goo blog サービス終了のお知らせ 

マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

染め初め体験

2010年08月10日 08時02分37秒 | メモしとこっ!
染めの道具は洗濯鋏、大小のビー玉、品質切れの小豆、フイルムケース、クリップに箸まである箱本館「紺屋」。

それは多彩なものでいかように使っても構わない。

創造力を膨らませて白いTシャツにデザインしていく。

普段着の上に作業着を装着する。

足は長靴。

手は長いビニール手袋。

完全武装で染めのときに弾ける滴から身体を衛る。

FIXしたら水で絞る。

染めにムラがでないように染料を下地に染みこませるためだ。

一回目の染めに投じる。



静かに沈めていく。

浮かび上がらないように手で押し込む。

ゆっくりとかき回す。

ジワジワと染みこんでいく様子は藍瓶の中だから見えない。

丸い泡がプクと盛り上がった。

エメラルドグリーン色のようだ。

これは酸化の色だという。

3分間、染め込んだら引き上げて手で絞る。

滴が出なくなったら水槽で洗う。



生地に緑色が出なくなるまで洗う。

これも酸化で、そうすると藍の色は発色しないそうだ。

藍染めはアルカリ性だそうだというが頭の中は整理できていない。

この手順は三回するのだが、ラストはとめてあった洗濯鋏などを外した。

全部ではなくてほんの一部にした。

そうするとそこだけが染めが薄くなる。

多少のぼかしがでると思って外したのだがさてさて。

最後の工程はお酢浸け。

フイルムでいえば現像の定着だ。

お酢はアルカリ性。酸化をくい止めるとういうわけだ。

そして水洗い。

かつては前の紺屋川で晒していたのであろう。



できあがりは乾いてからのお楽しみだ。

藍染めの原料となる藍(タデアイ)は裏庭で植生されていることを付け加えておこう。



(H22. 7. 3 SB932SH撮影)

まほろばでふれあい

2010年07月23日 07時36分14秒 | メモしとこっ!
始めて平城遷都会場にやってきた。

駐輪場に自転車を停めてまほろば交流館に向かった。

会場は三つの団体が準備に追われていた。

金魚すくいは市地域振興課。物

産販売はこちくやさん。

金魚の折り紙作りはボランティアガイドクラブだ。

前夜も準備されていたのだがスタートは20時。

しかも会場オープンは10時。

時間的な余裕はないが作業が再開された。

郡山の行事を紹介する写真展は市の担当者が行ってくれた。

パネルをピンで止めるわけだが、何をどういう位置で展示するかは私がセレクションした。

当初聞いていたパネル数よりもぐっと減って15枚。

1枚に2、3枚の写真と解説文を配置する。

カテゴリーを早急に決めて指示をしながら張っていく。

67行事のなかから厳選して39行事の写真を展示。

10時の開場を過ぎても間に合わなかったがなんとか格好がついた。

まほろばステージで繰り出すショーの音が響いてきた。

せんとくんもやってきて賑やかさが増幅した。



徐々に現れる観光客。

同一ブースには宇陀市松山と高取町。

三つの城がある奈良の代表市が集まった。

それぞれの地域の見所が紹介されている。

私は展示場で立ち続けて訪れる人を待った。

パラパラと立ち見入るお客さん。

見てくれるだけで嬉しいものだ。

郡山は懐かしいと言った生駒の男性。

昔に居住していた井戸野でも砂の道があったという。

貝吹きや観音講を見てもらったら住んでいたころの記憶が蘇ったと笑顔で答えられた。

親子連れで来られていた人は写真を指さした。

お聞きすれば母親だという。

地蔵盆でお世話になった自治会長さんの娘さんだったのだ。

もう一組の親子連れの人は別の写真を指さした。

地蔵盆で法要を営むお坊さんだ。

学校でお世話になっている人だという。

行事写真で繋がる地域のふれあいが会場に蘇った。

会場ではそれからも立ち寄る人が流れていく。

解説文をじっくり読んでいく人。

さァーっと一回りする人とさまざまだ。

ご夫婦が「フクマル」はうちにもあると話してくれた。

ひょっとしたら山添村の菅生ではといえばそうだった。

菅生ではいろんな行事があるのよと教えてくださった。

4月はオイナリサンのモチマキ、7月はアタゴサンのモチマキがあるという。

10月の秋祭りは子供の泣き相撲。

赤子を抱えて上に上げる。

泣いたら負けだという。

興味が尽きない菅生の行事。

初参会のオトナ講も判ったし、山の神しか取材できていなかっただけにありがたい情報に是非ともおじゃましたい。

しかもだ。

翌日の朝には瀧倉の二老さんまで出会った。

まほろば会場はふれあい以上の出合い場でもあった。

初日に置いた解説資料は40部配置して残りが3部。

翌日に12部を持っていった。

市担当も何部か置いてくれた(と思う)。

で、撤収のときは1部だった。

50部以上の持ち帰り。

どなたか判りませんがこの場をお借りして御礼申し上げます。

(H22. 6. 6 SB932SH撮影)

三日間の展示

2010年07月10日 07時35分06秒 | メモしとこっ!
突然のごとく市役所から依頼が舞い込んだ。

今年は平城遷都1300年祭。

平城京跡のメインイベント会場にあるまほろばステージ内の交流広場に民博で展示された写真パネルを出展してほしいということだ。

昨日まで市立図書館で展示されていた郡山の祭りと行事の写真パネル。

終わったとたんの依頼で使い回しの対応が続いていくが、図書館展示は市民向けで平城遷都イベント会場は県外の観光客向け。

大和郡山の行事が広く知られることになる。

平成19年にパート1、平成20年にパート2を県立民俗博物館で展示してきた。

そのころは見向きもされなかったが、こうして日の目をみることになったのはとても喜ばしいことだ。

一粒で三度も味わえる写真パネル。

期間は6月6日から8日間。

たったの三日間だけれども大和郡山の年中行事が一挙に見ることができる。

役立ててもらおうと、一年間の資料に再編して50部を印刷した。

カラー写真で紹介する行事は67。

16ページものの資料になった。

家のプリンターがフル活動したが途中のインク切れで2度もお店に走った。

そして、取材が入っていた初日は予定を変更して会場で終日待機することにした。

(H22. 5.25 記)

2月22日は聖徳太子の命日

2010年03月27日 08時14分04秒 | メモしとこっ!
2月22日は聖徳太子の命日。

それにちなんで斑鳩市実行委員会が催された「平城遷都1300年記念事業物産展・斑鳩市」。

2月20日(土)から22日(月)の三日間だった。

休日の日はごったがえすぐらいに大勢の人が訪れたそうだ。

法隆寺iセンターでは野本氏の奈良大和の祭り写真展が協賛展示された。

昨年に出版された「奈良大和の祭り」に収録された祭りに加えて、歳時記や斑鳩町隣接市町村の祭りなど新作も入れて数多くの祭りを紹介された。

拝見したあとは物産店。

これやと目に入ったのが斑鳩町を代表する老舗醤油醸造蔵のにしき醤油。

以前から気になっていたお醤油が並ぶ。

蔵本のお薦めもあって1本を購入した。

それにしてもありがたかったのが、普段なら600円もかかる駐車料金が無料だったことだ。

(H22. 2.22 SB912SH撮影)

連載の夕べ

2010年02月21日 08時36分16秒 | メモしとこっ!
一年間の連載が決まったことから産経新聞社奈良支局へ表敬訪問した。

K支局次長にご挨拶。横にはK記者が並ぶ。

自己紹介から始まった祭り談義。

5月に民博で開催された野本氏のオンダとノガミ写真展で触発を受けたという次長。

それから数ヶ月。郡山の祭りと行事展は記者が取材された。

このような行事がふんだんにある奈良に驚いたという。

「奈良大和路の年中行事」も紹介しておいたことは関係なく、知られざる民俗行事を新聞で広く伝えたいという。

行事を毎週、毎週掲載して一年間。お願いしたいという。

たいへんな話だ。

むやみやたらに執筆するわけにはいかない。

行事の内容も地域もバラエティにとんだほうがいいだろう。

「うちの行事が本に載ってない」といわれた行事は多数ある。

それらを選別して多様な行事を紹介する。

発行日に合わせて紹介できればなおさらだ。

ということで計画表を作っていった。

それだけではなんなんで、初回の原稿と写真を持参して話した。

早速読まれた。

文章はリズミカルで読みやすく判りやすい。

すでに読者向けの文章になっているといわれた。

そうなんです。それを意図して書いたのが山の神の行事。

そのトーンで一年間。

こなせるかどうかは不安がいっぱい。

締め切りに追われるのは苦痛なので、先々書きだめしておかなければならない。

ちなみに郡山で有名なコロッケのハヤシがこんなとこにお店が出ているなんて・・・

(H21.12.12 SB912SH撮影)

最終デー

2009年12月20日 07時01分15秒 | メモしとこっ!
一ヶ月開催されてきた県立民俗博物館の「大和郡山の祭りと行事(2)」。

今日が最後のラストデー。

駐車場に到着すると自然観察会のK先生が旗を持って出迎えてくれた。

それは違って大阪自然観察の会だった。

立ち話を済ませて館内へ。

今回も数回に亘り博物館に立ち寄った。

ほとんどが来館もなく暇をもてあましていた。

ラストでーもそうであろうかと思いきや、男性が展示写真に目を落としていた。

お話を伺えば、毎月開催されている観光ボランティアガイドクラブ主催の再発見ウオークの参加者だった。

仕事オンリーだったビジネスマン時代の卒業後は地元の学習に励んでおられる。

市広報誌「つながり」も拝見して小泉神社の田植え祭を見に行った。

そして、今年は当展示会に足を運ばれたという。

その後、二人の男性が来られた。その方は展示物をひとつひとつじっくりと拝観されていた。

なんでも館外にいたら写真家が解説をしていますと放送が聞こえたという。

慌てて来館し拝見しているという。

興味を惹かれた行事を解説しましょうかと尋ねるとすべてだと仰る。

これだけのものを記録されたとは驚きであり感動したという。

館外に数人がいるので声をかけて呼び込みたいと言った。

もうお一人は発志院町から来られた女性。

「つながり」の記事は毎回楽しみにしていると仰る。

今月号の簾注連縄も興味をもって読んだそうだ。

私の住んでいる地域もあるのです、当番の年に作ったことがありますという。

しかも砂の道を敷くと言われた。

是非とも取材させてくださいとお願いをしたのは言うまでもない。

(H21.11.29 記)
(H21.10.30 SB912SH撮影)

預かるもんじゃない

2009年10月22日 07時18分56秒 | メモしとこっ!
おばあちゃん講を知っているかと先生から電話があった。

詳しいことはまだ聞き取りができていないのですと答えると、そこである本を借りなかったかと仰る。

そういえばハッタサンの写真を差し上げたところで地域のことをいろんな資料から抜粋引用された本のことを思い出した。

紐綴じの体裁の本は手作り本で、墨書で書かれていた。

地域の人が書かれたものだから是非読んでくださいと差し出された。

が、その場で何度も断った。

私は借りることはしない。

借りた場合は責任を負わなければならない。

紛失などすれば大変なことになる。

こういう対応は避けたいのです。

今後のために生かせる行事関係資料でしたら了解を得てコピーをお願いします。

それも、その場でデジカメコピーしておくのが常です。

自慢の本なのでしょう、断り切れなくて長期間預かることにした。

それを返してほしいと本人さんから在住の市教委へ、そして博物館に連絡が入ったという。

そうです、困ったことに私が預かったのです。

拝読して自宅で大切に保管していたご本を大急ぎで持参した。

誠に申し訳ございませんと丁重にお詫び申し上げお返しした。

いただいていた名刺が二枚とも紛失したという。

それで回り回ってこういう連絡になったそうだ。

参考になるからと渡したときは気にもかけていなかったご本。

それから日にちが経つにつれ思いが募ってきた。

一ヶ月経ち、えらいことしてしまったと気に病んだそうだ。

それから一ヶ月、戻って来なかったら盗られてしまったのだと思うようになり、気持ちは収まりきれずやむなく心当たりに電話したそうだ。

もう二度と預かることはしまい。

情にほだされることもしてはならないと心に誓った。

(H21.10. 8 SB912SH撮影)

鑑真和上展へ

2009年07月25日 07時34分14秒 | メモしとこっ!
平城遷都1300年祭を迎えて各寺院では大切な仏像などを特別開扉されることが多くなっている。

東京で開催された「国宝阿修羅展」や「尼門跡寺院の世界展」には大勢の観覧者が訪れ長蛇の列が続いたという。

奈良では国立博物館で「国宝 鑑真和上展」が開催された。

一枚のチケットを拝領したので後学のためにと足を運んだ。

近鉄奈良駅から博物館まではそんなに距離はない。

ところがだ、体調は相変わらず芳しくなく足取りは重い。

なだらかな坂道なのにとても時間がかかる。

貧血症は重傷領域に入っている。

少しずつ歩めては立ち止まる。

健康体ならすぐにでも着く博物館は遙か遠くに去っていくようだ。

普段の倍ほどの時間を費やしてようやく辿り着いたら平日の午後のためだったのか館外に並ぶ人は見られない。

それはともかく入館したらそこにも階段がある。

登り切ってようやく会場に辿り着いた。

そこは照明に照らし出された異次元のような空間が広がっている。

四天王立像、如来立像をひとつひとつ拝ましていただく。

東征伝絵巻は生き生きとした表情で描かれている。

そして鑑真和上坐像に出会う。

なかでも注目したのは八世紀の大雲経請雨品だ。

ときおり判読できる文字がある。

大雨に止雨。

おそらく大雨が降って止雨祈願したものであろう。

他にウシのクリとか牛乳年記の文字も見られる。

これはどういうことを意味するものなのだろうか。

農耕行事に関連することなのだろうか、興味が沸々と沸いてくる。

唐招堤寺では金堂が平成大修理の真っ最中。

古い写真に写りこんでいるひとかげが見える。

当時の装束に興味をそそられながら、最後は目の前にどーんと居座る鴟尾の姿に感動する。

見納めの鴟尾を後にしつつ帰路となったが、今日の身体ではJR奈良駅までの戻り道がとてつもなく遠く感じる。

博物館前は巡回バスが次から次へとやってくる。

これに乗ろうと思ったのは言うまでもない。

(H21. 5.19 SB912SH撮影)

ノガミ私見

2009年07月21日 07時41分39秒 | メモしとこっ!
ノガミの分布図を参照すれば、ほとんどが藤原京から下ッ道に沿って北に向かう平城京まで連なっている。

唯一、御所蛇穴の汁掛け・綱引きが見られるものの西方の葛城地域にはノガミ事例は皆無といっていいほどだ。

ただ、実家が香芝だったというご婦人の話では志都美(しずみ)」駅との間にあったそうだ。

聞き取りだけに実地調査が伴っていないので不確かなノガミ情報である。

ノガミは北部と中南部では様相が大きく異なる。

その境目はどこにあるのだろうか。

大和郡山は北部に位置する。

平城京でいう十条、十一条坊にノガミが分布している。

市内のノガミはほとんど消滅しているが中南部のノガミのような蛇綱は見られない。

蛇綱が出現するのは川西の下永、三宅の石見、田原本の矢部、今里・鍵、天理は新泉に平等坊、そして橿原北部の上品寺などの地域に集中している。

郡山と川西の境目は大和川だ。

平城京から南下するにつれ勾配は緩やかに下っていく。

佐保川、秋篠川の流れは大和川に流れ込む。

逆に飛鳥、藤原京から北上するにつれ緩やかに勾配が下がっていく。

初瀬を源流とする支流大和川、寺川は佐保川が合流する大和郡山と川西の間の本流大和川に集約して流れ込む。

いわば盆地部の最低部にあたる地域になるのだ。

支流も含めて古来より川は洪水などで氾濫を繰り返してきた。

大きな反乱で川の流れが大きく変わったと発掘調査で発見されている。

下ッ道の大道にもその痕跡があった。

大和郡山池ノ内は氾濫の結果、集落全体が移設せざるを得なかった。

蛇のように曲がりくねった河川。

大雨が降るたびに氾濫を繰り返してきた河川。

川は田んぼにとって必要不可欠な水を与えてくれる恵みの川だ。

盆地部ではそれを利用して溜池にしてきた。

水とともに生きる集落の環濠も生活の知恵として誕生したのであろう。

それはともかく、水神として崇めた雨を呼ぶ龍は荒れ狂い氾濫する川をもそれに例えたのでないだろうか。

荒ぶる神の野神は氾濫を繰り返す河川と考えられないだろうか。

その象徴は水神の龍。龍はいつしか古来より崇めている蛇に化身し、水害から集落を守ってほしいと願う信仰に繋がったのではないだろうか。

その蛇をワラで造って崇めた。

雨量が多くなる季節は梅雨から7月にかけて集中している。

適度な降水は田んぼにとって最適だが大雨となれば水害で農業の営にとって影響は大きい。

荒れ狂う河川の氾濫は大敵だ。

暴れる蛇を祀り豊作を祈ったのではないだろうか。

二毛作だったころは4月末から5月にかけてムギを収穫する。

それを五月秋と呼んでいた新泉の住民。

収穫したムギワラで造った蛇を祀り大雨にならないように豊作を祈願する。

稲作へと転化する畑地。

無事に稲苗が育ってくれるようにと豊作を祈願する。

そういうことではないだろうか。

ノガミとされる塚や一本木は集落の周辺に見られる。

ハッタハンと呼ぶ塚(あるいは樹木)もそういった位置にある。

集落の守り神と考えるのが妥当ではないだろうか。

蛇を担ぎ集落を練り歩いたあと塚や樹木に巻きつける。

巻きつける姿はミーサン信仰のあらわれであろう。

荒れる野神は水神の蛇の化身となって集落を守る神さんになった。

それがノガミ行事の目的ではないだろうか。

橿原の地黄では早朝に野神神社へ参ったあと「ノーガミサン オークッタ ジイジモ バアバモハヨオキヨ」と囃して集落に戻ってくる。

荒れ狂うノーガミさんは村外れに送った(もっていった)ので安心してや、これで村も安泰になったので起きて畑仕事に精出してやということではないだろうか。

奈良盆地には200あるいは300もあるとされている旧村の環濠集落。

その地域全てにノガミ行事があったわけではない。

前述したように下ッ道を中心に北は平城京、南は藤原京の間にあるのだ。

都は整備された都市空間。

荒れ狂う地ではない。

その間の地域は旧村が点在しているものの全体的には未開拓地だったのではないだろうか。

大雨が降って氾濫した河川の水が野を埋め尽くす大海原の原野のような様相が想像できる。

集落の外れにぽつんと立つ一本木。

一里塚のような目印でもあった一本木は神が宿るものとされてきたのではないだろうか。

氾濫が少なかったとされる北部地域には環濠がみられない。

地域的にみれば大和郡山北部、紀寺、京終、三条辺りは平城京都の外側に位置する。

その北部のノガミ行事は牛の絵馬の奉納が主立った行事だ。

中南部でも見られる牛の絵馬。

農耕に重要な役割をもつ役牛。

かつては牛ではなく馬だったとされる。

ところが馬は暴れる動物だ。

役牛も暴れるオスよりもメス牛が使われてきた。

その馬や牛が墨書された板絵が見つかった。

橿原市一町で平安時代のものと思われるヒノキの板絵(絵馬のような紐穴は見あたらない)が発掘された。

そこにはウシ、ウマ、ヒツジ、イヌ、オス鶏は人形代(ひとかたしろ)とともに発見されたことから厄祓いの祭具だと考えられている。

描かれた動物たちは生活の一助を担っていたのであろう。

つい最近までの農業にはウシを飼って家族のように生活を共にしてきた。

ヒツジはともかく動物たちは家族の一員であった。

その動物を大切にすることは当然の営みであったろう。

ウシを引き連れてノガミの塚へ参ったのは自然な行為だ。

池ノ内の牛の宮参りはそれを象徴する。

一町で今でも行われている牛滝参りはその名残ではないだろうか。

平城京ができるまでの北部も荒れた原野ではなかったろうか。

そこに都が建設されて追いやられた荒れた農地。

残された一本木をノガミとして祀り、いつしか大切にしてきた役牛を奉るようになったのではないだろうか。

ちなみに大和郡山の椎木のショウブデンボは本来的にはイノコの行事であろう。

それが一本木と呼ばれるノガミ信仰と被さってきたものと考えられる。

また、新泉は一本木のオンダと呼ばれるように元々はお田植え祭であろう。

そこにムカデとも呼ばれるジャが追加されるようになってノガミ信仰が加わった。

池ノ内の牛ノ宮参りはしんこ団子が登場することから矢田寺のお練りレンゾと合わさったものではないだろうか。

ノガミに子どもや節句がどう絡んでいるのか。

まだまだ考えを整理しなくてはならない事項がたくさんあります。

宮中行事が民衆へ。元服、村入り、村行事の村落共同体。

担い手を必要とした地域とそうでない地域。

そうでない地域が元々あったのか、なかったのか。

あったとしたら何故に消えたのか。

また、ワカメ汁がなぜに供されるのか。

子どもが登場しない北部の京終、芝辻、下三橋、南六条ではなぜにチマキがお下がりに供されるのか。

チマキは上品寺もありますし、節句とノガミってどうなの。

下永、都祁南之庄では節句の祭事でチマキがあるし、どういうこと?。

ショウブにヨモギもある南之庄と漢国神社。

そういえばショウブにヨモギを屋根に供える野依は節句オンダっていうし。

北部ではさらに牛参りが絡んでいる。角にショウブやヨモギを飾り付けてお参りしていた。

家族の一員ともいえる牛は大切な役牛で農生業にかかせなかった。

牛にチマキに農耕行事。ノガミ、調べなきゃならんこと多々あり、判らんこといっぱいあります。

(H21. 5.12 記)