大和郡山市の新庄町は50戸。
本村の旧村集落を西・東地区に分けてそれぞれが25戸ぐらいになるというからトーヤの廻りは25年に一度。
トーヤがお渡りをしていた素盞嗚神社のマツリを取材したことがある。
平成22年のことだ。
孫男子(当人と呼ぶ)は稲束と竹の御神酒入れを担いで、後方に就くトーヤ衆のお渡りをしていた。
素盞嗚神社には数々の燈籠が建之されている。
一つに「寛永元年(1624) 和州山邉 牛頭天王寶前夜燈」の刻印がみられた。
江戸時代初期には牛頭天王と呼ばれていた証しである。
祭礼の際にも聞いていたゴクツキはこの年も行われると知らせていただいたAさんは大和郡山市の観光ボランティアガイドを勤めている。
新庄町のマツリは10月12日。
前日の11日はヨイミヤである。
それに先だって行われるのがゴクツキである。
かつては前々日の10日であったが集まりやすい直前の日曜日になった。
ゴクツキを始めるまでは西・東(西は1組から3組・東が4組から5組で鉾立は6組になる)地区の氏子らが集まる体育館で村のヨバレのカラオケ大会。
賑やかに楽しそうな唄声が聞こえてくる。
かつてのヨバレの場はトーヤの家だったが、今では体育館。
「昔はお酒をたくさん飲む人も多かった。量も多くて終わるのは夕方近かった。今では酒量も減って、14時半頃には終わってしまう」と話す総代。
かつては西・東地区それぞれのトーヤ家で行われていたゴクツキ。
それはたいへんだったとこの年の東地区のHトーヤ婦人が話す。
いつしか負担も大きくなったことで両地区合同の在り方にしたそうだ。
ヨバレの最中には御輿が出発する。
子供会が曳く御輿は出屋敷と呼ばれる鉾立地区まで巡っていく。
鉾立地区においてもマツリが行われる。
ヨイミヤが12日でマツリが13日とあるから、新庄町の本村と重なる日もある。
唄声が静かになってヨバレの時間を終えた氏子たち。
会場である体育館から出てきた姿は和装に下駄履きだ。
次から次へと会場をあとにする氏子たち。
一旦は家に帰って普段着で再びやってくる。
マツリのゴクツキをするには和装は不都合となるので普段着になるのだ。
かつては和装のままでゴクツキをしていたそうだが、ゴクツキのトリコが服に飛び散るのを避けたいと云って普段着になったと話す。
ヨバレの時間帯に出発した子供会が曳く御輿が戻ってきた。
夏が戻ったような暑さに大人も子供も汗びっしょりのぐしょぐしょだ。
晴々とした笑顔はマツリの様相だが、ヨイミヤ、マツリには出仕せず、ゴクツキの日に巡行する。
御輿に乗って太鼓を打つ子供たち。
元気に打つ太鼓の音はマツリの囃し。
法被姿が頼もしい。
ようやく始まったゴクツキは石臼に杵で搗く。
一升の洗い米を準備していたのは両地区のトーヤ家。
普段着のホントーヤとアトトーヤが世話人を勤める。
蒸した米を石臼に入れてモチを搗く。
勢いがつくだろうと手拍子をしながらモチ搗き唄を歌うのは氏子総代のUさん。
「そこつきゃー へーそーだー ・・・ おもしろや」の音頭に合わせてモチを搗く。
モチは糊状になるぐらいの柔らかめが良いのだと云う氏子総代。
搗き手が何度か入れ替ってモチを搗く。
両地区それぞれのトーヤ家でゴクツキをしていた。
飲み過ぎてこってこてに杵につくぐらいモチはトロトロになった。
それが柔らかいモチであったのだ。
宵宮の白御幣とマツリの紺・白混ざりの御幣を作っていく御幣切り。
まずは三枚の扇を丸い状態になるように端と端を括りつける。
氏子総代が小学生のころは扇三枚の日の丸御幣であったが、今では一枚に赤ペンを5本入れた扇である。
「戦争に負けたからそうなったんや」と云うが、真説を知っていた長老が亡くなり、今となっては事実関係が判らないと云う。
マツリを終えたトーヤは扇を残しておき、行事の度に家にある扇を和装帯に挿してやってくる。
扇を持っているのは継いできたトーヤの証しであると見せてくれた。
御幣切りをしている最中である。
搗いたモチを皿に盛っていくホントーヤとアトトーヤは忙しい。
作業中であってもよばれるトーヤ振る舞いのモチはキナコモチ。
砂糖を包むようにして食べる人もおれば、塗して食べる人もいる。
稀には塩を入れているモチもあるそうだ。
さっぱりしてその方が美味しいと云う人もあれば、辛いという人も。
塩入りのモチ話で安堵や香芝下田のシオアンモチを思い起こした。
なかには五円玉も入れているモチもある。
そのモチは長寿の祝いにこの場に居る長老に当たるようにしていると話す。
3年前に聞いていたキナコモチは「テーバイ」と呼んでいた。
「テーバイ」は「手祝いモチ」。
トーヤ振る舞いの祝いモチである。
30人以上も集まった体育館会議室は御幣切りの作業をする氏子たちでごったがえす。
東・西両地区が分かれて作業をしてきた御幣切り。
御幣の形式に特徴がある。
紺、色の幣も特徴であるが、幣の心棒に取り付けた日の丸御幣の左右に一本に竹が目立つ。
そこに左右、4枚ずつ垂らした格好は、まるで一本足の案山子の姿に見える。
御幣に半合の洗い米を包んだ半紙を取り付けてできあがった。
本来なら今夕に提灯を掲げるのだが、台風24号がやってくる可能性があることから4日後の10日にすると伝えられてゴクツキを終えた。
(H25.10. 6 EOS40D撮影)
本村の旧村集落を西・東地区に分けてそれぞれが25戸ぐらいになるというからトーヤの廻りは25年に一度。
トーヤがお渡りをしていた素盞嗚神社のマツリを取材したことがある。
平成22年のことだ。
孫男子(当人と呼ぶ)は稲束と竹の御神酒入れを担いで、後方に就くトーヤ衆のお渡りをしていた。
素盞嗚神社には数々の燈籠が建之されている。
一つに「寛永元年(1624) 和州山邉 牛頭天王寶前夜燈」の刻印がみられた。
江戸時代初期には牛頭天王と呼ばれていた証しである。
祭礼の際にも聞いていたゴクツキはこの年も行われると知らせていただいたAさんは大和郡山市の観光ボランティアガイドを勤めている。
新庄町のマツリは10月12日。
前日の11日はヨイミヤである。
それに先だって行われるのがゴクツキである。
かつては前々日の10日であったが集まりやすい直前の日曜日になった。
ゴクツキを始めるまでは西・東(西は1組から3組・東が4組から5組で鉾立は6組になる)地区の氏子らが集まる体育館で村のヨバレのカラオケ大会。
賑やかに楽しそうな唄声が聞こえてくる。
かつてのヨバレの場はトーヤの家だったが、今では体育館。
「昔はお酒をたくさん飲む人も多かった。量も多くて終わるのは夕方近かった。今では酒量も減って、14時半頃には終わってしまう」と話す総代。
かつては西・東地区それぞれのトーヤ家で行われていたゴクツキ。
それはたいへんだったとこの年の東地区のHトーヤ婦人が話す。
いつしか負担も大きくなったことで両地区合同の在り方にしたそうだ。
ヨバレの最中には御輿が出発する。
子供会が曳く御輿は出屋敷と呼ばれる鉾立地区まで巡っていく。
鉾立地区においてもマツリが行われる。
ヨイミヤが12日でマツリが13日とあるから、新庄町の本村と重なる日もある。
唄声が静かになってヨバレの時間を終えた氏子たち。
会場である体育館から出てきた姿は和装に下駄履きだ。
次から次へと会場をあとにする氏子たち。
一旦は家に帰って普段着で再びやってくる。
マツリのゴクツキをするには和装は不都合となるので普段着になるのだ。
かつては和装のままでゴクツキをしていたそうだが、ゴクツキのトリコが服に飛び散るのを避けたいと云って普段着になったと話す。
ヨバレの時間帯に出発した子供会が曳く御輿が戻ってきた。
夏が戻ったような暑さに大人も子供も汗びっしょりのぐしょぐしょだ。
晴々とした笑顔はマツリの様相だが、ヨイミヤ、マツリには出仕せず、ゴクツキの日に巡行する。
御輿に乗って太鼓を打つ子供たち。
元気に打つ太鼓の音はマツリの囃し。
法被姿が頼もしい。
ようやく始まったゴクツキは石臼に杵で搗く。
一升の洗い米を準備していたのは両地区のトーヤ家。
普段着のホントーヤとアトトーヤが世話人を勤める。
蒸した米を石臼に入れてモチを搗く。
勢いがつくだろうと手拍子をしながらモチ搗き唄を歌うのは氏子総代のUさん。
「そこつきゃー へーそーだー ・・・ おもしろや」の音頭に合わせてモチを搗く。
モチは糊状になるぐらいの柔らかめが良いのだと云う氏子総代。
搗き手が何度か入れ替ってモチを搗く。
両地区それぞれのトーヤ家でゴクツキをしていた。
飲み過ぎてこってこてに杵につくぐらいモチはトロトロになった。
それが柔らかいモチであったのだ。
宵宮の白御幣とマツリの紺・白混ざりの御幣を作っていく御幣切り。
まずは三枚の扇を丸い状態になるように端と端を括りつける。
氏子総代が小学生のころは扇三枚の日の丸御幣であったが、今では一枚に赤ペンを5本入れた扇である。
「戦争に負けたからそうなったんや」と云うが、真説を知っていた長老が亡くなり、今となっては事実関係が判らないと云う。
マツリを終えたトーヤは扇を残しておき、行事の度に家にある扇を和装帯に挿してやってくる。
扇を持っているのは継いできたトーヤの証しであると見せてくれた。
御幣切りをしている最中である。
搗いたモチを皿に盛っていくホントーヤとアトトーヤは忙しい。
作業中であってもよばれるトーヤ振る舞いのモチはキナコモチ。
砂糖を包むようにして食べる人もおれば、塗して食べる人もいる。
稀には塩を入れているモチもあるそうだ。
さっぱりしてその方が美味しいと云う人もあれば、辛いという人も。
塩入りのモチ話で安堵や香芝下田のシオアンモチを思い起こした。
なかには五円玉も入れているモチもある。
そのモチは長寿の祝いにこの場に居る長老に当たるようにしていると話す。
3年前に聞いていたキナコモチは「テーバイ」と呼んでいた。
「テーバイ」は「手祝いモチ」。
トーヤ振る舞いの祝いモチである。
30人以上も集まった体育館会議室は御幣切りの作業をする氏子たちでごったがえす。
東・西両地区が分かれて作業をしてきた御幣切り。
御幣の形式に特徴がある。
紺、色の幣も特徴であるが、幣の心棒に取り付けた日の丸御幣の左右に一本に竹が目立つ。
そこに左右、4枚ずつ垂らした格好は、まるで一本足の案山子の姿に見える。
御幣に半合の洗い米を包んだ半紙を取り付けてできあがった。
本来なら今夕に提灯を掲げるのだが、台風24号がやってくる可能性があることから4日後の10日にすると伝えられてゴクツキを終えた。
(H25.10. 6 EOS40D撮影)