
昨日は3.11東京大行進に参加。
日曜日ということもあるのだろうけれども、昼頃に目が覚めると外はずいぶん静かなような気がした。
結局14時46分は東電本店前にたどり着く前に訪れてしまった。
だからと言って町は止まっているわけじゃない。普通に人々は電車に乗り、普通に歩き、新橋駅前では復興フェアなるイベントが開催されていた。その瞬間、黙祷を呼びかけていたのは街宣右翼のおじさんだけだったけれども、その呼びかけに応えた人はいたのだろうか。何もしなければ、何も気にかけずにいれば、そしてうっかり忘れてしまえば、14時46分はただの日曜日の昼下がりというだけで、時間はただ流れていってしまう。
東電前ではプチデモの@harusumikureさん(だよね?)がトラメガで抗議を続けていた。結局日比谷公園には行かずそのままデモ隊を待ち、先頭集団に合流。先頭はコールを主体にしたグループだったのだけれども、リズムをキープするドラムがいなかったせいか、ずいぶん性急なテンポでコールが続く。
ゴールの日比谷公園に着くと、そのままヒューマンチェーンに参加するために国会議事堂へ移動。
時折、雨粒が落ちてくる中、1万人を超える参加者が手をつなぎ、花とキャンドルを持ちながら国会議事堂を包囲した。
途中「充分人は足りている」というスタッフのアナウンスの一方で「本当は人が足りない」「デマが流れている」と叫ぶ人もいたのだが、あれは一体何だったのだろうか(おまえこそデマの張本人だろ、と思うのだが)。
そんな中、参加者に声をかけて回っていたたんぽぽ舎の原田さん@harada_hirofumiの存在は本当に安心感があったと思った(勿論すべてのスタッフの方々にも感謝)。
さらにヒューマンチェーンのあとは首相官邸前に移動。
早めに移動したので、官邸前の通行規制の近辺にいたのだが、ここが実に(相変らず)居心地が悪かった。儀式色の強い申し入れ、警備の機動隊に対して上等とばかりにモメる団体系参加者、あまりに理不尽な規制に憤る気持ちは分かるし、形式でしか通らない申し入れなのだから形式的であることも大事なのは分かるが、あの、いつもながらのダイレクト感のなさは如何ともしがたい。もうね、これなら本当に歩道でコールしていた方が余程マシなのである。
ダイレクトに「声を届ける」というのはそういうことでしかないんじゃないのか。
首相官邸前の抗議を終えて、経産省前のテントひろばに通りかかると、朴保さんがライブ中。ヒューマンチェーン帰りの人たちもそれなりに集まっていい感じになっているところで、関西弁のオヤジが突然怒り出した。「(歌の内容が)脱原発に関係ないやろ!」というのが彼の言い分なのだが、テントひろばの矛盾がこういう場面でも露呈してしまう。そもそも矛盾を抱えたままに継続しているテントひろばなのだから、こういう「まっとうな声」に対して粘り強く説明していくほかないのだがね。
ライブ中のシンガーに対して「歌」の内容について直接抗議するという「野暮」は別として。

Twitterのアケミbotから時々<昨日は事実、今日は存在、明日は希望>という「都市生活者の夜」の歌詞が流れてくるんだが、昨日は本当にそれを実感した。
オレ(たち)が2011年に継続してきたデモや抗議というのは、「事実」を積み上げるためにやっている行動なのであって、その事実を「ニュース」という。
しかし世間にはニュースにならないニュースが溢れていて、多くの事実は特定の連中の意図や計算に埋もれていく。それでも3.11国会議事堂包囲のヒューマンチェーン、首相官邸への“抗議”はニュースになった。
昨日は「事実」になったのだと思う。
ということで、一年後の3.11はさまざまな場面を見た。
9日の抗議と11日のデモで約一年間使ってボロボロになってしまった古いプラカードは捨てた。
今日からは新しいプラカードを用意する。「一周年」というのはそういう意味でもある。
萎えないために。
(追記)
<問題は、そのメッセージ性に、過剰反応する人々の「苦情」だが>
「脱原発の日のブログ」に、この夜のライブの“トラブル”について触れられていた。
しかし、いくら何でも「日本の風土によくある現代音楽知らず」とは…この言い草はないと思う。確かにあのオジさんも相当行儀が悪かったとはいえ、こんな説得で果たして本当に納得したのか。
あまりにもあっさりした「切り捨て方」に、ちと呆れるほかない。
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