土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

佐保丘陵の麓、興福院を訪ねました。

2010年11月29日 | 奈良の古寺巡り


(2010.11.25 訪問)
目の前の雰囲気がなんとなく優しげで、儚げで、刻が止まるでなし、流れるでな
し、美しき澱みの中にソッとあるような、そんな想いが、山門を前にして感じる
のは、尼寺という言葉の響きなのでしょうか、ボクの思いこみなのでしょうか。
興福院は、かねてから是非訪ねてみたかったお寺で、拝観許可のこの日、訪ねる
ことが出来ました。
このお寺は、奈良市北部佐保丘陵の麓に在る尼僧寺院、桜並木の佐保川から近く、
西に行けば不退寺、法華寺や海竜王寺、東は東大寺転害門に至る一条通りを北に
入ったところ、クルマの行き交う喧噪の地から、僅かに入ったところにこんな静
寂の地があるとは…。

●参道。



[ 興福院 ] こんぶいん
山号 法蓮山(ほうれんさん)
寺号 興福院(こんぶいん)
宗派 浄土宗 別格寺院
本尊 阿弥陀三尊像(重文)

興福院縁起
寺伝によると、聖武天皇学問所を和気清麻呂が賜り、弘文院としたのが始まり説
や、藤原不比等の孫百川が創建したとも云われ、諸説があり詳細は不明と云いま
す。
尼僧寺院として確かなところは、天正年間(1573年~1592年)洞ヶ峠で有名な
筒井順慶一族の女性が尼僧としてこのお寺に入山したのが尼寺としての始まりと
云います。

●山門。



●山門から中門。



●中門。



●中門から本堂。





朝九時、訪問者はボク一人、中門を入ってすぐ左に客殿に並んで方丈が在り、呼
び鈴を押します。暫くして品性が法衣を纏ったような小柄ななんとも云えない雰
囲気の院主さんがおいでになりました。相当のお歳の印象です。訪問の旨を告げ
ると 「どうぞ、本堂の前でお待ち下さい」 とのこと。

●本堂。



●本堂偏額。



●本堂渡り廊下。
方丈、客殿に続くこの廊下を院主さんが渡ってこられました。



●本堂。
簡素な荘厳の中で、さほど大きくない本尊 阿弥陀三尊像は漆箔落ちること無く、
金色に輝いています。本尊は奈良天平の作、木心乾漆のお像、ゆうに千二百年を
超す経時にもかかわらず実にきれい。お聞きすると以後何度か漆箔補修をしてい
るとのことです。本尊のお話や毎日の勤行、「男衆が居ないので日々の管理維持
はなかなかしんどいことです」とかお話を伺いました。





●本堂渡り廊下。



●客殿庭園。





●客殿。(重文)



●方生池。



●鐘楼。



●茶室と紅葉。



佐保山の麓に埋もれながらも古の顔を残している興福院、大寺院が甍を競い、人
いきれが途切れることのない奈良公園のあの雑踏はここにはない。もう一つの古
都の顔を見た思いがしました。奈良三大尼寺には数えられませんが、凛とした静
の佇まいは、決して劣るものではありません。
拝観は電話予約が必要です。

悟り刹那の釈迦如来か、名像の蟹満寺を訪ねました。

2010年11月24日 | 京都の古寺巡り


(2010.11.20 訪問)
R24へ戻り北進、井手町の少し手前木津川に入る小さな川沿い東に2~3km、蟹満
寺は在ります。

[ 蟹満寺 ] かにまんじ
山号 普門山(ふもんざん)
寺名 蟹満寺
宗派 真言宗智山派
本尊 釈迦如来坐像(国宝) 白鳳~天平初期 銅造 像高240cm

蟹満寺縁起
この地一帯は「狛」の地名が残り、古代には蟹幡郷と云う美称を持つ地で幡=織
物を業とする渡来系氏族が住んでいたと云われ、白鳳時代にその氏族によって創
建されたらしい氏寺と考えられているそうです。蟹満寺発掘調査の結果は相当大
きな寺院があったのではと推測されているそうです。
蟹満寺を有名にしている説話に平安時代の説話集今昔物語の「蟹の恩返し伝説」
があり寺名とも関係していると云います。説話の絵解きが額装され本堂内に飾ら
れています。御住職の滔々とした声でマイクを通して説話を聞くことが出来ます。

●寺名石標。



●本堂偏額。



●本堂。
本尊 釈迦如来坐像(国宝)。像高240cm、重さ2tの金銅像。
今年4月改築されて落慶法要が営まれたまっさらピッカピかの本堂です。



真新しい本堂中央須弥壇に国宝釈迦如来坐像がどっしり。造像は白鳳後期から平
城遷都前後の作といわれており、金銅仏としては時代的に前期黄金時代の造像と
云ってもよいのではないでしょうか。ただこのお像の由緒縁起は諸説があり定か
ではないと云います。今は古色蒼然、黒光りしていますが、おそらく当初は金色
燦然と鍍金されており仏師の精魂込めた情熱とエネルギーが拝する人々の心に熱
く伝わったのではないでしょうか。これ程のお像が山城の国に居られるというこ
とにはじめ驚きましたが、よく考えてみればお寺から南へ木津川を渡ればそこは
南都平城京。少し下がれば藤原京、大伽藍が覇を競い仏教文化の華が咲き競う絢
爛の地であることを思えば宜なるかなです。

数年前に描いたペン画、釈迦如来坐像のお顔です。



今の蟹満寺の境内は相当狭く、堂宇も本堂のみと云っていいと思いますが、国宝
釈迦如来坐像に拝するだけでもこのお寺の訪ね甲斐がありました。

山背古道巡り お・し・ま・い

役行者の足跡はこんなところまで。神童寺を訪ねました。

2010年11月24日 | 京都の古寺巡り


(2010.11.20 訪問)
海住山寺からR163へ戻りR24へ向かいます。例のひどい道とは大違いでクルマは
スイスイ、土曜日というのにどうしたことでしょう。神童寺への道は茶畑が点在
し、クルマも人も見えません。いい感じの道がつづきますが、お寺に近づくほど
怪しくなってきました。

[ 神童寺 ] じんどうじ
山号 北吉野山(きたよしのさん)
寺号 神童寺
開基 聖徳太子  
宗派 真言宗智山派
本尊 蔵王権現

神童寺縁起
寺伝によると聖徳太子開基寺院の一つと伝えられ、その後吉野山と密接な関係を
持つ修験道の霊地となり、役行者が修行中神童二人の助けを得て金剛蔵王権現を
感得し、刻したと云うことから神童寺と呼称されるようになったそうです。

●山門。この山門は、興福寺一乗院からの移築で、屋根大棟両端の鴟尾が鯱です。
珍しい例だそうです。山門下に立ったときの期待感ワクワクだったのですが…。



●寺石標。名のある書家の墨跡か、落款も朱が。



●本堂。(重文)
本尊 蔵王権現立像。(重文)
1406年建立。山門をくぐるとすぐ本堂です。境内は狭く、往時の寺勢を感じるこ
とは出来ません。重文指定の仏像が多数おられるそうですが、先客グループがお
寺の方の案内で説明を受けていましたので、ボクは今回パスしました。



●本堂横の大銀杏。境内の紅葉はまだまだ、唯一この銀杏がこのお寺の秋を主張
しているようす。



●十三重石塔。本堂横に立つ鎌倉時代の石塔です。



●鐘楼。本堂からは高台になっている地に、鐘楼と宝物館が建っています。



●護摩壇。鐘楼と宝物館に挟まれ、最近護摩行が行われたみたいです。



山門石段下がすぐ道ですが、これまた狭く、行交いもままならず近くに駐車スペ
ースはありません。ズル駐車をしていたので、早々に神童寺を辞し白鳳のお釈迦
様に会いに行きます。

山背(山城)古道、海住山寺を訪ねました。

2010年11月22日 | 京都の古寺巡り


(2010.11.20 訪問)
今の行政区分では京都に位置していますが、旧山城の国は大和国の北、木津川を
はさんでお隣同士、聖武天皇の彷徨さすらいの京(みやこ)変遷の一時期、恭仁
京が置かれたところです。平城京からは僅かの距離、新京と云っても当然大和の
国の一部と云った方がいいのかもしれないほどのところ。その恭仁京背後の山、
三上山の山腹に海住山寺は在ります。
R163から案内どおりに左折、まァ何と云ったらいいのか、ヒドイ道、細く、クネ
クネ、急坂、鋪装はしているけれどまるで杣道、まず対向車が来るとダメ。出た
とこ勝負で行きましょう。

[ 海住山寺 ] かいじゅうせんじ
山号 補陀絡山(ふだらくさん)
寺号 海住山寺
開基 良弁僧正
中興 解脱上人貞慶 
宗派 真言宗智山派
本尊 十一面観音立像

海住山寺縁起
天平七年(735)聖武天皇が大盧舎那仏造立を発願完成祈願、良弁僧正に勅し十一
面観音菩薩を安置して堂宇を建立、藤尾山観音寺と名づけたのが草創と伝わるそ
うですが、詳細は不詳。

●寺標。



●楼門。
山門のかなり手前に忘れ去られたかのようなところにポツンと建っています。



●山門。



●山門偏額。



●山門にかかる楓の紅葉。全山紅葉はもう少しかかるでしょう。



●境内からの山門。



●本堂。
本尊 十一面観音立像。(重文) 脇侍 四天王立像。
本堂前にご住職の奥様がいらしたので、拝観をお願い、早速扉を開けていただき
ました。平安作と云うご本尊は、古色蒼然ですが横顔がことのほか優美で、天冠
台から垂らす天衣の元結の曲線が見事です。全てに彫りが深く頭部の小面も丁寧
な彫技が伺えます。



●本堂偏額。



●本堂と楓。



●五重塔。(国宝)
鎌倉時代(1214年)の建造。塔高17.10m。
噂に違わず立派な塔です。室生寺の五重塔についで二番目に小さい塔。数少ない
裳階(もこし)をもつ五重塔です。法隆寺五重塔がそうです。
奥様が「十日ほど前だったら初層を開扉していましたのに残念ですね」
本当に残念でした。ボクのお寺歩きは大体いつもこんなもんです。









●文殊堂。



●薬師堂。



●境内楓。



●鐘楼。



●三社。



●宝篋印塔。



境内はさほど広くはありませんが。きれいに管理されています。堂宇は比較的新
しいものですが、やはりこのお寺の主役は五重塔。実際に訪ねてみて人気の理由
が分かったように思います。車で行かれる方、道には気をつけましょう。
山背古道第二弾、神童寺に向かいます。

如意輪寺で悲劇の帝王、後醍醐天皇陵に。

2010年11月17日 | 奈良の古寺巡り


(2010.11.13 訪問)
河内金剛寺、観心寺とここ吉野は、南朝四代と楠木一族の哀しみの地として今に
名を残しています。如意輪寺は、帝王後醍醐の吉野行宮の勅願所として寺格がな
され、天皇崩御後このお寺の裏山に葬られ、塔尾陵を造営、その守護寺院として
このお寺はあります。南朝次帝後村上天皇と忠臣楠木正成の長子正行の関係も涙
を誘う語りとして今も継がれているようです。
如意輪寺は、金峯山寺境内から谷一つ隔てた塔尾山腹に位置し、桜吉野山の中千
本、一目千本に囲まれたところです。行宮の置かれた吉水神社からの眺望は凄い
です。悲運の中での後醍醐帝も一刻のやすらぎをも求めたのでは。
今は凄くないです。ただの山です。

[ 如意輪寺 ] にょいりんじ
山号 塔尾山(とおのざん)
院号 椿花院(ちんかいん)
寺号 如意輪寺
開基 日蔵道賢上人  
宗派 浄土宗
本尊 如意輪観音菩薩坐像

●如意輪寺への道。
近鉄吉野駅から如意輪寺直行の古道。僅かの民家と温泉旅館があるだけでお寺ま
で終始こんな情景です。



●参道石段。



●山門。



●如意輪堂(本堂)
本尊 如意輪観音菩薩
このお堂が名を残したのは、楠木正行四条畷決戦出陣のおり次帝後村上帝に別れ
を告げ、塔尾陵参拝後、お堂扉に辞世の歌を残していること。この扉は今宝物館
で見ることができます。
辞世「かえらじと かねておもへば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」
二十三歳青年の歌。



●不動堂と本尊難切不動尊石像。





●鐘楼。



●手水鉢。



●多宝塔。
本尊 阿弥陀如来像。
塔にかかる枝垂れもこうなると寂しさをとおり越して、云いようのない儚さを感
じませんか。



●宝物館。
ご本尊如意輪観音菩薩をモデルに天井に描かれた油絵像です。かなりの大きさで、
下の台に寝て上を向いて拝する。馬堀喜孝画伯作。楠木正行のお堂扉に残した辞
世の扉も見ることができます。



●後醍醐天皇御霊殿。



この日は秋期御霊殿特別公開日で、天皇自作像を拝見出来ました。



●後醍醐天皇塔尾陵(とおののみささぎ)。
境内横の御陵参道六十数段上ったところ北向きに造られている円墳。
京都帰還を願っていた天皇の意志
「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」
どおり天皇陵としては唯一北向き(京都方向)になっており、「北面の御陵」と
呼ばれているそうです。



春の華やかな賑々しいピンクのうねりに較べ、秋の桜葉はなんとうら寂しいもの
でしょう。桜葉の紅葉は今年は期待できないと聞きます。このお寺の桜木も殆ど
裸木、茶色の落ち葉となっていました。錦秋の印象がまるでない今日の如意輪寺
は、金峯山寺の賑わいにをよそに、南朝の哀しみにつつまれ、訪れる人も少なく
閑かな刻が流れていました。