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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

矢田山金剛山寺修正会の牛王加持

2011年02月08日 07時36分34秒 | 大和郡山市へ
国家安寧を祈り万民の平和、五穀豊穣を願う行事である修正会。

正月行事にあたり初祈祷とも呼ばれていて、各地域のお寺で行われている。

矢田山の中腹にある矢田山金剛山寺(やたさんこんごうせんじ)も同じように正月始めの2日に行われた。

この日は牛王(※注)加持(ごおうかじ)といって牛のひづめの形をした朱印を押したお札が祭壇に供えられる。

ひとつは青竹に挟んだお札。

もうひとつは(ハゼ)ウルシ棒(ウルシに被れる場合はネムの木)の挟んだものだ。

それは導師が祈祷するものと僧侶がするものである。

お札はお寺の文字が刷られている。

行事の前に当番の寺が版木を用いてあらかじめに刷ったものだ。

当番の僧坊は毎年交替するそうだ。

基壇には8枚重ねたモチを供える。

それを花餅(けひょう)といい、数皿に盛っている枚数は45枚(本来は一皿に8枚×6盛の48枚)だそうだ。

お正月らしく雑煮の椀も供えられた。

本堂の扉から入堂された僧侶たち。

四つの僧坊になる念仏院、大門坊、北僧坊、南僧坊の住職たちだ。

山主(さんしゅ)である念仏院の僧侶が導師となってお勤めが行われる。

内陣周りには一老である大門坊、二老の北僧坊、三老は南僧坊と席は決まっている。

数人の僧侶は弟子と呼ばれる師弟の僧侶だ。

灯火が点され太鼓が打たれた。

参拝者の姿は見られないなか修正会が始まった。

堂内に深く静かにお経が唱えられる。

30分ほど経ったころだろうか僧侶たちは立ちあがって時計回りに動き出した。

音もなく静かに基壇の後方に回っていく。

1周したのちドン、ドンというかコツ、コツという音が聞こえだした。

それは1周されて席に戻った。

そして唱えられた経文。

持っているのは杖だ。

それはヤナギの木であろうか判らない。

北僧坊の話では子供のときからずっと使っている杖だという。



前方に突き出して唱えていく。

それを終えると再び動き出した。

何度も床を叩く音がする。

6人の僧侶が回る回数は3回。

3度とも床を叩く。

これはランジョウと呼ばれる悪魔祓いとされる作法だ。

かつては壁板も叩いていたという。



杖は元に戻され、再び席について唱えられたのが神名帳。各地の神社名が詠みあげられる。



そして一人の僧侶が基壇の前に立った。

読みあげるのは寄進された人たちの名だ。

花餅三昧はそれだけの人の数である。

それを終えると祭壇に供えられた牛王宝印はそれぞれの僧侶の位置に置かれた。

青竹は導師にウルシ棒のお札は僧侶たちに。

牛王加持と呼ばれる作法である。

農作をするには牛が必要だった。

農業を営む人にとっては大切な牛。牛は宝なのだと僧侶はいう。

現在では見ることもなくなってしまった農耕の牛。

その蹄(ひずめ)が押されたお札を祈祷するのは豊作を祈願するものなのである。



扇のような形をした中啓(ちゅうけい)に挟んで祈る牛王加持。

修正会は祈りを捧げて静かに終わった。

※注 県内寺院で行われている修正会の多くが「牛玉」と表記されているが矢田山金剛山寺ではこれを「牛王」としている。

(H23. 1. 2 EOS40D撮影)

大和郡山の簾注連縄調査2

2011年02月07日 08時59分43秒 | 大和郡山市へ
今国府町の杵築神社の鳥居には簾型の注連縄が取り付けられている。

拝殿前にも同じ形態の注連縄が見られる。



年末に掛けられたそうだ。

この注連縄は左右に笹の葉がみられる。

2本の竹を組み合わせて作ったそうだ。

これと同じ形態のものが民家にもみられた。



当主の話しを伺えば、子供のときに先々代のおじいさんと一緒に作っていたという。

何年もわたって作り続けてきたから自然と作り方が身に付いたと話す。

藁はモチワラだ。しなりがあって作りやすい。

この注連縄のためにわざわざ自前の田んぼで作っている。

刈り取り量はけっこうあるのでほしいという人が現れれば差し上げているという。

この注連縄は28日辺りに作って31日の大晦日に取り付けたそうだ。

かつてトーヤ(当屋)をつとめたことがある昭和10年生まれのK氏はこれを「シメナワ」と呼んでいる。

特別な名前でもないそうだ。

ちなみに正月三が日を終えれば注連縄は外す。

それはとんどで燃やす。

神社の境内でとんどをするのでそこへ持っていくそうだ。

K氏のご好意で組み立て式のお仮屋を拝見した。

杵築神社祭礼の能面等についてはあかい奈良に書かれている。

そこにはトーヤの字が頭屋になっている。

「それは違うのだ。本当は当屋だったのだ」と話される。

古文書もあるというのでこれも拝見した。

それには当屋と書かれてあるのだという。

ページをめくってみたら初期には当屋であったが記念祭文では頭屋に代わっている。

記帳する際にどういうかげんか文字が変化したようである。

K家の真ん前に大神宮がある。

ときおりこれを調べる人が居るという。

その横は布団太鼓の御輿を格納している倉庫。

祭り前の夜宮には青年たちがそれを守っている。

当時は青年会組織だったそうだ。

寝ずの番でそれを見張る。

酒も入りそれを存在する話し声が聞こえてくる。

その音が聞こえなくなった。

どうやら最終電車で近鉄筒井駅から郡山駅に向けていったらしい。

青年会は男衆。色街に繰り出したという。

それはともかくかつての布団太鼓は遠くまで練って行ったようだ。

何十キロメートルも離れた郡山城跡までだ。

昔の男は力があったのだろう。

今では考えられないくらいの豪傑揃いだったのでは・・・。

色街で使い果たした。

借金の替わりに能面を預けたとの伝説がある能面。

それが杵築神社のお渡りに使われている。

近年には能楽関係者が買い戻したいと申し出たそうだ。

それはどうなったのかは知らないという。

それはともかく現在の祭礼は4班で分けられておりそれぞれにトーヤがある。

およそ12~15年ぐらいで回ってくるそうだ。

昔は班体制ではなかった。

O家のトモであったようだ。

そのときに頭屋を4人こさえた。

それは方角にあった。

戌亥(北西)、辰巳(南東)、未申(南西)、丑寅(北東)だったようだ。

祭礼のお渡りに被る翁の面はその日に隣町の小林町とで使われている。



そこの神社もやはり杵築神社と呼ぶ。

そこでも同じように簾型の注連縄が飾られている。

年末の28日にトーヤによって掛けられるそうだ。



それは2か所。

一の鳥居と本殿前の二の鳥居だった。

特に名称はないという。

(H23. 1. 2 EOS40D撮影)

こんなにあった!みん博・冬の企画展

2011年02月06日 10時13分50秒 | 民俗を観る
企画展    「大和郡山の祭りと行事」
展示場所  奈良県立民俗博物館 奈良県大和郡山市矢田町545 tel 0743-53-3171
展示期間  平成22年12月11日(土)~平成23年2月6日(日)
写真解説  平成22年12月12日(日)        13時半より(終わりました)
列品解説  平成23年 1月16日(日)、30日(日) 13時半より(終わりました)



<県立民俗博物館ジョイントイベント>(弁当持参・雨天時民博にて食事)
~ 大和郡山市観光ボランティアガイドと巡る冬の「大和郡山の祭りと行事」 ~
1回目 平成23年1月5日(水) 小泉初庚申巡り
 10時民博入口集合→民博展示解説(昼食)→満願寺町西岳院→小泉町慈光院→小泉庚申堂(解散)(終わりました)

2回目 平成23年1月7日(金) 植槻オンダ祭巡り
 9時半近鉄郡山駅集合→植槻町植槻八幡神社→外川町発志院→民博昼食→民博展示解説(解散)(終わりました)
※ 申込および問い合わせは県立民俗博物館(tel 0743-53-3171まで)

(H22.12. 3 スキャナ)

矢田坐久志玉比古神社綱作り

2011年02月05日 07時58分48秒 | 大和郡山市へ
徐々に正月らしさを調えてきたと話す矢田坐久志玉比古神社の宮司。

次から次へと訪れる参拝者の数は年々増えつつあるそうだ。

拝殿には鏡餅を供えている真上には鮮やかに塗り替えられた扁額が見られる。

金色の縁どりに「矢落大明神」が眩しい。

背景色は濃いブルーだ。

矢が落ちてきた説話から広く澄み渡る青空を現していたそうだ。

供え物にはもう一つある。

緑米と赤米に白米の古代米だそうだ。

新しき年の五穀豊穣を願ってのことだろう。



楼門を潜って参拝者がやってくる。

両脇の殿で行われている縄結いの作業に足を止めた参拝者。

この日は数日後の8日に行われる綱掛け神事の綱を結っているのだ。

正月二日はその綱をあらかじめ作る日で、早朝から横山地区と中村地区の宮座の人たちが集まって綱を作っている。



結った綱は2往復させて縄で巻いていく。

同時進行していた綱作りはそれぞれの形となってできあがった。

楼門の柱にもたれかけるように設えた綱は2体。

中村地区は上部が楕円の輪を描く。

それは龍の形だという。



そして横山地区は見事な形の尻尾をもつ海老となった。

(H23. 1. 2 EOS40D撮影)

丹生町正月イタダキサンの膳

2011年02月04日 07時41分12秒 | 奈良市(東部)へ
正月を迎えたその朝は当主の動きで始まる。

オクドさん(へっついさんとも呼ぶ)の火を点けてトーフを切る。

それを家の神さんや仏さんに供える。

若水で顔を洗い家族が起きてくるまでに神さんにイタダキの膳を供える。

奈良市丹生町のF家では当主の帰りを待ちわびていた。

大晦日から神社で初詣の参拝者を迎えていた当主。

この年は神社の役員だった。

それを終えて家路についた。

それでは始めようと家族一同は席に着いた。

床の間には昨年の7月に、他家へ移った三日地蔵が半年ぶりに戻っている。

丹生町は全域が神道となった地区だ。

神さんの前に当主が座って拝んだ。

供えたイタダキの膳は円座の当主席に置かれた。

3枚のイタダキノモチ。

その上には三日月の形をしたツキノモチが1個。

小さなモチが数個。それはホシノモチと呼ばれている。

棒モチを小さくちぎったモチだ。

それは膳の周りにも置かれる。

合計で12個。一年の月の数になる。

傍にはクリの実がある。

個数は特段決まっていないカチグリだ。

イタダキの膳にはお札が置かれるのが本来だがお年玉の袋にしたという。

子供たちにとってはそのほうが良かろうとそうした。

現金を置くのは今年も増えますようにと祈りなのだ。

F家は大家族。当主の子供たちも結婚して同居している。

4家族も座敷に集まればいっぱいいっぱい。

席には膳がそれぞれ置かれている。

夫妻、その子供たち。ということは孫たちだ。

かつては家業を自営している働き人も集まっていたというから相当な人数だったようだ。

席の内側にはおせち料理の盛り皿が並ぶ。自家製料理だ。

そして当主が「明けましておめでとうございます」と挨拶をされてイタダキの膳を持ちあげ前方に差し出し頭を下げた。

当主がイタダキの儀式をすませたらイタダキの膳をどうするか。

右手の席から順に同じ作法をするのだ。

席に回ってきたイタダキの膳。



それは子供たちも同じように作法する。

家族ぐるりと一回りしてその儀式を滞りなく終えた。



お年玉をもらってようやくお雑煮が食べられるのだ。

とは言っても雑煮のモチはイタダキのモチであってこれを焼いて雑煮に入れるのだ。

トローと伸びたイタダキノモチは手でちぎって雑煮の椀に入れる。

雑煮といえば乳児の頭ぐらいの大きさのカシライモが入っているのだ。

ズイキイモなのだが相当な大きさだ。



この大きさの順が長男、次男の椀へと下っていく順になるというから三男ともなればずいぶんと小さくなるのだろう。

雑煮の具は他にダイコン、トーフ、ニンジンにイタダキの膳にあったクリだ。

カシライモにクリが入る雑煮は珍しい。

お神酒やビールもいただく。

家族の顔は晴れ晴れとお正月を迎えた表情になった。

家の伝統行事は残さねばならないといって10年間途絶えていた正月のイタダキサンを復活されたF家。

お正月の若水を汲むことは続けていた。

それはオトコシがする。

オトコシは当主の男性。

ミカヅキサンとも呼ばれているツキノモチやホシノモチにカチグリを並べた膳を両手で頭の上に捧げて拝む。

そこにはノシモチに生の現金を添える。

今年も増えますようにと祈る家の儀式だ。

雑煮はカシライモと呼んでいる大きなドロイモが入っている。



家族一同が集まって正月を迎える丹生のF家の座敷は家族ゲームの場に転じた。

子供たちが主役、脇役は親たちだ。

スタート、ストップの号令がかかるたびに出現する数値。

ビンゴはまだまだ遠いがリーチは増えるいっぽう。

今か今かのビンゴに拍手が起きる。

和気あいあいで正月を迎えた大家族だった。

※ お正月だというのにF家のご厚意で撮らせていただきました。

(H23. 1. 1 EOS40D撮影)

福住町別所の正月イタダキとカンマツリ

2011年02月03日 08時27分14秒 | 天理市へ
正月を家族で迎えるイタダキは家の行事だ。

福住町別所にはテラ垣内、ナカ垣内、オモテ垣内とマルオ垣内がある。

それぞれは4軒ずつぐらいしか居ないという。

そのマルオ垣内の数軒だけに残されている大切な家の行事。

今でもそれをしていると拝見させていただいた。

雑煮を食べる前に行う家の儀式がイタダキ。

それは5段重ねのモチが一際目立つ。

30日ころに搗いたモチだ。

コンブを敷いて垂らす。

その上には葉付きのダイダイ。

前にはお手製の干しカキが10個。

串に挿してあるからクシガキだと呼ぶ。

藁で枝部を挟んで吊した状態ならそれはツルシガキと呼ぶ。

腰にはウラジロの葉が広がる。

その膳には伊勢さんから授かったアマテラス大神宮のお札と今年の暦の本が添えられている。

何も喋らずにイタダキの膳を頭の上に掲げる。

「イタダキしいやー」と言って家族一人一人がその行為をする。

家長がしなければ正月が始まらないイタダキの儀式なのだ。

その日の朝は玄関に藁で作った棒のような長いものをぶら下げる。

その棒の下部は折り曲げている。

藁紐で結び外れないようにしている。

手の形というか、杓子の形か判らないが、その内部にクシガキを2個、モチも2個、コウジミカンは1個を供える。



「外の神さんが来やはんので供える」という昭和2年生まれのNさん。

これをカンマツリと呼んでいるが充てる漢字は判らないという。

大晦日から降った雪は山間部を雪景色にかえた。

なにもかもが真っ白だ。

カンは素直に考えれば「寒」という字だろう。

が、だ。

カンはカミ(神)が訛ったものと考えたらご主人がいう外の神さんに一致する。

外の神さんは家に入らないのだろうか。

歳神さんとも違う神さんのようではないかと思っていた1ヶ月後。

大和郡山市番条町の住民が書き残した「我が家の年中行事とその食べもの」には形式が異なるものの同じような作法をしている内容が見つかった。

大晦日に当主が作られた「ドウガン」を玄関や門に飾る。

それは注連縄と同じ様式でウラジロ、ユズリハ、ダイダイ、スミが括りつけてある。

このユズリハにカンマツリとの類似性がみられるのだ。

正月三が日は葉を丸くしたユズリハに炊きたてのゴハンを入れる。

ユズリハはお皿のような具合なのだ。

当時取材させていただいた当主は歳神さんに食べてもらうのだと言っていた。

その当主の奥さんが書かれた家の年中行事には夕ご飯の炊きたてゴハンを丸箸で木の皿に取ってユズリハに供えたとある。

その数は多く50カ所も。

輪っかの七五三注連縄のユズリハにも供え廻ったそうだ。

番条町ではこれを「神祭り」と呼んでいた。

この文からも見てとれるように別所で言う「カンマツリ」と似ている。

祭る道具は違えども番条町の「神祭り」と同じ様そうであることから、歳神さん若しくは「外の神さん」と呼ばれる神さんに供えたのではと思われる。

(H23. 1. 1 EOS40D撮影)

長谷の行事

2011年02月02日 06時18分53秒 | 楽しみにしておこうっと
1月の成人の日の祝日はコンピラ講の集まりがある。

かつては成人の日も固定の15日だった。

その日は小正月の日で覚えやすかったがハッピーマンデー法によって月曜日。

当然ながら日にちは替わるので覚えにくく忘れてしまう。

今年は何時だったけ?という言葉は間違いなく出る長谷町の人。

その日はどんど焼きの日でもある。

供えた主月飾りやシメナワサンをも燃やす。

火を点けるのは自治会長。

点ける方角は決まっているそうだがアキの方角ではないという。

それを終えたら一旦は解散し自宅に戻る。

数時間してから公民館に集まる。

コンピラさんの千本杵でモチを搗く。

その木はビョウブの木だという。

それは白い花が咲くというからビョウブが訛ったリョウブの木だと思われる。

かつてコンピラさんの行事は垣内単位で行われていた。

現在は村の行事としている。

平成2年の統合まではコンピラ講のヤドの人がその都度に12本の千本杵を作っていたそうだ。

それがビョウブの木で夏に白い小さな花を咲かせる。

モチ米も集めていたヤドの人。

地区を巡ってアズキを3合、お米は1合だった。

その量は家族の人数分だったようだ。

それはともかくコンピラさんの行事はキンケンチョチクだという。

どういう漢字を充てるのか判らないが、還暦の人に42歳になった人や結納した家、嫁もらいの家、前年に長男長女が誕生した家を祝うようだ。

コジュゥタにモチ。底にはキナコを塗しているというモチを供えて清酒1本。

昔はコンピラさんの掛け軸(コトヒラ宮)があったそうだ。

ヤドの床の間に掲げていたが今はもうない。

この様相は隣村の日笠町の行事とよく似ている。

伊勢講は現在も続いている講の集まり。

家の料理がたいへんだと昨年からは6月、12月にした。集まりやすい16日の前の土曜か日曜。

賞味は男の飲み会だと笑って話す。

かつては愛宕さんの講もあった。

伊勢講とともに代参する人を選ぶフリアゲをしていた。

1月3日の初集会でしていた。

四角い箱に入れるクジ。

二つの講の代参対象者の名前を書いたクジを入れて箱を振り上げた。

それぞれ4人ずつフリアゲで選ぶ。

最初の二人が当たりクジ。

次の二人は予備の人たち。

それぞれ六人衆の長老がフリアゲをしていたそうだ。

代参の人は神社まで出かけてお札を授かってくる役目だ。

10年ほど前に改正して愛宕山は笠の荒神さんに替わった。

しかもクジは伊勢も笠も同じ人にした。

一人二役に統合を図ったわけだ。

1組から4組まであるので8年にいっぺんが回ってくる勘定だ。

なお、伊勢講で掲げられる掛け軸はアマテラスとトヨウケダイジングウだそうだ。

(H23. 1. 1 SB932SH撮影)

長谷町垣内脇のシメナワサン

2011年02月01日 08時57分48秒 | 奈良市(東部)へ
大晦日から降った雪は山間部を雪景色にかえた。

なにもかもが真っ白に染まった。

それだけ生活が不自由になってしまう。

雪見酒どころではないが、長谷町垣内脇のN家では翌日の2日にも家の正月が行われている。

玄関口に取り付けた藁製の長い棒のようなもの。

それは直角以上に折って曲げている。

それが崩れないように藁紐で括っている。

正月二日の朝はこのなかに四角いモチとご飯を入れる。

箸で摘んで入れる量はほんの少しだ。



「じいちゃんが亡くなってからは私が代わりにしている」と話す当家のおばあさん。

本来は当主がするものだがと前置きされて言うには「年寄りの役やし、ダイドコロするものとして受け継いだ」と。

シメナワサンと呼ばれているこの藁棒はいったい何だろうか。

手の形のような杓子のようでもある。



大和郡山市番条町の酒造り家の玄関口。注連縄を飾る。

その注連縄のユズリハは葉を丸くして炊き立てのゴハンメシを供える。

歳神さんに食べてもらうのじゃと神棚にメシを供えるように3、4粒供えるという話しを思い出した。

当家で行われるのも同じ意味があるのではないだろうか。

形は違えども歳神さんに食べてもらうことは同じようだと思えてきた。

長谷町の当家はもうひとつの藁棒を持ち出した。

これには受け手の部分がない。

藁の内部に詰め込むのはやはりモチ。

何個も入れて膨らまし気味にする。

それを樹木にぶら下げる。



山に住む野鳥がこのモチを食べるのだという。

野鳥はたいがいがカラス。

ぶら下げた直後にやってくるカラス。

だからかどうかは判らないがこれをカラスノモチと呼んでいる。

山の鳥獣へ食べ物を施す「寒施行(かんせぎょ)」の行為を思い起こす作法であった。

本来は4日にされるのだがご厚意で早めてもらった。

(H23. 1. 1 EOS40D撮影)