴寺と呼ぶようになっ
たそうです。この一帯の盛衰は、この地の宿命、南北朝争乱の兵火で山内壊滅、
寺運衰退のまま、江戸後期になり慈雲尊者の入山で寺景一変、往古の姿を再興し
たと伝え、今は真言律の修行道場として法灯を守っています。

▼分かれ道に「左かうきじ」の刻が見える道標。



▼山道の左に突然現れる鐘楼門(山門)。



▼鐘楼門の梵鐘。



▼山門横の中興祖慈雲尊者揮毫といわれている結界石。



▼山門を入るとスグ庫裡に繋がる真言律座禅道場門。



▼土塀に沿って参道を行きます。右は深い谷がめぐり幽谷の雰囲気。



▼庫裡の表門。下乗の文字が目立ちます。



▼境内の堂宇が見えてきました。



▼金堂。
本尊五大明王。役行者、理源大師像が祀られているそうです。毎年一月十五日護
摩供養に開扉。



▼金堂前に臥龍桜。かなりの老枝垂れのようです。幹は空洞。



▼講堂。



▼講堂本尊 木像弁財天坐像(重文)。秘仏、毎年四月二十六日開帳。



高貴寺でいただいたお寺ガイドから

▼開山堂。
本尊 慈雲尊者木像。



▼金堂と開山堂。



▼十三重石塔と宝篋印塔。鎌倉建久年間造。



▼講堂の脇を奥の院へ向かいましょう。



▼参道石段。



▼像高20cm ぐらいでの可愛いお地蔵さんがポツンと。



▼五輪供養塔や板名号、墓標が途中多く見かけます。





▼ 奥の院御影堂。十分程上ると奥の院台地に到着。本尊 弘法大師像。



▼中興の祖、慈雲尊者の墓所。



▼享和元年(1801)刊行畫丹羽桃渓の河内名所図絵全六巻中高貴寺の分より平石
高貴寺山内絵図。



高貴寺でいただいたお寺ガイドから

いまだこんな山中に法灯を守っている驚きとメディア紹介を拒む修行寺院として
のプライドを保ち続けるお寺があることは嬉しいじゃありませんか。
堂宇は金堂、講堂、開山堂と奥の院御影堂と四つの堂宇と庫裡道場しか残ってい
ない狭い境内ですが、なんとなく往時の風格が偲ばれます。

国宝仏オンパレードの興福寺はいつ来ても見応え十分!!

2011年06月20日 | 奈良の古寺巡り


(2011.06.15 訪問)

近鉄西大寺駅近くに所用があり、そのあと気まぐれ梅雨も中休みなので春日野鹿
苑にバンビを見に行こうと東向商店街から三条通りをフラフラ。猿沢池で亀を数
えてましたがよく考えてみるとバカらしいので名物石段五十二段へ。興福寺の南
の参道口と申しますか新装なった五十二段でホンマに五十二段あるのか数えてい
たら、暇そうな人力車のお兄さんがやってきて、「なにやってはりますのん?」
から三十分ほど立話。「暇?」と尋ねたら「はい!」、やっぱりネ。興福寺の境
内は大勢のガキ、じゃなかった修学旅行生たちの団体や昔の娘さんと昔のニキビ
少年たちの団体がウロウロチョロチョロ、結構な人出なんです。が…。
みなさん奈良へ行かれたら観光人力車に乗って機動力アップはいかが。今の美青
年が有名どころを案内してくれ、駅まで迎えにも来てくれますヨ。そうそう、鹿
苑行くのやめました。梅雨も気まぐれボクも…、興福寺に変更。

▼五十二段。
間違いなく五十二段ありました。


[ 興福寺 ] こうふくじ
●寺号 興福寺(こうふくじ)
●宗派 法相宗 大本山
●開基 藤原鎌足夫人鏡女王 実質開基 藤原不比等
●創建 天智天皇八年(669) 実質創建は和銅三年(710)
●本尊 釈迦三尊 釈迦如来坐像、薬王菩薩立像(重文)、薬上菩薩立像(重文)

興福寺縁起
云わずと知れた藤原一族の氏寺。天智天皇八年(669)藤原鎌足夫人鏡女王が鎌足
病気平癒のため、京山科の私邸に建立した山階寺がはじまり。その後飛鳥厩坂に
移転、厩坂寺と称し、和銅3年(710)平城京遷都と同時に次男藤原不比等が現在
地に移築造営し興福寺と称した。興福寺の実質創建は和銅3年(710)。その後、
平家の南都攻めで東大寺とともに壊滅、徐々に復興し鎌倉、室町時代には寺勢沸
騰するも、江戸中期の火災、明治の悪法廃仏毀釈で寺の体をなさずの悲運を被る。
今も境内域不明や山門、外塀がないのはその時の名残が尾を引いているようです。

▼世界遺産碑。
県庁前奈良公園中央通り?に面しながら初めて気がつきました。


▼東金堂(国宝)。
興福寺三金堂の一つ。東金堂は唯一現存する金堂です。


▼東金堂須弥壇。
本尊 薬師三尊 薬師如来坐像(重文)日光菩薩立像(重文)月光菩薩立像(重文)
須弥壇上には他に、文殊菩薩坐像(国宝)維摩居士坐像(国宝)四天王像(国宝)
十二神将像(国宝)が安置されています。興福寺さんごめんなさい。ズルをしま
した。


▼修学旅行生。
境内や公園のアチコチにこの情景。ここは東金堂前、お願い道だけは開けてネ。


▼五重塔(国宝)。
今では古都奈良のシンボルタワーと云えそうですね。
ボクの自慢は、紅顔の美少年(気のせいですけど)のころ、この塔に上ったこと。
大変暗く、狭い急階段を覚えています。これぐらいですワボクの自慢は。


▼中金堂覆屋。
平成三十年(2018)落慶を目指して平成二十二年(2010)十月立柱式が行われ、
復元再建中です。


▼南円堂(重文)。
西国三十三所観音霊場の第九番札所。いつ訪ねても香煙が絶えません。
本尊 不空羂索観音菩薩坐像(国宝)。
桧材、寄木造、漆箔、彫眼で瞳は玉眼、鎌倉時代、像高336.0cm。 運慶さんの父
康慶さん造像。他に木造四天王立像(国宝)を安置。


▼南大門基壇。
復元予定があるのかは判りませんが、基壇整備は進んでいます。


▼三重塔(国宝)。
何故この場所かは判りませんが、かわいい美しい塔です。
鎌倉時代 本瓦葺 高さ19m。




▼北円堂への参道。
三重塔から北への参道。右に南円堂があり、正面に北円堂が見えます。


▼北円堂(国宝)。
鎌倉時代 八角円堂 本瓦葺。
藤原不比等一周忌の養老五年(721)八月に元正天皇勅願、長屋王が建立。
本尊 木造弥勒如来坐像(国宝)。
桧材 寄木造 彩色 彫眼 鎌倉時代 像高141.9cm。
他に木心乾漆造四天王立像(国宝)木造無著、世親立像(国宝)を安置。いずれも
運慶さん造像と伝わります。


▼北円堂四天王の時国天。
数年前に描きました時国天のお顔ペン画です。


▼西金堂跡。
北円堂の南側、今は石碑が往時の場所を示すのみ。
光明皇后が母橘三千代追善供養のため天平六年(734)建立。大人気の阿修羅像を
はじめ、八部衆、十大弟子像が祀られていたそうです。


▼国宝館。
リニューアルされた新しい展示はライティング工夫などかなり凝っていて見やす
くなっています。大人気仏像がこれでもかと展示されていますので、さながら仏
像オンパレード、ファンにはたまりません。


▼興福寺の仏たち。
国宝館のショップで見つけた「興福寺の仏たち」という写真集。初めて見ました、
各お像のフォルムが細かく見ることが出来ます。


▼本坊。
興福寺の寺務坊。表門は天正年間(1573~1592)に建立され、本瓦葺きの四脚門。


▼本坊庭。


▼大湯屋(重文)。
早い話が、興福寺のお風呂。


▼浮見堂。
「浮御堂」ではありません「浮見堂」です。奈良公園鷺池に浮かぶ檜皮葺きの六
角形の堂です。大正五年に鷺池景観アップを目指してどうも建てられたらしく神
仏とはまったく関係がありません。浅茅ヶ原の南に位置する鷺池、その中央に浮
見堂があります。




▼蓬莱橋。
鷺池南北と浮見堂をつなぐ改装なったきれいな橋です。


▼洞水門。
蓬莱橋南畔に洞水門があります、水琴窟のことです。幸いなことに辺りは閑古鳥
が無言で鳴いています、静です。
竹杓でお水を一杯、クゥオ~~~~ン クゥオ~~~~ン。 
和みます、心が洗われますと思ったんですが本当はハッキリ聞こえませんでした。
一回耳医者にイコ!

 
▼ベッピン!

叡山本坊滋賀院門跡は城構えの総里坊です。

2011年06月08日 | 滋賀の古寺巡り


(2011.06.04 訪問)

叡山里坊界隈から少し離れた西教寺からもと来た道を引きかえし、滋賀院門跡に
向かいます。
延暦寺門前町としての坂本の町は、西に叡山を仰ぎ、東は琵琶湖を望む明媚な町。
穴太石積みと里坊家並の景観はイイ雰囲気ですヨ。言葉だけで写真ありません、
バカですね~撮るの忘れました。

▼日吉大社参道(日吉の馬場通り)と鳥居。
この参道左右に五十を越える里坊寺院の家並がつづきます。


[ 滋賀院門跡 ] しがいんもんぜき
●寺号 滋賀院(しがいん)
●宗派 天台宗  
●寺格 延暦寺本坊
●開山 慈眼大師天海
●開山 江戸初期1615年
●本尊 薬師如来

滋賀院門跡縁起
信長の叡山焼討で壊滅した叡山復興に功があった天台僧天海が後陽成天皇から京
都法勝寺を下賜されてこの地に建立したお寺。滋賀院の名は後水尾天皇から下賜
されたもので、比叡山延暦寺の本坊(総里坊)、天台座主の御座所です。

▼参道。


▼穴太石積みと白壁土塀。
城郭を思わせる石垣土塀。御成門を中心に巡らされています。


▼御成門。
唐門風立派な山門です。が、判ります?
 

▼大玄関。


宸殿、書院、客殿の各お部屋には、襖絵、法語書大額が、仏間、座主接見の間な
ど賑々しく見てまわれます。

▼宸殿庭園。
宸殿西側に南北に細長い蓬莱山様式の池泉観賞式庭園を見ることが出来ます。作
庭はかの小堀遠州。と云われているそうです。






▼慈眼堂。
滋賀院開山慈眼大師天海の廟です。
天海は徳川将軍家菩提寺、江戸上野の東叡山寛永寺開山僧。家康の側近で秀忠、
家光にも仕え黒衣の宰相として名を馳せた僧、お堂の名は慈眼大師の号を賜った
天海の大師号に由来。




▼慈眼堂山門。
山門札には恵日院とあり、滋賀院門跡境内では無いような、あるようなところに
この山門はあります。庫裡は見当たりませんでした、里坊の一つなんでしょうか?


里坊界隈は坂本の一角、すぐ西、山側に日吉大社が鎮座し、その琵琶湖側に叡山
里坊の家並が広がっています。その総里坊として滋賀院門跡が堂々の門構えを見
せています。
叡山の祖伝教大師最澄さんの誕生地とされている生源寺(しょうげんじ)もこの
地にあり、里坊の一つとして残っています。

▼穴太石積み。


坂本へ来て名物坂本そばを食さずには帰えれないと「日吉そば」さんに入りまし
た。老舗「鶴喜屋」さんにしようか迷いましたが結局「日吉そば」さんに。
にしんそばをいただきました。なかなかの味ぶり、出汁といいコシといいベリー
グーグー、850円也。でした。

明智光秀が眠る坂本の大寺、西教寺へ。

2011年06月06日 | 滋賀の古寺巡り


(2011.06.04 訪問)
とりあえず先々週訪ね損ねた西教寺を訪ねることに。坂本の地を踏むのは全く初
めて、京阪坂本駅から西教寺を目指し、日吉大社参道のだらだら坂を歩きはじめ
ると、やたら石垣と青い幟が目に付きます。今日の目的の一つは、この石垣穴太
積みを是非見たかっので早速納得!石面加工をせず自然石そのままを積み上げる
野面積みという穴太衆のテクニック、一見崩れそうで崩れないこの秘術はスゴイ!
町の山手側のいたるところに残っていました。
晴れそで晴れないムシムシの日です今日も。日吉大社の手前を右に折れ県道を北
へ、右手に琵琶湖が見えそで見えません。ボ~っと霞んでます。やはりこの道に
も青い幟が目に付きます。明智光秀公顕彰会と書いてます。坂本と云えばやはり
明智光秀、その菩提寺です西教寺は。

▼やっと着きました。この下に山門があります。


[ 西教寺 ] さいきょうじ
●山号 戒光山(かいこうさん)
●寺号 兼法勝西教寺(けんほっしょうさいきょうじ)通称西教寺
●宗派 天台真盛宗総本山
●開基 聖徳太子
●中興 真盛上人
●本尊 阿弥陀如来坐像(重文)

西教寺縁起
聖徳太子が高麗僧のためにという創建伝承がありますが、実のところ全くの不詳。
叡山僧の念仏道場としてお寺はあったらしいですが、室町期(1486年)真盛上人
が入寺、堂塔伽藍を整備し再興、不断念仏道場として発展、信長の叡山焼討で壊
滅したが、坂本城主明智光秀の庇護、寄進を受け復興、後ほぼ今の姿になり、全
国に末寺四百あまりを有する総本山として今があります。もともと天台宗真盛派
としての寺格が、戦後、天台寺門宗(三井寺)と同時に天台真盛宗として天台宗
から分離独立。

▼山門。


▼山門寺名石標。
天台真盛宗総本山西教寺とあります。


▼参道は一直線に勅使門を目指します。


▼勅使門。
門の位置からあまり意味のない飾り門のような気がします。


▼勅使門横の寺名石標。
この寺標には、旧寺格の天台宗真盛派本山西教寺とあります。


▼宗祖大師殿の唐門。
勅使門左手に大師殿があります。


▼宗祖大師殿。
宗祖円戒国師慈摂大師真盛上人の木像をお祀りしているお堂です。


▼本堂への参道石段。
勅使門横を直角に曲がります。


▼参道石段横の穴太衆石積。
一見お城の石垣と見まがう石積。これが穴太積み。


▼手水舎。
西教寺では水屋と呼んでいるそうです。


▼鐘楼。
梵鐘(重文)は平安時代作。もとは坂本城陣鐘、明智光秀の寄進と云われているそ
うです。


▼本堂(重文)。
柱間七間、入母屋造り、紀州徳川家からの寄進で豪快な建造物です。


▼本堂内陣。
本尊 阿弥陀如来坐像(重文)平安時代、定朝様式。思いきり豪華な荘厳の中で、
漆箔落ちもなく美しいお像です。


▼本坊。


▼本堂と本坊をつなぐ渡り廊下。
本堂をはじめ書院、客殿、本坊と建物全体が渡り廊下でつながっています。


▼書院南廊下。
南面には、穴太衆の手になる庭園が設えられています。


▼本堂前庭左手に明智一族のお墓と供養塔があります。
戦国のならいとはいえ、汚名一族の墓はどこか悲しみをさそいます。


▼光秀室煕子(ひろこ)の墓
一人離れたところにぽつんと。


▼塔頭安養院山門。
西教寺塔頭寺院は参道沿いにズラリ並んでいますが、この安養院だけは、境内外
にあります。


▼安養院忠霊堂(本堂)
本尊阿弥陀如来坐像と西教寺末寺の位牌八千体を安置しているそうです。


▼安養院弁天堂。


▼穴太衆石積がいたるところに残っています。


坂本の町は、延暦寺の里坊の町。延暦寺僧の隠居所として五十あまりの小さなお
寺が軒を並べています。今は全て僧侶が住まれていて、本山へ通勤しているそう
です。寺と神社の町坂本は叡山の影響がいまもって大きく天台門跡座主が住んだ
滋賀院門跡はこの一帯の中では異彩を放っています。行きましょう。