昨日、一昨日の両日は気温(※奈良県は20度/19度)も上がらない肌寒さを感じる日だった。
奈良県の気象予報によれば、朝に遅霜になると・・。
翌日の11日はうってかわって3度も上昇し、気温は23度にも。
昼前にはぐんぐん上昇していたが、それ以上は望めそうにもない。
湿度は高くなく、気持ち良いほどのさらさら風が頬を撫でる。
それは大阪の気温であり、奈良県では昼間の気温が26度にも上昇していたというから驚きだ。
この日に行われる神事は卯之葉神事。
生まれ故郷のすぐ隣の区になる大阪市住吉区に鎮座する住吉大社行事を拝見したく、わざわざ生まれ故郷の西住之江に車を停め、南海電車に乗ってやってきた。
住吉大社行事に卯之葉神事があると知ったのは、Mさんが贈ってくださった招待券にある。
Mさんが所属する天王寺楽所(がくそ)・雅亮会の演奏会鑑賞券は「海神への供物Ⅰ~住吉大社と天王寺楽所(がくそ)」。
初めて拝聴・拝見する舞台は大阪の都市部。
中央区にある中之島フェスティバルタワーホールである。
演目は、第一部に卯の葉神事。
第二部が観月祭だった。
舞台から一番遠い位置の指定席から拝見したが、肉眼ゆえ細かい所作などはまったく見えない。
舞台を神事の場に置き替えての造りだけに、違和感ももった。
本物を観たい。
そう思ってやってきた住吉大社。
実に8年ぶりの訪問である。
江戸時代のころ、商いの都と称された大坂。
現在行政区域の大阪市住吉区住吉に鎮座する住吉大社。
私の生まれ故郷の住吉区に坐います。
高校を卒業してから4年後の昭和49年7月22日、行政区分替えがあった。
住吉区から分区した住之江区北島であるが、分区前は住吉区北島が現住所であった。
生まれも育ちも住吉区。
住吉大社は、親しみを込めて今でも「すみよっさん」と呼んでいる。
下町の風情が色濃く残る町。
街中を行き交う、昔懐かしい路面電車が南北に走る。
阪堺電気軌道鉄道が正式な会社名であるが、路面電車が走る際にチンチンと・・。
その音からチンチン電車と呼んでいた。
尤も私が住まいする北島から歩いて乗ったチンチン電車。
乗り降りする駅が我孫子道駅名だったことから、あびこ電車と呼ぶこともあった。
子どものころから高校を卒業するまで乗車していたチンチン電車である。
路面電車が行き交う軌道の辺り、西の方角は平安時代のころまで松並木が続く海岸線だった。
墨江ノ津(すみのえのつ)と呼ばれていた港。
行き交っていたのは舟である。
《古事記》の仁徳天皇条に“墨江之津”を定める、とある。
遣唐使も当地を利用した由緒ある地名は、今でも残る大阪市住吉区墨江町名・・・。
住吉大社に伝わる古絵図があるそうだ。
境内近くまで押し寄せる海岸線の向こうは大きく広がる大阪湾であった。
チンチン電車が走る西が海だったとは、現代人には想像しがたいだろう。
絵図に描かれている高灯籠(たかどうろう)。
今も健在であるが、現在はもっと西寄り。
旧国道26号線のすぐ南に移設している。

明治時代のころまでは、すぐ傍が海だったチンチン電車の乗降場。
降りた目の前に建つ住吉大社の一ノ鳥居。
朱塗りの鳥居は、西大鳥居と呼ぶ。
ここからが東に向かう参拝の道。
太鼓橋の名で親しまれている反橋(そりばし)。

長さはおよそ20mで、高さが3.6mの反橋。
建之されたころは、海辺を跨ぎ、境内と向こう岸を結ぶ橋であった。

手水舎で清めてから参拝。
すぐそこにも鳥居がある。
珍しい四角柱の角鳥居を潜れば御門である。
この年の卯之葉神事には明治維新150祭も併せて行うとアナウンスされていた。
今年の花つきは数週間も早い年。
奈良県内の桜もそうだったが、例年より一週間、いや2週間も早くに咲いた地域もある。
おふくろとともに大阪・住之江で桜見をしたのは4月に入る手前の3月27日だった。
花見の地は住吉川の桜堤。
えー具合に桜が咲いていたことを考えれば、例年よりたしかに早いのである。
神事に献納される卯の葉。

奉奠される玉串は卯の葉。
それもびっしりと白い花をつけていた。
一般的に玉串といえば榊であるが、神事名が卯の葉神事というだけに珍しい在り方だと思う。

その有難い卯の葉玉串を奉奠させていただく神事です、と伝えていた。
神事が始まるまでに撮っていた卯の葉玉串。
参拝される人たちは、予め調えていた卯の葉にはあまり関心を寄せていなかったようだ。

やがて太鼓が打たれると、宮司、神職に神楽女が参進する。

テントを設営した御席は招待者席。
一般の人は座ることのできない御席。

ほぼ満席になっていた。
その周りを囲むのが一般参賀の人たち。
何事がはじまるかのような雰囲気に外国の人たちも。
私といえば築塀に一番近いところで拝見していた。
そこには台湾の国から来たと思われる女性たちもいる。
スマホで録画を撮っているようだ。
神事が始まってアナウンスの声に合わせて立っていたものの座り込む姿も。
この場はどういう場であるのか理解の乏しい人たち。
やむなしと思いたいところだが・・。

神事は祓の詞、宮司拝、禰宜による祓の儀。
なぜかオオオォー、警蹕もなく行われる開扉であった。

住吉大社の在り方がそうなのであろうか。
それとも耳鳴り症状が酷くなった私の耳のせいだろうか・・。
次のアナウンスに聞こえた“せんをきょうす”・・・。
“せんをきょうす”とはなんであろうか。
次は“けんこう”に、家元のご奉仕。
さて、“けんこう”とは・・。
“けんちゃ”に茶道の奉納とアナウンスされて理解できた。
“せんをきょうす”は、私の聞き誤りかもしれない。
“せんをきょうす”ではなく、“けんをきょうす”ではなかろうか。
そうであれば、「献を供す」となる。はて、である。
元春日大社権宮司(※現奈良県立大学客員教授)の岡本彰夫氏にご享受いただいた、それは“饌を供す”であろう、という。
なるほど、である
「けんこう」とは「献香」である。
この日に配られた「住吉大社 卯の葉神事」の栞表紙に書いてあった「献香」に「献茶」される方々の団体名。
献香は福井北勝洞社中の家元。
献茶は茶道裏千家八木社中の人たちだった。

テント手前側に居られた着物姿の二人の男女。
男性が家元であろう。
何やら道具を用いて動作をしているが、遠くからでは作法がわからない。
香を立てていたのか、それとも茶を点てていたのか。
次は楽曲が流れるなか執り行われる作法であった。
次は宮司の祝詞奏上。
頭を垂れてくださいとアナウンス。
これも従う参賀の人たち。
四人の神楽女(巫女)が舞う神楽。

神座に神を迎えて行う鎮魂の神事であるといわれる。
白衣に緋の差貫(さしぬき)、舞衣(まいきぬ)を身につけた神楽女。
髪には、松に鷺のかざしを挿した神楽女が舞う。
立ち位置、移動できずに柱の陰になった神楽女の所作姿をとらえるのは難しい。
宮司による玉串奉奠、そして招待者の人たちの奉奠が続く。

禰宜から恭しく受け取った卯の葉玉串を奉奠する。
最後に一般参賀の代表指名された住吉踊りのお師匠さんだった。
祝電披露の際に場を離れて舞楽を奉納される石舞台に移動する。
撮影できそうな位置決めはもはや遅い。
石舞台を拝見できる場所にはスチール椅子が用意されていた。
そこは招待者席。
それより後方からが一般の人たちが見られる場であるが、細部はもちろん見えない。
しばらくして宮司、神職、神楽女が移動され五所御前(ごしょごぜん)に就く。
五所御前の玉垣内部に植わる杉の木があり、その木に3羽の鷺がとまったことから社地に定められ、この地に住吉大神が鎮座された。
その日は、神功皇后摂政十一年(211)辛卯(しんぼう)年の卯月の卯日。
卯の葉神事は、御鎮座を祝す行事。
現在は、卯の花が咲く、5月最初の卯月卯日に卯之葉神事を斎行される。
この年の卯月卯日は、5月11日。
旧暦の卯月卯日に斎行される卯の葉神事である。

舞楽奉納に先立って行われる五所御前での祭式行事作法。
宮司の玉串拝礼に続いて参列者の玉串拝礼。
以下、退下されてから始まる舞楽演奏である。
舞人が舞う石舞台は、四天王寺、厳島神社とともに日本三舞台と称され、今から凡そ400年前の慶長十二年(1067)、豊臣秀頼公によって寄進・奉納されたもので、国の重要文化財に指定されている。
また、正面南門脇に建つ東西楽所の前に設えた火焔太鼓こと大太鼓(だだいこ)もまた同時に奉納されとも。

舞楽の上演に先立ち、舞台を清め邪気を払う儀式的要素の強い、まずは振鉾(えんぶ)。
舞は、三節からなり、第一節は新楽(しんがく)乱声によって左方舞人が。
第二節は高麗(こま)乱声(らんじょう)によって右方舞人が奏舞し、第三節に新楽、高麗両乱声を奏す中、左右の舞人が揃って奏舞。

この三節を特に「合鉾(あわせぼこ)」という。
伴奏は、龍笛、高麗笛を主に打楽器の太鼓と鉦鼓の編成。
楽曲は洋楽のカノン風に笛の各奏者が追復的に吹奏していく特殊な演奏形式の乱声である。
次の演目は桃李花(とうりか)。
赤白桃李花(せきはつとうりか)という別称をもつ。

桃の花が咲く3月3日の上巳の日に、曲水の宴で多く演奏された曲であるといわれている。
中国系の左方の舞。
艶やかな紫色地に、獅子の縫い取りがほどこされた袍(ほう)の袖を翻す。

舞の特徴である指手(さすて)を幾度となく繰り返しながら美しく舞う態である。
次に右方の舞の仁和楽(にんならく)。

高麗楽壱越調に属する楽曲であるが、外来の曲ではなく日本製の楽曲。
仁和年間、光孝天皇の勅令によって百済の貞雄(ていゆう)が作り、年号をとって曲名にしたと云われている日本で初めて作曲・作舞された、楽曲。

舞人は、鳥兜をかぶり、襲装束を身に着けて右方を袒いで舞う四人舞である。
そして、最後に舞う抜頭(ばとう)。
長い髪が前に垂れ、鼻の高い独特の面で舞う一人舞。

天平年間(729-749)に、林邑僧の仏哲が伝えたという。
左方の舞楽の他、右方の舞楽の伴奏用にも用いられる。

特徴ある赤顔・深目で釣顎(つりあご)の仮面を着け、1尺1寸の桴(ばち)を持ち、舞台に置かれた金色の木製の蛇を持って歓喜跳躍する。
退出音声に長慶子(ちょうげいし)、そして撤饌。

午後1時から始まった卯の葉神事および舞楽奉納は2時間。
立ち見であるが、樹木下での鑑賞に暑さを凌がせてもらった。
ちなみに、住吉武道館を挟んで反対側に13品種、凡そ500株の卯の花を植えている“卯の花苑”がある。
見ごろは5月初旬から月末まで。
卯の葉神事に合わせて、一般公開されている。
(H30. 5.11 SB932SH撮影)
(H30. 5.11 EOS7D撮影)
奈良県の気象予報によれば、朝に遅霜になると・・。
翌日の11日はうってかわって3度も上昇し、気温は23度にも。
昼前にはぐんぐん上昇していたが、それ以上は望めそうにもない。
湿度は高くなく、気持ち良いほどのさらさら風が頬を撫でる。
それは大阪の気温であり、奈良県では昼間の気温が26度にも上昇していたというから驚きだ。
この日に行われる神事は卯之葉神事。
生まれ故郷のすぐ隣の区になる大阪市住吉区に鎮座する住吉大社行事を拝見したく、わざわざ生まれ故郷の西住之江に車を停め、南海電車に乗ってやってきた。
住吉大社行事に卯之葉神事があると知ったのは、Mさんが贈ってくださった招待券にある。
Mさんが所属する天王寺楽所(がくそ)・雅亮会の演奏会鑑賞券は「海神への供物Ⅰ~住吉大社と天王寺楽所(がくそ)」。
初めて拝聴・拝見する舞台は大阪の都市部。
中央区にある中之島フェスティバルタワーホールである。
演目は、第一部に卯の葉神事。
第二部が観月祭だった。
舞台から一番遠い位置の指定席から拝見したが、肉眼ゆえ細かい所作などはまったく見えない。
舞台を神事の場に置き替えての造りだけに、違和感ももった。
本物を観たい。
そう思ってやってきた住吉大社。
実に8年ぶりの訪問である。
江戸時代のころ、商いの都と称された大坂。
現在行政区域の大阪市住吉区住吉に鎮座する住吉大社。
私の生まれ故郷の住吉区に坐います。
高校を卒業してから4年後の昭和49年7月22日、行政区分替えがあった。
住吉区から分区した住之江区北島であるが、分区前は住吉区北島が現住所であった。
生まれも育ちも住吉区。
住吉大社は、親しみを込めて今でも「すみよっさん」と呼んでいる。
下町の風情が色濃く残る町。
街中を行き交う、昔懐かしい路面電車が南北に走る。
阪堺電気軌道鉄道が正式な会社名であるが、路面電車が走る際にチンチンと・・。
その音からチンチン電車と呼んでいた。
尤も私が住まいする北島から歩いて乗ったチンチン電車。
乗り降りする駅が我孫子道駅名だったことから、あびこ電車と呼ぶこともあった。
子どものころから高校を卒業するまで乗車していたチンチン電車である。
路面電車が行き交う軌道の辺り、西の方角は平安時代のころまで松並木が続く海岸線だった。
墨江ノ津(すみのえのつ)と呼ばれていた港。
行き交っていたのは舟である。
《古事記》の仁徳天皇条に“墨江之津”を定める、とある。
遣唐使も当地を利用した由緒ある地名は、今でも残る大阪市住吉区墨江町名・・・。
住吉大社に伝わる古絵図があるそうだ。
境内近くまで押し寄せる海岸線の向こうは大きく広がる大阪湾であった。
チンチン電車が走る西が海だったとは、現代人には想像しがたいだろう。
絵図に描かれている高灯籠(たかどうろう)。
今も健在であるが、現在はもっと西寄り。
旧国道26号線のすぐ南に移設している。

明治時代のころまでは、すぐ傍が海だったチンチン電車の乗降場。
降りた目の前に建つ住吉大社の一ノ鳥居。
朱塗りの鳥居は、西大鳥居と呼ぶ。
ここからが東に向かう参拝の道。
太鼓橋の名で親しまれている反橋(そりばし)。

長さはおよそ20mで、高さが3.6mの反橋。
建之されたころは、海辺を跨ぎ、境内と向こう岸を結ぶ橋であった。

手水舎で清めてから参拝。
すぐそこにも鳥居がある。
珍しい四角柱の角鳥居を潜れば御門である。
この年の卯之葉神事には明治維新150祭も併せて行うとアナウンスされていた。
今年の花つきは数週間も早い年。
奈良県内の桜もそうだったが、例年より一週間、いや2週間も早くに咲いた地域もある。
おふくろとともに大阪・住之江で桜見をしたのは4月に入る手前の3月27日だった。
花見の地は住吉川の桜堤。
えー具合に桜が咲いていたことを考えれば、例年よりたしかに早いのである。
神事に献納される卯の葉。

奉奠される玉串は卯の葉。
それもびっしりと白い花をつけていた。
一般的に玉串といえば榊であるが、神事名が卯の葉神事というだけに珍しい在り方だと思う。

その有難い卯の葉玉串を奉奠させていただく神事です、と伝えていた。
神事が始まるまでに撮っていた卯の葉玉串。
参拝される人たちは、予め調えていた卯の葉にはあまり関心を寄せていなかったようだ。

やがて太鼓が打たれると、宮司、神職に神楽女が参進する。

テントを設営した御席は招待者席。
一般の人は座ることのできない御席。

ほぼ満席になっていた。
その周りを囲むのが一般参賀の人たち。
何事がはじまるかのような雰囲気に外国の人たちも。
私といえば築塀に一番近いところで拝見していた。
そこには台湾の国から来たと思われる女性たちもいる。
スマホで録画を撮っているようだ。
神事が始まってアナウンスの声に合わせて立っていたものの座り込む姿も。
この場はどういう場であるのか理解の乏しい人たち。
やむなしと思いたいところだが・・。

神事は祓の詞、宮司拝、禰宜による祓の儀。
なぜかオオオォー、警蹕もなく行われる開扉であった。

住吉大社の在り方がそうなのであろうか。
それとも耳鳴り症状が酷くなった私の耳のせいだろうか・・。
次のアナウンスに聞こえた“せんをきょうす”・・・。
“せんをきょうす”とはなんであろうか。
次は“けんこう”に、家元のご奉仕。
さて、“けんこう”とは・・。
“けんちゃ”に茶道の奉納とアナウンスされて理解できた。
“せんをきょうす”は、私の聞き誤りかもしれない。
“せんをきょうす”ではなく、“けんをきょうす”ではなかろうか。
そうであれば、「献を供す」となる。はて、である。
元春日大社権宮司(※現奈良県立大学客員教授)の岡本彰夫氏にご享受いただいた、それは“饌を供す”であろう、という。
なるほど、である
「けんこう」とは「献香」である。
この日に配られた「住吉大社 卯の葉神事」の栞表紙に書いてあった「献香」に「献茶」される方々の団体名。
献香は福井北勝洞社中の家元。
献茶は茶道裏千家八木社中の人たちだった。

テント手前側に居られた着物姿の二人の男女。
男性が家元であろう。
何やら道具を用いて動作をしているが、遠くからでは作法がわからない。
香を立てていたのか、それとも茶を点てていたのか。
次は楽曲が流れるなか執り行われる作法であった。
次は宮司の祝詞奏上。
頭を垂れてくださいとアナウンス。
これも従う参賀の人たち。
四人の神楽女(巫女)が舞う神楽。

神座に神を迎えて行う鎮魂の神事であるといわれる。
白衣に緋の差貫(さしぬき)、舞衣(まいきぬ)を身につけた神楽女。
髪には、松に鷺のかざしを挿した神楽女が舞う。
立ち位置、移動できずに柱の陰になった神楽女の所作姿をとらえるのは難しい。
宮司による玉串奉奠、そして招待者の人たちの奉奠が続く。

禰宜から恭しく受け取った卯の葉玉串を奉奠する。
最後に一般参賀の代表指名された住吉踊りのお師匠さんだった。
祝電披露の際に場を離れて舞楽を奉納される石舞台に移動する。
撮影できそうな位置決めはもはや遅い。
石舞台を拝見できる場所にはスチール椅子が用意されていた。
そこは招待者席。
それより後方からが一般の人たちが見られる場であるが、細部はもちろん見えない。
しばらくして宮司、神職、神楽女が移動され五所御前(ごしょごぜん)に就く。
五所御前の玉垣内部に植わる杉の木があり、その木に3羽の鷺がとまったことから社地に定められ、この地に住吉大神が鎮座された。
その日は、神功皇后摂政十一年(211)辛卯(しんぼう)年の卯月の卯日。
卯の葉神事は、御鎮座を祝す行事。
現在は、卯の花が咲く、5月最初の卯月卯日に卯之葉神事を斎行される。
この年の卯月卯日は、5月11日。
旧暦の卯月卯日に斎行される卯の葉神事である。

舞楽奉納に先立って行われる五所御前での祭式行事作法。
宮司の玉串拝礼に続いて参列者の玉串拝礼。
以下、退下されてから始まる舞楽演奏である。
舞人が舞う石舞台は、四天王寺、厳島神社とともに日本三舞台と称され、今から凡そ400年前の慶長十二年(1067)、豊臣秀頼公によって寄進・奉納されたもので、国の重要文化財に指定されている。
また、正面南門脇に建つ東西楽所の前に設えた火焔太鼓こと大太鼓(だだいこ)もまた同時に奉納されとも。

舞楽の上演に先立ち、舞台を清め邪気を払う儀式的要素の強い、まずは振鉾(えんぶ)。
舞は、三節からなり、第一節は新楽(しんがく)乱声によって左方舞人が。
第二節は高麗(こま)乱声(らんじょう)によって右方舞人が奏舞し、第三節に新楽、高麗両乱声を奏す中、左右の舞人が揃って奏舞。

この三節を特に「合鉾(あわせぼこ)」という。
伴奏は、龍笛、高麗笛を主に打楽器の太鼓と鉦鼓の編成。
楽曲は洋楽のカノン風に笛の各奏者が追復的に吹奏していく特殊な演奏形式の乱声である。
次の演目は桃李花(とうりか)。
赤白桃李花(せきはつとうりか)という別称をもつ。

桃の花が咲く3月3日の上巳の日に、曲水の宴で多く演奏された曲であるといわれている。
中国系の左方の舞。
艶やかな紫色地に、獅子の縫い取りがほどこされた袍(ほう)の袖を翻す。

舞の特徴である指手(さすて)を幾度となく繰り返しながら美しく舞う態である。
次に右方の舞の仁和楽(にんならく)。

高麗楽壱越調に属する楽曲であるが、外来の曲ではなく日本製の楽曲。
仁和年間、光孝天皇の勅令によって百済の貞雄(ていゆう)が作り、年号をとって曲名にしたと云われている日本で初めて作曲・作舞された、楽曲。

舞人は、鳥兜をかぶり、襲装束を身に着けて右方を袒いで舞う四人舞である。
そして、最後に舞う抜頭(ばとう)。
長い髪が前に垂れ、鼻の高い独特の面で舞う一人舞。

天平年間(729-749)に、林邑僧の仏哲が伝えたという。
左方の舞楽の他、右方の舞楽の伴奏用にも用いられる。

特徴ある赤顔・深目で釣顎(つりあご)の仮面を着け、1尺1寸の桴(ばち)を持ち、舞台に置かれた金色の木製の蛇を持って歓喜跳躍する。
退出音声に長慶子(ちょうげいし)、そして撤饌。

午後1時から始まった卯の葉神事および舞楽奉納は2時間。
立ち見であるが、樹木下での鑑賞に暑さを凌がせてもらった。
ちなみに、住吉武道館を挟んで反対側に13品種、凡そ500株の卯の花を植えている“卯の花苑”がある。
見ごろは5月初旬から月末まで。
卯の葉神事に合わせて、一般公開されている。
(H30. 5.11 SB932SH撮影)
(H30. 5.11 EOS7D撮影)