今回は、東北では、震災ボランティアや日本語教室でお世話になった仙台の方々に会ったり、久しぶりに宮城と岩手の被災地を中心に、被災して再建したホテルに泊まりました。岩手の大槌町では、津波で壊滅的な被害を受けた浪板海岸のホテルに泊まりました。部屋は3階でしたが、そこまで津波が入ったとのことで、避難経路の説明を詳しく受けることになり、緊張しました(*_*;
震災時、ホテルでは社長と料理長が最後まで避難誘導にあたり、亡くなられたそうですが、お客様と他の従業員は無事全員裏山の施設に避難出来たとのことでした。
一年半ぶりに被災地を訪れましたが
、陸前高田以外はほとんど変わっていなくて驚きました。土台が無くなった更地では、雑草が伸びていて荒んだ感じでした。
陸前高田には、「希望の架け橋」という名前の巨大で長いかさ上げ土砂運搬ベルトコンベアーが張り巡らされていました。
今回は、南三陸町のホテル観洋の語り部ガイドさんからも詳しくお話を伺うことが出来ました。
海から300メートルの戸倉小学校は、震災の二日前の震度5の地震で、避難所を校舎3階の屋上から裏山の高い場所へと、校長先生が急遽変更し、震災前日に全員で急いで山にかけ上る避難訓練を行ったことで、子供達の命が救われたことなどを知りました。
校舎3階屋上は、15メートルの高さがあり、過去のチリ地震等の津波では、校舎1階までしか津波が来なかったこと、最悪の場合、地震発生から津波到達まで3分とのことで、裏山へは国道も渡るし、子供の足では間に合わないのでは?とのことで、消防庁からは校舎の屋上を正式な避難場所にするよう指定を受けていたようです。
でも、実際の東日本大震災は、校舎の屋上をはるかに上回る20メートルを超える高さで襲ってきたこと、地震発生から津波到達まで40分あったことで、裏山の鳥居の上の神社に避難し、91名の子供たち全員が助かったそうです。
もしも、校舎屋上に避難していたら、それより五メートル以上高い津波に襲われ、ほぼ全員助からなかったかもしれないとのことでした。
南三陸町を南下すると、全校生徒の約7割、70名以上の子供たちが犠牲になった石巻の大川小学校があります。大川小学校は、北上川沿いですが、海岸から四キロ以上離れていたそうで、海も見えず、津波への危機感がそこまで強くなかったかもしれないとのことでした。
私は、戸倉中学校の学習支援の前に、時々戸倉小学校の子供達と一時間ほど遊ぶボランティアをしていましたが、心身に障害のある子ども数人いたので、山に避難させるのは先生方も必死だったろうと思いました。
避難した小山は、水に囲まれ陸の孤島になりましたが、夜は焚き火を囲んで、高学年の子供を中心に卒業式で歌うはずだった歌を一晩中歌って、励ましあって過ごしたそうです。
当時、戸倉の先生方は、とにかく子供達のことが可愛くて仕方ないという感じで接していたのが印象的でした。わりと、浜の子らしく元気で生意気な子供達も、先生の言うことはとても素直に聞いていました(^_^;)
死の恐怖を共に乗り越えた特別な絆と信頼感があったのかもしれません。
戸倉小学校の話は、断片的にしか聞いていなかったので、改めて聞く機会があって良かったです。
南三陸町は、高さ20メートルの津波に襲われ、たった5分で街ごと飲み込まれたそうです。その速さはオリンピックの短距離選手並みで、津波が来てからの避難では間に合わなかったらしいです。
差し迫った時ほど、水平方向(遠くへ)ではなく垂直方向(近場の高台)に逃げるのが生き残る術らしいです。
今は更地になった場所に、時々案内のバスが止まり、「震災前にちょうどこの通りから撮った写真です。」とパネルを見せられると、語り部バスの数十名の乗客から、どよめきが起こりました。
被災前の写真を見ると、ごく普通の賑わいも感じる街並みです。
この町の人達は、今まで暮らし慣れた町の風景から、この何もなくなった光景に慣れるまで、どのくらい年月を要したのだろうか・・?
もう受け入れることは出来たのだろうか・・?と改めて思いを馳せると胸が痛みました。
また、復興住宅を建てるための造成工事に3年はかかると言われていて、その後建てるということなので、いつ公営住宅に移れるかわからないようです
2年と言われた仮設住宅にいつまで住むことになるのやらと、終始淡々と話される方でしたが、その時は声に憤りを感じました。地元の新聞によると、安普請のため、土台が傾いて来たり、床壁天井はカビだらけの家もあり、健康を害している方々もいるとのことです。
語り部の方から、「戻られたら、復興は進んでないということを出来るだけ周りの方々に伝えて下さい。」と言われ、胸が痛みました。
実態としては、東京オリンピックに工事業者や職人さん達が取られてしまい、被災地の工事の入札が成り立たない状態らしいです。でも、南三陸のさんさん商店街や陸前高田の奇跡の一本松の所では、県外ナンバーやレンタカーで賑わっていました。震災遺構が近くに無くなった商店街は、閑古鳥状態で、明暗別れていました。
被災地は、まだまだ応援が必要なようです。
私も細々ですが、「もう大丈夫」と言われるまでは支援を続けていきたいです。
長文読んで下さり、ありがとうございましたm(__)m
写真は、陸前高田、南三陸町、気仙沼、名取市閖上です。