土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

閑かな刻が流れている大和三門跡尼寺の筆頭、円照寺を訪ねました。

2011年04月28日 | 奈良の古寺巡り


(2011.04.23 訪問)

円照寺は観光寺院ではありませんので、通常非公開です。
昨年秋、平城遷都1300年祭で円照寺庭園特別拝観の事前予約で応募しましたが見
事外れ。拝観された方のブログを指をくわえ悔し涙(ウソで~す)で見てました。
相当な競争率だったようです。
この日はせめて山門まででもと、はじめて高貴な尼寺を訪ねました。

▼道標
龍象寺から県道分かれ道に、左山村御殿道(円照寺)のみちしるべ。


[ 円照寺 ] えんしょうじ
●山号 普門山(ふもんさん)
●寺号 円照寺(えんしょうじ)
●宗派 臨済宗妙心寺派
●開基 後水尾天皇の第一皇女文智女王
●本尊 木造如意輪観音像

円照寺は三島由紀夫の絶筆、豊饒の海(一)春の雪に描写されている月修寺のモ
デル寺院です。三島さんは取材に相当時間を割いたそうで、門跡さんの印象に大
感激だったとか。

円照寺縁起
寛永17年(1640)後水尾天皇の第一皇女梅宮が一絲禅師を師として剃髪し京洛北
修学院村に草庵円照寺を開き文智女王大通尼と称された。明暦2年(1656)大和国
添上郡八嶋の地に移り八嶋御所と称し、その後現在地に移転したそうです。代々
皇室関係の方が門跡になられ特に天皇家と深い繋がりがあるためか、大和三門跡
尼寺の中で寺歴は一番新しいけれど寺格はTOPだといいます。

▼円照寺バス停が参道入り口
道標から真っすぐ、国道169号を渡り、県道をなりゆきに5~6分、円照寺バス停
があります。


▼参道その1
桜のシーズンが過ぎいよいよ緑の季節、きれいな石畳の参道を行きます。


▼参道その2
石畳を過ぎると、少しばかり木立が深くなり、緑のグラデーションに濃緑が加わ
り里を離れた尼寺の香りが漂ってくるよう。


▼参道左脇に舎人親王の歌碑
「あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰」


▼参道黒木門
円照寺の寺域、境内がどの位の広さがあるのかは知りませんが、どうもここから
が結界のよう。奥に見える竹垣が山門まで続きます。


▼簡素な山門
ここから先は拝観不可。奥の書院に向かって玉砂利がきれいに掃かれ、尼寺の清
浄感がそこはかとなく。


▼山門にさり気なく菊の御紋


▼築地塀には最高格式の線が入っています。
高格式の尼寺という言葉の調べから深閑とした静寂の中に、築地塀や玉砂利に春
の日差しが、木々の影を柔和に落としています。空気までもが凛としています。


▼唐破風の書院玄関
玉砂利の中、飛び敷石が一直線に書院玄関に向かっています。


▼寝殿造の書院
屋根瓦、雨どいにも菊の御紋が入っています。


▼円照寺本堂円通殿
お寺のお堂には珍しい茅葺きの本堂。残念ながら築地塀の外から屋根しか見るこ
とはできません。


▼鐘楼


▼黒木門前に右に入る石段があり小道に続いています。両側に三十三所霊場、弘
法大師霊場の碑が建っています。この小道は北山辺の道で数キロ行くと弘仁寺、
その先石上神宮へと続きます。






▼手水鉢
手をすすぎ、精神禊ぎで大師堂へ。


▼大師堂
小道から少し入った高台にある小作りのお堂、扁額は全く読めません。情けない。


▼大師堂前に観音石仏が三十三体。
おそらくこれが簡易三十三所観音霊場なのでしょう。寺名が書かれていませんの
で、定かではありませんが、舟形を背に浮彫観音菩薩石像が整然と並べられてい
ます。




山門を入って左側に別門があり、ご婦人方が三々五々入って行かれます。円照寺
は華道山村御流の家元なので華道会館があるそうです。

▼書院


山門から覗くだけのものたらない円照寺巡り お し ま い !

同じく安産祈願の霊験新たかな龍象寺を訪ねてみました。

2011年04月26日 | 奈良の古寺巡り


(2011.04.23 訪問)
帯解寺から南へものの200mぐらいの所に龍象寺はあります。全くのご近所。車が
一台止まっていましたが参拝者はボクだけ、境内は本堂と庫裏と集会所風の建物
のみ、本堂はお世辞にも綺麗とは言い難く古色蒼然、今にもどうにかなりそうな
雰囲気。しかし狭いながらもお庭には季節の花々が植わっており、藤棚には藤が
元気な姿を見せていました。

[ 龍象寺 ] りゅうぞうじ
●山号 宝寿山(ほうじゅさん)
●寺号 龍象寺(りゅうぞうじ)
●宗派 真言宗
●開基 聖武天皇勅願 天平二年(730)行基菩薩が創建。
●中興 百拙禅師
●本尊 木造地蔵菩薩半跏像



龍象寺縁起
聖武天皇の勅願、天平2年(730)に行基菩薩が創建、自ら彫刻した地蔵菩薩が本尊
として安置されているそうで、以来皇族をはじめ市井の人々の安産子授けの「帯
解子安地蔵尊」として崇拝されてきたといいます。

帯解の奥の院というのはかって近くの広大池畔にあった広大寺の奥の院という意
味で帯解寺とは関係はないといいます。山門扁額には帯解安産地蔵尊、立額には
通称おびとけ奥の院と朱文字で墨され、山門右前には日本第一帯解子安地蔵尊の
墨書黒々の石碑が建てられています。見ようによっては、帯解寺に喧嘩を売って
いるようにも見えますが、由緒寺歴はもう一つ当てにはなりませんが龍象寺の方
が時代を遡るらしいのでそれはなさそう。
問題は帯解という名を使うなということらしいですが、奈良時代にすでに帯解と
いう地名があったのか、平安初期、文徳天皇の命名以降なのか、龍象寺がいつ頃
から帯解を称しているのか、これによってこの諍いあらかた解決しないのかなァ。

▼山門
もと藤堂藩代官所の門を旧帯解小学校の門としていたのを移建したそうです。


▼立派な石標
日本第一帯解子安地蔵尊と墨跡鮮やか。


▼山門入り口の偏額と立額


▼本堂


▼本堂編額
山号宝寿山と墨されています。


▼本堂前柱長押の上に菊の御紋が燦然と。


▼本堂内陣の荘厳
奥の須弥壇上にご本尊がおられます。ここでも菊の御紋が光っています。


▼本堂前の藤棚


龍象寺HPに、帯解広大寺奥の院、聖武天皇勅願寺、宮内庁腹帯献納所とあります。
当寺には享保年間に一乗院宮(皇室出家門跡)から拝領した「龍象資聖禅寺」の大
きな扁額があり、傍らに名僧百拙禅師の木札が掛かっています。記録からみると、
当寺は特にこの頃から皇室関係の安産を盛んに祈念しています。現在は皇室関係
の方を祈願したとしても、或いは腹帯等を贈ったとしても、その方の御名を出さ
ないのが常識になっています。特に現在生きている皇族の名を出すことは大寺住
職皆々、ひかえているのが現状です。現実に皇室に腹帯を贈っているある大寺の
住職がそう語っていました。なお、皇族の方から特定の寺院に祈願を申し込むこ
とは全くありません。
この姿勢に帯解寺側はカチンときているのでは…。

▼山門と鐘楼


両寺とも宮内庁腹帯献納所であることをうたっていますが、かたやPRの材料、か
たやそれは遠慮する姿勢、いわば経営方針の差、本当の諍いの種がどこにあるの
かは分かりませんが、ラーメン屋同士の客の分捕りあいのよう、仲良くしましょ
うよ、共存共栄で行きましょう、お釈迦さんの原点に返りましょう。
黄昏の今の仏教界、そんなことをしている暇はないはずですが。

菊の御紋シリーズとなりましたこの日の最後は、山村御殿円照寺につづくのです。

安産祈願の霊験新たかな帯解寺を訪ねました。

2011年04月26日 | 奈良の古寺巡り


(2011.04.23 訪問)

なんと艶っぽいネーミング、が粋筋ご用達では決してありません。もっともっと
賢所、雲上人命名のありがたい寺名なんです。とは言え宮内庁ご用達とは申しま
せんが、美智子皇后をはじめ雅子皇太子妃、紀子秋篠宮妃に安産帯を献納した実
績はこのお寺の大いなる拠り所、菊の御紋が随所に目立ちます。
帯解寺は知名度の高さに比して、境内は狭く、旧村のお寺の感じ、門前の道など
極めて細く、入り組んでいますが、さすがにお参りの方たちは大勢いらしたよう
です。

[ 帯解寺 ] おびとけでら
●山号 子安山(こやすさん)
●寺号 帯解寺(おびとけでら)
●宗派 華厳宗
●開基 文徳天皇
●本尊 地蔵菩薩半跏像(重文) 鎌倉時代 像高188cm

帯解寺縁起(帯解寺HPより抜粋)
当山は弘法大師の師である勤操大徳の開基巖渕千坊の一院で霊松庵と称していま
した。子供に恵まれなかった文徳天皇の皇后(藤原明子)が祖神春日明神のお告
げによって、帯解子安地蔵菩薩に祈ったところ、まもなく懐妊、惟仁親王のちの
清和天皇を無事出産。858年文徳天皇の勅願により伽藍が創建され、寺号を改め、
無事帯が解けた寺、帯解寺としたと伝えられ、安産祈願のご利益に霊験新たかな
お寺だそうです。

▼山門
立派な山門で、入るとスグ本堂です。


▼手水舎
徳川家もこのお寺にお世話になったそうで、手水鉢は徳川四代将軍家綱の寄進だ
そうです。


▼本堂
この日も多くの参拝の方々が祈祷を受けていました。本堂内からは、祈祷の声が
絶え間なく流れていました。以外と年配のご夫婦が多いように見受けられました。
なぜなんでしょう。


▼本堂外陣の千羽鶴


▼本堂


▼鐘楼


▼十三重石塔
立派な石塔で、大阪の子安講の方々が建てたそうです。


▼新御堂
1階が納骨堂、2階が護摩堂。2008年10月に完成。


帯解寺のHPを見ますと、「ご注意下さい」というページがあります。
帯解寺からスグの所にある龍象寺というお寺のことが書かれています。江戸期の
古文書が帯解寺の言い分ですが、早い話が本家争い、宗派が違うとそれぞれがボ
ロクソ、罵しり合い、それが今のお寺だと以前著名寺院のご住職から聞いたこと
がありますが、まさにその例がここにありました。
単に足の引っ張り合い、なんとマァ了見の狭い、ケツの穴の小さい(ボクとした
ことが、なんとお下劣な品のあるじゃなかった品のない表現で御座いましょう。
聞かなかったことにして下さい。)ことよと三者的に見ますとそう見えますが、
実はそうではなく何か深~いドロドロしたわけがあるのかも知れません。お釈迦
さんが聞いたらどうお諭しになるのでしょうかネ。
それでは、もう一方の安産祈願のお寺、龍象寺へ向かいます。どう受けて立って
いるのでしょうか。



造幣局の通り抜けに行ってきました。

2011年04月20日 | 花巡り


(2011.04.19 訪問)

メディアで大賑わいと報じていますので、その賑わいを見に通り抜けに行って参
りました。ついでと云っちゃ何ですが、桜も見てきました。



▼天満橋から造幣局南門を目指す人々。


▼造幣局南門。


▼人で一杯。


▼人で一杯。


▼人で一杯。


▼鬱金                ▼蘭蘭


▼麒麟                ▼一葉


▼塩釜桜               ▼関山


▼糸括り               ▼紅手毬


▼御衣黄               ▼揚貴妃


▼松月                ▼妹背


▼鐘馗                ▼小手毬


▼春日井               ▼簪桜


▼紅笠                ▼大提灯


▼千里香               ▼紅手毬


▼松前紅紫              ▼普賢象


▼福禄寿               ▼市原虎の尾


▼永源寺               ▼八重曙


大阪の桜もこの造幣局通り抜けをもって ほぼオシマイ、だと思います。