土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

天龍寺、後醍醐天皇を弔うつもりが……。

2016年03月28日 | 京都の古寺巡り




(2016.03.26訪問)


「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」と悲壮な歌を残した後醍醐天皇の菩提を弔うために、反逆者足利尊
氏が建てたと云われている天龍寺を訪ねました。嵐山のど真ん中、内外外外の人々で溢れ返っています。菩提を弔うなんて敬虔な雰囲
気は100%ありません。世界遺産の価値は敬虔から喧噪への変換なのか、写真どころではありませんワ。




▼嵐山銀座に面して建つ山門。






            [ 天龍寺 ]
            ●山号 霊亀山(れいきざん)
            ●寺号 天龍寺(てんりゅうじ) 正式名称 天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)
            ●宗派 臨済宗天竜寺派大本山(りんざいしゅうてんりゅうじは)
            ●開基 足利尊氏(あしかがたかうじ)
            ●開山 夢窓国師(むそうこくし)
            ●開創 暦応二年(1339年)
            ●本尊 釈迦如来坐像(重文)
            ▲拝観 庭園500円 方丈100円 朱印 300円  
            ▲時間 8:30~17:30 
            ▲京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68 電話075-881-1235
            ▲http://www.tenryuji.com/
            ▲京福電鉄嵐山線「嵐山駅」下車 目の前
             JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車徒歩13分
             阪急電車「嵐山駅」下車徒歩15分
             市バス11、28、93番で「嵐山天龍寺前」下車 目の前
             京都バス61、72、83番で「京福嵐山駅前」下車 目の前




            ▼寺号石柱。
             どうでもいいことですが、刻されている文字、尻すぼみに見えません?
             どこか室町幕府の悲しい結末を思わないでもありません。






天龍寺縁起 (天龍寺HPから抄出)
この地は檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開創した禅寺檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、後嵯峨上皇が仙洞御所を
造営し、さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ。その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的
は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応二年(1339年)に創建。造営費用不足で弟直義は元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することで、
その利益を造営費用に充てることを計画。これが「天龍寺船」の始まり。造営費の捻出に成功した天龍寺は康永四年(1344年)落慶。南
禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、この位置づけは以後長く続いた。




▼山門からの参道。







▼庫裏。ココから入山、取りあえず方丈と書院、後醍醐天皇を祀る多寳殿の拝観です。







▼玄関にお馴染みダルマさん、天龍寺の顔。平田精耕老師筆。







▼庫裏の象徴ですネ。







▼出入りは出来ませんが、方丈玄関です。







▼方丈東正面。







▼方丈扁額。天龍寺第八代管長、関牧翁老師筆。

 





▼方丈中央の「室中」奥の須弥壇に本尊釈迦如来坐像(重文)が祀られています。







▼方丈前庭の中門。







▼石のない枯山水庭園。







▼奇想の画家、曾我蕭白筆雲龍図。もちろんレプリカ、それにしても精巧なインクジェット印刷です。さすがキャノンですネ。
 江戸期に描かれた紙本墨画。オリジは襖から剥がされた状態でアメリカボストン美術館にあるそうです。本当は十二面だそうです
 が中四面胴体部は行方不明らしいです。







▼曾我蕭白三十八歳の作だそうです。







▼方丈西は曹源池に面し、こちらは裏側です。







▼この数途切れることはありません。







名勝曹源池庭園の表情です。
中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園。

▼中央正面には二枚の巨岩を立て龍門の滝とし、中国の登龍門の故事になぞらえたもので、龍と化す途中の姿を現す珍しい
 姿をしている。







▼曹源池庭園。      







 





▼写真撮る人、ジーッと見てる人、素通りする人、人それぞれです。







▼曹源池庭園。













▼いきなりですが、後醍醐天皇をお祀りする聖廟多寳殿。
 この場所は亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした地で、後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式と伝
 えられる。







▼前の枝垂が開き出してます。







▼祠堂の折り戸が開かれ後醍醐天皇の姿が……。







▼後醍醐天皇です。



後醍醐天皇の菩提を弔うため、開かれたのがこの天龍寺、尊氏の懺悔の心がそうさせたんでしょうが、後醍醐さんの匂いは僅かココだ
け、七百年を超える経時は、徐々にその創建意図が薄れて行くのでしょうか。




            ▼境内北に百花苑。



            自然傾斜に沿って苑路が連なり季節の花々が植栽されています。
            早春から春本番の樹々花々が咲き出しています。


カット稼ぎじゃないですが、春の顔をどうぞ。

▼啓翁桜は満開です。







▼小粒の沈丁花が、いい薫りを漂わせて。







▼三須臾。







▼小ぶりな石楠花。







▼雪柳。揺れて小さすぎてピンがきません。







▼独特の赤、ボケの花。







▼マンサク。







▼隼人三葉躑躅。ミツバツツジです。







▼幣辛夷。シロコブシです。







▼姫幣辛夷。薄いピンクの可愛~いコブシです。



天龍寺の自然は、いよいよ春到来、これで樹々の緑が芽吹いてくれば、池あり、丘あり、花苑ありとさぞや人々もよりワンサカ集まる
のでしょう。




▼御朱印です。







我が国で人気のない武将の一番手、足利尊氏。後醍醐天皇への裏切り者、反逆者と汚名が付いて回わり、心のうちの葛藤に苛まされた
結果として、旧主君の菩提を弔うためにこの寺を建てた。足利幕府十五代の初ですね。江戸のタヌキもしかり、悪評を物ともせずに、
大組織を作りあげて行くその手腕は、案外優秀な人間だったのかも。色々考えさせられる人物のようです。
そんな人物が作った天龍寺、今じゃ世界文化遺産、一番驚いているのは後醍醐天皇かも知れませんネ。





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如意輪寺、正行いざ往かん、四条畷の一戦への舊跡。

2016年03月25日 | 奈良の古寺巡り





(2016.03.20訪問)


願行寺から迷車大和路号は吉野路を怪走。桜シーズンになればピンクで埋もれる中千本の真っ只中にある如意輪寺を目指しています。
吉野のお山はまだ桜っ気はありません。よって迷車大和路号はスイスイです。
後醍醐天皇や護良親王、楠木正成と正行、彼らの生き様、敗者の美学を一様に見ていた吉野山中の如意輪寺、敗者復活ならずの一部始
終は儚い桜花の如し、僅か数代で消えた南朝のゆめまぼろしを、楠木正行二十三歳覚悟の辞世を偲びに……。




▼参道石段。






[ 如意輪寺 ]
●山号 塔尾山(とうのうざん)
●院号 椿花院(ちんかいん)
●寺号 如意輪寺(にょいりんじ)
●宗派 浄土宗(じょうどしゅう)
●開基 日蔵道賢上人(にちぞうしょうにん)
●開創 延喜年間(901~923年)
●中興 慶安三年(1650年) 文誉鉄牛上人(ぶんよしょうにん)
●本尊 如意輪観音菩薩坐像(にょいりんかんのんぼさつざぞう)
▲拝観 400円 朱印 300円  
▲時間 四月観桜期 7:00~17:00 その他の時期 9:00~16:00
▲奈良県吉野郡吉野町吉野山1024 電話0746-32-3008
▲http://www.nyoirinji.com/
▲近鉄電車「阿倍野橋駅」から近鉄吉野線特急終点「吉野駅」下車 吉野ケーブルで「吉野山」下車 徒歩約35分
 クルマの方、ナビでどうぞ
 




▼山門。






如意輪寺縁起 (如意輪寺HPから抄出)
延喜年間(901~923年) 文章博士三好善行の弟で醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人の草創にかかり、後醍醐天皇吉野に行宮を定
め給うや勅願所となった。正平二年 (1346年) 楠木正行公一族郎党百四十三人と共に参詣の事があった。正中以来寺運衰退したが、慶
安三年 (1650年) 文誉鉄牛上人きたり、本堂を再興浄土宗とし、念仏を弘通、ひたすら御陵の守護に任じた。当山は中千本の桜樹のあ
いだ、緑連なる山腹にある当山を、陽春四月桜花咲き乱れ香雲あいたいたる中に、あるいは、秋の紅葉錦を布くとき、あるいはまた、
枯れ木をおおう白雪の中に望見すると、大小の伽藍甍を配して連なり、けだし、天下の絶景これに勝ぐるものはない。現在、如意輪堂
(本堂)、多宝塔、御霊殿、幽香楼、報国堂、宝蔵、鐘楼、庫裡等の建造物がある。




▼山門から本堂。木札には吉野朝勅願所 如意輪寺と楠木正行公遺跡と書かれています。







▼本堂(如意輪堂)。桁裄五間、梁間五間、寄棟造、銅板葺、一間向拝付。慶安三年(1650年)再建。
 本尊 如意輪観音菩薩坐像(秘仏)。







            ▼本堂前に寺号石碑。建てる場所ココじゃないでしょう?







▼本堂正面。中を窺うことは出来ません。







▼向拝貫の彫刻ですが、天女と瑞鳥の舞でしょうか、細かな彫刻です。







▼本堂を斜めから。







▼本堂横の如意輪寺ガイド板。

 





▼不動堂。







▼不動明王立像を中に右に矜羯羅童子 (こんがらどうじ ) 左に制多迦童子 (せいたかどうじ) 不動三尊形式の石像が本尊。







▼鐘楼。







▼鐘楼横に役行者堂。簡素なお堂です。







            ▼前鬼後鬼を連れない役行者お一人の像です。







▼立派な庫裡なんですが、何か建て付け普請をしているのか、中のものをおっ放り出して、折角の唐破風玄関に近づけません。







▼折角ですので大屋根と唐破風を撮っときます。







▼受付を済ませて中庭を通り多宝塔に向かう途中に宝物殿。



 有名な楠木正行の四条畷出陣の折に詠んだ歌を刻んだ旧本堂の扉を見ることができます

 かえらじと かねておもへば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる




▼吉野の桜はまだまだですが、一本の河津サクラが満開で冬枯れに色を添えていました。







▼多宝塔が高台に建つのが見えます。







            ▼多宝塔。総欅造り、本尊阿弥陀如来坐像、納骨堂です。











▼上層胴と外縁の円、放射状組み物のコンビネーションの美。






            ▼多宝塔。






            ▼多宝塔の相輪。






▼境内山側に立つ後醍醐天皇を祀る御霊殿。後醍醐天皇自作の木造を安置。
 桁裄三間、梁間五間、入母屋造、一間向拝唐破風付。妻側が正面になっています。小さいながらも堂々の貫禄、立派なお堂です。
 正面折り戸は閉め切り。







▼唐破風下の彫刻。相当細かい細工で上下二段で構成されています。何か由緒ありそうな彫刻ですネ。







▼堂内内陣の様子。中央お厨子に後醍醐天皇木造を安置。(この写真は数年前のご開帳時に撮ったものです)







▼御霊殿。







続いてこの地で崩御した後醍醐天皇塔尾陵(とうのおのみささぎ)にお参りしましょう。

後醍醐天皇
建武の中興後、尊氏の反逆で束の間の夢と破れた後醍醐天皇は、延元元年(1336年)吉野山に身を寄せ、吉野南朝を立朝、延元四年 (13
39年) 八月皇位を後村上天皇に譲位、五十二歳で崩御。後醍醐天皇が病の床に伏されたとき次のような歌を詠まれています。

身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん

と詠み、都を憧れつつ崩御。 遺骸は勅願所とされていた如意輪寺の裏山、塔の尾へ埋葬され、後醍醐天皇の意思、京都に対する願いを
表すために、天皇家の墓陵としては唯一北向きとなっており、北面の御陵として有名です。




▼後醍醐天皇御陵札。







▼参道石段。













▼後醍醐天皇塔尾陵。







▼後醍醐陵への途中に後醍醐天皇孫の長慶天皇、その皇子の世泰親王(後醍醐天皇の曾孫)の墓所。







▼如意輪寺の裏門。この前が駐車場。







▼御朱印です。







特 別 フ ロ ク
▼中千本のサクラに埋もれる如意輪寺。多宝塔が見えますネ、分ります? (写真はネットからもらってきました)






儚く消えた夢の跡を、境内を歩いていて感じることはありません。北面する後醍醐陵の前に立ち、都奪還を望んだ天皇の胸中いかばか
りだったのかが僅かに胸を揺するくらい、公武の戦の勝者敗者は史書が語るのみ、如意輪寺は六百数十年の時の流れの断片を僅かに残
して、吉野山中にその姿を留めている。そんな感じのお寺でした。




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OBPモクレンアベニュー、白のキレイなこと!

2016年03月23日 | 花巡り




(2016.03.22訪問)


OBP寝屋川沿いのモクレンアベニュー、雲一つない青空にハクモクレンが映えわたっています。



















































            ジャンボがいい案配に飛んできました。















モクレンのシベって初めて見ました。













逆光ホワイトを少々。

























            クリスタルタワーをバックに。















            清々しく オ シ マ イ






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願行寺、下市御坊、真宗の名刹です。

2016年03月22日 | 奈良の古寺巡り




(2016.03.20訪問)

迷車大和路号は久々に大和路山麓線を走っています。大和路から吉野路へ、吉野桜のお花見ではないんですよ。
下市に名勝庭園を持つ名刹があるよと云うことを耳にし、先週は京の庭園巡り、よし今日は大和の名刹庭園を訪ねてみよう、と云うこ
とで迷車大和路号は吉野下市の願行寺を目指しています。




▼山門。紫白幕がかけられています。エッ、今日は何の日?






[ 願行寺 ]
●山号 至心山(ししんざん)
●寺号 願行寺(がんぎょうじ)
●宗派 浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがじは)
●開基 蓮如上人(れんにょしょうにん)
●開創 応仁二年(1468年)
●本尊 阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)
▲拝観 境内自由 朱印 300円 書院庭は前日までに予約が必要です。 
▲時間 9:00~17:00
▲奈良県吉野郡下市町2952 電話0747-52-2344
▲近鉄吉野線「下市口駅」下車 徒歩20分
「下市口駅」から洞川温泉・岩森方面行きバスで「札の辻」下車 徒歩5分
 南阪奈道路葛城ICから国道24号、309号経由、約17km、約35分




            ▼寺号石碑。







願行寺縁起
浄土真宗本願寺派の下市御坊で、もとは秋野坊舎といいましたが、応仁二年(1468年)に本願寺第八世蓮如上人が吉野の要地伝道の本拠
として開基されたと伝えられています。往時は、本願寺門跡正院家ならびに中本山として、大和、近江、摂津に七十以上の末寺を持ち、
上市の本善寺「飯貝御坊」とともに、吉野八十八ヵ寺をまとめ「下市御坊」と称しました。天正六年(1578年)筒井順慶によって堂宇伽
藍が破壊され、現在の建物は桃山期に復興再建されたものです。





▼山門から本堂。格子ガラス戸がチョット違和感感じないでもありませんね。







▼本堂。桁裄七間、梁間五間、入母屋造、桟瓦葺、三間向拝付。さすが下市御坊、堂々の堂景です。
 天正七年~十一年(1579~1583年)ごろ再建。本格的な浄土真宗寺院の形式をもつ数少ない遺構だそうです。







▼本堂正面。







▼本堂内陣の設え。外陣は畳敷きで、内陣との境は折り戸と襖で仕切られ、欄間は二重欄間の透かし彫り。ご覧のように荘厳は本願寺
 式、キンピカもここまで来ると立派としか言いようがありません。中央須弥壇に本尊阿弥陀さんが祀られています。







            ▼写真のお許しを戴いたんですが、どう撮っても
             ご本尊阿弥陀さんのお顔が見えません。
             内陣扁額は山号が書かれ、若草色地に金泥盛りの凄い扁額です。







▼堂々の本堂を反対側から。







▼このお寺の堂宇はすべて渡り廊下で繋がっています。続いて蓮如堂へ案内していただきました。

 





▼蓮如堂。浄土真宗八世、開祖蓮如上人をお祀りしています。
 妻側が正面の桁裄三間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付。







▼御簾で仕切られた大きい本願寺型仏壇の奥に蓮如さんの木像がお祀りされています。非常に厳かな仏壇空間です。                

            





            ▼蓮如堂の前に蓮如さんの布教伝道の姿と、







            ▼歌碑です。情けないことにこれまた読めません。







▼続いて書院へ。







▼書院上段の間。大本山から猊下行幸の折の御座所。ここ数十年は無いそうです。







▼こんな駒札が弐拾枚ほど長押に掲げられています。江戸期の五条奉行の願行寺境内での法度書きだそうで、この一枚は文久二年
 六月の日付が残っている一番新しいものです。







このお寺には名勝に指定されている庭園があります。本堂と書院との間に作庭されている平庭で、石組みを主に、前方に玉石を敷きつ
め、水面に見立てた枯山水庭で、数少ない室町時代末期の築造庭園機構の一つと云われているそう。
お庭の表情をどうぞ。


▼書院前庭。

























▼中央の立石、阿弥陀如来を表しているそうです















作庭者は不詳ですが、その意図は相当深いものがありそう。阿弥陀浄土を中心に渡海信仰の一端を表現し、丸石を敷きつめた水面は、
ヒョットしたら苦海を表しているのではないだろうか。配置されている石群に方向性を感じませんか。苦から浄土への脱出、阿弥陀さ
んのおいでおいでを目指して。そんな気がします。





▼庭園の説明札。







▼右に堂宇群が並び左は道路に沿って白漆喰土塀が連なり細長い境内を形作っています。







            ▼危うい安定感が味を出している異型の石灯籠。







▼経蔵か宝物殿か聞き忘れました。







▼鐘楼と梵鐘。永禄十年(1567年)当時の領主が寄進した梵鐘で、大和国で永禄在銘の古鐘では唯一のものだそうです。







▼書院玄関。







▼正門から30mくらい北にある書院山門。閉門中です。







▼御朱印です。蓮如さんの足下に置かしてもらって撮ってます。







三月二十日がどんな日であるのか、キレイサッパリ忘れていました。ええ歳のオッサンが、「お彼岸の中日」にお寺とお庭を拝観させ
てくれと脳天気な電話を受けた奥様もキット変なオヤジだと思われたんじゃないだろうか。お寺は墓参の人々で大賑わい、お忙しい中、
変なオヤジの相手をしてくださった奥様にただただ感謝、大変申し訳ありませんでした、そしてありがとうございました。   合掌

吉野から帰って女房にそのことを言うと、「あらそうだったわね」だって。
振替休日の今日、慌てて中山サンに二人でお墓参りに行ってきたお粗末。ご先祖様お許しのほどを。





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詩仙堂、石川丈山の感性が今も……。

2016年03月18日 | 京都の古寺巡り




(2016.03.12訪問)

圓光寺を辞してお庭巡り第2弾、詩仙堂へやってまいりました。
一乗寺駅から東へ真っすぐの道に出て左へ、思わず通り過ぎるほど小さな山門が右にあります。およそお寺の門とは思えない質素な、
それでいて風雅を感じる造り、隠棲者石川丈山の山荘跡、詩仙堂への入り口なんです。



▼小有洞(しょうゆうどう)、山門の呼称です。どう見ても寺門とは思えません。






[ 詩仙堂 ]
●山号 六六山(ろくろくざん)
●寺号 詩仙堂(しせんどう) 正式名称 詩仙堂丈山寺(しせんどうじょうざんじ)
●宗派 曹洞宗大本山永平寺末(そうとうしゅう)
●開基 石川丈山(いしかわじょうざん)
●開創 寛永十八年(1641年)
●本尊 馬郎婦観音立像(めろうふかんのん)
▲拝観 500円 朱印 300円 
▲時間 9:00~17:00
▲http://www.kyoto-shisendo.com 
▲京都市左京区一乗寺門口町27番地 電話075-781-2954
▲市バス5系統「一乗寺下り松」下車 徒歩10分
 叡山電鉄「出町柳駅」から「一乗寺駅」下車 徒歩15分




            ▼寺号石柱。






詩仙堂丈山寺縁起
家康に仕えた石川丈山が寛永十八年(1641年) に自身隠棲のための山荘跡で、狩野探幽筆の中国詩家三十六人の肖像を掲げる詩仙の間
を中心にさつきの刈り込みや白砂、小川の流れを取り込んだ丈山自身が設計した庭は、四季折々に楽しむことができ、添水(そうず)と
呼ばれる仕掛けにより時折り響く音は静寂な庭のアクセントになり、鹿おどしの初と云われています。現在詩仙堂と呼ばれているのは
正しくは凹凸窠(おうとつか)で、詩仙堂はその一室のことです。





▼門が質素なら扁額も、丈山さん筆の小有洞と云う名の山門扁額。







▼竹垣の参道先には……、







▼老梅関(ろうばいかん)、中門と云った所でしょうか。







▼詩仙堂の名の由来、詩仙の間。長押に架かるは、漢晋唐宋の三十六詩家、絵を狩野探幽が描き、賛の形をとり丈山がその詩を書
 いています。







            ▼この方が丈山さん。狩野探幽が描いています。



            (写真はウイキからもらってきました)





▼至楽巣(しらくそう) 書院のこと。床の三幅は丈山さん筆です。







▼書院前庭。人気のお部屋やお庭には人がいません。これこそ冬枯れの興! 本当は負け惜しみ!













 





▼どなたもが撮るさつきの刈り込み。色が無けりゃただのさつきダンゴか。







▼書院前庭。







                  





            ▼さつきに埋もれた石灯籠。







▼お庭から書院を見ます。







▼嘯月楼(しょうげつろう)。お月見でもするんでしょうか、楼上の一室。







▼僧都(そうず)。添水(そうず)とも云い丈山さん考案の鹿おどしのこと。







▼昭和に建てられた茶室残月軒(ざんげつけん)。







▼流葉ハクとよぶ浅い池と百花塢(ひゃっかのう)と云う池を囲む堤には水草や小花が植わってます。







            ▼こんな石塔も。







▼庭園。







▼この小道を回って小有洞へ向います。







▼御朱印です。







丈山さんは相当な漢学者、漢詩の大家だそうで、造語の名人。難しい言葉がお好きなようで、境内全体に漢風名が付けられています。
説明がない限り僕などにはサッパリ、凹凸窠って普通分かります?

山荘の持つ風情と閑寂とした室内の造作、書院奥の間に仏殿が無ければ、先ずお寺の印象はありません。書院座敷からお庭を見、そし
て変化に富み高低差を上手く取り入れたお庭を散策し、丈山さんの作庭センスを楽しむ。今の時期は見る影もありませんが、四季を通
じて変化するとりどりの表情は、言葉に代え難い趣が溢れそう。そんなお庭ファンの方には圓光寺同様、こんなスバラシイお庭はなか
なか無いでしょう。春のさつき、夏のみどり、秋の紅葉、溢れかえる人々を苦にしない方はぜひ訪ねてみては。
そんなのイヤと云う方、今がチャンスですヨ。

詩仙堂 オ シ マ イ





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