マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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縄文遺物

2010年04月20日 08時25分46秒 | 桜井市へ
ノガミ塚の廻りを通って農道が造られている。

そのノガミ塚の周囲を市教委が発掘調査されたそうだ。

そこから縄文時代の遺物が発掘されたという塚は小さいながらも前方後円墳。

方噴は削られて畑地化されていたので気付かなかったが、塚は古墳のような形状だったことを思い出す。

残された古墳と縄文遺物は時代関係が整合しない。

が、南方の忌部山麓ではおなじように縄文遺物が発掘されていたようだ。

先代のおじいさんが子供の時に拾ってきた遺物。

形状はまさしく石鏃だ。

(H22. 3.19 SB912SH撮影)

西垣内薬師堂彼岸の念仏講

2010年04月19日 07時22分09秒 | 桜井市へ
毎月17日は観音さんの日で念仏講を営む西と南垣内のご婦人たち。

高田西垣内薬師堂の中で西国三十三番ご詠歌を唱えられる。

彼岸のときは講の人の都合に合わせて日にちを決められる。

昨日が彼岸の入りだったのでみんなの都合がえーからと昼過ぎに集まった。

数年前までは夜の八時だった。

この歳になったら夜道も危ないのでと昼間の営みにされた。

念仏講はたったの4人。

平成19年、花まつりのときに訪問させてもらってからも変わっていない。

その後もご婦人方の健康的なお顔を拝見できたのがとても嬉しい。

それはともかく彼岸のお念仏は毎月行われている観音講の営みと同じで、五枚の掛け軸を掲げて西国三十三番ご詠歌を唱えられる。

ご本尊の薬師さんやお大師さんの仏さんを祀る祭壇にも灯明が点された。

「為蓮社講中現也安穏後生極楽一蓮託生」の掛け軸はあんじゅさんが書いたものだという。

それには亡くなられた念仏講の名が記されている。

古くは嘉永四年(1851)、安政四年(1857)のものもあるがほとんどが明治、大正、昭和時代だ

薬師堂は尼寺だったそうだ。

昭和7、8年ころ、あんじゅさんがいてはったと先代のおばちゃんが話していたことを思い出される。

無住堂になってからは講の人が書いているようだ。

ご先祖さんの掛け軸の他、阿弥陀さん、観音さんや西国三十三番が掲げられる。

鉦を叩く導師に合わせて弔いのお念仏が小さな堂内に響き渡る。

最後は連打で「なむあみだぶー、なむあみだぶー」とお経を唱える。

席を替えてお大師も拝み彼岸の営みを終えた。



高田地区は中心部の辻を境にして西、南は薬師堂で、北、東は神社鳥居前の会所で行われている。

薬師堂にはかつて双盤鉦があった。

葬儀の際に見晴らしの良い小高い丘にあがり、紐を持って一番鉦を叩いた。

村中に聞こえるように叩いていた。

20年ほど前だろうか、いつしか鉦が消えた。

そして呼び出しの鉦が聞こえなくなったという。

念仏講はお通夜のときにご詠歌を唱えていた。

来てもらわんでえーと言われるようになって披露する場がなくなった。

営みを終えたらお茶とお菓子をよばれて歓談の場。

おばあちゃんについてきた孫さんも入って語らい。

田んぼも出んようになったからこの日は久しぶりに顔を合わせる。

庭先で「ホー、ホケキョ」の囀りが聞こえてきた。



幼稚園のころからウグイスと会話しているんだと話すかずまさくん。

ウグイスに手紙を書いたら返事がきた。

4月に小学二年生になるけど今でも手紙のやりとりは続いているのだと笑顔で話す。

12月のイノコ暴れの話題になると目を輝かせていた。

(H22. 3.19 EOS40D撮影)

古市の行事

2010年04月18日 07時22分43秒 | 楽しみにしておこうっと
東市地区は古市、横井、藤原、八島、鹿野園の5町村。

横井の穴栗(あなぐり)神社の秋祭りには裃を着衣した行列があり、神社へ向かう道中になんともいえない掛け声が発せられるという。

古市では祟りがあるからといってソラマメは植えてはならないというしきたりがある。

氏神さんは女の神さんで、風に当たると痛むから植えてはならない。

しきたりを無視して植えたら引っこ抜かれるそうだ。

古市では満一歳のお喰い初め(食べ初め)のときに。

親戚中呼んで、風呂敷にモチを入れて包んだものを子供が背たろうて祝う。

八島や鹿野園でもされているという。

「おまえんとこはまだそんな風習が残っとるんかいな」と笑われたことがあると話す。

その話を聞いて、日笠や天理の山間部では今でもその風習が残されていることを思いだした。

尤も聞きづての話だが。

4月、桜の花が咲く頃みに「奈良参り」に出かけていた。

若草山へ登って花見の会だ。

いまどきはとんとせーへんようになったが、4月3日は「神武さん」と呼んでいた。

天理の朝和の人は近いので、てくてくと歩いてきた。

宇陀の榛原の人も歩いてきたというが距離は大幅に違う。

朝早くでれば昼には着いていたそうだ。

榛原と盆地部の東市では田植え時期が一ヶ月も離れているから応援作業に来ていた。

いつしか生活文化が変わり来なくなったという。

昭和30年代後半まで牛を飼っていた。

若い牛を安く買ってきて田を耕していた。

年老いたら売った。

5、60万円ぐらいで売れたそうだ。

耕耘機が入ってからは牛が消えた。

耕耘機は老朽化しても買ってくれない。

金を渡して引き取ってもらわんとあかんから牛とはえらい違いだと笑った。

画像は平成17年2月11日に撮影した御前原石立(みさきはらいわたて)命神社のおんだ祭に供えられたミカンの山。

平成22年の祭事では少し小ぶりになったかなとM豆腐屋さんは仰る。

撮影日 平成17年2月11日

下山燈籠講の田楽豆腐喰い

2010年04月17日 07時22分35秒 | 奈良市へ
下山八坂神社には寄進された燈籠を守っている燈籠講がある。

燈籠講は凡そ20軒。

3月11日はの講家の廻り当番になるオヤの家に集まって一日中、二本串に挿した豆腐の田楽を食べる日。

かつてはカマス、ゴボウ、カズノコ、クロマメなど正月料理と同じような三品料理をこしらえていたが、五品、七品と増えていった。

負担は徐徐に増えていく傾向になり、オヤの家がたいそうになってきたことから大改革を講じられた。

三品の膳を廃止し、パック詰めの料理に代わったが、主食の豆腐の田楽だけは残された。

親戚一同も集まっていたオヤの家。

これもたいへんだからと下山町公民館で行うようにした初年度は11日に近い土曜日に集まった。

今までと違った環境下なので馴染むには数年かかることだろうと仰る。

日が暮れるころに集まって座敷にあがった。

土間で豆腐田楽を作っているのは隣村の古市から来られたM豆腐屋さん。



カンテキ炭火の炎が美しい。

一つずつ鉄製の五本串に豆腐を挿して焼いていく。



水を絞った豆腐が焼けるには時間がかかる。

焦げ目がついたら裏を返して焼く。

中まで火が通ったら焼き上がり。

奥さんは二本の竹串を挿して木の芽味噌を塗って、2個ずつ器に載せて盆に並べる。



4人前の田楽豆腐ができあがったらオヤは席に運んでいく。



古市の豆腐屋さんは先代から燈籠講の田楽造りに勤めてこられた。

その先代は古市で開業していた豆腐屋さんが店を閉められることを聞いて後継ぎを引き受けた。

豆腐造りは初めてのことだったので相当苦労したという。

焼き串は当時に使われていたもの。

かれこれ50年も使っているという年季のいった鉄串。

現業では使われることなく、今日の燈籠講の集まりだけに使われている。

竹串は手作りだ。

一本、一本作っていくので形は整っていないが味わいがある。

お店で買ったこともあるが、重量のある豆腐を挿すには太めでないと持ちこたえないので毎年作っているという。

木の芽味噌も手作りだ。

この時期、まだ木の芽は芽吹いていない。

市場で買ってくるが香りは強くない。

時期的に仕方がないという。

ミリンと砂糖で味付けた木の芽味噌の豆腐田楽。

がぶりと口にほおばったら、焼き目がついた豆腐を舌で感じる。

中かは柔らかめで、とろっとしている。

濃い目の味噌味が口内でまったりと絡み合う。

手間暇掛けて作られた豆腐田楽はあっという間に2本も食べてしまった。

一流料理屋にだしても恥ずかしくない味に感動をおぼえる。

オヤの家で田楽を作っていたときは親戚の人数分まで作っていた。

一人分が2丁の田楽造り。

以前は2倍も厚みがあったという。

今年は参加された人数の13人分だけになって作る時間は減少したものの、講の宴が終わるまで滞在しなければならない。



燈籠講は神社の元座と伝わっており、明治四年に寄進された灯籠には講家の名が刻まれている。

豆腐田楽を喰う行事はいつ頃から始まったのか定かでないが、3月11日は新暦であって、おそらく旧暦の2月11日であったろう。

そうであれば、その日は各地域神社で行われている祈年祭の日にあたる。

八坂神社の行事のなかでは祈年祭は行われていない。

豊作を祈願する行事は4月3日に行われている神武祭になる。

神武祭は祈年祭(としごいのまつり)ともされている。

元座はいつしか引き下がり、祈年祭をやめてしまったと考えられなくもないが推論は避けておきたい。

(H22. 3.13 EOS40D撮影)

東鳴川や中ノ川、柳生の行事

2010年04月16日 07時53分56秒 | 奈良市(東部)へ
先月の7日に柳生の宮司さんに東鳴川春日神社の宵宮行事で捧げられる御供の内容を教えてもらった。

10月19日の夜八時だ。

ゴボウ、ニンジン、ダイコン、コンブ、シイタケの五菜の生神饌を一括りにして供える。

それらは御供箱に入れられる。

他にコンニャク、ホウレンソウの箱もある。

稲は早稲、中稲、おくもを一老、二老が一人ずつ本殿に乗せる。

半紙にシトギ。それは大きなもの。

トーヤがすり鉢でコメを摺る。

かつては生きたコイも供えていた。

トコロの根はコンブに代わった。

藁にギンナン、カヤの実、タチバナ(コウジミカン)に生サバと吊しカキが並ぶらしい。

春日神社の下見に行った際、観音講が守っている不空羂索観音坐像があることを知った。



毎月の第一日曜日、応現寺に納められている坐像を御開帳しているそうだ。

中ノ川の三社神社の宵宮も教えていただいた。

10月16日の宵宮祭は夜七時。

燈芯で行灯に火を灯す。

供えた甘酒は漏斗のような形の容器で注がれる。

翌日17日は本宮祭。

10時から氏神座流と呼ばれている五人衆(年齢順)が祭祀する。

生きたコイは三匹。

軽いハコヤの木で作った箸。

ダイコン、ゴボウに葉付きショウガとヤマノイモ。

蒸したセキハン(赤飯)はモッソと呼ぶ。

18軒の家の数だけ作る。

それに笹の葉に乗せたノリゴメ。

洗いコメを水に浸す。

それをすり鉢で摺って作る。

海苔状であることからノリゴメの名称がついたものだと考えられる。

三社神社では2月7日にオコナイが行われる。

仏事行事が神社でされている。

その月の18日はネコヤナギの木でお寺の縁を叩く。

村神主を含めた五人衆によって行われているそうだ。

そのお寺はかつて神宮寺だったのだろう。

それがいつしか廃れて神社の行事に移ったものと思われる。

柳生の中宮寺では十九夜講が行われているそうだ。

それはともかく正月三が日は修正会。

2月1日は修二会と続く。

初夜の夜六時は散華にランジョウ。

2日の後夜は最後にウルシの木に祈祷された牛玉宝印を挿すのだが、お経はないという。

(H22. 3.19 SB912SH撮影)

大宇陀町東平尾の行事

2010年04月16日 07時52分10秒 | 楽しみにしておこうっと
氏神さんの秋祭り。トーヤからトーヤへ宮送りがなされる。

その際には長老が正調伊勢音頭を高らかに唄われるという。

それは郷愁に誘われる懐かしい響きだそうだ。

氏神さんはおそらく平尾神社であろう。

東平尾の新盆には屋根がある舘を作る。

それは縁側に設えて梯子が架けられるそうだ。

(H22. 2.23 情報提供)

歩く道・下ツ道紀行文

2010年04月15日 07時57分12秒 | 民俗の掲載・著作
昨年の11月9日だった。突然の紀行文依頼が舞い込んだ。

奈良県のHPや関連書籍に対して「歩く奈良の魅力」を執筆してほしいということだ。

実際に歩いた感想、道をテーマにして、奈良を巡る観光客に向け体験紀行文を発信する企画だという。

その前週あたり、依頼者は大和郡山市内を訪れ施設に立ち寄られた。

そのときに話した下ツ道などの内容に興味をもたれ依頼したという。

発刊した「奈良大和路の年中行事」も拝読され、この人なら奈良の魅力を語れるであろうと思っての執筆依頼。

テーマは「古代の幹道・下ツ道を歩く」。

原稿主旨は幹道の概要、敷設の意味に関連路の太子道、上ツ道、横大路などにもふれて、奈良を訪れたことのない観光客に向けて、歩く魅力を発信するというわけだ。

民俗行事を知っているので、独自の視点で奈良の楽しみ方を是非ともということだが、私のような浅学しか持ち合わせのない者でいいのだろうか。

行事のことはある程度語ることができるが、歴史文化となると専門的知識の持ち合わせがないので自信がない。

とは言っても歩く道や景観などは体験しているので私なりの魅力は語れる、と思う。

数ヶ月前、ノガミ行事と地域分布について整理したことがある。

藤原京から平城京の間にある河川とノガミ行事地域の地理的関係。

都ができる前からあったとされる条理に人工的に作られたと思われる直線的な川の存在は前から気になっていた。

川とノガミの関係を書き出すと調べなくちゃならんことが多々でてくる。

歴史的背景を含め、それらは専門領域の先生方にお任せするとして執筆を受諾した。

伏線、エピローグなど構成はどうするか。

1300年の歴史を現代の風景にあわしてどう語るか。

古代の幹道が発掘されたのは1970年代。

その後の学術調査は進んでいないので書き辛い。

当て推量で執筆するわけにはいかない。

依頼者と「思い」をメールでやりとりしているうちに構成が定まった。

そうなればペンならず、キーボードタッチの速力が増した。

考証ごとはけっこう時間がかかったことを思い出す。

それがようやく発刊になった。

山と渓谷社から出版された「奈良さわやかさんぽ」だ。

ページをめくったらどこにも名前がない。

不採用だったんだ。こ

ういうことはあると想定していたので特段落ち込まない。

その夜、依頼者からメールが届いた。

県のHPに掲載される予定で最終稿の確認だった。

誌面は特に問題はないが、肩書きが作家になっていた。

それを見たかーさんが椅子から落ちそうになった。

たしかに写真の提供を求められたわけでなく紀行文だけの依頼だった。

間違えられても不思議ではないが「作家」は堪忍してほしい。

http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/

(H22. 3.18 記す)

畑屋のカンジョウ(下)

2010年04月14日 08時11分52秒 | 大淀町へ
カンジョウナワが道路、畑、畑屋川を跨るように掛けられている。

畑屋の集落に入る手前であるからして下流から疫病が入って来ないようにということだろう。

掛けられた時期はいつなのだろうか。

知人の話では上と下にあって、12月の第三日曜らしいということだが、一度訪ねてみなければならない。

(H22. 3.16 EOS40D撮影)

奇遇遭遇の巡拝

2010年04月13日 07時33分29秒 | 楽しみにしておこうっと
先週は予定稿の新聞記事が飛んでしまった。

その週はお水取りの真っ盛り。

本社の特集記事が3日続いた。

予定稿をみてもらった自治会長には丁重にお詫び申しあげた。

記事が載るやというて関係者には予め伝えていたそうだ。

辛い。

載る直前までこういう結果になるとほんまに辛い。

とはいっても黙って書くわけにもいかない。

それが自分自身には許せなくて、気もち的にも事前に紹介記事を確認していただくことが原則。

ということにしている。

そんなわけで今日は、取材のお礼も兼ねて曽爾村から東吉野村、川上村、大淀町、高取町、橿原市、大和郡山市へと10カ所以上の巡拝の旅に出た。

予めアポイントメントをとっているわけではないので、ご本人さんと会えたときはほっとする。

曽爾、東吉野と順調に出会えた。

昼食も取らずに先を急ぐ。

一日の休日時間はあっという間に終える。

時間は極めて大切なもの。

ゆっくりしている時間がない。

川上村の高原は度々おじゃましている。総代のIさんにはたいがい会える。

バイクがない。

ありゃ出かけていたかとYさん宅も寄ってみる。

急な階段を登る。

こちらも返事がない。

仕方がない。

次への訪問地に向かうが腹が減りすぎた。

吉野川中流域にはコンビニ店がある。

がっつりラーメンを口に入れて一服する間もなく大淀へと向かう。

車を停めてお伺いしたい家に向かって道路を横切ろうとした瞬間だった。

左から右へと流れる車から覗く顔。

手を振っている。

ありゃりゃ。

先ほど不在だったIさんだった。

奥さんと一緒に乗っている。

お聞きすれば私が到着する30分前に家を出たそうだ。

一軒寄ってきてこれから病院に向かうところだった。

2秒、1秒の時間差があったら遭遇していないところだった。

奇遇すぎるぐらいの遭遇点は土田だった。

そこから上比曽、高取の森へと順調に巡拝ができた。

佐田は不在だったが置き土産にした。

古川は不在だったが四条は尋ねに尋ねて総代さん家が見つかった。

写真は高原の祠にぶら下げてあった石。

どこかでも見かけたような気がするが思い出せない。

これは何を意味するのだろうか。

一度、尋ねてみたい。

(H22. 3.16 SB912SH撮影)

タワミネサンのゴク作り

2010年04月12日 07時09分26秒 | 曽爾村へ
タワミネサンの岳のぼりがある曽爾村の小長尾。

春の農休み(め)にあたる岳のぼり

農作業にとりかかる前に先に休んでおく農休めである。

六つのコバ(木場)から選ばれる当屋が岳のぼりに撒かれるモチを作る役目にあたる。

当屋はとーやと呼ぶ。

昔はふりだしと呼ばれる作法で当屋籤を引いた。

椀のなかに籤を入れて穴の開いた半紙を被せる。

それをふっと上に振る。

すると当たりの籤が飛び出す。

それが当屋さんだ。

いわゆる神籤であるのだが何故か何回も当たってしまうという元区長。

私が嫁にきてから3回も当たったんよと奥さんは話す。

不公平のないようにといつしか籤は家の順の廻り当番制になった。

天神社の当屋もそうなった。

かつては引き渡しもたいそうだった。

奉られた御幣を持って次の当屋の家に行く。

そこでごちそうを食べ、酒を飲み交わしていた。

長時間の引き渡しの場だった。

それがお茶を飲み交わすだけになった。

御幣を引き渡すのは変わっていないがすごく短時間になったという。

御幣は当屋の家で一年間奉る。

下のコバは5軒。

タワミネサンの当屋廻りは早い。

高齢化甚だしく、ゴク作りがたいへんだという。

ゴクは米粉(こめこ)が主体になる。

大字43軒は一升分ずつの白米を寄進する。

集まったら三斗にもなる。

単位は三斗だが、これをサンドと訛って呼ぶ。

米粉は挽いていた。

相当な量なので長時間どころかたいへんな重労働だった。

今年のタワミネサンから大きな転換が図られた。

米粉は米屋さんで挽く。

それなら最初から挽いてもらったほうがえーやろということで米屋から買うことにされた。

米粉は熱い湯を少しずつ注いで練る。

米粉だけではバラバラになる。

繋ぎに餅米を使う。

それと一緒に練るのだが、熱湯や配分加減は感覚でしているという。

湯は熱湯でないと口内でへばりつくそうだ。

コバごとに作るので食べたときにどこのコバが作ったんじゃと叱咤されるらしいのでゴク作りはたいへん重要なのだと話す。

ゴクは漢字で書けば御供。

練った米粉を棒状に伸ばして蒸す。

これをゆっくり冷ましてから切る。

タワミネサンの岳のぼりの前夜はこうして作業を終える。

村の大切な行事、米粉は買うようになったがゴク作りだけはこれから続けていきたいと仰る。

ちなみに大きく平べったいモチは「カサモチ」と呼んでいる。

(H22. 3.16 聞き取り)