徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

本気で信じている人間は誰なのか/湘南戦へ向けて

2015-08-10 19:02:03 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015
評価が拮抗しているのならばともかく、もはや保存会の皆さんを除けば結論は圧倒的であると言わざるを得ない。大榎克己にこれ以上期待するのは彼にとっても酷である。
と書こうと思っていたところで大榎克己辞任である。
この結果では、どう見たって今回の辞任に是非はない。多くのサポーターは遅過ぎたと感じているはすだろう。今シーズンの「結果」がどのような形で終わるにしても、シーズン終了後に徹底的な検証が行われるべきで、「一部サポーター」だけではなく、疑問を抱く全てのサポーターにフロントは答えるべきだ。これは大榎辞任に憤る方々も賛同してもらえると思う。

後任には大方の予想通り、ター坊こと田坂和昭が就任した。プレーヤーとして、そして健太体制時のコーチングスタッフの中心人物として、ずっと清水エスパルスと共に戦っていた人物だ。今春、4年務めていた大分トリニータの監督を解任されているとはいえ、4年にわたるトップチームでの指導経験、健太のイメージとは程遠かった守備構築を共に作り上げた人物として、僅かながら命脈を繋いでいる清水の残留に期待せずにはいられない。
何よりも現場のマネージャーとして必要なマインド、経験、そして表現力は備えているのではないか。それはこんな言葉からも伺える。

<今思えば、この目標を掲げたことで自らの首を絞めました。みんなが目標を実現しなければならないものだと思い込めなかった。思ってくれたのはサポーターでした。だからサポーターからの風当たりは強かったけれど、彼らは心から願ってくれていました。(中略)また高い目標設定は決してマイナスだけではなかった。目標が高ければ、本当の強さを発揮できる人と、尻込みしてしまう人がはっきりするのです。大分というクラブのためには、誰が本気だったのかわかったことで、きっと次に繋がると思います。>(「さらば、愛しの大分トリニータ 田坂和昭監督が語る大分での4年半」『フットボール批評 06』2015年)



大榎辞任に関してどんな話し合いが行われたのかは不明だが、事態は昨シーズンよりも深刻で、ター坊にかかるプレッシャーも大榎の比ではない。
スタート、リセット、リスタートのタイミングはサポーターがゲームに関与できる絶好のタイミングでもある。ピッチ内での戦術、戦略を超えた「雰囲気」作りができるのは、このタイミングしかない。
プレーヤーを走らせ、湘南を圧倒するのはサポーターである。まず勝利と、そしてここから始まる残留への道を「心から願う」のもサポーターである。

地元民のみならず、残留を信じる全世界の清水エスパルスサポーターは日本平に結集されたい。地上波で放送されるテレビで観戦するサポーターも日本平へ本気の魂を送って頂きたい。
勝つのはオレたちである。

怒りの主体として

2015-08-10 17:00:00 | News
2011年、怒らない理由はどこにもなかった。
誰かの代弁ではなく、ひとりひとりが皆、怒りの主体として歩いた。
例えば闘いの踊りのように、ドラムとビートさえあれば良かったのだった。ストイックでプリミティブで、そしてダイレクトな行動と意思表示、それがTwitNoNukesだったのだと思う。
ストイックでプリミティブだったのは理由がある。
怒り方に注文をつける奴がいた。また他人の怒りを疑う奴がいた。デモそのものに偏見を持つ奴がまだいた。また手段であるはずのデモが目的でレジャーだった運動マニアがいた。「集団で声を出して歩くこと」が楽しそうに見えてしまう変態がいた。
2011年、デモがストイックでプリミティブであることは必然だったけれども、そんな変態たちを寄せ付けないためにオレたちは怒りの純度を上げ続けた。
だからあの時点でサウンドカーは必要なかったのだ。
どこの誰であろうが、それが何者であろうが関係ない。徹底したシングルイシューは誤解と反発を呼んだわけだが、だから何だというのだ。面白デモを企画した連中はいくらでもいたが、生き残ったのはTwitNoNukesだったのは間違いない。デモの運営有志や参加者がその後どのように活動を続け、あの経験から思考と手段を現在の活動に展開しているか。
その年の秋、運営有志は「デモのやり方」を記した薄い本を一冊だけ刊行した。

TwitNoNukesのやり方は決してとても実務的ではあったけれども、それほど戦略的ではなかった。それ故に、なのかどうかはわからないけれども、TwitNoNukes以降、デモの参加者の活動は戦略的であることに実に自覚的だと思うのである。
それもこれもTwitNoNukesというベースラインがあったからだろう。

放っておいたらいくらでも冷淡になるクールジャパンにおいて、今でもオレは「熱さ」は一番価値があると思っている。
「熱さ」は最高の評価である。
デモや抗議で「頭数になる」ことは大事だと思うけれども、オレはやはり「その感情を声を出さなければ意味がない」と思っている。皆が口に出せる平易なわかりやすい言葉で、同じリズムで、ずっと声を上げ続けることが大事だと思っている。その時、言葉は力を持ち、頭数は本当の意味で「頭数」として透明な、誰でもない存在になる。

例えば2011年以降の一連の行動は「路上で大きな声を出すための試み」だった。
現在のシールズや高校生デモと比較すれば若干遅めだったかもしれないが、ハイピッチのショートコールのみのシュプレヒコールは一人ひとりが最も声が出しやすいスタイルだった。先導車のトラメガだけが目立つクラシカルなシュプレヒコールにはやはり何の意味もない。
若干こじつけ気味に言うならば、その発展型が路上の野次だ。カウンター行動でも大久保公園包囲などの局面ではショートコールが使われたが、基本は「一人ひとりの野次と罵声」である。一人ひとりが路上で反対の声を上げ、「敵」に直接ぶつけること。その路上カウンターのクライマックスのひとつがアルタ裏での直接抗議であっただろう。一人ひとりが当事者となって、数十人か、数百人か、数千人か、それとも数万人かの人間かはそうやって個人が能動的に路上で声を上げることを実践してきた。

TwitNoNukesという行動は、今や首都圏反原発連合の中に息づき、シールズや高校生たちに隠れてほとんど存在すら語られない。
しかし2011年から約1年間だけ「怒りの主体」として現れた運動のオルタナティブとして記憶は残しておくべきだと思うのである。


…ということを「United In Anger」のレビューと併せて書こうと思っていたのだが、またそれは今度、である。