徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

抗議の場に<声なき声>はあり得るか

2018-03-17 17:03:39 | News
<「激しい口調のコールをできない人も参加している」という反論もありますが、そういう普通の人の声をもっと拾ってほしい。安保反対のデモに囲まれた岸信介が「声なき声」は自分を支持していると言いましたが、その「声なき声」こそが大事なので。@aki21st  #0316官邸前大抗議>
(町山智浩Twitter 2018年3月16日)



昨晩のことは改めて書くとして、町山智浩さんのツイートが話題になったので書いておく。
そもそも、それを<声なき声>と表現して良いものかどうかはとりあえず置いておく(果たして抗議の場で声なき声があり得るのかというのは、よくわからない)。

<声なき声が大事>と書くのと、<その「声なき声」こそが大事>と書くのでは大違いである。岸信介や安倍晋三が言う「声なき声」とは、どう考えたって「自分に都合の良い、声なき声」でしかない。では1960年の岸信介は何と言ったか。
「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りだ。私には声なき声が聞こえる」
である。何故町山智浩が<岸信介が>などという余計なことを書いたのかよくわからないが(好意的に捉えても意味が変わってしまう)、その声なき声は岸の脳内で都合良く解釈した幻聴でしかない。「私たちに問題は任せて国民は楽しんでくれ」というわけだ。安倍も間違いなくそう思っている。
現実には、かつて声なき声であったかもしれないものは、すでに官邸前や国会前ではっきりとした声であろうとしているのだ。

抗議も終盤に差し掛かった国会議事堂駅出入口の攻防のあと、じりじりと警官隊を後退させて官邸前に向かって茱萸坂を上って行った人々は、<声なき声>に甘んじることに耐えきれずに、あの言葉を言いたくて、または自分の声を伝えたくて官邸前にやって来たのだ。
この2018年に、声なき声などという権力者に利用されやすい甘い幻想をもう持つべきではないし、そんなものに加担すべきではないのだ。卑怯者たちと戦っているのに、何故そんなにナイーブでいられるのか。

とはいえ、抗議のあと、オレたちは嫌でも金曜日の夜の電車やバスで家路に着く。そこには岸信介が言うように「いつも通り」の光景が広がっている。つまり声なき声はそこにあるのだ。そして、それは声なき声ではなく、圧倒的無関心というのだ。
言葉は人の口から吐き出されて初めて声になる。その瞬間を目の当たりにしている人間には声なき声などという、使う人間に都合の良い言葉にリアリティーなど感じるわけがない。少なくとも「そこ」にいる人たちは、誰ひとりとして、決して声なき声などではないだろう。


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