そもそも認識問題の本質的動機は、
単に客観的で厳密な認識が可能かどうかといった問題にあるのではなく、
むしろ諸世界観の対立をいかに克服するかという問題にあった。(『言語的思考へ』)
一切のドクサをエポケーすると、厳密な意味で人間に与えられているのは、
〈意識〉世界の諸表象像、つぎつぎに現われては流れ去っている
〈意識〉の体験流だけだ、ということになる。(『現象学入門』)
現象学は、世界の実在を否定するのではない。
実在の確証、つまり客観存在という概念が、論理的に背理であることを示し、
代わって、人間にとって世界の実在が不可疑として現われていることの
理由(条件)およびその意味を明らかにする。(『現象学入門』)
「語」が多義的意味をもつがゆえに「文」の多義性が生じるのではない。
むしろ、われわれの言語行為に不断につきまとう確信の多数性が
各々の「語」における多義的意味を作り出しているのである。(『言語的思考へ』)
発語行為では、「発語者の意-聞き手」の間の信憑構造は、
あくまで「確信の構造」として存在し、絶対的な理解に達するということはありえない。
現象学における現実対象の認識構造と同じく、それは「超越」にとどまる。
同様に、「発語者の意」についての「受け手の了解」は、
それがどれほどありありとした強固な確信であったとしても
じつは「誤解」であたという「可疑性の余地」が原理的に残されている。(『言語的思考へ』)
現実言語の本質洞察が明らかにするのは、
発語(テクスト)とその了解の間の関係には
そもそも「正しい受け取り」(一致)ということ自体がありえないこと、
つまり、そこには正しい了解の「不可能性」(断絶)があるのではなく、
むしろただ、「信憑関係」だけが存在するということである。(『言語的思考へ』)
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