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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪の阿倍野神社の祭神は、南朝の忠臣北畠親房とその長子顕家ですが、親房の生涯について長文の説明書が阿倍野神社に掲示されていましたのでご紹介しましょう。



北畠家は、村上天皇の具平親王から始まる村上源氏の系統で、平安、鎌倉時代を通じて権大納言まで昇格できる家格だったようです。

一の鳥居(南側)



1333年、建武の中興を果たした後醍醐天皇の親房に対する信頼は厚く、同年(親房41歳、数え年)、長男顕家と共に奥州に下向、親房の波乱万丈の人生がスタートしています。

二の鳥居と拝殿



建武の中興からわずか2年後に足利尊氏が反乱、顕家率いる奥州勢の反撃で一旦治まったかに見えましたが、翌1336年に尊氏は九州から西上、このとき親房は後醍醐天皇の宗良親王を奉じて伊勢の玉丸城に入り、伊勢に北畠の拠点を構築したようです。

拝殿



翌1337年、親房は伊勢から海路を使って奥州に向かいますが、途中の暴風で常陸に流され、そこにある神宮寺城を経て小田城に入っています。

阿倍野神社にある摂社、旗上稲荷



その小田城で神皇正統記を著すなど南朝の復興を図っていましたが、1342年には足利勢の攻撃を受け、翌1343年、南朝の本拠地吉野に戻っています。

阿倍野神社の西鳥居



1348年、親房の命で繰り出した南朝軍は四条畷で敗戦、続く足利軍の吉野焼き討ちを受け、後村上天皇は賀名生へ避難しています。

賀名生にある皇居の額



1350年になると、足利兄弟の内紛によって直義が南朝に投降、1351年には尊氏を破り、高師直以下の尊氏側近を殺害、戦勝した直義は、賀名生に足利武家政権の認知を求めますが、親房と後村上天皇はその要求を拒否しています。

賀名生の里(当時とあまりかわっていない?)



その秋(1351年)、尊氏が賀名生に投降の使者を送ると親房はその要求を入れ、1352年には後村上天皇が石清水八幡宮まで進出、親房率いる南朝軍は京都に入り、北朝の上皇、天皇、皇太子を拉致し賀名生に幽閉したのです。

賀名生にある親房の墓地



しかしほどなく足利義詮の軍勢に追われて賀名生にもどった頃から親房は体調を崩し、1354年、その波乱に満ちた満61歳の生涯(京に40年、陸奥に2年、京に1年、伊勢に1年、常陸に5年、吉野に3年、賀名生に7年)を閉じ、賀名生御所の裏山に埋葬されています。

参考文献:北畠親房と御子北畠顕家 久保田 収 著


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