土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

赤山禅院は御所表鬼門守護のお寺です。

2012年11月20日 | 京都の古寺巡り


(2012.11.18訪問)

修学院離宮付近のお寺を訪ねるのは全く初めて、名うての紅葉名所限りなく有るようで、朝八時過ぎ、すで
に叡電出町の駅には人が溢れていました。叡電修学院で降り音羽川沿いに山裾へ、赤山禅院を訪ねます。住
宅街をくねくね、やっと鳥居発見。赤山大明神と書かれています。お寺の参道前に鳥居? どんなお寺なの
か先ず参道を歩きます。

▼まだら模様。




[ 赤山禅院 ]
●寺号 赤山禅院(せきざんぜんいん) 延暦寺塔頭
●宗派 天台宗(てんだいしゅう)
●開基 安慧(あんえ)
●開創 仁和四年(888年)
●本尊 赤山大明神(陰陽道祖神 泰山府君)


赤山禅院縁起 (赤山禅院HPより抄出)
第三世天台座主 円仁の遺命によって創建された、天台宗総本山 延暦寺の塔頭のひとつです。
慈覚大師 円仁(794年~864年)は838年、遣唐使船で唐に渡り天台教学を納めました。その行程を守護し
た赤山大明神に感謝し、赤山禅院を建立することを誓ったとされます。円仁は天台密教の基礎を築きました
が、赤山禅院の建立は果たせませんでした。その遺命により、第四世天台座主安慧(あんね)が赤山禅院を
創建したと伝えられています。本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したものです。
泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳泰山(とうがくたいざん)の神であり、日本で
は陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。赤山禅院は、平安京の東北にあり表鬼門に当たることから赤山
大明神は、皇城の表鬼門の鎮守として祀られました。

▼住宅の角に道標。




▼鳥居。




▼後水尾天皇の行幸の際に賜った勅額(レプリカ)で、赤山大明神と揮毫。




▼赤山禅院寺標。




▼山門。
一人のご婦人が大きな声?で呟いていました。「ことしは紅葉ええでと聞いたのに、去年と変わらんやん、
な~んや」怒ってました。




▼青空に映える赤はハンパじゃありませんが部分です。




▼参道真ん中に三脚をドン!いたる所の光景。ここが真っ赤なトンネルになるそうです。




▼苔の上の紅葉タイル。




▼綺麗な境内マップが石段手前に。




▼手水舎。




▼いい色付きですね。




▼拝殿。




▼読経。




▼拝殿屋根に鬼門除けの御幣と鈴を持つお猿さん。



申は鬼門とは対方角である西南西を指すことから、邪気を払う力、方除けがあるとされ、猿が屋根に置かれ
ているそうです。


▼光と影。




▼本堂前には正念珠。



赤山禅院には大きな念珠が二つあります。順路通りに参拝すると、二度大きな数珠をくぐることになります。
先ずこの正念珠、心の願いについて、参拝の間思い続ける、これを正念珠。最後の還念珠をくぐりながら努
力をすることを誓うと加護があるそうです。還念珠は下に写真があります。


▼本堂。皇城表鬼門と記されています。




▼正面外廊に彩色際立つ阿吽の狛犬。いくらかチグハグな感じも。






▼友禅のもみじ流し。




▼地蔵堂。




▼地蔵堂と銀杏。青空に映える黄色はハンパじゃありません。




▼豪華絢爛お厨子前の本尊、地蔵菩薩。




▼地蔵堂と紅葉。




▼弁財天堂。




▼十六羅漢さん。お気の毒にもお顔の無い羅漢さんもおられます。




▼かなりリアル。




▼寒桜がチラホラ。




▼三十三観音さんのお一人です。




▼陽光の彩。




▼延暦寺千日回峯行大阿闍梨の大護摩供養が行われる不動堂。本尊不動明王。

 


▼還念珠。




▼きれい。




▼福禄寿堂。ここは都七福神の福禄寿のお寺としても著名だそうです。




▼本尊福禄寿。幸福、高禄、長寿の功徳があるそうですよ。




▼七福神。




▼方位神の一つ、金神を祀る金神社。




▼鳥居と彩とりどりもみじ。




▼縁結びの神、相生明神社。




▼ここは気学発祥地碑。



気学とは、生まれた年月日の九つの星と五行とを組合せた占い。


▼絨毯に一条の光。さてどんなご利益が戴けるか赤い絨毯を踏みしめながら山門を出ました。




密教、道教、神道、陰陽道となんでも有りでいろんな功徳、ご利益、ご加護てんこ盛りのお寺でした。

紅葉は境内場所によるのか、全山真っ赤と云う訳では有りません。盛り赤、これから赤、すでに散り紅葉、
青もみじと、色とりどりの感じ、最盛は後十日くらいでしょうか。



那智の大瀧は御神体です。

2012年11月15日 | 和歌山の古寺巡り


(2012.11.10訪問)

青岸渡寺にお参りする前に那智の大瀧に寄りました。R42号から瀧道に入りますが途中那智川沿いの河原各
所は昨年10月の台風12号の傷跡が残り、重機などが入り復旧作業が続けられているのが目に入ります。

「大瀧に寄る」という言葉はどうも正確ではないようで、大瀧そのものを熊野那智大社の別宮飛瀧神社とい
い、大巳貴神としてお祀りしているそうです。なので「御瀧にお参りする」が正しいようですネ。

▼那智の大瀧。
瀧近辺も12号の被害復旧作業は続いています。瀧壺付近は大小の岩が転がり、那智川には作業用の鉄板が敷
き詰められています。大瀧正面の磐鏡の金幣は見ることが出来ませんでした。




[ 熊野那智大社別宮飛瀧神社 ]
●社号 熊野那智大社別宮飛瀧神社(ひろうじんじゃ)
●開創 仁徳天皇五年(371年)
●神体 那智の大瀧。
瀧高133m、銚子口幅13m、滝壺深10m以上、那智、一の瀧といいます。
●祭神 大巳貴神 (大国主尊)


▼飛瀧神社那智大瀧碑。




▼鳥居。瀧への入り口です。




▼大瀧前の斎場からご神体を仰ぎます。
飛瀧神社には本殿、拝殿はありません。この大瀧が御神体で瀧を直接拝む形になります。熊野の自然崇拝の
姿を今に伝える神社です。豪壮な那智の火祭りは大瀧鳥居前の斎場で大松明に火をつけ本社から扇御輿を迎
え、これを清める火祭りです。




▼拝台から那智の大瀧。




▼大瀧の下部、虹の架かってるの見えますか?




▼青岸渡寺から見た那智の大瀧。




▼青岸渡寺から見た那智の大瀧。




熊野那智大社は青岸渡寺のスグお隣、歩いて30秒のところ。

[ 熊野那智大社 ]
●社号 熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)
●開創 仁徳天皇五年(371年)
●祭神
 第一殿 大巳貴神 (大国主尊)
 第二殿 家都御子大神 (須佐之男尊)
 第三殿 御子速玉大神 (伊弉諾尊)
 第四殿 熊野夫須美大神 (伊弉冉尊)
 第五殿 天照大神
 第六殿 天神地祇八神
●平成十六年(2004年)「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録。

熊野那智大社縁起
神武天皇東征で熊野灘から那智上陸の時、那智山で大瀧を発見、神として祀り、その守護のもと八咫烏の導
きによって大和へ進軍したと社伝は伝え、 那智大瀧は、古代から大瀧を神とあがめ、国造神である大巳貴命
(大国主命)と親神夫須美神(伊弉冉尊)の両神をお祀りしていたとも伝えているようです。
社殿を現在の社地に移したのは仁徳天皇五年(371年)、同時に大瀧を「別宮飛瀧大神」としました。
仏教が伝来し、神々と仏とを併せて祀る神仏習合の信仰が行なわれるようになり、蟻の熊野詣といわれ多く
の人々が熊野を目指し、皇室の尊崇厚く、後白河法皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十九回参詣、花山法皇は
千日間瀧籠したと記録に残るそうです。

▼一の鳥居。




▼境内。




熊野詣第二弾!オシマイ



西国三十三観音霊場第一番札所、青岸渡寺です。

2012年11月13日 | 和歌山の古寺巡り


(2012.11.10訪問)

秋の良き日、「蟻の熊野詣」の向こうを張って、熊野三山と青岸渡寺を一日で巡るハードプラン決行の日。
近畿道から南阪奈道そしてR24号からR168号で奈良県南北を縦断、途中谷瀬の吊り橋でスリルを味わい、
和歌山県新宮市へ。熊野本宮大社→熊野古道を歩く→熊野速玉大社→補陀洛山寺(お隣同士)熊野三所大
神社→那智の大滝→青岸渡寺(お隣同士)熊野那智大社→妙法山阿弥陀寺→R42号→阪和道、白浜で立ち
寄り湯、サッパリして帰阪というアホと云われても仕方がないプランを強行。ヤッパリアホでした。

とりあえず、西国三十三観音霊場第一番札所、青岸渡寺レポートです。

[ 青岸渡寺 ]
●山号 那智山(なちさん)
●寺号 青岸渡寺(せいがんとじ)
●宗派 天台宗(てんだいしゅう)
●開基 裸形上人(らぎょうしょうにん)
●開創 四世紀末(正確には未詳)
●本尊 如意輪観音菩薩坐像
●西国三十三観音霊場第一番札所
●平成十六年(2004年)「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録。

青岸渡寺縁起 (青岸渡寺HPより抄出)
開基は仁徳帝の頃(4世紀)印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に瀧壷で八寸の
観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。 その後、推古天皇の頃、大和の生佛上人が
来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め
勅願所として正式に本堂が建立されたのです。
平安朝中期から鎌倉時代は、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰が盛んになり、六十五代花山法皇が三
年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番礼所と
なりました。

▼寺標。根本札所西国第一番 なちさん霊場と刻されています。




▼山門。扁額は山号が揮毫されています。
 重層楼門、十二脚、三間一戸、銅葺。昭和八年(1933年)再建。




▼三門を固める阿吽両金剛力士。像高3.2m(両像とも)、湛慶作と伝わるそうです。




▼手水延命水。那智大滝の水が引かれています。




▼本堂(重文)。桁行九間、梁行五間、入母屋造、柿葺、向拝一間、堂高18m。天正十八年(1590年)建立。
 朱色鮮やかな境内で、古色蒼然、貫禄の本堂です。




▼本堂扁額。天台座主の揮毫で山号が記されています。




▼本堂。観音霊場第一番札所として、中では御朱印を戴く人たちでイッパイでしたよ。




▼本尊。 如意輪観音菩薩坐像(秘仏) お厨子前に御前立ち像。(青岸渡寺HPよりお借りしました)
 本尊がこのお前立ち像と同じであるかどうかは定かではありませんが、お前立ち像小さいながらも六臂像
 で半眼のお顔がまた上品、条帛や天衣のドレープが一定方向を目指しているようで心地いい感じがします。
 宝冠が大きく重そう、お顔を傾げているのはそのせいかも。
 須弥壇奥は薄暗くお前立ち像は小さく見にくいですが、そこは双眼鏡の威力、やはり必携。




▼本堂大鰐口。 天正18年(1590年)本堂再建の際、豊臣秀吉より寄進された日本一の大鰐口。
 直径1.4m、重量450㎏。鰐口には秀吉の願文が刻まれているそうです。




▼鐘楼。梵鐘には元亨四年(1324年)鋳造名が刻されています。




▼宝篋印塔(重文)。塔高4.3m、元亨二年(1322年)造立。




▼如法堂(大黒天堂)。馬頭観音、大黒天、六福天をお祀りしています。




▼写経蔵。




▼三重塔。平安末の建立も天正期の兵火で焼亡。昭和四十七年(1972年) 四百年ぶりに再建。
 塔高25m、鉄筋コンクリート外装は木造。




▼本尊。千手観音菩薩坐像(飛瀧権現本地仏)。




▼三重塔から見る那智大滝。ここから見る大滝は、真近で見るのとはまた違った表情に見えます。




▼裏参道の古道。ご婦人がお一人黙々と上っていかれます。表参道はお店などが並び参拝者の数も多いです
が、この裏参道はこんな道がつづきます。




那智山山腹、横長の青岸渡寺境内には、朱色眩しい新しいお堂が建ち並び、悠久の歴史を感じにくいお寺で
すが、なんと云ってもこの熊野の地は熊野信仰の発祥の地。記紀にも記されているように神武東征から修験
奥駈道として、天皇貴族の熊野詣、補陀洛浄土への渡海信仰といろんな形の信仰が入り交じり、熊野三山を
はじめ神仏習合の最たるこの熊野の地は一つの信仰世界を形作っています。
熊野の地を訪ねるのは初めてです。少々無理なプランでも何とかなるやろと。何ともなりませんでした。
妙法山阿弥陀寺、ここだけは青岸渡寺同様外すわけにはいかないと思いましたが×。熊野三山の熊野速玉大
社も×。熊野古道を歩く論外×。帰りの白浜立寄トンデモハップン×。

とにかく疲れましたワ、熊野詣!

次は那智大滝特集ですよ。

岩船寺、三重塔初層開扉中。

2012年11月05日 | 京都の古寺巡り


(2012.11.03訪問)

この時期、京もそうですが、奈良でも各神社仏閣で「奈良を巡る祈りの廻廊、秘宝・秘仏特別開帳」が開か
れています。
岩船寺のある当尾の里の行政区は京都府なんですが、やはり古から仏教的に南都の影響強く、生活圏、観光
圏は大和の一部と云う感覚で浄瑠璃寺共々奈良エリアとしてあるんでは、とボクなんかも思っています。
季節は秋とはいえ、旧道沿いや山々の樹々はまだまだ緑、葉色の色づきに秋の気配は感じることは出来ませ
んが、浄瑠璃寺から岩船寺に至る道にはハイキングやお寺、石仏を求めて歩いている人も多く、当尾の里は
盛況でした。この日は岩船寺三重塔初層が開扉されていると云うことで当尾の里、岩船寺を訪ねました。

▼境内奥の高台に建つ三重塔。



[ 岩船寺 ]
●山号 高雄山(たかおさん)
●院号 報恩院(ほうおんいん)
●寺号 岩船寺(がんせんじ)
●宗派 真言律宗(しんごんりっしゅう)
●開基 聖武天皇(しょうむてんのう)
●開山 行基(ぎょうき)
●開創 天平元年(729年)
●本尊 阿弥陀如来坐像

岩船寺縁起 (岩船寺パンフより抄出)
天平元年(729年)、聖武天皇の勅願で僧行基が、阿弥陀堂を建立したのが初。大同元年(806年)弘法大師と甥
の智泉大徳が灌頂堂報恩院を建立、嵯峨天皇が智泉大徳に皇孫誕生祈願の勅命したところ、皇子誕生、弘仁
四年(813年)堂塔伽藍が整備され、寺号も岩船寺となる。最盛期は広大な境内に三十九の塔頭坊舎を有したが
度重なる兵火で荒廃、江戸期に修復、いまの姿に復興。鎌倉時代以来興福寺の末寺であったが、明治十四年
西大寺の末寺となり今日に至る。

▼短いですがきれいな参道。手前には地産の野菜やお漬け物が売られています。




▼簡素な造りの山門。昭和五十八年再建したそうです。




▼本堂。桁行五間、梁行四間、入母屋造、本瓦葺。昭和六十三年(1988年)再建。
 本尊 阿弥陀如来坐像(重文)。欅一木造り、像高約300cm、丈六像。天慶九年(946年)造立。
 須弥壇中央本尊を囲むように四天王が配されています。




▼本堂。




▼阿字池。今花の色は有りません。




▼阿字池越しの本堂。




▼阿字池の畔に建つ十三重石塔(重文)。塔高6.2m、正和三年(1314年)造立。




▼三重塔(重文)。塔高21m、嘉吉二年(1442年)建立。




▼三重塔。今日の開扉は東正面と西背面の開扉でした。写真は北面になります。
 堂内初層中央に来迎壁が建ち、東西に十六羅漢図、五大明王図が掲げられています。
 内部壁画は平成十五年に復元されたものです。




▼三重塔初層東面(正面)。来迎壁の十六羅漢図。板戸内面右、伊舎那天、左、帝釈天。




▼十六羅漢図。数シャッター押しましたが、全てミスピント。腕かカメラかどっちや!




▼三重塔初層西面(背面)。来迎壁の五大明王。板戸内面右、羅刹天、左、水天。




▼五大明王の部分、不動明王。




▼隅鬼[天邪鬼](重文)。塔四隅の垂木を支える天邪鬼。なかなかの表情、大工さんのこのユーモア精神と感性
 に拍手!!!




▼開山堂。




▼鐘楼。別名報恩の鐘。一つ撞かしていただきましたが、余韻の長いこと素晴らしいです。



▼鐘楼から三重塔。




▼地蔵堂。




▼厄除地蔵尊像。鎌倉時代。




▼五輪石塔(重文)。東大寺別当、平智僧都の墓と伝わるそうです。鎌倉時代。




▼緑に埋もれてそっと置かれた舟形蹲。




▼歓喜天堂。心願成就祈願のために歓喜天を祀っています。




▼樹々の中の三重塔。




▼きれいに整備されていますネ。貝吹岩への道。




▼貝吹岩。その昔、三十九の坊舎があった頃、一山の僧を集めるために法螺貝を吹き鳴らした岩。




▼貝吹岩から南山城の眺望。




▼石風呂。まさかこの場所で風呂とは、修行僧が身を清めるための石風呂。




▼鎮守社の左、白山神社(重文)、右、春日神社。天平勝宝元年(749年)開創と伝わるそうです。




三重塔内壁画は全て新しく、創建当初の荘厳が復元されたとはいえ、あまりに鮮やか、古色彩色の妙を感じ
ることは出来ないのは、ボクなんぞの偏った色彩感なのか、古色への思い込みからなんでしょうか。数百年
後に改めて訪ねてみましょうか。よくよく考えて見ると、創建時はみんな鮮やかだったんだよネ。