高槻城は、1337年入江氏の居館に始まり、1569年に和田惟政が城としての基礎を固め、1573年に高山右近が主筋に当たる和田惟長を追放して堅固な城郭を築いたという。
高山右近は熱心なキリシタンで、1587年キリシタン禁教令が秀吉によって施行されると領地と財産をすべて捨てて信仰を選んでいるので高槻城主としてはわずか12年間しか滞在していない。
1614年、徳川氏のキリシタン禁制があっても信仰を捨てなかった右近は、ルソンに流され、翌年マニラで死去している。
関が原の戦い直後の1601年には、家康が高槻城を直接支配しているが、京都と大阪の中間にある交通の要衝としてその重要性を認識していたのであろう。
1617年大坂夏の陣の後、江戸幕府による直営改修工事が行われ、土岐定義、松平家信、岡部宣勝、松平康信(家信の嫡男)とめまぐるしく城主交代し、1649年には永井直清が3万6千石で入城している。
江戸期の高槻城の絵図(上の地図の右、東側から見た城の中心部)今では完全に撤去されているが、石垣で囲まれた大規模な城郭であったようである。
永井直清は徳川家光の小姓から出世した譜代大名で、高槻城主はこのあと13代続く永井氏によって幕末を迎えている。
明治になってからの1874年、鉄道建設のため高槻城は石垣が破却され、建物は解体されて石垣と一緒に鉄道用材として使われたという。
1909年高槻城の敷地は陸軍に接収され、堀が埋め立てられて本丸と二の丸は工兵第4連隊の練兵場、三の丸は兵舎となっている。
今も工兵第4連隊の煉瓦造りの営門の跡が残され、当事歩哨兵が使っていたボックスが現存しているのが珍しい。
その営門跡以外には城跡を偲ぶ石垣や堀、城壁、建物などをまったく見ることができないので高槻城は、明治政府によって徹底的に破壊されてしまったのであろう。
旧本丸跡の工兵連隊練兵場の一部は、城跡公園となって新たに石垣と池が整備されていた。
その公園の南には、1775年頃に建築された旧笹井家住宅が移築され、江戸中期の木造建築様式を今でも見ることができる。
端午の節句が近いせいか、旧笹井家住宅の床の間には雛人形が飾られていた。
| Trackback ( 0 )
|