大キナ デンデンムシノ セナカニ ウマレタバカリノ 小サナデンデンムシガ ノツテ ヰマシタ。小サナ 小サナ スキトホルヤウナ デンデンムシデシタ。
「ボウヤ ボウヤ。モウ、アサダカラ、メヲ ダシナサイ。」ト、大キナ デンデンムシガ ヨビマシタ。
「アメハ フツテ ヰナイノ?」
「フツテ ヰナイヨ。」
「カゼハ フイテ ヰナイノ?」
「フイテ ヰナイヨ。」
「ホントウ?」
「ホントウヨ。」
「ソンナラ。」ト、ホソイ メヲ、アタマノ ウエニ ソーツト ダシマシタ。
「ボウヤノ アタマノ トコロニ 大キナ モノガ アルデセウ?」ト オカアサンガ キヽマシタ。
「ウン、コノ メニ シミル モノ コレ ナアニ」
「ミドリノ ハツパヨ。」
「ハツパ? イキテンノ」
「サウ、デモ ドウモ シヤ シナイカラ ダイヂヨウブ。」
「ア、カアチヤン、ハツパノ サキニ タマガ ヒカツテル」
「ソレハ アサツユツテ モノ。キレイデセウ」
「キレイダナア、キレイダナア、マンマルダナア。」
スルト、アサツユハ、ハノ サキカラ ピヨイト ハナレテ プツント ヂベタヘ オチテ シマヒマシタ。
「カアチヤン、アサツユガ ニゲテツチヤツタ。」
「オツコツタノヨ。」
「マタ ハツパノ トコヘ カヘツテ クルノ」
「モウ、キマセン。アサツユハ オツコチルト コハレテ シマフノヨ。」
「フーン、ツマンナイネ、ア、シロイ ハツパガ トンデ ユク」
「アレハ ハツパヂヤ ナイコト、テフテフヨ。」
テフテフハ、キノハノ アヒダヲ クグツテ ソラ タカク トンデ イキマシタ。テフテフガ ミエナク ナルト、コドモノ デンデンムシハ、
「アレ、ナアニ。ハツパト ハツパノ アヒダニ、トホク ミエル モノ。」ト キヽマシタ。
「ソラヨ」ト カアサンノ デンデンムシハ コタヘマシタ。
「ダレカ、ソラノ ナカニ ヰルノ?」
「サア、ソレハ カアサンモ シリマセン。」
「ソラノ ムカフニ ナニガ アルノ?」
「サア、ソレモ シリマセン。」
「フーン」小サイ デンデンムシハ、オカアサマデモ ワカラナイ フシギナ トホイ ソラヲ、ホソイ メヲ 一パイ ノバシテ イツマデモ ミテ ヰマシタ。
新美南吉は 「でんでんむしのかなしみ」 が有名ですが わたしはこのでんでんむしもとても好きです。ちいさなでんでんむしは世界には自分とちがう生きものがいっぱいることを知ります。そして一度おっこちたら コワレテシマフ ことも知ります。そして おかあさまにみわからない ふしぎなとおい空があることを知ります。ちいさなでんむしはたとえ世界が不思議なことで満ちていても......しあわせです。このものがたりはしずかなすみとおった調和に充たされています。 なぜなら でんでんむしはお母さんの背中に乗っていて 存在の重さを母にゆだね 母から掛け値なしに受け入れられているからです。
萩尾望都 の”トーマの心臓”に出てくる登場人物 には父親の喪失を持つひとが多い。”まろやかな”家庭をつくるのよ とポーシリーズのマドンナは言いますが、まろやかな家庭に育ったのはエーリクだけ。ユーリにもエーリクにも父はいない。そしてオスカーの父はほんとうの父ではありません。 これはいったいなんだろう。喪失がまずあって それを回復してゆく道のりが ものがたりでもある。つまり 傷ついた子ども愛されない子どものものがたり。インナーチャイルドのものがたりであり それらのかなしみをかかえた子どもが肩を寄せ合い お互いの傷 というか生来人間がもっている空洞を認め合い おとなへなってゆくものがたり でもあるのです。成長の痛みを描いているといってもいいかもしれません。
大島弓子 山岸涼子の作品にも 繰り返し語られるテーマですね。この傷ついた子ども はたいていの人の中にいまもいるわけで 萩尾さんや大島さん 山岸さんに根強いファンが多いのも 読むひとはそれと知らないで 似た境遇のキャラクターに同化しているのではないか。少年と少女のイニシエーションはおのずと異なります。「その後の大島弓子 萩尾望山岸涼子」では癒しについて三人に共通すること そして違いを書いてみたかったのですが こうして少しずつ書いてゆくのもいいのかもしれません。
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人に伝えるのは、とても困難で
容易ではありません。
ストーリーがこうだった、
人物はこうだった、
画像がいい、
セリフがいい、
リズムがいい、
線がいい・・・、
いろいろいいつのりますが、
何処かで本当に自分が感じたままのことが、
言えていない。
そんな思いをつねに残します。
わたしは 自分も ものがたりをつくったり 伝えたり するので ついかんがえてしまうのです.....漫画を読んだあとの圧倒的な気分 これは作者によって質がちがうんです。その秘密が知りたい。
連れ歩いている芸人が、
村の女と知り合い一緒に村を出ます。
女には年端のいかない男の子が一人いましたが、
女はほどなくして亡くなり、
この血のつながらない三人の親子が
芸を鍛えながら各地を流浪して歩きます。
しかし二十前後になった頃でしょうか、
弟は父のやり方に耐え切れず、
この「家族」から逃げていきます。
父は娘の唄が上手くなるようにと、
薬で娘の目を見えなくしてしまうようなことまで
やるようになります。
その父も死に、何年経ったのか、
弟は飲み屋か旅館のようなところで
世話になっている姉を探し出し、
そこで自ら太鼓を打って
盲目の姉の「沈清伝」を聞くのですが、
二人は姉弟であることも名乗らずに
別れていきます。
個人が意志を持ち、
自分の人生を選べという考えからすれば
ここでの我慢、耐え方はきっと理不尽であり
「文明」からは遠いものです。
しかし架空の「家族」から、
私たちは私たちの家族観、
私の自我のありようを
激しく揺すられます。
今では苦も無く登れるちいさなコンクリの遊具に一生懸命のぼって、その上でこのでんでんむしの親子の台詞をお互いに言って、お空を見上げていました。
懐かしい思い出です。
「傷ついた子ども愛されない子どものものがたり。インナーチャイルドのものがたりであり それらのかなしみをかかえた子どもが肩を寄せ合い お互いの傷 というか生来人間がもっている空洞を認め合い おとなへなってゆくものがたり」・・なぜ、自分が「トーマの心臓」をバイブルのように読んで読んで読みこんで、もう今は自分の細胞の一部と化しているくらいなのか、初めてわかりました。
ありがとうございました・・。
「朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨み辛みではなく、あこがれや悲哀や妄念など様々な複雑な感情をあらわすものである。「恨」の形成の裏には、時の王権や両班による苛斂誅求を極めた支配や、過去より幾度となく異民族による侵略・屈服・服従を余儀なくされ続けた長い抑圧と屈辱の歴史があると言われる。」
らんらんさんがこの映画を見てゆすぶられるとしたら、ご自分の自我形成のときに なにか深い葛藤があったのだろうと推察します。
わたしにも弟がおりますが 姉と弟の絆には愛と同等の熱い苦いものが含まれるように思います。
ユーリは成長を拒否して 少年から大人への扉をあけることをしないで 神学校に 逃げた と見ることもできます。
いいものがたりにはさまざまな位相がありますね。