テレビをつけるとオリンピック中継タケナワ・・・である。
五輪と言えば、金メダル獲得を目標に、4年間、厳しいトレーニングと調整と自己規律を自らに課し、その競技に照準を合わせる・・・フツーのひとでは、相当に難儀であろうことを、選手のみなさんは、積み重ねてきている・・・それだけでも、充分、尊敬に値する。
かつての・・・札幌五輪から、日本のフィギアスケート競技は、芽吹いたように思う。
あの時代。
生まれながらの容姿も得点になる・・・というフィギア(・・・や女子体操なども)は、西洋の規格から外れた日本選手は、リンクに上がれば、嘲笑の対象であったと聞く。
1976年インスブルック大会の男子フィギアスケートで、その存在をアピールした佐野稔選手が、芽吹かせた種が、ようやく実ったな・・・と思ったのは、4年前の羽生結弦選手を見たときだった。
かつて、嘲笑の対象だった日本人選手が、欧米列強を制した・・・。
スラリと長い手足、スレンダーな身体。
なにより、金色銀色の光が、羽生選手を包んでいたようにみえた。
ここまで来るのに・・・40年か・・・と感慨深かった。
・・・アレから4年経って。
たぶん、いろいろあったんだろう。
テレビに映った羽生選手を見たとき、あの金色銀色の光はなく・・・なんだか、別のギラギラ感があった。
(良い言葉で言えば、オトナになった感もあり、悪い言葉で言えば、下卑てきたなぁ・・・と)
ウィンタースポーツの競技は、固く冷たい氷の上に、身体をたたきつけられることあるだろう。
身体は、運動により、温まっているかもしれないが、手足は、冷え切っていることだろう。
(生物学的にも厳しいものがあるように思う)
おおよそ、スポーツ競技は、走行、跳躍、回転など・・・重力、慣性、速度・・・あらゆる物理の法則との闘いでもあるようだ・・・イヤ・・・闘いではなく・・・ある意味、融合なのか・・・。
そこに、人々は、感動するんだと思う。
力学との調和と融合・・・重力に逆らいながら、回転を競う、遠心力と慣性を味方にする・・・ひとは、物理の前にひれ伏すのではなく、融和を求めるのだ・・・そして、力学は、自然にヒトをサポートしてくれる・・・
それなしに、特に・・・ウィンタースポーツの美はないような気がする。
(舞踊のバレエなども、重力との闘いで、最後には、バレリーナの足を破壊することがある)
だから、金メダルは、力学に勝ったものでなくて、味方につけたものの頭上にあるのかもしれない。
でも、それも、利権に取って代わられたようだ。
美しい方程式は、ヒトの我欲の前では、成り立たない(・・・そうであって欲しいと私は願っている)。
羽生選手も、かつての金色銀色の光をまとい、重力を、大きな天使の翼に変えて、飛んでほしいものである・・・と・・・願っている。