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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

不退寺の難除供養碑・彼岸の無縁仏施餓鬼

2022年07月09日 08時58分13秒 | 奈良市へ
JOYOアートギャラリー2020/入賞・入選作品を拝見していた京都府城陽市施設の文化パルク城陽

館内4階は「五里ごり館」の愛称がある「城陽市歴史民俗資料館」。

地域民俗の一端を教えてもらって帰路につく。

京都市と奈良市を結ぶ国道24号線。

大動脈幹線をさらに下った南端が和歌山市。

一部では信号待ちなどでまま時間のかかる地道の24号線。

京奈和道の全線が繋がったら、一層便利になるだろうが、まだまだ・・。

焦って帰る予定はない。

季節を感じる地域の景観を車窓ごしに観ながら、と思って国道を走る。

城陽市から県境までは20kmもない凡そ17kmの距離。

地道走行時間は、信号待ちを考慮しても40分ほど。

城陽ICから木津までを京奈和道路利用なら、20分で着く。

その代わりと言っては何であるが、利用料金は730円。

20分の差を埋めてくれる。

急ぎの場合の費用は、決して無駄とは言えない。

県境の地は木津川市の市坂。

一歩入った奈良県側はJR大和路線の平城山駅(ならやまえき)。

戻ってきた感が高まる地にまずは安堵する片道2車線の奈良バイパス。

しばらく走ったところで渋滞。

交通量が多い上に信号待ち。

ふと気配を感じた大和路線の向こう側。

高台のような場に居た男性の動きを見ていた。

何やら旗のようなものを立てようとしている。

その傍にあった石塔のようなかたち。

まるで墓石のように思えた。

民間墓地に旗立てをする男性。

遠目ではっきりしないが、麦わら帽子を被る男性は壮年のように見える。

家族が眠る墓石に旗立て。

お彼岸の墓地参拝に旗を立てる習俗では、と思った。

動き出した渋滞。

止まっては動く、繰り返しに直近に信号がある。

そのまま見過ごすわけにはいかない。

墓石に立てる旗立ての真実を確認したく、青になった法華寺東信号を左折れ。

JR大和路線の踏切を越えずに手前の筋道に入る。

十年ぶりになるこの道は、不退寺に向かう道。

今はお寺さんに寄っていく時間はないが、国道から見た墓石がある道はどこを行けばいいのやら。

不退寺門の左側を見た。

とても狭いが軽バンタイプならいけそうだ。

そろりそろりと抜けた道は急な曲がり道。



この先にどんな道があるのだろうか。

少し走ったところに見つかった墓石。

男性が居るから間違いなし。

車を停められる広地があった。

住民にお声をかけ、ちょっとだけの駐車に許可をもらった。

そこからほんの数メートル。

肉眼でもわかる赤、紫、黄色の旗立て作業中の男性。

麦わら帽子でなくモダンな帽子だった。

壮年に見えた旗立ての男性はどことなく若い姿。

車窓からでもわかった自転車もある。

左際を走るJR大和路線。

その左は国道24号線。

西の方角に見えるこんもりとした樹木がある地は宇和奈辺陵墓である。



男性が笹竹に拵えた旗を立てようとしているが、なかなか上手く地中に入っていかない。

立てては倒れる旗立て。

苦労されている様子に、何をされているのか、尋ねてみた。

話してくださった男性。



実は、若い人だった。

年齢は26歳。

現在は、京都の学問所に通って仏の世界を学んでいるそうだ。

通いの学びに日々研修中の身という男性に驚き。

なんと、この場からすぐ近くの不退寺住職の息子さんだった。

本来であれば、前日の20日に行う予定であったお彼岸の法要は、都合この日になったと、いう。

墓石と思われた石塔は無縁仏を供養する碑であった。



逆光によって見えにくかった刻印文字。

判読は難しかったが「難除供養碑」までが読めた。

施餓鬼の五色旗は、紫・黄色・赤・白・黄色

それぞれの色旗を立てる位置に決まりがあるらしく、方角がそれぞれある、という。

ただ、碑周り土がとても堅かった。

竹を利用して、少し掘ってはみるのだが、土中に入っていかず、あれこれ位置を替えて立てていた。

カラカラに渇いた土地。

雨後であれば、突き立てることはできるが、天候良しの日は苦労を伴う。

了解をいただいて撮らせてもらった施餓鬼旗の旗立て。



やや斜光がかった午後3時半の光が眩しい。

青空に映える五色の旗が美しい。

携帯電話のカメラでは申しわけないくらいに美しい施餓鬼旗。



僅かであるが、県内事例の施餓鬼行事を取材した地域は4カ所。

いずれも8月のお盆の間に行われていた。

天理市苣原・大念寺の施餓鬼、同市南六条・西福寺の施餓鬼、大和郡山市小林町・新福寺の施餓鬼、山添村菅生の施餓鬼

いずれも施餓鬼棚を設営する本堂の外側(※菅生は十二社神社の参詣所)で行われるが、僧侶が唱えるお念仏は、外に向かって・・。

つまり、“外棚(そとだな)とも呼ばれる施餓鬼棚は、外に居るとされる「ガキンドサン」に向けて、念仏を唱えるのである。

一般的にお寺でされる場合は寺施餓鬼という。

お家で先祖さんを迎えるお盆のあり方に、無縁さんとか餓鬼さんを祭る限られた地域がある。

その範囲は広いが、いずれも外に近い廊下とか、前庭に餓鬼棚を設ける。

棚を設けずに廊下に直置きあるいは、天井辺りから御供ごと吊るす家もあるが、その場合は、寺施餓鬼に対して家施餓鬼と呼ぶ。

家施餓鬼の数事例を挙げておく。

一つは、山添村菅生・N家のガキンドのカンゴ事例は珍しい形態。

未だに同形態のものと遭遇しない貴重なあり方である。

奈良市八島町の檀家参りに見た無縁さんの吊るし御供

桶に供える形態も珍しい。

三つめは、多くの地域にみられた廊下直置きのガキンド。

奈良市高樋町・E家の事例を取り上げる。

これまで、家施餓鬼に寺施餓鬼の事例を拝見してきたが、本日、たまたまの遭遇に拝見した彼岸の施餓鬼旗立ては初めて見るあり方。



貴重な習俗の一例として記録しておく。

五色の旗のすべてを立てた次は、お供えである。

自転車籠に入れて持ってきた綺麗な水。

ペットボトルの口を開けて水で碑に流す。

水焼香では、と思っていたが・・。

供える場を綺麗に清めてのせた。



蓮の葉で包んだ御供である。

そして、立てた線香に火を点けてくゆらす。

それから始まった砂撒き。



碑の四方に対してなのか、それとも施餓鬼旗を立てた五方角なのか・・・、

聞かずじまいだったが、周囲に撒いたその砂は何なのか。

撒いた砂は清めの砂。

その砂は、水を溜めた容器に浸けてかき混ぜる。

かき混ぜてしばらく待てば、砂は重さで沈殿する。

沈殿後のどれくらいの時間が経ってからかわからないが、綺麗なうわ澄みの水(上澄水)を掬って飲む。

そうすれば身体を清めることになる、と母親から教わったそうだ。

砂を収めていた袋を見せてもらったら、西大寺さん御加持の砂。



「大和西大寺 光明真言加持土砂」とある。

金龍山不退寺(※正式には金龍山不退転法輪寺)は、真言律宗西大寺の直末寺。

直接、西大寺さんから授かったお砂であった。

この年の4月より、花の御寺の様相をSNS(※Twitter)で紹介していますから、是非ともお越しいただければ・・と、話していた。

ちなみに、「光明真言加持土砂」とは・・・。

本堂で光明真言の功徳で、土砂を加持し、毎年の10月3日~5日の3日間。

つまり、三昼夜続けて総回向の法要、「光明真言土砂加持大法会(光明真言会)」であるが、詳しくは、西大寺のHPとか、参加者がアップするブログなどを参照されたし。

真言律宗総本山の西大寺がアップしている「光明真言土砂加持大法会(光明真言会)」によれば、光明真言をお唱えして、ご本尊前に置かれた土砂を加持、光明真言の力を加えて清める、とあった。

また、知人の陶芸作家さんもアップしていた。

(R2. 9.21 SB805SH撮影)

コロナ禍に奈良市内のごく一部を見て廻り地蔵盆

2022年04月15日 08時08分37秒 | 奈良市へ
奈良だけでなく、関西一円において年中行事でいちばん多いのは地蔵盆ではないだろうか。

大和郡山市内だけでも百以上もある地蔵尊。

すべてがしているわけではなく、地元民によって大昔から連綿と続けられてきた地蔵盆。

地域によっては7月実施、8月実施に分かれる場合もあるが・・。

今年の新型コロナウイルスに難儀されている神社や寺行事では神事、法要など代表者だけに限って実施せざるを得ない状況に、地域民が主催する地元の地蔵盆はどう対応されているのだろうか。

その一部だけでも状況を掴みたく、一部地域の状況を見て廻り。

気になっていたならまち地蔵のうちの2地区。

昨年に拝見、取材させていただいた十三軒町に八軒町である。

両町を目指して車を走らせた。

目印に気づかず、行き過ぎた。

仕方なく信号を左折して次の筋道を行く。

そこにあった地蔵尊が数か所。

うち1カ所に3人が居た。たぶんにお供え、と思って車を停車。

降りてしばらくしてからお声をかけて撮らせてもらった携帯電話のカメラ。

傍に老人車がある。

老婆とともにお供えをしていた孫とひ孫の姿。

年齢的にそうみた3人にお声をかけて緊急取材であるが、長居はできない。

ここはどこなのだろうか。

答えは南新町。



今年は新型コロナの関係で、例年なら多くの町人に来てもらうのですが、と申しわけなさそうに伝える老婆。

それ以上の質問はし難くなった。

左隣の社は、弁財天社。

右が、南新町の地蔵尊。

いずれも近年に建て替えて、奇麗になったという。

お供えは白餅に胡瓜・茄子・ピーマン・トマト。



大きな西瓜も供えた場にお茶を入れた椀もある。

さっと手を合わせてお家に戻っていった老婆。

たぶんに今年の当番であろう。

南新町の筋道が狭いが、一方通行でもないから車どうしが見合って動けないときもあるようだ。

南に行けば行くほどに狭くなる筋道。

三差路手前にも地蔵尊はあるが、地蔵盆の雰囲気は感じない。

後に調べた地蔵尊は瓦町。

御膳を供えて地蔵和讃に読経、数珠繰りをしているらしく、来年は立ち寄ってみたいが、駐車スペースはここにはない。

三差路を左に折れて信号待ち。

そこを右折れして、すぐに左折れ。

そこが十三軒町の地蔵尊。

あればお供えが山積みになっていたろう。

実施されておれば、本日は西国三十三番御詠歌。

翌日が西国三十三番御詠歌に数珠繰りであったが、ひっそりと佇んでいた。



そこに一人の男性がふらりとやってきて手を合わせていた。

背中にザック姿であれば地元民ではなさそう。

次に訪れた八軒町もまた地蔵尊だけが佇んでいた。



そこにも手を合わせていた男性に声をかけた。

中年か初老に見える男性は、他府県から奈良に来られた方。

手に四つ折りの観光マップをもっていた。

それは何なのか。

ちらっと見せてもらったそれはならまち・きたまちに京終地域の地蔵尊を巡るマップだった。

奈良市のある課が発行したと思われるパンフ。

自宅に戻ったネット調べでわかった奈良の観光情報誌「ならり」がネットでダウンロード公開にあった「2020年度春夏号」がそれだった。

地蔵尊の位置印を確かめながら巡拝してきたという。

短期借り住まいする新大宮から歩きだして今に至る場所で遭遇した男性。

縁があって週3回は造園仕事に従事。

残りの日数は、奈良に来たのならと手入れたパンフを大いに活用させてもらっているという。

滞在日数の関係もあるが、「ならり」情報を元に奈良をどうぞ愉しんでくださいと伝えて分かれた。

なお、十三軒町の地蔵尊は、地区の人たちがずっと継承してきた。



参拝される人のために、もっと知ってもらおうと由緒文を置いている。

ガイドマップもあるが、こちらは地元民の声や心が詰まっている。

予定していた地蔵調査はこれで終わりということでもない。

帰路の途中に状況を見ておきたい地区は、大通りにある。

2年前に拝見した四条大路5丁目の文永二乙丑(1265)八月日建之の地蔵菩薩立像

地蔵講による数珠繰りを拝見したが、今年はどなたの姿も見かけない。

すぐ傍の尼辻中町は、伏見之岡福徳地蔵菩薩

営みは拝見できなかったが、ここもまた不在。

ただ、地蔵堂の扉は開放していた。

場所は、離れるが、大通りに建つ地蔵堂が気になっていた。

場所は大森町信号より少し南にある信号。

その角地に建つ地蔵尊はじっくり拝見したことはないが、この日は6個ほどの提灯を水平に立てていた。

地区は大森西町に該当するのかあやふや。

地区の境界線が見えない。

調べてみれば西木辻町のようだ。

(R2. 7.23 SB805SH撮影)

歌姫町・添御縣坐神社の注連縄

2021年09月23日 10時22分00秒 | 奈良市へ
山陵町取材を終えてからも民俗取材。

目的地は京都南部の神社。

行先をカーナビゲーションにセットして車を走らせる道は歌姫街道。

その昔は、奈良と京都を結ぶ重要な街道。

平城京を建設する資材の搬入に利用された街道。

この場では多くを語れないが、その地に添御縣坐(そうのみあがたにます)神社が鎮座する。

これまで気にもかけていなかった神社にふと立ち止まり停車した。

佐紀町・山上八幡神社の六人衆から聞いていた、歌姫の氏子たち。

長老らの負担も大きく、簾型の注連縄作りも難しくなっている、と。

やがては中断の憂き目。

やむを得ない判断だったと思料する。

その添御縣坐神社に参拝したくなって車を停めた神社。

大正13年に再建された鳥居は老朽化によって傾いた。

土壌も崩壊し、やむなく解体したものの再建にあてがう費用捻出は預貯金では間に合わず。

心ある人たちからの浄財寄附を募っている。

参拝してから気づいた拝殿の真上。

大きな鈴が二つ。

そこにあった注連縄・・。



よくよく見れば、そこに簾型の注連縄があった。

少量の藁で結った七五三注連縄であるが、左側に笹の葉が見られる。

心棒は竹であった。



ちなみに井戸にも注連縄をしていた添御縣坐神社が愛おしい。

(R2. 1.10 SB805SH撮影)

平城地区三社の注連縄

2021年09月18日 10時15分39秒 | 奈良市へ
Y氏が伝えてくださった奈良市北部周辺の神社。

平城地区に跨る三社の注連縄のそれぞれ。

実物、実態の注連縄を拝見したく、取材を終えた天理山間部から山下り。

目的のものが消えてなくなるわけではないが、大和郡山市内の神社に掲げるしめ縄の変貌を拝見しただけに・・・。

ことがことだけに気も早くなる。

ただ、取材地だった下山田・広出垣内は、三が日を終えた4日に飾ったしめ縄を下す。

各家で迎えた歳神さん迎えの注連縄は、5日にとんどで燃やされた。

当地だけでなく、4日に注連縄を下す地区はままある。

そのことを知っているだけに気も逸る。

到着した神社は、目的地とは違っていた。

しばらくぶりに訪れた神社は奈良市内・秋篠の八所神社。

焦りがそうしたのか、入る道はまったく違っていた。

次もまた違っていた中山の八幡神社。



ここも目的地ではなく、もう一歩足らずであるが、掲示されていた中山地区のとんど行事の日時がわかった。

ちなみに後日にY氏が連絡してくださった中山八幡神社。

正月に訪れたらしく、稲穂を垂れのあるしめ縄だった・・と。

常院寺所在地からすぐそこにあった押熊の八幡神社。



Y氏がFBで教えてくださった簾型注連縄があった。

この三社は春に豊作を願う予祝行事がある。

いずれも過去に取材させていただいた三社であるが、注連縄の存在までは不知だった。

見事な造りの簾型注連縄。

他所では見られない稲穂をもつ注連縄だった。

近くにおられた畑作業のご夫婦に聞けば、クリスマスを過ぎたころにみなが集まって作っていた、というだけに、来年、いや今年のそのころに寄せてもらおうかな、と思ったりもする。

(R2. 1. 5 SB805SH撮影)

雨天の日、佐紀地区に鎮座する4社の正月迎えの設え状況を見て廻る

2021年08月28日 10時06分25秒 | 奈良市へ
昨夜から降りだした雨は、今朝になっても降りやまぬ。

例年の12月30日に設営される門松に簾型注連縄。

鳥居を潜って参る奈良市佐紀町に鎮座する西畑佐紀神社参道に多数の砂モチがあった。

前日に設えたのか、それとも雨天決行であるのか・・。

すぐ東隣になる佐紀中町の門外釣殿神社も、いつもなら同じ日にしているが、この時間帯になっても動きはない。

池の向こう側に鎮座する佐紀町亀畑佐紀神社も訪れたが、人の気配が・・・。

いや、自転車で駆けつけた思われる男性二人。

神社に入っていたが、おそらく明日の大晦日に決行の相談をしているのだろう。

ここから近いが、逆方向になる東の地に鎮座する佐紀東町の乾垣内に鎮座する葛木神社も訪れた。



当地は、砂撒きもなく、簾型しめ縄も見られないが、鳥居前に立てた立派な形の門松。

雨よ、雨よ、明日の大晦日はあがってくれよと願ってやまない。

(R1.12.30 SB805SH撮影)

石木町登弥神社の正月飾り

2021年08月26日 09時05分30秒 | 奈良市へ
自宅から、徒歩5分もかからない奈良市・石木町に鎮座する登弥神社。

氏子圏は、所在地の奈良市石木町と大和田町。

住まいする大和郡山市は城町の3町。

当番の組は3年に一度の廻り。

午前中に設営された門松に注連縄。



4日後の正月初詣はたぶんに行けないだろうな。

(R1.12.28 SB805SH撮影)

尼辻中町・興福院地蔵講の地蔵盆

2021年02月03日 08時38分53秒 | 奈良市へ
奈良市四条大路の地蔵講の数珠繰り地蔵盆を拝見する直前に見ておきたかった尼辻中町。

平成2年に計画された大宮通り(※国道308号線)の拡幅工事。

本格化した工事計画によって、阿弥陀堂移設問題が起こった。

平成9年、奈良県からの要請により、地蔵講が協議した結論は、東側への移転である。

この機に、阿弥陀堂の再建修復および縁起板が製作された寛政九年(1797)以来(※実際は昭和29年にも再建修復があった)の新築が決まり、平成11年8月に上棟を経て10月にお堂の開眼落慶式が営まれた。

そのとき、新しく“福地地蔵菩薩立像”を安置、供養することになった。

伏見岡を称する小高い丘地(※三角地)に旧跡阿弥陀堂、地蔵堂を建之し、東大寺大仏建立にまつわる“伏見翁”所縁の霊地だ、という地蔵講の人たち。

当地の歴史文化を綴った興福院(※こんぶいん)町地蔵講が編纂した小冊子『伏見之崗と興福院』を、読んでくださればありがたいと手渡された。

24頁からなる『伏見之崗と興福院』に書かれている東大寺大仏像誓願守護に文殊菩薩が化身された伏見翁。

天竺五台山より影向した霊地について、長文つらつら、詳しく記載されているが、ここでは省略させていただく。



地番「尼辻中町3」から東を眺めたら、拡幅した下り路の大宮通りがよくわかる崗である。

お堂の扉は締まっているが、今の間なら拝観してもらっても構いませんから、と伝えられ、手を合わせた行基菩薩縁りの阿弥陀如来石仏像。



堂建之、地蔵菩薩開眼した記念に製作し、有志が顕彰した真新しい碑に「伏見崗と称する此処に、旧阿弥陀堂・地蔵堂が建ち、東大寺大仏建立にまつわる伏見翁縁の霊地です。平成11年10月31日、薬師寺式衆、山田法胤師を導師として、五僧・南都学所笠置侃一師を楽頭として九人の楽師により、落慶開眼法要が営まれ、天平八年此の崗で、“菩薩舞”が誕生し、舞楽曲“菩薩”が、後に大仏開眼法要され、千二百六十三年を経て、再びこの地で奉楽されました」と、ある。



ちなみに、当地は明治21年に奈良県都跡(とみ)村。

その後、生駒郡都跡村大字尼辻西方に。

昭和15年11月、奈良県生駒郡都跡村より奈良市の編入したときに尼ケ辻町に。

その後の、昭和57年に尼辻北・中・南・西町に分かれたものの、尼辻西町・興福院の両自治会名に、由緒ある旧地名興福院(※こんぶいん)を遺した。

平城京のころの、かつては右京三条西二坊ならびに右京四条西二坊、と呼ばれていたそうだ。

その後の、宝亀元年(770)光仁天皇のとき、藤原氏建立の興福院と呼ばれる尼院が。

また、興福院村も存在していたらしい。

以後、室生期は、興福寺門領なったが、天文十二年(1543)集会評定書に「興福院領の内・・・」と記され、江戸期の元禄郷帳に、「添下群興福院村」が。また、元和元年(1615)からの慶長、寛文、天保郷帳などにも「興福院村」の名が記されてきた。

地名の由来である興福院の今は奈良市法蓮町に移転しているが、旧地遺跡があるそうだ。

興福院本堂跡地の墓地、井戸を探し求めたブロガーさんの記事を拝見したが、正確な位置は、地元民に尋ねた方がいいだろう。

さて、肝心かなめの尼辻中町・興福院地蔵講の地蔵盆については、小冊子『伏見之崗と興福院』に書いてある。



毎年の7月23日は、午後3時より地蔵盆を始める。

内外の人たちが参拝されるのは午後3時ころより。

そして午後5時からは、四条大路・地蔵講の数珠繰り地蔵盆と同様に、大和郡山市稗田町・融通念仏宗常楽寺住職による法要、数珠繰りが行われる。



住職と久々の出会いに興福院の略歴を知った本日。

ご縁をいただいただけに、早いうちに再訪し、地蔵盆を拝見したいものだ。

(H30. 7.23 SB932SH撮影)

四条大路・地蔵講の数珠繰り地蔵盆

2021年01月24日 09時57分16秒 | 奈良市へ
前日の7月22日に連絡があった。

発信者は、知人のSさん。

民俗取材の私に何かと気にかけてくださり、行事情報を伝えてくれる。

今回のメッセージは、映像付き。

コメントは「地蔵盆法要は、尼ヶ辻のジャパン店の隣にあり。

小生が卒業した(大和)郡山南中。

その当時、教鞭に立っていた元恩師が世話人をされている」地蔵盆である。

映像は、地蔵盆の案内をする掲示物だった。

「地蔵盆御案内 日時 七月二十三日(月)午後六時 地蔵盆法要と数珠繰り」、「受付 お供え、晒奉納の受け付けは、当日午後三時~四時まで。但し、時間外の場合は、西隣の仲西にて受付します 地蔵講維持世話人 仲西胤保」。

奈良市西木辻・八軒町を出て、当地に着いた時間は、午後5時半。

30分もかかった移動距離。

近いようで遠いのは、信号の多さにあるが、その途中にも・・。

地域は、三条大路3丁目辺り。

午後5時ころから始めたと思われる地蔵盆法要も気になるが・・。

到着してすぐに拝見した案内掲示。

その掲示物の横には、ひらがな文字で可愛く書いた地蔵盆の案内がある。

「こどもたち おうちのひとといっしょに みんな来てね~‼」に、誘われてご近所の子供たちがやってくるだろう。

地蔵堂が建つ敷地内に、広げた数珠繰りの場。



広げたシートの上には、お数珠も準備していた。

さて、Sさんが学んだ恩師はどこにおられるのだろうか。

こういう場合は、ご近所両隣の方たちにお声をかけて尋ねるしかない。

そう判断して伺った、お家が仲西家だった。

お家にある駐車場で受付をしていた方にお声をかけ、

Sさんの願いに、ご挨拶ならびに自己紹介、

そして取材主旨を伝えて取材許可を得る。

奈良市指定文化財の尼ケ辻地蔵石仏は、鎌倉時代中期の文永二年(1265)の作。

光背に、文永二年乙丑八月日とあったことから判断された地蔵菩薩立像。



左手に宝珠を持ち、右手には錫杖を持たない古式姿の地蔵菩薩立像。

別名に首切り地蔵の名がある。

昔、尼寺を目指す女性が、俗世間との関係を断ち切るために参り、決意を地蔵菩薩に誓った、とする伝承があるらしい。

かつては現在地でなく、すぐ近くにある「四条大路5」信号の角地にあった。

東西に走る三条大路を走る大宮通り(※国道308号線)の拡幅工事によって、現在地に移ったそうだ。

予定時間より早く着いた僧侶。

どこかでお見かけしたような・・・。

はっきり思い出した僧侶は、大和郡山市稗田町にある融通念仏宗常楽寺のご住職である。

平成19年7月23日に同市高田町・秋篠川堤防にある枳殻(きこく)地蔵の地蔵盆数珠繰りを撮らせてもらったこと、鮮明に覚えておられた。

あれから12年も経つのに、ありがたいことであるが、年いって思うように身体が動かんようになってなぁ、と、ご住職がいう。

実は、30分前のご住職は、すぐ近くにある隣町の尼辻中町の興福院地蔵講で法要をしていた、という。



地蔵菩薩立像の前に座った住職。

それと同時に、蝋燭の火を灯す地蔵講維持世話人の家族さん。

このときの時間帯に吹く西の風。

灯しては火が消え、灯しては消えの繰り返し。

数本の蝋燭に火が点いたから、はじめましょう、とお念仏を唱えだした。



数珠を前に座っていたのは、世話人の家族さんに講中、案内に応えて参加してくださった家族さんは子供たちと。

お母さんに抱っこされた幼児も一緒に並んで始める数珠繰り。



おりんを打つ住職。

甲高い音色が辺り一面に広がるリーン、リーン・・。

住職のお念仏も聞こえないくらいに甲高い。

それと同時に数珠を繰る人は、幼児を入れた8人。

少しでも数珠繰りする形になったのが嬉しい。



その光景を見守る世話人の仲西さん。

83歳の高齢ゆえ、参加は見送られたが、心中は数珠繰りをしているように思えた。

囲いの外には御供をもってきた地区の人たち。

眩しい夕陽にちょうどあたる午後6時の時間帯に手を合わせた数人の参拝者。



一年に一度の数珠繰りを見ていた。

「こんな、えーことしてはるんや。数珠繰りに入ってくれたら・・」、と。

この日に参加してくれた若い家族さん。

近くに住む友人、知人にも紹介したが、参加されることはなかった。

不参加の理由は、夜店がない、という判断だった。

そんな状況に、仲谷世話人の孫さん。

大学生の孫さんは、おじいちゃんのお手伝いに一所懸命に動き回っていた。

優しい心をもつ孫さんたち。



数珠繰り法要を終えたら、すぐに動きだして、参加のお礼にお菓子配り。

ちっちゃな幼児にもありがとう、と言って手渡していた。

およそ15分間の数珠繰り法要。

人数は少なかったが、気分はほっこりさせてもらった。

(H30. 7.23 SB932SH撮影)
(H30. 7.23 EOS7D撮影)

西木辻・八軒町の地蔵まつり

2021年01月15日 09時35分29秒 | 奈良市へ
八軒町に地蔵盆があると知った。

平成29年の5月30日、訪れた奈良市教育委員会史料保存館。

前期企画の展示は「奈良まちの信仰・講の行事とその史料」展だった。

興味深く拝見した「富士講・山上講」が所有していた祭壇道具に見惚れていた。

その日、たまたま訪れていた西木辻に住まいするならまち住民と話す機会があった。

5月5日に行われる西木辻中町・聖天堂の件もあるが、7月23日にしているという八軒町の地蔵盆。

地蔵堂の前で行われる珠数繰りも、と云っていたが・・。

興味をもった奈良市西木辻町。

八軒町の地蔵盆があるという場だけでも確認しておこう、と思って車を走らせた。

カーナビゲーションにセッテイングした西木辻町。

地蔵堂がある地はどこになるのだろうか。

ふと、見上げた陸橋に「奈良市八軒町(はちけんまち)」の文字があった。

これ幸いに前列の車は横入りする車のために停車した。

そのあおりを受けて愛車も停車。

一瞬に撮った陸橋の表記に誘われるように左折した。

北に向かって車を走らせたどんつきの三差路。

手前に人だかりを発見。

そこが八軒町の地蔵堂だった。

到着した時間は午後4時45分。

地区代表のS自治会長に自己紹介並びに取材主旨を伝えてお話を伺う。



「八軒町」の読みは「はちけんまち」。

ここら辺りは、水路があった。

東西道路の道幅は狭く、拡幅工事の際に地蔵堂を、現在地に移した。

三差路の通りも水路だったが、暗渠構造に転換。

実は、その角地にあった、という。

地蔵堂の移転とともに指標の石塔も移したので、指標に若干のずれは見られるが、概ね方角的には左が「かうやみち(※高野道」」こ、右は「古おり山道(※郡山道)」に変わりない。

八軒町の地蔵盆は、今も変わらぬ毎年の7月23日、24日。

本日は、午前10時から、お寺さんに来てもらって法要をしていた、という。

23日の夕刻から24日は地区の地蔵盆まつり。

24日は公民館内で行う、というから数珠繰りはしてないようだ。

気になったのは、法要に打っていたと思われる伏鉦(※ふせがね)である。



自治会長らに承諾してもらって拝見した伏鉦の裏面。

「天下一常陸大掾宗味(※てんかいちひたちだいじょうむねあじ)作」記銘がある。

横から見れば、紐を通す耳がある。

紐を通した伏鉦。肩架け、或いは紐をもち、吊るした状態で鉦を打つ六斎鉦のような気がする。

さて、伏鉦の脚である。

三本脚に特徴があった。

よくよく見た鉦の脚に、あれぇ?である。

“宗味“文字間に脚があるではないか。

この構造、どうみても後から付け足したように思える。

作者が記した記名刻印。

打ち終わってから、ふと気づかれた。

台座に載せた伏鉦は、撞木をもって鉦の音を出す。

脚がなければ、底部分に空間がなくなり、音に広がりがなくなり無音近い、というか濁った音になる。

空間があってこそ成り立つ伏鉦の音色はキン、キン、キン・・・。

慌てて脚を後付けしたのではないだろうか。



ちなみに、「天下一常陸大掾宗味作」記銘の伏鉦は、他所でも拝見したことがある。

平成25年4月1日に行われた「ちゃんちゃん祭」である。

天理市・大和神社で行われる春の大祭。

拝見した場所は、御旅所

翌年の平成26年は、渡御の途中、小字馬場で長岳寺山主を迎えた地である。

渡御の先駆けを勤めていた年預が持つ脚のない平鉦にあった同記銘の「天下一常陸大掾宗味作」。

「常陸」の国の「大掾宗味」と名乗る同一作者に違いない。

ちなみに、「天下一」の称号は、織田信長が手工芸者の生産高揚を促進する目的に公的政策として与えたものであり、手鏡などに「天下一」の刻印があることはよく知られている。

やがて江戸時代ともなれば新しく生みだされた鋳造法によって大量生産されるようになり、鏡師のほとんどが、我も我もと刻印した天下一。

乱用を防ぐために、五代目将軍の徳川綱吉が、天和二年(1682)に「天下一」称号の使用禁止令を出した。

と、いうことは、「天下一常陸大掾宗味作」の制作年代は、天和二年以前。

単純計算したら、337年以上も前になる八軒町の「天下一常陸大掾宗味作」伏鉦に違いないです、と自治会役員にお伝えしたら、たいへん驚かれた。

取材中に訪れて参拝する地域の人たち。



お参りの時間は特に決まっていない。

通りすがりに手を合わせる人もいる。

この日に行われる地域の地蔵盆は、とても多い。

ここ、八軒町周辺にも多くあるといわれたが、次に向かう取材地が決まっている。

仕方なく場を離れるが、役員さんたちには、来年もお伺いしますので、よろしくお願いします、と告げて場を離れた。

ちなみに“南都興福寺”のころの木辻村は、浄言寺町、中町、瓦町、五軒町、八軒町、十三軒町に綿町だった。

おそらく、各地区それぞれに地蔵さんを安置し、手を合わせて供えていたのであろう。

(H30. 7.23 SB932SH撮影)
(H30. 7.23 EOS7D撮影)

徒歩5分で着く奈良県総合医療センター

2020年10月07日 10時24分11秒 | 奈良市へ
この日はお見舞い。

旧奈良県立奈良病院が新築移転。

立派な総合医療機関になり、平成30年5月に開業した奈良県総合医療センターに出かける。

開業してからもう1年も過ぎた。

ときが過ぎゆくのは実に早い。

あれよ、あれよ、あっという間の1年。知り合いの方が入院、手術と聞いて出かける見舞い。

歩きでも構わないのだが、近くにバス停留所がある。

バスの行程ならどういう具合で行けるのか。

それを知りたくて奈良交通の乗り合いバスに乗車した。

ほんの数分。

あっという間に着いた病院のバスロータリー。

受付に尋ねて見舞い許可を得た。

病室の歓談もできるおだが、家族でもない一般の人が歓談できる病棟フロアー。

大きな窓ガラスの向こう側は、住まいする居住地に近い隣町。



手前下に見える広場は公園。

散策道なども整備されているが、植樹した木々は育成、養生期間中。

張った芝生も緑一色になるには数年かかるだろう。



さらに東の方角に目を向けたら奈良の東山間地が見える。

樹木も沿って木陰になるような時期を迎えたら、格好の癒し場になるだろう。



病室を出てリハビリする患者さんもやがては、この広場で診も心もいやされること間違いなし。

そう思っていた私の5年前。

心臓手術をした後のリハビリは病棟の廊下と階段だけだった。

無機質の空間から広々とした空間に替われば、治りも早くなるのでは、と思った次第。

見舞いを終えて見たかった、病棟の外観。



遠くからでは我が家からでも見える巨塔。

澄み切った青空もまた癒しの景観。

少し下ってきたその場所は、退院後に利用していた日々の歩行訓練。



自宅療養中の毎日にここを歩いていた。

ただ、当時は工事前の地道。

雨が降ったとときは、びちゃびちゃ。

車も走れるが、一部の区間だけ。

近隣住民に対する配慮に車道、舗道に区分けしていた。



病院の完成後のこの道にはあふれるまではいかないが、散歩道として利用する人がむちゃ増えた。

下ったその先に歩行者専用のプッシュ式信号機がある。

待つのがかなわんという人は、プッシュもせずの信号は赤のまま。

十字路から少し離れているプッシュボタン。

それがめんどくさいのか、相当数の人たちが往来する車の動きを見て道路を渡っている。

危険を承知の上での行動であろう。

歩行者だけでなく、自転車乗り、バイク乗りまでもが渡る危険行為。

いずれは事故が起きるだろうと、自治会に嘆願したが、結局は2面のカーブミラーが設置されただけ。

聞いた話だが、ここ1年の間に4件もの衝突事故があったらしい。

私もしょちゅう利用する通行手段は車。

右や、左をあっち向いて、こっち向いて。左右をしっかり見ないと、あっというまに往来する車にぶつかる。

そうならないように、安全に、安全を確認して一旦停車した車を発進するしかない。

(H31. 2. 5 SB932SH撮影)