土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

泉州著名の古刹なり、松尾寺を訪ねました。

2012年01月23日 | 大阪の古寺巡り


(2012.01.21訪問)

東に金剛生駒連峰の主峰金剛山が控えた和泉山系山懐にある松尾寺。郡山の松尾寺ほど著名ではないにしろ、
往時この地一帯は役行者小角さんや行基さん、空海さんの勢力圏、近隣古刹にも小角さんや行基さんの伝承
を残す古刹が多く法灯を灯し続け、南には空海さんの高野山が控えています。そんな松尾寺を訪ねました。
雨の中ですわ。

▼山門扁額。




[ 松尾寺 ]
●山号 阿弥陀山(あみださん)
●寺号 松尾寺(まつおじ)
●宗派 天台宗 延暦寺末寺
●開基 役行者
●中興 泰澄大師
●創建 白鳳元年(672年)
●本尊 如意輪観音菩薩

松尾寺縁起 (松尾寺お寺パンフより抄載)
第39代弘文天皇の白鳳元年役行者の開基。行者がこの山中で修行中、楠の霊木で如意輪観音菩薩を刻み安置
したのが始まりです。その後越前の泰澄大師が入山、堂塔整備に力を注ぎました。寺史には平安初期、慈覚
大師円仁さんが薬師如来像を安置とありますが、今はありません。

▼参道入り口にお寺案内板。崩れかけた土塀の雰囲気にピッタリのいい感じ。昭和13年製の案内板。




▼石標。




▼参道入り口。




▼参道。山門が見えてきましたよ。




▼山門。非常に珍しい山門らしく、釘を一切使っていない建造物、三間重層の総楠造、本瓦葺。
楼上には文殊菩薩が祀られているそうです。宝永二年(1705年)建立。




▼山門左右に金剛力士に替わる右に増長天立像。




▼左に持国天立像。




▼山門からの境内。決して広くはありませんが、整然と堂宇が並んでいます。




▼念仏堂。




▼寿老人堂。松尾寺は南海沿線七福神札所で寿老人をお祀りしています。




▼寿老人堂神棚。寿老人は延命長寿を司る道教の神。松尾寺と道教の関わりは判りません。




▼手水舎。




▼本堂。
本尊 如意輪観音菩薩。
慶長7年(1602年)豊臣秀頼が四天王寺阿弥陀堂を寄進建立。裄行8間、梁行4間、入母屋造、本瓦葺。




▼施願と書かれた本堂正面大きな扁額。




▼鐘楼。梵鐘は貞享4年(1687年)の鋳造銘入り。




▼ 鐘楼前に立つ伝教大師幼形像。
延暦寺末寺の印象は、唯一最澄さんのこの像のみ、ご本尊も真言系、空海さん伝承もあり、天台の香りがし
ません。宗派の絡みというのはボクたちにはなかなか理解し難いものがあるようです。




▼三天堂。酒の神と云われる松尾明神、穀聚三天を祀っています。




▼僧長瑜の碑。
信長高野山攻め時、全山焼き討ちにあったが、長瑜さんが寺宝などを避難させたといいます。




▼不動堂。不動明王をお祀りしています。




▼水の無い池に掛かる石橋。




▼西国三十三カ寺めぐり。




▼首堂(こうべどう).
源義経が一の谷合戦で戦死武士の首をこの地に送り、菩提を弔った言い伝えがあるそうです。




▼フロクです。
松尾寺の大楠。樹高30m、幹周10m、樹齢約700年の天然記念物。
松尾寺の大楠といっても境内にはなく、バス停横に単独で堂々と立ち誇っています。




翌日の天気予報も当たらない天気予報を信じたらエライ目に遭いました。オールくもりマーク、ところがお
寺に着いたとたんシトシト、山内を歩いているとザー、帰りはザーザー。からだはビショビショ。おかげで
今のどがイタイイタイ。当たらない方が悪いのか、傘を持たない方が悪いのか、一体どっちや!

禅と茶の湯のお寺、南宗寺訪ねました。

2012年01月19日 | 大阪の古寺巡り


(2012.01.18訪問)

阿倍野で所用が終わり、さてどうするかと考えつつ地下から地上に出るとそこは阪堺電車のホーム。早い話
が出口を間違えたんです。いつの間にか堺行きチンチン電車に乗ってました。
松虫や手塚山、住吉さん、大和川を過ぎるとはや堺、いいもんですねチンチン電車の雰囲気、騒音と横揺れ
はガキの頃の大阪市電といっしょ。郷愁です。
御陵前で電車を降りて、とりあえず堺一と称される南宗寺を訪ねました。

▼山門(甘露門)に掛かる扁額。



[ 南宗寺 ]
●山号 龍興山(りゅうこうさん)
●寺号 南宗寺(なんしゅうじ)
●宗派 臨済宗大徳寺派
●開基 三好長慶
●開山 古嶽宗旦
●創建 大永6年(1526年)
●本尊 釈迦三尊

南宗寺縁起 (南宗寺お寺パンフより抄載)
大徳寺の古嶽宗旦が堺の小院を南宗庵と称し住み、その弟子大徳寺住職大林宗套が師命で南宗庵に入った。
大林宗套に帰依した「乱世の三梟雄」の一人戦国武将三好長慶は父の菩提を発願、南宗庵を移転し壮大な寺
地に南宗寺を造営。その後松永弾正の乱や大坂夏の陣で南宗寺は壊滅。元和5年(1619年)時の住職、沢庵和
尚と堺奉行の尽力で現地に復興再建した。

▼石標。




▼総門。
桁行二間、梁行一間、瓦葺四脚門。簡素な門です。古嶽宗旦の弟子筋、大林宗套筆の龍興山の扁額。




▼甘露門(重文)。
二層楼門高欄付、桁行三間、入母屋造本瓦葺八脚門。正保4年(1647年)建立。一種の飾り門のようです。




▼甘露門屋根を飾る鬼瓦。




▼鐘楼。明治元年再建の立派な鐘楼です。




▼唐門(重文)への参道。




▼方丈(本堂)。




▼枯山水庭園(国名勝)。古田織部の作庭と伝わるそうです。






▼実相庵。利休好みの茶室。中央茶色がにじり口。昭和38年(1963年)再建。




▼千利休が愛したと伝わる袈裟形手水鉢。




▼武野紹鴎縁の六地蔵燈籠。
相当酷い姿、台座は別物で火袋は姿止めず、傘反りは欠けまくりでガタガタ。しかし竿と中台はドッシリし
ており当初は見栄えのする姿だったのでは。




▼大雄宝殿(重文)。
仏殿です。承応元年(1652年)建立。
釈迦三尊はこのお堂のご本尊。今はご本尊釈迦如来お一人です。脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩は出張中、実は
盗難に遭い現在行方不明とのことです。堂形は二層になっていますが、一層目は裳階で実は単層。桁行五間、
梁行五間の方形、入母屋造本瓦葺。堂内床は瓦タイル、広々とした堂内西に高い須弥壇があり中央にご本尊。




▼大雄宝殿天井画。
高い天井には「八方睨みの龍」が描かれています。狩野信政筆。




▼廻廊。方丈から禅堂につながっているようです。




▼禅堂。坐禅修業道場。




▼禅堂扁額。金毛と揮毫されています。




▼禅堂正面入り口に掛かる開板。相当使い込まれているようで、中央は1センチくらい凹んでいます。




▼消火装置?




▼坐雲亭。山内最古のお堂。一層が茶室になっているそうです。




▼千家一門の供養塔。
利休をトップとする千家三庵、不審庵(表千家) 今日庵(裏千家) 官休庵(武者小路千家)の墓碑が並んでいます。
中央が利休の五輪塔。




▼武野紹鴎の墓。
村田珠光の茶禅一味わび茶の流れをくむ茶人。千利休の師とも云われているそうです。



▼三好一族の墓。
南宗寺開基、三好長慶をはじめとする一族の墓です。




▼境内から見た甘露門。




豪商ひしめく往時の商都堺は、一方で茶禅一味を精神的基盤とする茶の湯が紹鴎や利休によって完成された
と云い、その精神性は禅宗と結ぶことにより確立され、信長や秀吉など時の権力者の賛を得て発展していっ
たのはご存知の通り。権力者と結ぶということは勢者必衰の言葉どおり何時どうなるかわからんもんですね。

堺の町を三時間ほどフラフラ歩き回って、夕方帰社するとイヤ~な顔をされたのは云うまでもありません。

高野山奥の院は凛とした雰囲気、まさに聖域。

2012年01月13日 | 和歌山の古寺巡り


(2012.01.08訪問)

奥の院は高野山信仰の中心、空海さん入定の聖地。正式参拝は御廟手前の一の橋からだそうですが、天気晴
朗快適日和でしたが、如何せん足がいうことを利きません。少々ズルをして今日は中の橋からの参拝です。

▼中の橋からの参道。
一の橋から御廟まで約2キロの参道には杉の巨木と約20万基を越す墓碑、墓石が並び信仰の厚さ、深さを偲
ばれます。




▼豊臣家墓所。
中央五輪塔が太閤さん、左右はどちらかが秀長さんと寧々さん。広い墓所で左右に、縁の人々の五輪塔が並
んでいます。




▼織田信長墓所。
豊臣墓所に比べて少し寂しい感じ。




▼御廟の手前に手水舎。
手水鉢の下方は凍り付いていました。




▼灯籠堂のつらら。




▼御廟橋。
ここから先は撮影禁止。脱帽してお参りの事。です。
正面に見えるのが御廟前殿。ボクの望遠ではコレが精一杯。




無信仰、無信心な人間でも御廟の前に立つと思わず手を合わせ空海さんと対話の体勢に入ったような感覚に
なります。おぼつかない心経をボソボソと口中で唱えつつ高野山参拝の一日が終わりました。

フロクです。
金剛峯寺の数ある塔頭の一つ、日本三大多宝塔の建つ金剛三昧院へ名塔拝観に寄ってみました。
雪の境内にスッと冬の陽光一条の中、ひっそり佇む名塔は、小さいながらも空海さん哲学が凝縮され小粒で
ピリリの清浄感が境内を引き締めているようでした。しかし建立者は北条政子、源頼朝と実朝菩提を弔うた
め建立と寺伝は語るそうです。

▼金剛三昧院多宝塔(国宝)。
本尊 五智如来(重文)。塔高14.9m、桧皮葺。貞応2年(1223年)建立。
ちなみに三大多宝塔は数説あるみたいですが、金剛三昧院多宝塔と石山寺多宝塔は必ず入っているそうです。



総本山金剛峯寺本坊で雪の播龍庭にしばし。

2012年01月13日 | 和歌山の古寺巡り


(2012.01.08訪問)

壇上伽藍残考
先に周りました壇上伽藍には、伽藍総数16の堂宇が建ち並んでいます。実際に入堂できたお堂は金堂と根本
大塔だけですが、両堂が高野山の真髄である事は誰もが認めるところでしょう。特に根本大塔は両界曼荼羅
を表現した立体曼荼羅として画され、空海さんの密教哲学がこの大塔によってシンボル化されたと云ってい
いでしょうし、日本における密教の根本道場がこの地に誕生し、第一歩が刻まれた聖域と云ってもいいでし
ょう。
高野山開創時、空海さん渾身のグランドデザイン真言密教地上曼荼羅がどの位の規模でこの地に湧出したか
は定かではありませんが、稀代の天才がやり残したものを受け継いだのが高野山二世と云われる伝灯国師真
然大徳。この真然さんが空海さんの後を継ぎ壇上伽藍整備に二代約70年の歳月を費やしたと伝わるそうです。
この真然さんが初めて僧坊を構えたのがこの本坊地だそうです。
(真言宗と密教については金剛峯寺HPをどうぞ。)

▼参道。




▼正門。
現存建造物最古、文禄2年(1593年)再建。正面見えるのは本坊大玄関。




▼本坊(重文)。
東西60m、南北70mの大きな建物。本坊、奥殿、書院などを備え、狩野派の襖絵や石庭などが設けられてい
ます。向かって左大玄関、右小玄関。高野山二世と云われる真然大徳の住房があったところだそうです。




▼本坊屋根の天水桶。
雨水を溜め、火災発生時の備え。




▼鐘楼。
立派な鐘楼です。桁行三間、梁行二間、袴腰入母屋造桧皮葺。




▼播龍庭。
国内最大級の石庭。雲海に向かって雌雄一対の龍が向かい合い奥殿を守るように表現されているそうですが、
どれが龍で奥殿はどこかサッパリ。砂利に石で雲海の龍よりも、雪に石での雲海の龍の方がリアル感がでて
ヨロシイのでは。










▼伝灯国師真然大徳廟。
真然さんの御廟。真然さんは空海さんの甥っ子。空海さんの理想を受け継ぎ高野山経営56年、かの覚鑁上人
に大師精神を伝え残したと伝わります。相当空海さんの信頼が厚かったようです。




▼東門。




▼石標。



本坊内には仏間、客間をはじめ多くの部屋が設えられていますが、柳の間と呼ばれる豊臣秀次が自害した自
刃の間といわれる部屋があります。秀吉の甥っ子と空海の甥っ子、方や叔父による切腹命令、方や大天才叔
父の跡を継ぐ第二世、同じ甥としての運命この違い。幸不幸、運不運。心したいと思います。



弘法大師空海さんが今も生きる、高野山金剛峯寺へ。

2012年01月10日 | 和歌山の古寺巡り


(2012.01.08訪問)

平成二十四年壬辰歳初めての古寺を歩くは、高野山へやってまいりました。
あの稀代の天才、弘法大師空海さんが真言密教の聖地として開いた高野山は、この日雪明けの素晴らしい青
空、雪も残り、少々寒さ厳しくはありましたが、快適な一日でした。
なんといっても境内は広い、高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体が総本山金剛峯寺、全域がお寺だ
そうです。その中心が壇上伽藍に在る金堂が一山の総本堂、重要法会はすべてこの金堂で執行するそうです。
塔頭寺院も多く現在117ヵ寺が存在しているそうです。2004年ユネスコ世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」
の一部として登録。とりあえず大門から入山ということで。先ずは壇上伽藍へ。

▼大門に掛かる山号、高野山。



[ 金剛峯寺 ]
●山号 高野山(こうやさん)
●寺号 金剛峯寺(こんごうぶじ)
●宗派 高野山真言宗
●開基 空海
●創建 弘仁7年(1016年)
●本尊 薬師如来(秘仏)

金剛峯寺縁起
空海さんが弘仁7年(1016年)嵯峨天皇から高野山の地を賜り、真言密教の聖地として山々に囲まれたこの地
を八葉蓮華と見て、山上平地にに曼荼羅世界を創出。壇上伽藍の地に真言密教のシンボルとして多宝大塔を
建立、聖地への第一歩とした。

▼大門(重文)。
高野山の総門。裄行五間、二層十二脚門、中央三間が通用。左右に金剛力士像を安置されています。



▼金剛力士阿吽像。



▼大門の傍らに、可愛い雪だるま。



壇上伽藍。
高野山開創の時、空海さんが最初に整備着手した場所といわれるそうです。密教思想に基づく伽藍建立は
胎蔵界曼荼羅の世界を表現しているといいます。

▼中門。
天保14年(1843年)壇上火災で焼失。高野山開創1200年記念大法会事業として現在再建作業中。



▼金堂。
高野山総本堂。入母屋造、桁行30m、梁間23.8m、高さ23.73m。
昭和7年(1932年)7度目の再建。
本尊 薬師如来(秘仏) 仏師 高村光雲さん。



▼六角経蔵。
鳥羽法皇の菩提弔いのため、皇后美福門院が一切経を納めた経蔵。基壇の上部の取手見えます?
この部分を押すと回転します。一回りすれば一切経を読誦した功徳があるそうですよ。



▼御社(みやしろ)(重文)。
弘仁10年(819年)空海さんが高野山の鎮守として勧請。社殿は三つ。一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三
宮は十二王子が祀られています。空海さんと地主神の伝説で良く知られているお話ですね。



▼山王院(重文)。
御社の拝殿。両側面向拝入母屋造。桁行21.3m、梁間7.8m。






▼西塔。
本尊 金剛界大日如来。
仁和2年(886年)空海さんの伽藍建立計画「御図記」に基づき高野山二世真然大徳が建立。
創建時は多宝塔ではなく五重塔であったといわれているそうです。
擬宝珠高欄付き多宝塔。天保5年(1834年)再建。






▼西塔前の灯籠
和歌山が生んだ名医、華岡青洲が寄進したものだそうです。



▼鐘楼。
堂々袴腰の二層高欄付き構造。



▼孔雀堂と准胝堂。
孔雀堂。本尊 孔雀明王(重文)。快慶作、現在霊宝館に安置。
准胝堂。本尊 准胝観音。



▼御影堂。
空海さんの持仏堂として建立。
向拝付宝形造、桁行15.1m、梁間23.8m、高さ15.1m。
嘉永元年(1848年)再建。



▼三鈷の松。
空海さんが、唐から投げた三鈷杵が、この地の松の木に引っ掛かっていた故事から命名したというそうです。



▼根本大塔。
真言密教のシンボルとして建立。多宝塔様式として日本初。非常に美しい堂内で十六本の柱には堂本印象さ
んによる十六大菩薩、四隅には密教八祖が描かれています。
堂高48.5m、昭和12年(1937年)再建。









▼根本大塔本尊。
胎蔵界大日如来。周囲を金剛界四仏を祀っています。



▼根本大塔金剛界四仏のうち阿弥陀如来。



▼大塔の鐘。
現在の銅鐘は日本で四番目に大きな鐘で高野四郎と呼ばれているそうです。



▼愛染堂。
建武元年(1334年)後醍醐天皇の勅命により建立。
本尊 愛染明王。



▼不動堂(国宝)。
本尊 不動明王、脇持に八大童子(国宝)仏師運慶作として有名。いずれも今は霊宝館に安置されています。入
母屋造桧皮葺。当初は阿弥陀堂として建立。明治期に他所からこの地に移設されたといいます。



▼大会堂。
本尊 阿弥陀如来、脇侍は観音、勢至菩薩が祀られています。



▼三昧堂。
理趣三昧法会を執り行うお堂。他所からこの地に移設されたときに関わったのがかの西行法師と伝えるそう
です。



▼東塔。
大治2年(1127年)白川法皇の勅願で建立。江戸期に焼失、昭和59年(1984年)再建。



▼手水舎。



▼蛇腹道。
伽藍入り口から東塔付近までの参道を蛇腹道と呼ぶそうです。空海さんが「東西に龍が臥せるごとく」と呼
んだ故事から名付けられたといいます。



▼六時の鐘。
伽藍入り口の石垣上にある鐘楼。豊臣家臣福島正則が建立。






一帯は雪が残っています。柔らかいところのボクのクツ跡、かなりガニですね。大門の下の石段で滑り、
ヤバいところでした。凍っているところはコワイコワイ。

六時の鐘楼から少々東に金剛峯寺本坊への参道が見えます。明日へつづくのです。