間が空いてしまいました。
身内に不幸が、というか、父が亡くなりました。
去年の12月に黄疸が全身に広がり、『終末期です』と医師に言われてから2週間もたなかったかな。
初七日も先日終わりました。
父と母と、これで二親とも逝ってしまいました。
あ、両親は亡くなりましたが、継母がいます。昔風に言うなら、私、複雑な家庭環境?
今年の1月はちょうど母の33回忌で、
母亡き後、逆に父は33年間も生きていてくれたんだなぁと。
あ、正確に数えると33回忌ということは32年間でしょか。
一緒に暮らしていなくても、この世のどこかに存在していてくれるだけでありがたく心強く温かいと思っておりました。
眠りと覚醒の境目がなくなり、こん睡状態になるでしょうなんて言われてて、
確かにその傾向が現れ始めてはいたのですが、さすが我が父、
亡くなる前日前々日にやけに元気になり、
それはこのまま腹水をどひゃぁっと大放出し元気になるのではと思えるほどで、
でも母が逝ったときも前日はやけに元気だったんだよねと、娘に話し聞かせていたのですが。
ジンクスではないですけど、母のときも義父のときも、意思のある意識のある最後の会話を交わしたのは私で、
看取ったのも私で、これは私一人で付き添っているときは危ないぞとうすうす感じていたのですが。
今回もそうでした。
継母が用事を足しに出かけたあと、父と会話をし、
(と言っても入れ歯なしでふがふが会話でしたけど)
その後父はうとうとと眠り始め、
それとほぼ同時に継母が病室に戻ってきて、その間の様子を話している時に呼吸が停止。
潔いというか、え?何?って感じ。
父風に表現するなら、片手をあげて、「おぅ、じゃぁな、オレ逝くからな、ちゃんとやれよっ」でしょか。
人生初の心臓マッサージの相手が父となるとは。
でもね、やけに冷静というか、心臓マッサージをしつつ、今父が息を吹き返しても治る見込みはないんだとね。
でもこのまま看護師や医師が駆けつけるまで何もせずに見ていることなんて出来やしないし。
そう、今これを書いていて初めて気がついたことがあります。
男の人ってというか他の父親ってどうなんでしょ。
私の父は、自分のことを「父さんは」とか「お父さんは」とか一切使わなかったような。
会話中、全てオレだったかも。自分のことを「父さん」とか使ったことないぞ。
夫は娘と話をするときは(滅多にないので微妙に緊張しながら)、自分のことは「お父さん」と使ってるな。
私は娘と話をするとき(娘が中学生になる前後くらいからか?)、
自分のことを「お母さん」とは言わずに「私はこう思う」みたいに喋ってるかも。
通夜、告別式と親戚が集まって、皆父のことを「ぼくちゃん」と呼ぶし。
そう、通夜、告別式もそうでしたが、その前後も当日も含め、岩見沢猛吹雪の豪雪大渋滞。
前も何も見えないって。新田さんの八甲田山か蔵王の雪のトンネルのような道でした。
高速道路は区間は一定ではなかったですけど、連日岩見沢の前後が閉鎖。
通常なら2時間もあれば我が家から病院に行けるのに、今回は4時間以上軽くかかった。
納棺間にあわなかったし。
飛びますが、書くことで浄化というか消化というか、なんだか元気でてきたかも。
あ、普通に暮らしてはいるんです。ご飯も食べてるし、睡眠もとっている。昨日は走ってもみた。
言葉にできるまで時間がかかるというか、それだけ落ち着いてきているようで、まだ不安定かな。
2009年からでしょ。突然失ったわけではないんですけどね。
…どう締めくくったらいいのやら。
そんな感じです。亡くなるというか眠りに着く直前まで私も継母も笑っていて、安心してくれたんじゃないでしょか。
明るく送れて良かったなと。
年末からこんな調子で、なかなか明るく更新できる状況でもなくて。
それと、まぁ歳のせいでもあるし、たまたまそういう時期だったのか、疲労やストレス、心労からなのか、
髪の毛が猛スピードでどっと白くなってしまいました。マリー・アントワネットと言いたいところですが、…山姥でしょか。
頑丈・丈夫が取り柄の夫は昨日発熱ダウン、
私をとことんサポートしてくれた娘も、さきほど電話をしたらまさに発熱ダウン。
継母は今のところ大丈夫、兄には連絡取れず。ダウンしてるのか?
なんだかねぇ、なんていうんでしょ、この気持ちは。誰もが通る道なんでしょけど。
と、こんなこと書かないほうがいいのかなと思いつつ、とりとめもなく書きまくってしまいました。