土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

巨勢万葉古道を歩く第3弾、寳國寺へ。

2011年01月31日 | 奈良の古寺巡り


(2011.01.29 訪問)
安楽寺からR309を西へ、R24との交差点室から少し手前を左折、大きな宮山古
墳の周回道路を行きます。例により狭く細い道、モ~イヤ!ハッキリ云って走り
たくない、けど走りました。

[ 寳國寺 ]ほうこくじ
●山号 葛城山(かつらぎさん)
●寺号 寳國寺(ほうこくじ)
●宗派 高野山真言宗
●開基 弘法大師空海
●本尊 弘法大師空海像

寳國寺縁起
寺伝によると、空海さんが役行者の行跡巡りでこの地を訪れ、ここに草庵を結び、
本尊阿弥陀如来を安置したことに始まるそうです。室大師・身替わり大師と呼ば
れているそうで、真言密教の秘法、胡瓜の加持が人気だそうです。ここが役行者
の行跡といいますが、行者とどんな縁があるのでしょう。そこが知りたいですね、
みなさん!確かに西を望めば葛城山が間近ですが。

▼山門。



▼鐘楼。



▼手水鉢。



▼本堂。
本尊は弘法大師空海像と云うことですが、空海さんが安置したと云う阿弥陀如来
像は今どこに。残念ながら本堂は閉じられ入堂できませんでしたので詳細は判り
ません。



▼本堂偏額。



▼鎮守社。
白玉稲荷大明神、白玉弁財天竜王、白髭稲荷大明神の三神を祀っています。鎮座
は新しいようです。はたしてこの神々の担当は?これも詳細は判りません。





境内は狭いのですが、大銀杏がドンと構えお寺の風格を出していますが、旧村の
こじんまりしたお寺の印象です。

今回の「巨勢万葉古道を歩く」は、チョット尻すぼみの感があったようで…、
イヤありましたネ。すごすごと帰ります。
巨勢万葉古道を歩く オ シ マ イ

巨勢万葉古道を歩く第2弾、安楽寺へ。

2011年01月31日 | 奈良の古寺巡り


(2011.01.29 訪問)
阿吽寺からR309を北へ、戸毛で大きく西に向きをかえたスグの所バス停稲宿の近
くに安楽寺への道があります。兎に角狭くクネクネ、お寺まではわずかの距離です
が、車の往き違いは出来ません。旧村落の道はどこも狭く、特に山手にあるお寺は
多くはこんな感じ、根性で行くのみですワ。

▼安楽寺遠景。



[ 安楽寺 ] あんらくじ
●山号 葛城山(かつらぎさん)
●寺号 安楽寺(あんらくじ)
●宗派 高野山真言宗
●開基 不明
●本尊 十一面観世音菩薩像

安楽寺縁起
この安楽寺は創建については不明とされています。この地は聖徳太子創建七寺の
一つ葛木寺があったと伝えられ、葛木寺は太子四十六寺院の一つで、おおいに栄
えたそうですが、その後この地の豪族、葛城氏に与えらましたが、1590年代に衰
退、ただ安楽寺がこの葛木寺の後裔だとする確証はありません。当初は法相宗の
お寺で現在は真言宗のお寺になっています。

▼安楽寺寺標。
本堂前に建てられています。



▼本堂。
参道、山門はありません。狭い境内、本堂へのアプローチは石段のみ。



▼本堂編額。



▼境内で五六人男の方が何やら準備をされていました。若い僧侶の方に伺います
と、明日星の火祭り(定かではありません失念です)のための準備ですとのこと
でした。護摩壇に護摩木も組まれています。本堂内にもいろいろ準備品が置かれ、
入堂はお願い出来ませんでした。外からご本尊に手を合わせました。





▼鐘楼。



▼手水舎。
明日のために飾られています。



▼塔婆。(重文)
鎮守社?御霊神社の参道を登り、裏手に迂回すると山間に鮮やかな朱色を見せた
塔婆がポツンと建っています。元は三重塔といいますが、1670年代九輪が倒れ、
上の二層が崩れ墜ち、初層のみが残ってその上に宝形屋根をのせたものだそうで
す。周辺は今も緑が色濃く残り、陽に照らされた瓦と朱色はことのほか美しく緑
の中に映えていました。





▼初層はほぼ原形をとどめ、三手先斗共をもった本格的な建築だそうです、ただ
屋根と初層のバランスは上が重く不安定な感じがします。大丈夫かな。



▼御霊神社。
本堂石段前に石鳥居が建っています。偏額には御霊神社とあります。
安楽寺との関係は不明で鎮守社とは云えないそうです。由緒はむしろ、葛木寺と
の関係を指摘する向きもあるそうです。しかし旧来の安楽寺の寺域はこの御霊神
社を含め塔婆のある高台までの広大な広さだとの説もあり、鎮守社との説もある
そうです。



▼御霊神社拝殿。
参道を少し行くと前庭があり、拝殿が建っています。



▼御霊神社本殿。
美しい本殿です。落ち着いた朱色の春日造りの社は格の高さが窺えます。
祭神は国常立命、天常立命とされているそうです。



安楽寺境内には沙羅双樹(夏椿)の木が数多くあります。今は裸木ですが、初夏
にはあの上品な白い花が境内一杯に咲き、沙羅のお寺として有名だそうで、若い
僧侶の方が強調してましたヨ。知りませんでした。

それでは寳國寺に向かいます。

巨勢万葉古道を歩く、先ずは、つらつら椿の阿吽寺へ。

2011年01月31日 | 奈良の古寺巡り


(2011.01.29 訪問)
万葉古道巨勢の道を歩きました。JR和歌山線、近鉄吉野線の吉野口駅のすぐ近く
に阿吽寺はあります。この地は古代豪族巨勢氏の本拠地といわれ、飛鳥からも近
く、吉野や紀伊への道として古来、幹線として人々の往来も盛んだったようです。
聖徳太子建立と伝わる巨勢寺の跡が近くに残っています。阿吽寺は巨勢寺の子院
として平安時代に開基したと伝わるそうです。
万葉集で詠われた巨勢山は椿の名所として名を知られ、296mの巨勢山は美しい
円錐形の神奈備山で万葉集にも名歌が納められています。残念ながら美しい山景
はあまりにも近すぎて仰ぐことすらできませんでした。

「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲ばな 巨勢の春野を」坂門人足
この歌は、701年(大宝元年)秋9月、持統天皇紀伊国行幸のとき、巨勢寺にて、
坂門人足が詠った歌と伝わります。

[ 阿吽寺 ] あうんじ
●山号 玉椿山(ぎょくちんさん)
●寺号 阿吽寺(あうんじ)
●宗派 単立寺院
●開基 阿吽法師
●本尊 木造十一面観世音菩薩立像

阿吽寺縁起
聖徳太子建立と伝わる巨勢寺(今は塔跡のみ)の子院。平安時代に阿吽法師とい
う僧が巨勢川氾濫の時に村人を救済したことから、法師を崇めて巨勢寺に子院を
構え、阿吽法師の名を寺名にしたと伝わります。1262年火災で全焼、以後荒廃
し明治5年廃寺となる。明治13年村の有志が仮堂を建て、昭和60年今の本堂が再
建されました。

▼参道。



▼山門。



▼本堂。
昭和60年再建の本堂です。今は無住で、拝観は御所市観光協会に前もって拝観依
頼が必要です。この日は思いつき巨勢の道を訪ねたので堂内拝観は出来ませんで
した。



▼本堂前の本堂再建記念碑。



▼本堂横に大きな棕櫚かな?



▼境内の椿。
小さい境内ですが、さすがに椿がたくさんあります。殆ど蕾ですが、シーズンと
もなれば人々で溢れると聞きました。



▼万葉歌碑。
本堂横に犬養孝さん揮毫の歌碑が建てられています。
「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲ばな 巨勢の春野を」
坂門人足(さかとのひとたり)



▼鎮守社春永大明神。





▼巨勢寺跡の案内板。
阿吽寺から北300mくらい、JRと近鉄線に挟まれたところに巨勢寺跡が。往時
寺勢を誇ったと云われる大寺を偲ぶことすら出来ない、単なる原っぱで、小さな
大日堂が建つのみです。



▼巨勢寺跡石柱。



▼巨勢寺塔跡。
大きな心礎です。径89cm、舎利孔径13cm、深さ5cm。石加工の見事さは、類
を見ないそうです。
この心礎跡からしか往時の巨勢寺繁栄を偲ぶことが出来ません。



▼大日堂。
小さいお堂がポツンと。



こういう故地に立つと、古の繁栄よりも今の寂しさが身にしみます。
安楽寺に向かいます。塔婆が タ ノ シ ミ。

南大門の仁王さんに会いに喜光寺へ。

2011年01月26日 | 奈良の古寺巡り


(2011.01.22 訪問)
南大門落慶後、初めて菅原の喜光寺を訪ねました。南大門は新築ですので当然と
して、境内のなんと綺麗に生まれかわったことでしょう。今までがウソのよう。
この日、喜光寺を訪ねたのは、実は南大門の仁王さんに会うためなんです。

[ 喜光寺 ] きこうじ
●山号 清涼山(せいりょうさん)
●寺号 喜光寺(きこうじ)
●宗派 法相宗 薬師寺末寺
●開基 行基菩薩
●本尊 阿弥陀如来坐像 脇侍 観音菩薩坐像 勢至菩薩坐像

喜光寺縁起
721年(養老5年)僧行基が元明太上天皇の勅願により、行基創建49院の1つと
して創建。当時は地名をとり菅原寺と称していましたが、748年聖武天皇により
喜光寺と改名。戦国時代兵火で寺地、伽藍が壊滅。1544年に本堂が再建されたの
が現在の本堂だそうです。行基さんはこのお寺で749年(天平21年)2月2日入寂。

▼南大門。
平成22年5月1日落慶。楼門様式二層入母屋造り。
基壇から高さ約12m、正面幅約12m、奥行き8.5m。総檜造り。2階は納経蔵。
建築は飛鳥時代から続く金剛組。



▼南大門金剛力士。
現代日本彫刻界の最高峰、2007年文化勲章受章の中村晋也さん造像。
阿吽両像とも像高3.2m、ブロンズ像。
彫刻家が造る仏像とはこれだ!の造形。像の性格から当然の大迫力、肉体造形学
からの筋肉の動き、今にも筋肉各部がピクピクしそうな感覚、ギョロっと見据え
た両眼から発する畏光に仏敵もいたたまれなくなり逃散請け合い。というような
感覚でボクは両像を交互にしばらくの間見とれていました。





▲金剛力士阿形像。





▲金剛力士吽形像。

薬師寺講堂の後堂に釈迦10大弟子像が祀られていますがこの作品も中村晋也さん
造像です。ご存じの方もいらっしゃるでしょう。現在の仏師といわれる方たちの
像風とはかなりの差はあります。造像には儀軌に則った作法があり、各仏師のご
苦労は並大抵ではないでしょうが、釈迦哲学を消化した往時の精神の聖域を保ち
つつ現代に蘇らせれば、仏像表現の新しい例が生まれるのではないでしょうか。
彫刻家の仏造像を期待しています。
それにしても喜光寺のご住職はエライ、山田住職は薬師寺管主の山田法胤さんな
のでトップ意向を実現できるのでしょうね。それにしても噂に違わず素晴らしい
仁王さんです。

▼本堂編額。旧寺名、菅原寺とあります。



▼本堂(阿弥陀堂)。本尊阿弥陀三尊。
1544年(天文13年)室町時代に再建、外観は二層に見えますが、薬師寺の
三重塔と同じ裳階付き、中は吹き抜けの単層建です。



▼本尊阿弥陀三尊。
阿弥陀三尊の形をとっていますが、像造年に差があり、本尊は平安期、脇侍は南
北朝期と云われ、どうも阿弥陀さんは、よそのお寺からお越しになったみたい。



▼本尊 阿弥陀如来坐像(重文)。像高2.33m、木造、漆箔、平安期。
漆箔は僅かに残るのみですが、からだ全体はやや細身、眼は彫り込みが浅く黒目
は墨彩、上瞼は切れ長で半眼風、お口は小さく引き締まり、穏やかな思考中とい
った感じを受けます。



▼左脇侍(向かって右) 観音菩薩坐像。像高1.64m、木造、漆箔、南北朝期。



▼右脇侍(向かって左) 勢至菩薩坐像。像高1.61m、木造、漆箔、南北朝期。



▼行基菩薩坐像。像高83cm。



▼境内の一角に会津八一の歌碑。
ひとりきて かなしむてらの しろかべに 汽車のひびきの ゆきかえりつつ



▼境内で本堂を描いている方がいました。この寒い中で。
フランスの方で、ボールペンで描いています。少しばかりお話をしましたが、そ
うとう日本のお寺が好きみたい。ボールペンでここまで描くかと云うほど、細密
な表現には驚きました。





阪奈道路のすぐ脇に、新造南大門があります。これほどアプローチ条件の良いお
寺は先ずないでしょう。朱色ピッカピカの重厚で立派な門です。前回訪ねた時は、
境内全域工事現場でしたが、この日は、朱色の向こうに古色蒼然の本堂が妙なコ
ンビネーションで印象的な眺めでした。