徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

怒りの主体として

2015-08-10 17:00:00 | News
2011年、怒らない理由はどこにもなかった。
誰かの代弁ではなく、ひとりひとりが皆、怒りの主体として歩いた。
例えば闘いの踊りのように、ドラムとビートさえあれば良かったのだった。ストイックでプリミティブで、そしてダイレクトな行動と意思表示、それがTwitNoNukesだったのだと思う。
ストイックでプリミティブだったのは理由がある。
怒り方に注文をつける奴がいた。また他人の怒りを疑う奴がいた。デモそのものに偏見を持つ奴がまだいた。また手段であるはずのデモが目的でレジャーだった運動マニアがいた。「集団で声を出して歩くこと」が楽しそうに見えてしまう変態がいた。
2011年、デモがストイックでプリミティブであることは必然だったけれども、そんな変態たちを寄せ付けないためにオレたちは怒りの純度を上げ続けた。
だからあの時点でサウンドカーは必要なかったのだ。
どこの誰であろうが、それが何者であろうが関係ない。徹底したシングルイシューは誤解と反発を呼んだわけだが、だから何だというのだ。面白デモを企画した連中はいくらでもいたが、生き残ったのはTwitNoNukesだったのは間違いない。デモの運営有志や参加者がその後どのように活動を続け、あの経験から思考と手段を現在の活動に展開しているか。
その年の秋、運営有志は「デモのやり方」を記した薄い本を一冊だけ刊行した。

TwitNoNukesのやり方は決してとても実務的ではあったけれども、それほど戦略的ではなかった。それ故に、なのかどうかはわからないけれども、TwitNoNukes以降、デモの参加者の活動は戦略的であることに実に自覚的だと思うのである。
それもこれもTwitNoNukesというベースラインがあったからだろう。

放っておいたらいくらでも冷淡になるクールジャパンにおいて、今でもオレは「熱さ」は一番価値があると思っている。
「熱さ」は最高の評価である。
デモや抗議で「頭数になる」ことは大事だと思うけれども、オレはやはり「その感情を声を出さなければ意味がない」と思っている。皆が口に出せる平易なわかりやすい言葉で、同じリズムで、ずっと声を上げ続けることが大事だと思っている。その時、言葉は力を持ち、頭数は本当の意味で「頭数」として透明な、誰でもない存在になる。

例えば2011年以降の一連の行動は「路上で大きな声を出すための試み」だった。
現在のシールズや高校生デモと比較すれば若干遅めだったかもしれないが、ハイピッチのショートコールのみのシュプレヒコールは一人ひとりが最も声が出しやすいスタイルだった。先導車のトラメガだけが目立つクラシカルなシュプレヒコールにはやはり何の意味もない。
若干こじつけ気味に言うならば、その発展型が路上の野次だ。カウンター行動でも大久保公園包囲などの局面ではショートコールが使われたが、基本は「一人ひとりの野次と罵声」である。一人ひとりが路上で反対の声を上げ、「敵」に直接ぶつけること。その路上カウンターのクライマックスのひとつがアルタ裏での直接抗議であっただろう。一人ひとりが当事者となって、数十人か、数百人か、数千人か、それとも数万人かの人間かはそうやって個人が能動的に路上で声を上げることを実践してきた。

TwitNoNukesという行動は、今や首都圏反原発連合の中に息づき、シールズや高校生たちに隠れてほとんど存在すら語られない。
しかし2011年から約1年間だけ「怒りの主体」として現れた運動のオルタナティブとして記憶は残しておくべきだと思うのである。


…ということを「United In Anger」のレビューと併せて書こうと思っていたのだが、またそれは今度、である。

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