土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

智積院、歴史は浅いが新義真言宗智山派の総本山。

2016年12月28日 | 京都の古寺巡り





(2016.12.24訪問)


京阪電車「七条」で降りて、七条通りを東の突き当たりへ向かって歩いています。途中には三十三間堂、養源院、法住寺、方廣寺、
妙法院門跡、そしてこれから訪ねる智積院が寺勢を競っています。そうそう京博もここにあります。
智積院が古刹と云えるかどうかは別にして、いかに寺勢が凄いかは街中に広大な寺地を誇り、名勝庭園、障壁画や襖絵などに錚々
たる名前がならんでいます。覚鑁さんの思想もさることながら、ボク達は往々にしてこの錚々たる名前に惹かれます。
てな訳で智積院を訪ねました。



            ▼突き当たり、東大路通に面してデッカイ寺号石柱、イヤでも目に入ります。






            [ 智積院 ]
            ●山号 五百仏山 (いおぶさん)
            ●寺号 根来寺智積院 (ねごろじちしゃくいん)
            ●宗派 真言宗智山派 (しんごんしゅうちざんは) 総本山
            ●開祖 弘法大師空海 (こうぼうだいしくうかい)
            ●中興 興教大師覚鑁 (こうぎょうだいしかくばん)
            ●再興 玄宥僧正 (げんゆうそうじょう)
            ●開創 慶長三年 (1598年)
            ●本尊 大日如来坐像
            ▲京都市東山区東大路通り七条下る東瓦町964番地 TEL.075-541-5361  
            ▲拝観料 500円 御朱印300円
            ▲拝観時間 9:00~16:00
            ▲JR京都駅よりバス10分、東山七条下車 市バス206系統、207系統、208系統
             京阪七条駅より七条通を東へ徒歩約10分




▼総門。いきなり言い訳ですが、ワイドがないので電線がどうにもなりません。
 御所東福門院より移築、現在総門は通れません。能化晋山時のみに開門。





智積院縁起 (智積院HPから抄出)
真言宗の宗祖弘法大師空海が高野山で入定したのは、承和二年 (835年) その260年後、興教大師覚鑁が高野山に大伝法院を建て、
高野山の復興と真言宗教学の振興に活躍。保延六年 (1140年) 修行の場を高野山から根来山へ移し、根本道場としました。二年後
の康治二年覚鑁死去。鎌倉時代の中頃に、頼瑜僧正が大伝法院を高野山から根来山へ移し、これにより根来山はおおいに栄え、最
盛時には、2900の坊舎と約6000人の学僧を擁するようになります。智積院は、その塔頭寺院のなかの学頭寺院でした。しかし勢
力が大きくなると豊臣秀吉と対立、天正十三年 (1585年) 秀吉軍により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰しました。その時、
智積院の住職であった玄宥僧正は、高野山に逃れ、秀吉が亡くなった慶長三年 (1598年) 智積院再興の第一歩が京都東山にしるさ
れました。そして慶長六年 (1601年) 家康から、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興。
その後、秀吉が建立した祥雲禅寺を拝領、境内伽藍が拡充されました。
再興された智積院の正式の名称は、「五百仏山根来寺智積院」といいます。




▼総門から見た正面書院大玄関。







▼書院大玄関。







▼書院大玄関の布袋唐子嬉戯の図。







▼拝観はこちらから、冠木門が参道入り口です。







▼参道右に鐘楼。入母屋造、本瓦葺、なんと十二脚の大鐘楼です。







▼再興玄宥僧正坐像が南を向いてお坐りです。







▼仏足石。







▼金堂参道に戻ります。







▼金堂。桁裄七間、梁間五間、入母屋造、本瓦葺、鉄筋コンクリート造、
 宝永二年 (1705年) 建立。明治十五年 (1882) 焼失。その後、宗祖弘法大師生誕千二百年記念事業として昭和五十年
 (1975年) 再建。







▼智積院扁額。第五十九代化主秋山祐雅僧正揮毫。







▼須弥壇の荘厳と本尊大日如来坐像。







▼堂内の灯り。






            ▼本尊大日如来坐像。像高197.8cm、木造、仏師西村公朝の指導により1975年造像。






▼金堂戸口。

           





▼明王殿 (不動堂)。桁裄七間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺、三間向拝付。
 金堂焼失後一時期金堂として使用されていたお堂。







▼明王殿扁額。第六十五代化主藤井龍心僧正揮毫。







▼明王殿外陣に吊るされている?







▼明王殿内陣。須弥壇中央に本尊不動明王、脇持に矜羯羅童子、制多迦童子が祀られています。






            ▼本尊不動明王坐像。像高84.5cm、寄せ木造り、玉眼。






▼明王殿外廊から境内。







▼大師堂参道。宗祖弘法大師空海をお祀りしています。寛政元年 (1789年)建立。







▼空海さん修行像。







▼大師堂 (遍照金剛殿)。桁裄五間、梁間三間、入母屋造、本瓦葺、一間唐破風向拝付。







▼大師堂扁額。別称遍照金剛殿と揮毫されています。






            ▼覚鑁上人像。






▼運敞蔵。第七代化主運敞僧正座像を祀り、僧正一代にわたって収集された書籍文献を収蔵。延宝元年 (1672年) 建立。







▼井戸。







▼密厳堂。中興祖、興教大師覚鑁像を安置。
 桁裄五間、梁間五間、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付。寛文七年 (1667年) 建立。







▼密厳堂扁額。第七代化主運敞僧正揮毫。







▼密厳堂。







▼求聞持堂(文殊堂、護摩堂)。本尊虚空蔵菩薩、嘉永四年 (1844年) 建立。方三間、宝形造、本瓦葺、一間向拝付。







▼明星殿と書かれた求聞持堂扁額。







▼智積院総鎮守社、三部権現社拝殿。







▼三部権現とは中央仏部、右金剛部、左蓮華部のそれぞれの神が祀られ、この写真は中央仏部の本殿。







大書院の名勝庭園と国宝障壁画を拝見することにしましょう。

▼山門。正面見えるのは講堂。







▼講堂は横に長~い建物で全景は撮れません。
 桁裄十八間、梁間九間、入母屋造、本瓦葺、総檜造。平成七年 (1995年) 再建。
 総檜造としては京都一、自慢の種らしいですヨ。







▼講堂中央の間に本尊阿弥陀如来坐像。







▼後藤順一さんの襖絵。「浄」と「百雀図」













▼田渕俊夫さんの「四季墨絵」
 墨の濃淡だけで表現する驚異的な世界、もの凄い描写力に言葉も出ません。六十点の襖絵が奉納されているんです。













▼講堂の外縁、かなり長く感じるでしょう。長いんです。







大書院の障壁画です。お見せするのは総てレプリカ。本物は収蔵庫で見ることができます。

▼右長谷川等伯の楓図、左長谷川久蔵の桜図。







▼等伯の楓図。







▼等伯の松と葵。













お庭に目を移しましょう。名勝庭園大書院前庭「利休好みの庭」「中国の盧山に倣って高低利用の築山を造り、その前面に池を
掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けている」と説明がなされています


▼「利休好みの庭」アラカルト











































▼宸殿は入れませんでした。こちらには堂本印象さんの襖絵があるそうです。







▼翻える五色幕に送られて長~い智積院拝観オシマイで~す。







▼ご朱印です。







本年の「古寺を歩こう」はこれにてオシマイ。
いつもお粗末なブログにお越しいただき感謝です。ありがとうございました。
皆様のハッピーライフをお祈りして、それではまた明年!






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神護寺、三尾名刹第三弾!

2016年12月24日 | 京都の古寺巡り





(2016.12.17訪問)


西明寺から清滝川沿いにそぞろ歩くこと数分、赤い高雄橋に到着。ココを渡ると彼岸の浄域、神護寺の境内になります。早い話がこ
の橋を渡るとスグあの地獄が待ってるんです。何が彼岸で浄域じゃなんて悪たれつきたくなる三百数十段の石段を上りきると、今日
の目的、神護寺のスター本尊薬師如来にお目見え出来るんです。三尾名刹最後の第三弾神護寺、上ってやろうじゃないか地獄の石段!



▼金堂。






[ 神護寺 ]
●山号 高尾山 (たかおさん)
●寺号 神護寺 (じんごじ) 正称 神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)
●宗派 真言宗 (しんごんしゅう)
●開基 和気清麻呂 (わけのきよまろ)
●開山 弘法大師空海 (こうぼうだいしくうかい)
●開創 天長元年 (824年)
●再興 文覚上人 (もんがくしょうにん)
●本尊 薬師如来立像 (国宝)
▲京都市右京区梅ヶ畑高雄町5 TEL.075-861-1769  
▲拝観料 600円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:00
▲JR「京都駅」からJRバス「高雄京北線」で「山城高雄」下車、徒歩約20分
 国道162号線を「福王子」交差点から「京北高雄」方向へ約6km




▼渡れば彼岸の結界橋、高雄橋。

 




神護寺縁起 (神護寺HPから抄出)
桓武天皇への平安遷都、都造営の提唱者として知られる和気清麻呂は、天応元年 (781年) 国家安泰を祈願し河内に神願寺を、ほぼ同
じ時期、山城に高雄山寺を建立。高雄山寺はそれまでの奈良仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考
えられる。その後、清麻呂の子息 (弘世、真綱、仲世) は最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込んでいる。空海
は留学生として最澄とともに入唐するが、二年で帰国、三年後にようやく京都に入ることが許されるや高雄山寺に招かれ、天長元年
(824年) 真綱、仲世の要請により神願寺と高雄山寺を合併、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、一切を空海に付嘱、伝教大
師最澄らに密教灌頂を授け真言宗立教の基礎を確立した。平安後期二度の災害で全山壊滅、時の豪僧、文覚が後白河法皇の勅許と源
頼朝の援助で復興、それ以後真言宗として今日に伝えている。




▼イヤダイヤだと行く参道。







▼いつまで続くかこの石段。







▼ヤットヤット山門が見えてまいりました。







▼山門。三間一戸、重層楼門、入母屋造、本瓦葺。初層左右に二天像を安置。元和九年 (1623年) 建立。






            ▼右に持国天。






            ▼左に増長天。






▼堂々の山門。扁額には神護国祚真言寺と書かれています。







▼山門を潜ると、お寺の境内とは思えないこの広さ。







▼常には開かずの勅使門。







▼その左隣に和気清麻呂廟。清麻呂さんのお墓は山手ズーッと上にあります。







▼袴腰の立派な鐘楼。軒下の組み物の造作が凄く、垂木は二重で扇垂木と云って隅から扇状に置く方法らしく、とても鐘楼建築とは
 思えない豪華な鐘楼です。







▼下から見ると……。   

   




▼明王堂。







▼五大堂。入母屋造の三間堂。元和9年(1623年)の建築。







▼毘沙門堂。本尊毘沙門天立像 (重文) 桁裄五間、梁間三間、入母屋造、銅板葺、一間向拝付。
 元の金堂、本尊の薬師如来像もここに祀られていたと云います。元和九年 (1623年) 建立。







▼大師堂。本尊板彫弘法大師像 (重文)入母屋造、杮葺。元は空海さんの住房「納涼房」を復元復興した堂宇。







▼金堂坂。坂下から見ると僅かに金堂屋根が見えます。







▼金堂が姿を現しました。







▼金堂。本尊薬師如来立像 (国宝) 本尊左右に日光月光菩薩立像 (重文) 十二神将立像が祀られています。
 中央三間が入り口。桁裄七間、入母屋造、本瓦葺。昭和九年 (1934年) 民間寄進により建立。
 昭和の名建造物と呼ばれているそうです。







▼金堂正面戸口。







▼堂外から須弥壇の様子。中央奥に本尊お薬師さんがお立ちです。
 目の前のお薬師さんは、変わらず厳しいお顔、像高170cmの凄みを感じます。仏師は本来なら柔和な如来をこのような厳しいお
 顔に仕立てたのは、奈良後期から平安初期の時代の混沌さを思い詰めた結果なのか、興味の湧くところです。
 これだけ間近で拝見出来るのは初めて、一部彩色するも壇像形式で今はほとんど真っ黒ケ、如来の慈悲など全く感じることは出来
 ず威圧感のみが残る印象です。







▼金堂斜観。






            ▼金堂横奥に立つ不動明王石像。






            ▼こんなお顔です。






▼金堂裏高台に建つ多宝塔。金堂と同様、昭和九年 (1934年) 民間寄進により建立。






            ▼塔初層の扉が辛うじて撮れました。






            ▼塔内には非公開の五大虚空蔵菩薩坐像が祀られています。
             数年前に描いたペン画、蓮華虚空蔵菩薩と法界虚空蔵菩薩のお顔です。












▼見上げると紺碧の空、今日一でした。







▼錦雲峡。高尾の地はヤッパリ山深い地であることを実感。中央の流れは清滝川。







▼ご朱印です。






桓武、清麻呂、空海、最澄、文覚、後白河、頼朝と希代のビッグネームが揃い、時の権力と結ぶと、高尾の山寺も今日のようなビッ
グスケールの寺院として繁栄する一例を見た思いがします。
三尾名刹第三弾、神護寺 これにてオ シ マ イ






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西明寺、三尾名刹第二弾!

2016年12月21日 | 京都の古寺巡り




(2016.12.17訪問)


周山街道を少し戻ると槇尾山西明寺、三尾名刹の一つです。紅葉シーズンの写真を見るとビックリ、本当にここ西明寺と、違う西明
寺に来たのかと錯覚を覚えます。高雄川に架かる赤い橋、指月橋を渡るとスグ参道石段が迎えてくれます。この石段がまた矩形に曲
がり、石段の全貌が見えません。神護寺ほどヒドイ石段には見えないので、とにかくレッツゴーです。




▼槇尾山聖天堂の石碑が妙に目立つ、指月橋を渡ると……、
 楓の裸木がもうすでに冬を通告しているようです。そう云えば12月は冬でしたネ。






[ 西明寺 ]
●山号 槇尾山 (まきのおさん)
●院号 平等心王院 (びょうどうしんのういん)  
●寺号 西明寺 (さいみょうじ)
●宗派 真言宗 (しんごんしゅう)
●開基 智泉大徳 (ちせん)
●開創 天長年間 (824~834年)
●本尊 釈迦如来立像 (重文)
▲京都市右京区梅ケ畑槇尾町1 TEL.075-861-1770  
▲拝観料 500円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~17:00
▲JR「京都駅」からJRバス栂ノ尾、周山行きで「栂ノ尾」下車徒歩5分




▼参道石段のはじまり。

 




西明寺縁起 (西明寺パンフから抄出)
天長年間、弘法大師の高弟智泉大徳が、神護寺の別院として創建したのに始まり、正応三年 (1290年) 後宇多法皇より平等心王院の
院号を賜り神護寺から独立。その後兵火などで盛衰繰り返し、慶長七年 (1602年) 再興。現在の本堂は慶長七年 (1700年) 桂昌院の
寄進で再建されたものである。




▼矩形に曲がる参道の先に……、







▼山門です。かなりの数の灯籠が門前に。







▼両袖に小門を付けた貫禄の山門。一間医薬門、切妻造、本瓦葺、四脚門。元禄十三年 (1700年)再建。







▼山門を通して正面に本堂。






            ▼山門潜ると右手に聖天宮の石碑。






▼聖天堂です。指月橋の傍らにあった槇尾山聖天堂がこのお堂です。歓喜天が祀られています。白地幔幕に左巾着、右二股大根が象
 頭の男女が抱き合う姿で表される歓喜天の紋章。なぜこのお寺に歓喜天が祀られているのか聞き漏らしました。







▼鐘楼。







▼境内の一部です。左手の大木は高野槙、槇尾山の語源になった樹と聞きました。
 静と閑境内は静かです、あの紅葉の頃の喧噪は何処へ行ったのか、とは云ってもボクは知りませんけど。







▼少し奥に行くと客殿、庫裏が。







▼笠に苔むす石灯籠、暗くなり灯が入れば、また違ったいい風情が感じられるんでしょうネ。
 門前や境内にはやたら多くの石灯籠が建てられています。







▼本堂です。本尊釈迦如来立像 (重文)。桁行七間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺。
 元禄十三年(1700年)徳川綱吉の生母桂昌院の寄進により再建されたと伝えます。







▼本堂正面。こちらからは入堂で来ません。入口は左脇口から。

           





▼本堂扁額。「霊山鷲心」空海と書かれています。







▼本堂内陣。中央に四天柱に須弥壇を設け、本尊釈迦如来立像が祀られています。
 本尊釈迦如来は像高50cmたらず、清涼寺式釈迦のミニ版、彫りの細かさ、法衣の形まで実によく似てソックリ。
 運慶作と伝わるそうです。



ご住職から本尊写真はダメ、堂内はOKの許可をいただきました。





▼須弥壇です。






            ▼本堂脇陣の十一面千手千眼観音菩薩立像 (重文)。元は西明寺の本尊だったと云います。






            ▼十一面さんのお顔アップ。ふっくらお顔はそれに似ずいくらか憂いを含んだ、
             淋しそうな表情に見えました。何か悩みでも……。



            十一面さんの右に愛染さんがおられたのですが、どうしてもピンが来ません、
            なんでやろと云うことで写真はあきらめました。




▼ご朱印です。






本尊釈迦如来の写真はお見せすることは出来ませんが、真近で拝見するお像は、小さいながらお釈迦さんの慈悲の心、仏師の熱い情
熱がビンビンと、清涼寺の摸刻とはいえ真に小粒でピリリ、運慶さん作と伝わるのもむべなるかな、そんな気がしました。
三尾名刹第二弾、西明寺 オ シ マ イ

次は三尾名刹第三弾、神護寺。
この名を聞くとはや戦意喪失、あの石段が目に浮かびます。






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高山寺、三尾名刹第一弾!

2016年12月19日 | 京都の古寺巡り





(2016.12.17訪問)


先週に続いて迷車大和路号は、朝七時半第二京阪にのっていたのであります。
今日は三尾の名刹、栂の尾高山寺、槙の尾西明寺、高の尾神護寺の三名刹を訪ねます。
いずれも周山街道、今のR162号線、清滝川沿いの急峻な山麓に甍を誇る名刹です。
周山街道は西の鯖街道と呼ばれ若狭小浜を結ぶルートで、クルマの量も半端じゃありません。
八時半高山寺駐車場に到着。え〜もうこんなにと云うくらいクルマが止まっています。
受付のお母さん「一番乗りですよ、独り占めですよ、ごゆっくりどうぞ」嬉しいけど不思議。 
あのクルマの人たちいったい何処へ行ってるのでしょう、オープンしてるお店など一軒もないのに。




▼きょうは表参道からの参拝です。右の道路は周山街道、クルマジャンジャン通ります。






             [ 高山寺 ]
            ●山号 栂尾山 (とがのおさん)
            ●寺号 高山寺 (こうざんじ)
            ●宗派 真言宗単立 (しんごんしゅうたんりゅう)
            ●勅願 伝 光仁天皇 (こうにんてんのう)
            ●開創 伝 宝亀五年 (774年)
            ●中興 明恵上人 (みょうえしょうにん)
            ●開創 建永元年 (1206年)
            ●本尊 釈迦如来
            ▲京都市右京区梅ケ畑栂尾町8 TEL.075-861-4204
            ▲拝観料 500円 御朱印300円
            ▲http://www.kosanji.com
            ▲拝観時間 8:30~17:00
            ▲平成六年(1994年) 古都京都の文化財として世界文化遺産に登録。 
            ▲JR「京都駅」からJRバス栂ノ尾、周山行きで「栂ノ尾」下車徒歩3分




            ▼栂尾 高山寺と刻されていますが見えます? 富岡鉄斎の筆ですよ。

 




高山寺縁起
奈良時代、宝亀五年 (774年) 光仁天皇の勅願により開創、神願寺都賀尾 (じんがんじとがのお) 坊と称した。建永元年 (1206年)
後鳥羽上皇の院宣により、明恵が神護寺の一院、栂尾十無院を贈られ、華厳宗の根本道場として再興した。
後鳥羽上皇の勅語「日出先照高山之寺」により、寺名を「高山寺」と改める。応仁、文明の乱(1467-1477年)や天文十六年
(1547年) 細川晴元の兵火で大半の伽藍を焼失。寛永十一年 (1634年) 再興。




▼参道をまっすぐ行くと……、







▼両脇に灯籠が……、元は大門があったらしいです。







▼ドンドン行きます。楞伽山(りょうがせん)の山麓、鬱蒼の樹々に囲まれた参道を行きます。







▼途中右手に石水院の白壁が見えますがココは最後に訪ねます。













▼錦秋の名残。







▼最後の石段、やっと金堂の屋根が見えてきました。







▼金堂。本尊釈迦如来。桁行三間、梁間三間、一重入母屋造、銅板葺、一間向拝付き。
 寛永年間、御室仁和寺真光院から古御堂を移築。前面は蔀戸。







▼金堂内陣。







▼中央に本尊が祀られていますが、お顔は見えません。
 格子から覗くと中はほとんど見えない暗さです。しかし今時のレンズは人間の目よりも明るいんですネ。格子にレンズをくっつけ
 て撮影してます。







▼小さいお堂ですが安定感でドッシリしています。







▼ 金堂から少し行くと開山明恵上人廟です。

         





▼この覆屋の中に開山明恵上人五輪塔が納められています。







▼仏足石。






            ▼仏足石参道の石碑。かっては仏足石信仰が結構盛んだったみたいです。
             刻書がいいじゃないですか。






▼開山堂。本尊明恵上人坐像。方三間、宝形造、銅板葺。江戸期再建。
 高山寺での法要の多くはこのお堂で行われているそうです。






            ▼開山堂横に聖観音立像が微笑んでいます。






▼開山堂。正面左右の火頭窓がユニークなお堂ですネ。







            ▼茶園碑。                           






▼高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られ、栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育て
 たところ、眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園では、現在も五月に茶
 摘みが行われているそうです。(高山寺HPから抄出)


         



石水院にやってきました。

創建当時、現石水院は金堂の東にあった。安貞二年(1228年)の洪水で石水院は流失。その後、東経蔵が石水院の名を継いで、
中心的堂宇となり明治二十二年(1889年)に現在地へ移築、住宅様式に改変された。明恵上人時代の唯一の遺構である。
(高山寺HPから抄出)

▼石水院山門。中にもう一つ門が見えますネ、開かずの門のようで西庭への門のようです。













▼こんな苔が瓦を覆っています。







▼石水院客殿玄関です。







▼客殿を通り渡り廊下を石水院お部屋へ、オッ向こうに見えるのは……、   







▼廂の間の……、                            






            ▼相変わらず可愛い顔した善財童子君でした。                  






▼欄間に石水院と書かれた扁額。富岡鉄斎筆だそうですよ。







▼廂の間の前に西庭が広がります。







▼石水院の南面の間の長押に「日出先照高山の寺」の扁額。
 建永元年 (1206年)後鳥羽院の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜ったのが高山寺の起りである。その際に下
 賜された後鳥羽院宸翰の勅額といわれる。(高山寺HPから抄出)






            ▼明恵上人樹上坐禅像 (国宝)。
             明恵は貞応元年 (1222年) 栂尾で最晩年を過ごす。
             高山寺の後の山、楞伽山には、上人坐禅の遺跡が今も残る、
             二股に分かれた一株の松がり縄床樹と名付け、常々そこで坐禅入観したという。
             (高山寺HPから抄出)






▼木彫りの狗児 (重文) 明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬と伝える実寸大の子犬の木彫、快慶作と伝わるそうです。







▼絶景が額縁になる石水院南縁。紅葉や溢れる緑があってこそ。       













▼独り占めの絶景も今はこの通り……。







▼石水院北庭。







▼今まで鐘楼があるとはつゆ知らず。







▼石垣の白塀、石水院を囲んでいます。







▼白塀に沿って裏参道へ続きます。今日はこちらからお暇です。







▼九十九折の参道を下ると駐車場、バス停へ。
 最近の参拝者は、この裏参道利用者が多いそうです、そりゃ駐車場直結だもんネ。







▼ご朱印です。






紅葉の季節が済むと人々は、名刹と云えども用は無いらしい。境内は散り紅葉の朽ちて土に帰る痛々しい姿が、初冬のお寺の一層の
寂寞さを感じさせています。ついついこの歌を口ずさみたくなりますネ。

♪ 京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女がひとり~
     
     ♪ 大島つむぎにつづれの帯が 影を落とした石だたみ~
           
          ♪ 京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた女がひとり~
 

物思いに沈み、哀愁が漂う石畳に、影を落として暫し佇む、大島つむぎの細身の女人、そう歳の頃三十代前半……、
こんな女性を探したんですが、ついぞ見かけませんでした。

次は、三尾名刹第二弾! 西明寺を訪ねます。





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大覚寺、絶世の美女、檀林皇后を偲びに……。

2016年12月15日 | 京都の古寺巡り





(2016.12.10訪問)


二尊院から次の訪問先は、高格式のお寺、歴代天皇や皇族方が住職を務めた門跡寺院大覚寺を訪ねます。
参道を歩いていて又もやでました、嵯峨野の来ると必ず……。

♪ 京都 嵐山 大覚寺 恋に疲れた 女がひとり~
     
     ♪ 塩沢がすりに名古屋帯 耳をすませば滝の音
           
          ♪ 京都 嵐山 大覚寺 恋に疲れた女がひとり~
 

物思いに沈み、哀愁が漂う白壁沿いに、影をのばして暫し佇む、塩沢がすりの細身の女人、そう歳の頃三十代前半……、
こんな女性どこかにいます? い ま せ ん !




▼参道入口。






            [ 大覚寺 ]
            ●山号 嵯峨山 (さがざん)
            ●寺号 大覚寺 (だいかくじ) 正式名称 旧嵯峨御所大覚寺門跡
            ●宗派 真言宗大覚寺派大本山 (しんごんしゅうだいかくじは)
            ●勅願 嵯峨天皇 (さがてんのう)
            ●開山 恒寂法親王 (ごうじゃくほっしんのう)
            ●開創 貞観十八年 (876年)
            ●本尊 五大明王 (重文)
            ▲京都市右京区嵯峨大沢町4番地 TEL.075-871-0071
            ▲拝観料 500円 御朱印300円
            ▲拝観時間 9:00~17:00 
            ▲JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車 徒歩約15分
             京福電鉄嵐山線「嵐山駅」下車 徒歩約20分 
             市バス「大覚寺」下車 徒歩スグ




            ▼格式の高さは石柱の高さに比例するみたい。






大覚寺縁起 (大覚寺HPから抄出)
平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身、離宮嵯峨院である。嵯峨院が大
覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観十八年 (876年) のことである。弘法大師空海のすすめにより
嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(六十年に一度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。
明治時代
初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡を務めた格式高い門跡寺院である。




▼参道。正面を左に曲がりますと、







▼玄関門。戸口の広い三間一戸、簡素な造りですが格調高き門ですネ。切妻造、本瓦葺。






            ▼寺号木札。






▼門から見えるのは、通常庫裡と称する建物ですが、こちらは陣屋と呼んでいるようです。







▼式台玄関。こちらからは入れません。左が拝観入口。







▼宸殿 (重文)。桁裄九間、入母屋造、檜皮葺、寝殿造。
 江戸時代後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。入内された徳川将軍秀忠の娘、東福門院和子が宸殿として使用していたもの。
  (大覚寺HPから抄出)







▼宸殿襖絵。この襖絵はレプリカ、オリジは収蔵庫。絵師狩野山楽。           













▼宸殿広縁。







▼宸殿前庭。







▼御影堂。桁裄七間、入母屋造、桟瓦葺。大正十四年 (1925年) 建立。
 大正天皇即位に際し建てられた饗宴殿を式後賜り移築したもの。心経殿の前殿であり、内陣正面は心経殿を拝するため開けてあり
 内陣左右に嵯峨天皇、弘法大師、後宇多法皇、恒寂入道親王など大覚寺の歴史に大きな役割を果たされた方々の尊像を安置。
  (大覚寺HPから抄出)







▼御影堂内陣。中央が開けられた窓、見えるのが勅封心経殿。







▼ 勅封心経殿。御影堂内陣と五色のテープで繫がっています。大正十四年 (1925年) 再建。
 嵯峨天皇、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の勅封心経を奉安されている。通常は非公開、六十年に一度開扉。
  (大覚寺HPから抄出)







▼御影堂前庭、正面に見えるのが、







▼勅使門。四脚門、切妻造、銅板葺。嘉永年間 (1848~54年) 再建。
 屋根梁、正面および背面に軒唐破風を付け、全体は素木造りだが唐破風の部分のみ漆を塗り、金鍍金の飾り装飾を施している。
  (大覚寺HPから抄出)









▼渡り廊下。建物は総て渡り廊下で結ばれています。







▼安井堂内陣。後水尾天皇僧形を奉安。
 京都東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂を明治四年 (1871年) 移築。 (大覚寺HPから抄出)







▼渡り廊下。







▼中庭の紅葉、しぶとく頑張ってます。







▼非常に複雑な堂形でオール朱色の霊明殿。東京日仏寺の本堂を昭和三十三年 (1958年) 移築。







▼霊明殿の内陣。本尊阿弥陀如来。天井から吊るされた、羅網が本当にきれいです。







▼霊明殿前庭。しぶとく頑張っている紅葉は左に見える紅葉です。







▼鐘楼。







▼建物拝観を終え一旦外に出ます。式台玄関から玄関門。







大沢池の西にいくらかの堂宇が並んでいます。

▼方丈池の近くに石仏が。







▼宝形造の小さなお堂、護摩堂。







▼方三間の宝形造、桟瓦葺の聖天堂。







▼心経宝塔 (多宝塔)。昭和四十二年 (1967年) 建立。       
 嵯峨天皇心経写経千百五十年を記念して建立。基壇内部に「如意宝珠」を納めた小塔を安置、内部には弘法大師像をお祀り。
 (大覚寺HPから抄出)















 




            ▼心経宝塔の相輪。






▼池畔の紅葉のトンネルもオシマイです。







▼大沢池です。                         
 大覚寺の東、周囲約1kmの日本最古の人工の林泉。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営時、唐の洞庭湖を模して造られたところか
 ら庭湖とも呼ばれています。(大覚寺HPから抄出)













▼呼べど答えず、ひたすら前進あるのみ。







▼大沢池。







              





▼大沢池から引かれた掘割を流れる水音を聞きながら大覚寺オシマイ。







▼ご朱印です。






            フ ロ ク
            ▼参道前の個人のお宅だと思いますが、こんな石塔が建ってました。






書をよくし空海、橘逸勢とともに三筆と讃えられ、華道の開祖とも伝わる平安初期の宮廷文化絢爛期を導いた嵯峨天皇。絶世の美女
橘嘉智子を皇后に迎え、男としては華麗な一生を、為政者としては影もまた多き一生と伝わります。平安初期の寺院草創には嵯峨天
皇の名がよく出てきます。ここ大覚寺は天皇自らがお寺として建立したものではなく、天皇皇女、皇孫がその遺志を継いだとは云え、
門跡寺院としての格調は半端じゃありません。やはり代々為政者として心の葛藤が神仏傾倒へと、自然な流れかも知れませんネ。

絶世の美女橘嘉智子はん、どんなお顔してはったんやろ。





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