ショッキングな話だが武田尾に抜ける最後のトンネルは六号トンネルと呼ばれ
そこから武田尾に向かって右手に防護壁が現れる。
実は防護壁には小さなトンネルがあり何気に覗くと真新しい菊など花と線香がそなえてある!「誰か自殺でもしたのかな~!」と
想像だけでは納得出来ずネットで検索すると過去に過酷な労働に従事した朝鮮人の若者が氷結したダイナマイトを乾かす為
ここで焚火をしていた所突然爆発して数人が非業の死を遂げた場所との文章を見つける。
http://www.ne.jp/asahi/home/osarukun/zatuwa50-4.htm
ここの中の下の方にに現場の防護壁の写真もあるが私は気になって中を覗いたのだが場所は間違いない。
この文章が書かれてからすでに7年経つが事故の日付が1929年3月26日となっていて1993年に現場を調査に訪れた
この記事の著者は偶然命日の3月26日にここを訪れ、我々が行った日が2006年3月26日。
事故から77年経った命日に私は呼ばれたのかも知れない。
機会があれば供養の気持ちで花でも供えてあげたいと思った。
画像は現場近くで写した廃線跡
そこから武田尾に向かって右手に防護壁が現れる。
実は防護壁には小さなトンネルがあり何気に覗くと真新しい菊など花と線香がそなえてある!「誰か自殺でもしたのかな~!」と
想像だけでは納得出来ずネットで検索すると過去に過酷な労働に従事した朝鮮人の若者が氷結したダイナマイトを乾かす為
ここで焚火をしていた所突然爆発して数人が非業の死を遂げた場所との文章を見つける。
http://www.ne.jp/asahi/home/osarukun/zatuwa50-4.htm
ここの中の下の方にに現場の防護壁の写真もあるが私は気になって中を覗いたのだが場所は間違いない。
この文章が書かれてからすでに7年経つが事故の日付が1929年3月26日となっていて1993年に現場を調査に訪れた
この記事の著者は偶然命日の3月26日にここを訪れ、我々が行った日が2006年3月26日。
事故から77年経った命日に私は呼ばれたのかも知れない。
機会があれば供養の気持ちで花でも供えてあげたいと思った。
画像は現場近くで写した廃線跡
あの花は事故を知る方が彼らを供養するための供物だったのですね。
今さらながら手を合わせておくべきだったと思っています。合掌。
中を覗いた時手を合わせておくべきでした。
合掌