司馬遼太郎の作品「侠客万助珍談」の中に幕末の大坂城が書かれていたので、3月第5週の大阪城南外堀の桜の写真と一緒に紹介しましょう。
6番櫓とソメイヨシノ(2分咲き?)
慶応4年(1868年)正月、大坂に集結していた幕府軍は、京都に押しのぼろうとし、鳥羽伏見で薩長土の連合軍と戦って大敗しています。
ヒガンザクラ(満開)
幕府軍が大坂から撤退、大坂城が空っぽになり、城内の武家屋敷群からも居住者が身一つで逃げたために、大坂城代以下定番、加番、大番屋敷には家財道具がそのままとなっていたそうです。
お城に入り放題やという噂が大阪市内に流れ、衣類、什器などを取りにゆく市民の群れが毎日数千人に上ったといいます。
ヨウコウザクラ(散り初め)
しまいには女子供まで出かけ、相当な商家の御寮さんなども近所誘い合して出かけたので大阪には勤皇も佐幕もなかったと司馬遼太郎は書いています。
オオシマザクラ
やがて長州軍が筒袖、団袋の軽快な軍装で進駐してきましたが、長州軍は不思議なことにすぐに大坂城内に入らなかったようです。
オオシマザクラ(8分咲き?)
その上、市民の略奪隊がどんどん大坂城に入って行くのを長州部隊はじっと眺めているだけで咎めだてをしなかったといいます。
「なんぼでも取り得や」と市民達は安心し、大坂のすみずみから人々が群れをなしてやってきて、大坂城に吸い込まれていきましたが、長州兵はじっと見ているだけだったようです。
ヒガンザクラ
後で判ったのですが、長州軍は城内に幕府が仕掛けた地雷火があることを警戒し、まず町民の足でしっかりと踏ませて安全を確認し、それから入城しようとしていたといいます。
気の早い花見客
やがてある日、城内の2か所で「ど・どーん」と地雷火のすさまじい火柱が上がり、「なんぼでも取り得や」と中に入っていた市民数人が犠牲となったようです。
西の丸庭園前のシダレザクラ(満開)
それを見た長州軍は、もうよかろうというので隊伍を整えて入城、その後に市中に略奪禁止の布告をしたそうですが、司馬遼太郎の書いたことですから根も葉もない話では無いと思います。
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