土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

暮れ泥む二月堂から

2012年09月27日 | 奈良の古寺巡り


(2012.09.26訪問)

暮れ泥む 古刹を越えて 夕陽あり

▼生駒に沈む夕陽。
二月堂舞台から、真ん中の黒い屋根は大仏殿、突起は鴟尾です。




▼二月堂軒の吊り灯籠。






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岡寺、西国三十三カ所観音霊場七番札所です。

2012年09月24日 | 奈良の古寺巡り


(2012.09.22訪問)

四季を通じて花の寺と呼ばれている岡寺も、今は芙蓉とムクゲのみ。一方では日本最初の厄よけ霊場と云わ
れ、日本最大の塑造如意輪観音が鎮座しています。最近、厄除け対象年齢もとっくに過ぎ、厄さえも近寄っ
て来ない寂しい人生を送っていますが、今日はお彼岸の中日、なればと日本一の如意輪さんと彼岸花に会い
に明日香にやってまいりました。

[ 岡寺 ]
●山号 東光山(とうこうざん)
●院号 真珠院(しんじゅいん)
●寺号 岡寺(おかでら) 正称 龍蓋寺(りゅうがいじ)
●宗派 真言宗豊山派
●開基 天智天皇(てんじてんのう)
●開山 義淵僧正(ぎえんそうじょう)
●開創 天智天皇二年(663年)
●本尊 如意輪観音菩薩坐像
●西国三十三カ所観音霊場第七番札所

岡寺(龍蓋寺)縁起
縁起は不詳と聞きますが、寺伝によれば天智天皇は天武天皇長子の草壁皇子の岡宮を仏教道場に改め、当時
仏教界最高指導者、義淵僧正に下賜、勅願天智天皇、開山義淵僧正として開基されたと伝わるそうです。
この地はもともと住民を苦しめていた龍を義淵僧正が法力で本堂前の池に蓋をして封じ込めた。この伝承が、
岡寺の正式名称龍蓋寺の原点になっているそうです。

▼駐車場からの参道です。前方に仁王門が見えます。




▼西国七番霊場の文字が刻された寺標。




▼仁王門(重文)。慶長十七年(1612年)建立。二層楼門、三間一戸、入母屋造、本瓦葺。




▼仁王門扁額。




▼手水舎。




▼本堂への参道。




▼鐘楼。文化五年(1808年)ころの建立。




▼本坊楼門。二層鐘楼門、一間一戸、入母屋造、本瓦葺。
階上には兜跋毘沙門天(現在本堂に安置)が安置されていたそう。




▼開山堂。本尊阿弥陀三尊。桁行三間。
多武峰妙楽寺(現談山神社)より移築されたお堂。寛政九年(1797年)建立。明治四年移築。




▼本堂と芙蓉。




▼芙蓉。数は少ないですが境内に点在しています。




▼本堂。文化12年(1815年)再建。




▼本堂正面。




▼本尊如意輪観音菩薩坐像(重文)。
塑造では日本最大の像。像高485cm。通常の如意輪観音像は、六臂、片膝を立てて思惟する像容が多いので
すが、この像は二臂、右手は施無畏、左手は与願の印を結んで、結跏趺坐をする姿をしています。




▼数年前に描きました、本尊お顔のペン画です。




▼芙蓉。




▼本堂。




▼本堂の前にある龍蓋池。




▼大師堂。




▼本尊空海さん。




▼境内のすすき。オブジェかアレンジメントのようです。




▼三重塔。昭和61年(1986年) 514年ぶりに再建。



▼開山義淵廟への参道石段。




▼義淵僧正の墓。



義淵僧正とは伝説にみちた人で生年不詳。(岡寺HPから抄出)
大和国高市郡に子供に恵まれない夫婦がおり、彼等は日々観音様に子が授かるよう祈りを捧げていました。
そんなある日の夜突然子供の泣き声がして、夫婦が表に出てみると柴垣の上に白い布に包まれた赤子がおり、
中に連れて入ると馥郁たる香りが家の中にみちた。というのが義淵僧正の出生伝説。その後この夫婦に養育
され、ついで観音様の申し子として天智天皇に引き取られ、岡宮で草壁皇子とともに育てられました。後に
義淵僧正はこの地を与えられ、龍蓋寺を建立されました。現在岡寺は真言宗豊山派に属しておりますが、開
祖義淵僧正はわが国法相宗の祖であり、その門下には東大寺の基を開いた良弁、菩薩と仰がれた行基、その
他にもおよそ奈良時代の高僧といわれる人は皆、義淵僧正の教えを受けたといわれています。

▼この方が義淵さん。伝義淵僧正像(国宝) (奈良博HPから借用)




▼十三重石塔。




▼瑠璃井参道。




▼瑠璃井。厄除けの湧水がなみなみと水面には手が届きそう。




▼鎮守の稲荷社参道。




▼稲荷社。




▼奥之院石窟。




▼奥行き5~6m位でしょうか、先端に菩薩坐像が見えます。弥勒菩薩と聞きました。
明るく映ってますが、実は真っ暗。奥のお像に左から僅かに灯りがあてられているだけです。
しかし近頃の写真機はどういう具合になっとるんでしょう。見えないものが見えるんです。

ちょっと中へ入るのは止めました。コワイです。






▼高所から本堂。




今日はお彼岸、岡寺から稲淵棚田の彼岸花を見に行きました。
▼明日香稲淵の彼岸花。




▼もう一枚。この写真を見ると今盛りに見えるでしょうネ。いやいやまだまだです。



彼岸花までが遅れ気味のようです。稲淵棚田の畦沿いの赤い帯はまだ途切れ途切れ、もう少々日が掛りそう、
今週末くらいでしょうか。
しかし人出だけは超満開! でした。




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高桐院の赤毛氈でお茶をいっぷく。

2012年09月17日 | 京都の古寺巡り


(2012.09.15訪問)

楓と竹の深い緑に圧倒されつつ石畳の参道を玄関へ向かいます。この日は、客殿南庭の赤毛氈に座り、お
茶を一服戴いて、真ん中の石灯籠としばしニラメッコをしようと訪ねました。まだまだ暑い京都、拝観者
わずか、幸い一番いい席を確保。

▼高桐院=この参道。



[ 高桐院 ]
●寺号 高桐院(こうとういん)
●宗派 臨済宗大徳寺派(大徳寺塔頭)
●開基 細川忠興(ほそかわただおき)
●開山 玉甫紹琮(ぎょくほしょうそう)
●開創 慶長六年(1601年)
●本尊 釈迦牟尼仏

高桐院縁起
大徳寺塔頭高桐院は、細川藤孝(幽斎)の長子、忠興(三斎)が慶長六年(1601年)細川家菩提寺として開創。
開山玉甫紹琮は父幽斎の弟、いわゆる叔父を開山に開創。

▼入り口参道。玄関までは参道が直角曲がり四回。




▼お寺説明の高札が親切な説明をしてくれています。




▼表門。




▼石畳が誘ってくれる定番参道。




▼正面唐門。




▼ほんのり色づき始めの唐門にかかる青もみじ。向こうは客殿の屋根。




▼玄関門。左に曲がると玄関です。




▼玄関。




▼書院庭。




▼書院意北軒。利休の邸宅を移築したものといわれているそうです。




▼意北軒札。




▼書院茶室松向軒。忠興の手で寛永五年(1628年)に造られたという二畳茶室。




▼客殿南庭。竹林を背景に楓と石灯籠、緑苔で構成された簡素な庭園。




▼客殿南庭。
ニラメッコの相手は今日も静かに佇んでいます。
心の癒しを求めるのなら錦秋にはこうはいきません。常に拝観者が群れをなして座ってます。
暑い時か寒い時の拝観者が少ない時がおススメですよ。




▼客殿南庭。




▼客殿南庭。




▼客殿南庭。




▼客殿仏間。




▼庭園。




▼袈裟形蹲。加藤清正が朝鮮の役で王城の礎石を持ち帰り忠興に贈ったもの。




▼三斎井戸。忠興、ガラシャの墓碑清めの水汲み上げ用の井戸。




▼細川忠興、ガラシャ墓所。
秀吉に切腹を命じられた利休が、忠興に遺贈した石燈籠が墓碑になっています。




▼なんと素晴らしい感性!アートな土塀。




高桐院は細川家菩提寺ですが、今では庭園と紅葉の名所としてのお寺で、錦秋が織りなす綾錦を纏う頃、こ
こは相当凄いことになります。ガラシャさんも地下でどんな思いをしているのでしょうネ。



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高台寺は太閤夫人ねねさんのお寺、人気のほどがうかがえます。

2012年09月10日 | 京都の古寺巡り


(2012.09.08訪問)

またまた東山界隈にやってまいりました。昨年ナイター拝観で訪ねたのですが人の多さにビックリ!早々に
帰宅。というおそまつを反省し、今日あらためて訪ね直しです。蒸し暑いです、曇ってます、しかしねねさ
ん人気は健在でした。それにしてもきれいな境内、「秋のナイターは人の多さで動けませんよ」とお寺のお
ネーサンが云ってました。よーくわかっておりますです。ハイ!

[ 高台寺 ]
●山号 鷲峰山(じゅぶざん)
●寺号 高台寺(こうだいじ) 正式には高台寿聖禅寺
●宗派 臨済宗建仁寺派
●開基 高台院湖月尼(こうだいいんこげつに) 豊臣秀吉夫人北政所ねね
●開山 三江紹益禅師(さんこうしょうえき)
●開創 慶長十一年(1606年)
●本尊 釈迦如来坐像

高台寺縁起 (高台寺HPから抄出)
正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所が慶長十一年開創し
た寺である。寛永元年建仁寺の三江和尚を開山として迎え、高台寺と号した。徳川家康は当時の政治的配慮
から多大の財政的援助を行ったので寺観は壮麗を極めたと云う。秀吉と北政所を霊屋に祀り、北政所像の下
はその墓所となっている。

▼表門。現在の境内からは相当離れてポツンと建ちます。往時の広さがうかがえるようです。




▼ねねの道。
たまに当たる天気予報でこの日は曇り、そして蒸し暑い、京都そのもの。めげずに結構な人出です。




▼参道台所坂。




▼参道。
この門の名前はわかりませんが、境内はもうスグ。




▼禅仕様の小ぶりの庫裏と美しい前庭。




▼文様を透かし彫りしている庫裏の妻飾り。




▼遺芳庵。
吉野太夫好みの茶席と云うものの吉野太夫って誰?




▼庭園。
小堀遠州の作庭と伝わる池泉回遊式庭園。国の史跡名勝。




▼方丈。




▼方丈。皆さん座り込んでお庭鑑賞。




▼方丈の仏殿。本尊釈迦如来が祀られています。




全く表情の違う前庭が設えられています。
▼方丈前庭。西側の表情です。




▼方丈前庭。東側です。




▼方丈正面の勅使門。




▼方丈と百日紅。数少ない百日紅も今盛りです。




▼観月台(重文)。
書院から開山堂への渡り廊下の真ん中に、檜皮葺の建物で三方に唐破風の屋根がつく簡素な観月台。




▼観月台と開山堂。




▼開山堂(重文)。高台寺開山三江紹益禅師を祀っています。慶長十年(1605年)建立。




▼臥龍池。




▼開山堂と百日紅。




▼開山堂と霊屋。




▼開山堂と霊屋を繋ぐ臥龍廊。龍の背中に似ているところから名付けられたそう。




▼霊屋(重文)。慶長十年(1605年)建立。
太閤さんとねねさんをお祀りし、厨子内左右には両者の木像を安置しています。内陣、須弥壇や厨子はかの
有名な「高台寺蒔絵」を見ることが出来ます。




▼霊屋庇のクモの巣。妙に目立ちました。




▼傘亭(重文)。 (高台寺HPから抄出)
境内最高所にあります。利休の意匠による茶席であり伏見城から移建したものである。傘亭は竹と丸木が放
射状に組まれ、カラカサを開けたように見えることからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれる。時雨亭
とは土間廊下でつながっている。




▼傘亭天井。傘って判ります?




▼時雨亭(重文)。二階建ての茶室。傘亭とは土間廊下で繋がっています。伏見城から移築。




▼境内南側に鬱蒼の竹林。




▼勅使門正面。




▼オマケ 境内から祇園閣です。




▼オマケのオマケ 太閤さんですよ。
大阪城内豊国神社に立つ太閤さん、迫力と威厳に満ちて一心に天守閣を見つめています。
六十二歳での薨去、惜しい、なんとしても惜しい。
この像は文化勲章受章者、中村晋也さん作です。




高台寺の秋は格別、そしてナイター紅葉はきれいなんでしょうね、だけどボクは写真で辛抱しときます。




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清水寺で、初めて清水型観音さんに会えました。

2012年09月04日 | 京都の古寺巡り


(2012.09.01訪問)

先週BSで清水寺をやってましたので、訪ねることにしました。幾度か訪ねはしているものの腰据えて回った
記憶が無く、久々とはいえ新鮮感多ありの清水さんでした。が、残念ながら奥の院はじめ四堂塔が修復のた
め覆屋でスッポリ、チョットばっかり消化不良の感アリでしたが。

[ 清水寺 ]
●山号 音羽山(おとわさん)
●寺号 清水寺(きよみずでら)
●宗派 北法相宗大本山
●開基 坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)
●開山 延鎮上人(えんちんしょうにん)
●開創 宝亀九年(778年)
●本尊 十一面千手千眼観世音菩薩立像
●平成六年(1994年)古都京都の文化財として世界遺産に登録

清水寺縁起 (清水寺HPから抄出)
音羽山清水寺は、宝亀9年(778年)に大和子島寺の延鎮上人によって開創されました。
清水寺縁起によると、延鎮は霊夢をうけ、清泉をもとめて音羽山麓の滝に着きました。そこで草庵で練行し
ている行叡居士と出会ったのです。行叡は延鎮に霊木を授け、千手観音像を奉刻し観音霊地を護持するよう
遺命を託すや否や姿を消してしまいました。行叡は観音の化身であると悟った延鎮は、千手観音を刻んで草
庵と観音霊地の山を守っていました。宝亀11年(780年)、坂上田村麻呂が妻の安産のため、鹿猟のため音羽
山に入り草庵にたどり着き、延鎮と出会いました。坂上田村麻呂は延鎮に鹿狩りに上山した旨を話すと、観
音霊地での殺生を戒められ、観世音菩薩の教えを諭され、感銘を受けた坂上田村麻呂は、清滝の霊験、観世
音菩薩の功徳を妻に語り、共に深く仏法に帰依、 自らの邸宅を仏殿に寄進し、十一面千手観世音菩薩を御本
尊として安置しました。

▼仁王門(重文)。
重層楼門、三間一戸十二脚門、桁行三間、梁行二間、入母屋造、檜皮葺、堂高14m。応仁の乱で焼失後室町
後期再建。




▼藤原行成の筆と伝わる仁王門扁額。




▼境内からの仁王門。




▼馬駐(重文)。
うまとどめと読むそうです。仁王門横に建っています。乗馬入山した貴族や武士がここに馬を繋いで徒歩参
詣したそうです。




▼西門(重文)。
三間一戸八脚門、切妻造、檜皮葺、向拝付。寛永八年(1631年)再建。
この門は通れません。




▼背面から西門。
軒唐破風は大変珍しいそうです。




▼西門格繰上天井と彩色。桃山様式の華麗な彩色美です。




▼西門から京都市街。




▼鐘楼(重文)。
切妻造、本瓦葺、六本柱。慶長十二年(1607年)再建。




▼随求堂(ずいぐどう)。
胎内潜りが体験出来ます。結構若者が入っていきましたよ。一回100円。
お堂の形がなかなかユニークです。




▼随求堂横の百日紅。




▼三重塔(重文)。本尊大日如来坐像。
塔高31m。承和十四年(847年)創建。寛永九年(1632年)再建。




▼一切経を収蔵する経堂(重文)。
本尊釈迦三尊。桁行五間、梁行四間、入母屋造、本瓦葺。寛永十年(1633年)再建。
講堂を兼ねているそうです。




▼開山堂(重文)。別称田村堂。
開基坂上田村麻呂夫妻、開山延鎮上人、元祖行叡居士を祀っています。
堂前には沢山の南部鉄風鈴がいい音を奏でています。




▼鉄の錫杖と鉄下駄。
大錫杖(90kg)と小錫杖(14kg)、高下駄(12kg)があります。明治中期に奈良県吉野で修行した修験者から奉
納されたものだそうです。大きい方を持ち上げようとしている方々がいましたが、ボクはアホらしいので
止めました。




▼轟門扁額。
キラキラ彩色ではない古色の中門、廻廊から本堂への門です。
が、写真はありません。モロ逆光のためボクの腕ではどうしようもありませんでした。




▼本堂への廻廊。




▼本堂(国宝)。
桁行36m、梁行30m、棟高18m、寄棟造り、檜皮葺。
前部分は錦雲渓の急な崖に建てられ、欅の柱を並べ釘を一本も使わずに組み上げ舞台を支えています。
平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲など、さまざまな芸能が奉納されてきたそうです。




▼本堂舞台の懸造(国宝)。




▼本堂本尊のお前立ち。(お像は清水寺パンフ複写、説明は清水寺HPから抄出)
御本尊は、本堂最奥部内々陣の厨子内に秘仏として祀られ、厨子前に御本尊の姿を写した御前立仏を安置し
ています。御開帳は、ご本尊が三十三身して衆生を救うという観音経の教えに因んで、三十三年毎に行われ
ます。
お前立ち仏をはじめて拝観しました。何度も訪ねているのに本堂に入堂するのは初めて、バチあたりですね。




▼本堂説明板。




▼大日如来坐像。
3.11東日本大震災の津波で流された陸前高田の名勝高田松原の松で造像された大日如来坐像です。京都の学
生さんたちが造ったそうです。




▼本堂舞台参拝の皆さん。
決断の言葉に「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と聞きますが、実際に舞台から飛び降りた人が江戸期
に234件あったらしく生存率は八割、生還した人の方が多かったみたいですね。明治政府は飛び降り禁止令
を出したそうですが、明治以降はどうなんでしょうね。
よく考えてみたらこんなところから飛び降りる人の気が知れません。何の願いか知りませんが。オーコワ!




▼本堂屋根テッペンの鬼瓦。




▼本堂舞台から子安の塔。修復のため覆屋でスッポリ。




▼本堂からの奥の院。修復のため覆屋でスッポリ。




▼釈迦堂(重文)。本尊釈迦三尊。
桁行三間、梁行三間、寄棟造、檜皮葺。寛永十年(1633年)再建。




▼地蔵堂。




▼音羽の滝。
本来は滝行水垢離の行場。清水寺の寺名の由来となったのがこの滝です。流れ出る清水は清めの水として尊
ばれています。




▼音羽の滝のベッピンさん三人とどうか判らない人一人。




▼奥の院から三重塔。




▼奥の院から京都市街。




▼中興堂。清水寺の中興開山大西良慶和上の御霊屋。




▼春日社(重文)。法相宗の鎮守、奈良春日大明神を祀る鎮守堂。




▼弁天堂。




▼北総門(重文)。元は塔頭成就院の正門。
間口4.12m、薬医門、切妻造、本瓦葺。寛永年間に再建。




▼幕末に散った勤王僧、月照と信海両上人と西郷隆盛の歌詩碑。(清水寺HPから抄出)
月照上人は、勤王僧で西郷隆盛公の手引きで九州へ避難したものの、隆盛公と薩摩錦江湾に入水。隆盛公は
助けられましたが、上人は非業の死を遂げました。




▼千体石仏群。
かつて京都の各町内にお祀りされていたお地蔵さんたち、明治の廃仏毀釈で捨てるに忍びないと、地蔵信仰
の篤い京都市民から寺に運び込まれたものだそうです。






▼阿弖流為、母禮の碑。(清水寺HPから抄出)
奥州を本拠地とした蝦夷の首長阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の碑です。二人は平安朝廷の東北平定政策に
対して勇敢に戦いましたが、征夷大将軍坂上田村麻呂公の軍門に。将軍は両雄の武勇、器量を惜しみ朝廷に
助命嘆願しましたが、許されず処刑されてしまいました。




▼善光寺堂。
仁王門前に建つ洛陽三十三所観音霊場第十番札所。




▼善光寺堂本尊如意輪観音坐像。




▼オマケは八坂の塔。



朝八時前入山、すでに大勢の人がいました。中でも中国語が氾濫してましたよ。
お上りさん感覚で約三時間かけてお堂を巡りました。ほとんどのお堂は江戸期の再建、再彩色で丹色眩しく
目に痛いほど。古色に慣れたボクの目にはどうもシックリ来ません。時代径時の色あせた柱一本一本のくす
んだ色に古寺のアイデンティティを感じるのはたんなる個人趣味なのでしょうか。

長々と43カット、お付き合いありがとうございました。



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