土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

目一杯の期待にワクワク、ホヤホヤの東大寺ミュージアムを訪ねました。

2011年10月20日 | 奈良の古寺巡り


(2011.10.19訪問)

▼東大寺総合文化センター、10月10日南大門の西側にオープン。
図書館、ミュージアム、収蔵庫、寺史研究所、華厳学研究所、金鐘会館からなる
複合施設です。



 

▼南大門から中門への参道から見ると。 



▼エントランスホール。正面奥を左に、展示ブースになります。



開館記念特別展「奈良時代の東大寺」第1期から第6期の展示期間中、展示替えを
行うそうです。
奈良時代の東大寺ということで時代限定展示だそうですが、そうとも云えない事
物も並んでいます。
さすがに展示品は充実。ただ仏像ということになると?
▼併売の図録。充実度満点!写真もグー!執筆陣もさすが!今日一番の収穫と云
えば失礼かな。



▼不空羂索観音さんの展示姿。

展示ブース最大のスペース、全面ガラスの中で、中心に不空羂索観音、右に日光
菩薩、左に月光菩薩と並んでいます。写真は充実の図録からですが、不空羂索観
音の展示姿です。
宝冠、化仏、光背、持物などは外されています。まるで違う仏像のよう。あの薄
暗い法華堂須弥壇の堂々の本尊の姿はありません。ただ照明がしっかりしている
ので宝髪、お顔、天衣、裙や八臂の状態など基本的な像姿儀軌など隅々までよく
判ります。
ただ、不空羂索さんは法華堂に早く帰りたいのではないでしょうか。
「何これチョットお気の毒」が実感。法華堂修復早く済めばいいのに。

▼ホール2カ所にウオールシアター。 



▼も一度全景。





▼付録です。天気晴朗 人多し。



ミュージアム正面にいきなり誕生釈迦仏立像と潅仏盤、なんと可愛いお釈迦さん、
小さいお像ですが、インパクト大、正面奥に西大門勅額、大きいです。間近で見
れる天平の東大寺遺物の数々、見応えは十分、展示替えが楽しみです。
「ただ仏像ということになると?」は興福寺の国宝館と比べられるでしょうネ。

ヤットやってまいりました山寺、立石寺。

2011年10月12日 | 山形の古寺巡り


(2011.10.03訪問)

芭蕉さんが曾良さんを伴って奥の細道の旅立ちは、
元禄2年(1689年)3月27日、46歳の時。
山寺を訪れたのは5月27日(新暦7月13日)、夕暮れに近いとはいえ、まだまだ真
夏の陽は容赦なくの感、雨の記述がないので、相当暑かったのでは。

▼五大堂舞台からの景観。
佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。芭蕉さんのこの感慨、今も変わらず。



松尾芭蕉さんの奥の細道、立石寺の項。
山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見
すべきよし、人々のすすむるに依りて、尾花沢よりとって返し、その間七里ばか
り也。日いまだ暮れず。梺の坊に宿かり置きて、山上の坊にのぼる。岩に巌を重
ねて山とし、松栢年旧り土石老いて苔滑かに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音きこ
えず。岸をめぐり岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。

閑さや 岩にしみいる 蝉の声

[ 立石寺 ]
●山号 宝珠山(ほうじゅさん)
●院号 阿所川院(あそかわいん)
●寺号 立石寺(りっしゃくじ)
●宗派 天台宗
●勅願 清和天皇
●開基 慈覚大師円仁
●創建 貞観2年(860年)
●本尊 薬師如来坐像

立石寺縁起
貞観2年(860年)清和天皇の勅願により、慈覚大師円仁が草創、鎌倉以降盛衰を繰
り返し、大永元年(1521年)兵火で山内壊滅。天文12年(1543年)三十八世円海が、
その後享保年間(1716~1735年)五十三世寛雄が再興。

旅館や土産物店が並ぶ門前の一角に登山口があります。いきなりの石段で一瞬ビ
ビりましたが短い石段でホッ!上がるにつれ本堂の甍が見えだし、参拝者の頭の
数が増えて行きます。
山岳仏教の例に漏れず山麓から山頂にかけての伽藍配置の第一歩がこの本堂です。



▼根本中堂(重文)。立石寺の本堂。
叡山延暦寺から分火した不滅の法灯が輝いています。特筆は信長の叡山焼討で再
興延暦寺にこのお寺から不滅の法灯を逆分火したと伝えます。
桁行5間、梁行5間。約20m四方。入母屋造、堂板葺。正面1間向拝付。
本尊 薬師如来坐像(重文)。像高130cm。平安時代。



▼布袋さん。
本堂正面縁に木造の布袋さんが童子に囲まれて。賓頭盧さんと同じ効能があるら
しいです。皆さん撫で回していました。当然ボクはアタマです。



▼俳聖芭蕉像。
本堂斜め前に、芭蕉さんと同行の曾良さんがまるで句問答をしているような像が
立ち、真ん中に閑さやの句碑が立っています。肝心な写真撮るの忘れました。
あまりに気がはやっていました。



▼常行念仏堂。
本尊 阿弥陀如来。有縁無縁供養の念仏道場、写経も出来るそうです。



▼お堂の側壁に大きな草鞋が吊るされています。天台のお寺でよく見ます。



▼鐘楼。
除夜の鐘、ゆく年来る年で時々映りますネ。あれです。
石積基壇に袴腰、鐘楼層は吹き抜けで高欄付き。立派な鐘楼です。



▼山門前の立石寺石標。
山寺 寳珠山 立石寺とあります。



▼山門。
扁額には、開北霊窟の墨跡。



▼さていよいよ登山開始です。この石段が山頂まで、大変ですワ。



▼姥堂。
山門からの初めてのお堂。地蔵尊を安置。
屋根の苔と陽の射す緑を撮りました。お堂の姿がないのはご愛嬌。と思ってくだ
さい。



▼せみ塚。
俳人坂部壺中(1708~1769年)が芭蕉作短冊を基石の下に埋め、この塚を建てた
もの。せみ塚の奥は芭蕉顕彰碑。



▼露出する岩肌。



▼弥陀洞。
参道右平坦地に岩に刻まれた岩塔婆。岩の窪みや出っ張りをじっと目を閉じて見
つめると阿弥陀如来の姿が見えてくるとか。
目を閉じて見つめる? 先を急ぎますので。



▼参道。
大人をどんどん追い抜いてゆく保育園のガキたち、じゃなかった元気なお子たち。
女先生4人全員ベッピン。ほんの冗談です。



▼百丈岩。
全山凝灰岩からなり露出した岩があちこちに。かなり壮観です。この岩のテッペ
ンに納経堂が建てられています。



▼仁王門。
江戸嘉永年間(1848~1853年)の再建。
正面3間、奥行2間半。両格子内に金剛力士が控えています。



▼仁王門左右を守る金剛力士。
向かって右に、阿形、左に吽形金剛力士。通常阿吽色違いですが、ここは両像と
も朱です。
両像とも像高2.1m。仏師運慶後裔13代目、平井源一郎。慶派系図には出てこな
い仏師です。





▼開山堂。
円仁さんの坐像を安置。小さいお堂ですが重厚な造りで二重破風、前は向背で唐
破風、軒下の彫り物、これまた何とも云えず。



▼開山堂扁額。
恥ずかしながらまったく読めません。



▼開山堂を下から。



▼五大堂への階段。
頑張って上っているオバサンに拍手!
開山堂の横から岩の間を上ります。五大明王を祀っていますが、堂景をどこから
撮っていいか判りませんでした。



▼五大堂からの景観。
大パノラマは1150余年後の今も変わらずここにあります。
ボス レインボーマウンティン、奥の細道編最終シーンはここで。
芭蕉激怒か!ジョーンズ氏に十七文字はムリだよ。







▼立石寺の一方のシンボル、納経堂。
1間四方、宝形造り、銅板葺き。慶長4年(1599年)の建立。
百丈岩の頂上に立っています。書写された経を納めたお堂です。
頂上岩の向こう側に円仁さんの入定窟、遺骸が安置されているそうです。



▼本坊抜苦門。
下山口に向かう途中にある門。文字通り参詣者方々の苦しみや悩みが抜ける門。



名句、閑さやの世界はこの地を訪ねてみて初めてわかる気がします。山形市内に
在るとは云え、芭蕉さんが見たこの巨岩と無限の神秘性を宿した山塊の山寺、山
々にこだまする蝉の声にひとしおの感性、その発露は、世に俳聖と云われる巨人
の幻が今も石段のどこかで筆を執っている。そんな気がします。

かたやこのワタクシめ、結局、奥の院まで行けませんでした。バテバテヘトヘト。
せっかく大阪からここまで来たのにネェ。
またまたお恥ずかしの中途半端参拝でしたがナットクの立石寺でした。
メデタシメデタシ。

金色堂は今も輝いています。奥州藤原四代の栄華、中尊寺を訪ねました。

2011年10月07日 | 岩手の古寺巡り


(2011.10.02訪問)

松尾さんの奥州紀行、奥の細道の一部の追っかけに行ってまいりました。
みちのく古寺巡礼、四寺廻廊巡りということで、中尊寺、瑞巌寺、立石寺を訪ね
ました。毛越寺はパスです。
いずれの古刹も、慈覚大師円仁さんの開基と伝えられ、松尾さんも奥の細道紀行
で名句を残しているお寺、特になにを血迷ったか山寺立石寺を無性に訪ねたくな
り、行ってまいりました。
大震災後の当地を物見遊山で廻ってよいものか当初迷いましたが、内心の合掌と
応援の気持ちで決行しました。

五月雨の 降りのこしてや 光堂
松尾さんは、江戸を発って44日後の5月13日、平泉を訪れています。

[ 中尊寺 ]
●山号 関山(かんざん)
●寺号 中尊寺(ちゅうそんじ)
●宗派 天台宗東北大本山
●開山 慈覚大師円仁
●草創 嘉祥3年(850年)
●中興 藤原清衡
●創建 長治2年(1105年)
●本尊 阿弥陀如来坐像
中尊寺は平成23年(2011年) 6月、平泉の文化遺産として世界文化遺産に登録。

中尊寺縁起(中尊寺HPから)
中尊寺は嘉祥3年(850年)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれまし
た。その後12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営
が行われました。 
清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三
年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め「みちのく」
といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建
設するというものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なく
された清衡公の非戦の決意でもありました。清衡公は長治2年(1105年)より中尊
寺の造立に着手します。まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境
内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来
を安置した釈迦堂を建立します。この伽藍建立は「法華経」の中に説かれる有名
な一場面を具体的に表現したものでした。

▼参道
門前のバスターミナルから参道月見坂を上ります。いきなり結構きつい坂道です
よ。坂道と石段はイヤ!といいつつ黄金に目が眩んでいます。



▼黒門を越えると後はユルやかなだらだら坂。参道両脇の杉の大木が迫ります。



▼急坂を上りきると弁慶堂があります。
やはり義経さんと弁慶さんに関係があるお堂なんでしょうネ。



▼二股杉が仲良く並んでいます。二組というのは初めて見ました。



▼本坊山門。



▼本堂。
本尊 阿弥陀如来坐像。
中尊寺の根本道場。明治42年(1909年)再建。



▼本堂内陣。
本尊を前に若い僧侶が読経中。若いといえどもさすがに僧侶、お経がウマイ!



▼本堂前の大きな蹲。



▼鐘楼。



▼鐘楼越しに杉の叢林。大半の大杉は樹齢350年、伊達藩の植樹によるものらし
いです。



▼薬師堂。



▼大日堂。



▼大日堂内陣。
黄金に輝く本尊大日如来坐像。脇侍の阿弥陀さんともう一体、お名前わかりません。



▼鐘楼。



▼阿弥陀堂。



▼弁財天堂。



▼讃衡倉の仏像。
讃衡蔵(さんこうぞう)という宝物館が金色堂の隣にあるんですが、この中に安置
されている阿弥陀如来を中尊に脇侍に薬師如来を添えた三尊は、丈六坐像で3m
近くあり、結跏趺坐で定印を結ぶ像形は、十分に漆箔が残り安定感抜群、奥州大
寺の主尊と云っていいのでは。聞けば以前は本堂の本尊だったとのことです。

阿弥陀如来坐像(重文) 像高267.9cm 桂材の寄木造り。(中尊寺HPから借用)



▼金色堂石標。
さて、いよいよ中尊寺の華、金色堂の参道です、人の途切れることがありません。



▼金色堂(国宝)。
建立 天治元年(1124年) 藤原清衡
金色堂はさすがに立派、キンキンピカピカです。中央須弥壇上に並ぶ本尊阿弥陀
如来(重文)を中心に脇侍の観音(重文)、勢至菩薩(重文)、六体の地蔵菩薩(重文)、
持国天(重文)、増長天(重文)が並ぶ凄いステージです。それぞれのお像は決して大
きくはありませんがインパクトは大です。残念ながら各お像の印象はノーコメント、
ジックリ拝する時間がありません。
中央ステージの左右にも須弥壇が設えられ、同数の仏像を祀っています。壮観で
す。堂内の柱には、螺鈿、蒔絵を始めとする精巧な細工の凄い荘厳はまさに極楽
浄土とはこれだとばかりの主張をしています。それぞれの須弥壇下には藤原四代
の遺体が納められているそうです。



▼これが金色堂ですヨ。(中尊寺HPから借用)
今まで写真知識しかなかったものが本物を前にすると、その説得力の強さに脱帽
です。屋根が木製瓦ということも初めて知りました。
覆堂の中は、この寒いのにサウナ状態!身動きなりません。説明アナウンスが終
わるとトコロテン式に堂外へ。



▼経蔵(重文)。
中尊寺一切経(国宝)を納めていた堂宇。



▼旧覆堂(重文)。
金色堂の解体修理工事が始まるまでの約500年間、金色堂を守ってきたお堂。



▼旧覆堂内部。
化粧天井でお堂中央に卒塔婆。



▼釈迦堂。



▼塔頭大長寿院山門。
山内に本坊のほか、17の塔頭がありその一つ。
創建 藤原清衡 嘉承2年(1107年)



▼塔頭大長寿院本堂。



▼塔頭大長寿院山門側壁に積まれている小石。



▼境内の叢林。



中尊寺さん、写真2点HPから無断借用しました。お許しください。

さすが奥州の大寺、堂塔伽藍、塔頭の数は相当なもの。当然廻り切れません。
またの機会と云うことで藤原四代夢の跡を辞し、松島瑞巌寺からワクワクの山寺
立石寺へ向かいます。