
田子の浦部屋が相撲の稽古をすると「けはや相撲甚句会」の吉村元延会長が伝えてくれた。
場は葛城市當麻にある市施設の葛城市相撲館「けはや座」だ。

大関の稀勢の里、前頭の高安、十両の若の里が所属する田子の浦部屋の力士が「けはや座」の土俵で稽古をつける。
生の力士を見たさに訪れた観客でタマリ席・マス席は満席。
2階の椅子席も同じようだ。
会長ともども特別にプレス扱いをしてくださった施設運営責任者の西川好彦さんのご配慮をいただいて、力士の迫力ある稽古風景を撮らせてもらった。

関取は番付の横綱、大関、関脇、小結、前頭、十両。
月給が支払われる。

以下は幕下の力士養成員。
稽古用の木綿廻しは黒色。
一方の関取は木綿白廻しで違いが判る。
体格も違う。

そんなことを感じながら撮らせてもらった稽古姿。
私がテレビで観戦していた時代は栃錦、若の花、柏戸、大鵬時代。
なぜか栃錦に関心が移らず、なかでも柏戸がいちばん好きだった。

1960年代(昭和35年~)だったから10歳から15歳ぐらいのころだ。
1959年に創刊された週刊少年マガジン誌の表紙を飾った力士の顔は覚えている。
朝潮である。
一方の週刊少年サンデーは長嶋茂雄だった。
その後のスポーツといえば野球に興味が移っていた。

稽古を終えてロビーは観客で溢れていた。
その場を通った高安関。
ほのかに香った甘い匂いは敏感に鼻が反応した。
調べてみれば国技館で売っている純植物性の「オーミすき油」。
多少のことでは落ちないので一般の人が髪につけるのはお勧めしないとある。
鬢付け油の香りも初体験だった。

掲示写真は大関の稀勢の里、前頭の高安、十両の若の里。
化粧廻しが美しい。
相撲グッズを買う人もあれば力士にサインを求める観客が去った市相撲館「けはや座」。

館外に真新しい心柱のような木材を立ててあったがほとんどの人は気にもとめない。
下を見ればキリヌサが散らばっていた。

祓い清めの神事があったに違いない。
施設運営責任者の西川好彦さんの話しによれば前日に「鉄砲柱」の入魂式が行われたという。
材はヒノキ。やや楕円形の鉄砲柱の最大直径は45cm。
手を広げてやや上向きに胸などを突き飛ばす突っ張りの鍛錬に使う柱は北野木材(大阪府和泉市)が寄進された。
この日の稽古に特別参加された子供たちは入魂式の際の記念に入魂の「押す」をしたそうだ。
上は中学3年生から下は3歳児の「けはや道場」の子供たち。
葛城市、桜井市、天理市在住の子供相撲道場の力士は幼い子であって礼儀正しく力士と対戦していた。
相撲発祥の地に生まれた父親に話しを伺う。
父親は相撲取りをしたことはない。
サッカーや野球よりも相撲をやりたいと申し出た子供の夢を叶えたかった。
生まれた葛城市のお役に立ちたいと考えて「けはや道場」を立ち上げたそうだ。
市相撲館「けはや座」を訪れた本来の目的は稽古の廻しを干す姿であった。
「干す」をテーマに廻しを干している状態を見たくなって相撲甚句の会長にお願いしていた。
会長や西川好彦さんは館外駐車場にブルーシートを広げてそこで干していたという。
その様相は昨年の状況である。
この日は朝から雷も発生した天候不順。
稽古を終えた1時間後。
俄かに曇って降りだした雨。
干すこともなかったようだ。

稽古で土俵の砂を被った関取を水道水で流すのは付き人でもある幕下力士だ。
時間帯は午後4時過ぎ。
その後に行われたけはや相撲甚句も撮らせてもらって帰ろうとしたときである。
館外の床に直置きしていた黒・白の稽古廻しがあった。
いつのまにか干していたのだ。

雲斎木綿または帆布と呼ばれる廻しは硬い木綿布。
糊で固めているそうだ。
長さはどう見ても差があると思って手尺で測ってみた。
黒廻しの長さはおよそ360cm。
白廻しはざっと勘定して780cm。
おおよそ2倍にもなる長さだ。
力士の廻しは洗うことはない。
水入りを避けるという験担ぎもあるが、洗えば生地が弱って柔らかくなるからだ。
硬さが抜けた廻しは対戦力士に廻しを掴まれやすくなって不利になるということらしい。
市當麻の市相撲館「けはや座」で、大関・稀勢の里が所属する田子ノ浦部屋が葛城合宿し、朝稽古が一般公開されている。
葛城市によると、昔、當麻の村にいた當麻蹶速(たいまのけはや)が、出雲の国の野見宿禰(のみのすくね)と力比べをしたことが相撲の起源になったといい、同市は「相撲発祥の地」としている。
市相撲館は平成2年5月に開館。
館内には本場所と同じ大きさの土俵があるが、相撲部屋が合宿するのは初めて、という。
(H27. 6.21 EOS40D撮影)
場は葛城市當麻にある市施設の葛城市相撲館「けはや座」だ。

大関の稀勢の里、前頭の高安、十両の若の里が所属する田子の浦部屋の力士が「けはや座」の土俵で稽古をつける。
生の力士を見たさに訪れた観客でタマリ席・マス席は満席。
2階の椅子席も同じようだ。
会長ともども特別にプレス扱いをしてくださった施設運営責任者の西川好彦さんのご配慮をいただいて、力士の迫力ある稽古風景を撮らせてもらった。

関取は番付の横綱、大関、関脇、小結、前頭、十両。
月給が支払われる。

以下は幕下の力士養成員。
稽古用の木綿廻しは黒色。
一方の関取は木綿白廻しで違いが判る。
体格も違う。

そんなことを感じながら撮らせてもらった稽古姿。
私がテレビで観戦していた時代は栃錦、若の花、柏戸、大鵬時代。
なぜか栃錦に関心が移らず、なかでも柏戸がいちばん好きだった。

1960年代(昭和35年~)だったから10歳から15歳ぐらいのころだ。
1959年に創刊された週刊少年マガジン誌の表紙を飾った力士の顔は覚えている。
朝潮である。
一方の週刊少年サンデーは長嶋茂雄だった。
その後のスポーツといえば野球に興味が移っていた。

稽古を終えてロビーは観客で溢れていた。
その場を通った高安関。
ほのかに香った甘い匂いは敏感に鼻が反応した。
調べてみれば国技館で売っている純植物性の「オーミすき油」。
多少のことでは落ちないので一般の人が髪につけるのはお勧めしないとある。
鬢付け油の香りも初体験だった。

掲示写真は大関の稀勢の里、前頭の高安、十両の若の里。
化粧廻しが美しい。
相撲グッズを買う人もあれば力士にサインを求める観客が去った市相撲館「けはや座」。

館外に真新しい心柱のような木材を立ててあったがほとんどの人は気にもとめない。
下を見ればキリヌサが散らばっていた。

祓い清めの神事があったに違いない。
施設運営責任者の西川好彦さんの話しによれば前日に「鉄砲柱」の入魂式が行われたという。
材はヒノキ。やや楕円形の鉄砲柱の最大直径は45cm。
手を広げてやや上向きに胸などを突き飛ばす突っ張りの鍛錬に使う柱は北野木材(大阪府和泉市)が寄進された。
この日の稽古に特別参加された子供たちは入魂式の際の記念に入魂の「押す」をしたそうだ。
上は中学3年生から下は3歳児の「けはや道場」の子供たち。
葛城市、桜井市、天理市在住の子供相撲道場の力士は幼い子であって礼儀正しく力士と対戦していた。
相撲発祥の地に生まれた父親に話しを伺う。
父親は相撲取りをしたことはない。
サッカーや野球よりも相撲をやりたいと申し出た子供の夢を叶えたかった。
生まれた葛城市のお役に立ちたいと考えて「けはや道場」を立ち上げたそうだ。
市相撲館「けはや座」を訪れた本来の目的は稽古の廻しを干す姿であった。
「干す」をテーマに廻しを干している状態を見たくなって相撲甚句の会長にお願いしていた。
会長や西川好彦さんは館外駐車場にブルーシートを広げてそこで干していたという。
その様相は昨年の状況である。
この日は朝から雷も発生した天候不順。
稽古を終えた1時間後。
俄かに曇って降りだした雨。
干すこともなかったようだ。

稽古で土俵の砂を被った関取を水道水で流すのは付き人でもある幕下力士だ。
時間帯は午後4時過ぎ。
その後に行われたけはや相撲甚句も撮らせてもらって帰ろうとしたときである。
館外の床に直置きしていた黒・白の稽古廻しがあった。
いつのまにか干していたのだ。

雲斎木綿または帆布と呼ばれる廻しは硬い木綿布。
糊で固めているそうだ。
長さはどう見ても差があると思って手尺で測ってみた。
黒廻しの長さはおよそ360cm。
白廻しはざっと勘定して780cm。
おおよそ2倍にもなる長さだ。
力士の廻しは洗うことはない。
水入りを避けるという験担ぎもあるが、洗えば生地が弱って柔らかくなるからだ。
硬さが抜けた廻しは対戦力士に廻しを掴まれやすくなって不利になるということらしい。
市當麻の市相撲館「けはや座」で、大関・稀勢の里が所属する田子ノ浦部屋が葛城合宿し、朝稽古が一般公開されている。
葛城市によると、昔、當麻の村にいた當麻蹶速(たいまのけはや)が、出雲の国の野見宿禰(のみのすくね)と力比べをしたことが相撲の起源になったといい、同市は「相撲発祥の地」としている。
市相撲館は平成2年5月に開館。
館内には本場所と同じ大きさの土俵があるが、相撲部屋が合宿するのは初めて、という。
(H27. 6.21 EOS40D撮影)