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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



岩波新書の「遣唐使」(東野治之著)という本を読んでみると、歴史の教科書で教わった遣隋使、遣唐使(600~838年、以下遣唐使とします)と、住吉大社のことが解説されていました。



同書によると、遣唐使船には、船に祀られていた住吉神に安全を祈願する「主神」という人が必ず乗船していて、その主神には住吉大社の宮司家、津守氏が代々任じられてたそうです。

先頭は第三本宮



初期の遣唐使船は、住吉大社の南にあった住吉津から出港していたようで、奈良時代の日本書紀や万葉集の中に住吉津のことが記載されています。

先頭と並ぶ第四本宮



住吉大社の縦に並ぶ3祭神(底筒男、中筒男、表筒男)と神功皇后を合わせた4神は、航海と外征の守護神とされ、航行のために最も大切な帆柱に宿る神とされていました。

手前から第三、第二、第一本宮と縦に並んでいる



通常、遣唐使船は4隻の船団で出港しましたが、住吉大社の4本殿は、そこから西に向かう船団の形を現しているとも言われています。

左第四本宮、右が第三本宮



平安時代の延喜式には、遣唐使の派遣に際して住吉大社の津守氏が読み上げる祝詞が記載されていて、その停泊場所は難波の「那我良」(長柄)となっています。

左第四本宮、右が第二本宮(手前)と第三本宮(奥)



この長柄とは、上町台地の北西部、高麗橋付近(日下雅義氏)という説があり、遣唐使船は現在の土佐堀川、安治川に当たる水路を経て大阪湾に出たと想定されています。

第二本宮(手前)と第三本宮(奥)を北側から見る



住吉津から那我良への移転は、遣唐使船の大型化とともに、水深の深いポイントに港を移動させたと考えるのが妥当のようです。

第二本宮(手前)と第一本宮(奥)を北側から見る



つまり、遣唐使が出港したとされる難波津は、住吉大社南の住吉津、道頓堀北の三津寺付近、上町台地北西の高麗橋付近などを時代とともに移動したと考えると良いようです。

第二本宮(手前)と第一本宮(奥)を南側から見る



但し出港場所が変わっても、遣唐使船には住吉神が祀られ、津守氏が主神として必ず乗船していたので、住吉大社との関係は続いていたのです。



1400年以上前の遣唐使船団の姿を留めている住吉大社4本殿、凄い歴史ロマンですね。

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