人生への、人の悲しき十字架への全き肯定から生れてくる尊き悪魔の温かさは私を打つ。
(坂口安吾「ドストエフスキーとバルザック」1933年)
私はデカダンス自体を文学の目的とするものではない。
私はただ人間、そして人間性というものの必然の生き方をもとめ、
自我自らを欺 くことなく生きたい、というだけである。
私が憎むのは「健全なる」現実の贋道徳で、
そこから誠実なる堕落を怖れないことが必要であり、
人間自体の偽らざる欲求に復帰することが必要だというだけである。
人間は諸々の欲望と共に正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、
その欲望の必然的な展開に就ては全く予測することができない。
日本文学は風景の美にあこがれる。然し、人間にとって、
人間ほど美しいものがある筈はなく、人間にとっては人間が全部のものだ。
そして、人間の美は肉体の美で、キモノだの装飾品の美ではない。
人間の肉体には精神が宿り、本能が宿り、この肉体と精神が織りだす独得の絢は、
一般的な解説によって理解し得るものではなく、
常に各人各様の発見が行われる永遠に独自なる世界である。
これを個性と云い、そして生活は個性によるものであり、元来独自なものである。
一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして
誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか。
(坂口安吾「デカダン文学論」1946年)
如何に生くべきか、ということは文学者の問題じゃなくて、
人間全体の問題なのである。
人間の生き方が当然そうでなければならないから、
文学者も亦そうであるだけの話である。
如何に生くべきか、が人間のあたりまえの問題でなくて、
特に文学だけの問題のように考えられているところに、
日本文学の思想の贋物性、出来損いの専門性、
一人ガテンの独尊、文学神聖主義があるのだろう。
今の文壇は出来損いの名人カタギの専門家と
その取りまきで出来上っている遊園地みたいなところである。
(坂口安吾「新人へ」1948年)
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