子どもは、ペットの次に大人の慰みものにされやすい存在である。
(中井久夫『「思春期を考える」ことについて』84)
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見た目で人を判断してはいけません
そっくりお返ししたいことばです
こどもだからという理由だけでね
かわいい、純粋、まっすぐ、元気、とかなんとか
わかったふりはやめてください
こどもの味方っていうのもちょっと暑苦しい
受け止めとか、寄り添うとか、学びあいとか
かんたんにおっしゃいますが、そのまえに
おとな同士、おとなの世界はそれができているのかな
ひとりでは生きられない
世界のことはよくわからない
不安、つまり無力の感情があふれます
わからないから求めるのです
わかること、わかる存在、頼れるものをね
こどもであることの逃げられない条件です
(おとなもおなじですか?)
でもほんとうに頼ってよいものを見分けることは難しいのです
ほんとはね、なにがそうなのかもわからない
見分ける方法もわからない、迷いや不安がいつもついて回る
だから籠絡されやすい存在でもあるのです
あまいことば、やさしい視線には負けてしまう
反論しようがないからって、それで勝負ありですか
だからそれに付け込むのは反則です、ゲスのやりかたです
こどもっていいとかカンタンに云わないでくださいね
そこで行き止まりになってしまいます
いいもわるいもいろいろ、すべて含んで生きています
悪魔にも天使にもテロリストにもなれるかもしれない
ほんとうにそう云いたいのなら、ニンゲンっていいとか
そんな場所に立ったうえでお願いします
おとなもカンタンにわかられたらイヤでしょ
わかりたいとようにわかっているつもり
じぶんの都合にあわせてわかる範囲に閉じ込める
それっておとながしちゃいけないことじゃないのかな
永遠にこどものままでいつづけることはできません
こどものまま、生徒のまま生きるわけにはいきません
こどもあつかいにもほどというものがあります
おとなになるための準備がてんこ盛りです
そこんところよくわきまえてくださいね
あっけらかんに見えてもこっちは毎日必死なのです
あかるくほがらか屈託がない、立ち直りがはやい
かんちがいにもほどがあります
無邪気ではありません、黒い雲も湧き上がります
こども世界、こども世間
ぼくたちが生きる一番の場所です
友情も憎悪も渦巻くこども世界です
おとなの世界と同じようにね、たぶん
たのしい顔がほんとうにたのしいとはかぎりません
なかよしが本当になかよしとはかぎりません
たかをくくり決めつけるのは愚かです
こどものためとか、未来とか、勝手な思い込みだけでね
じぶんのやさしさとか善人のネタにしないでね
純粋でもまっすぐでもありません
そんなわかりやすいものではありません
うれしいふり、かなしいふり
わかったふり、わからないふり
生き延びるためならどんなふりもする
にっこりされればにっこりする
しかめつらされたらしかめつらになる
泣いたり笑ったり、浮いたり沈んだりしながら
ほんとうにじぶんにとって大切なもの、心から楽しいもの
日々それを探索しながら生きているのです
でもわかんない、わからないことだらけ
こどもをネタやダシや刺身のツマにして一杯やるまえに
もうすこしこどもが生きるほんとうの姿を広げてみてね
こどもあつかいすればこどものまんま
おとなあつかいすればおとなとして振舞おうとする
おとなにはない柔らかな心、それがこどもの本質です
勝手にきめつけてかわいいとかなんとか、やめてください
胸に手をあてて、じぶんのこども時代をふりかえってください
かんたんにわかることでしょ、そんなんじゃないってね
おとなから学ぶことはたくさんあります
一番はおとながおとなとして生きる姿です
社会、つまりおとな同士がどんな関係を結びあって生きているのか
たとえば自分とはちがう異質、異形な存在とどうつきあうのか
教科書のどこにも書かれていないけれど
ほんとはそれを目撃することがぼくたちの一番の学びなのです