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寛政12年10月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年10月17日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年10月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年10月朔日(1日)(1800年)
朝から晴れ、昼曇る。三橋(藤右衛門)氏への新暦伝来の草稿作成や象限儀を磨く必要があり、(盛岡に)逗留。盛岡までの先触を受け取ったので、止宿日限を書き添えて先触及び添触を仙台城下留めで出す。案文は三厩の際の先触と同じである。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
チーム伊能、本日は盛岡に逗留。とはいえ、ノンビリしている暇はありません。①三橋藤右衛門(幕府のお偉いさん)から出された宿題のレポート、②象限儀の手入れ、③先触及び添触の手続きと様々なことをしなければなりません。特に①のレポートはなかなか大変そうです。

寛政12年10月2日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。朝七つ半過ぎに(盛岡を)出立。郡山二日町(上町ともいう)を過ぎ、石鳥谷で中食。一日市町、川口町を通リ、七つ頃花巻川口町に着き、止宿。夜晴天、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、盛岡城下(盛岡市)〜花巻川口町(花巻市)。地図では36キロ。終日晴天で天気は安定しています。チーム伊能も淡々と歩を進め、花巻に到着。日記の記事は必要最小限で簡潔です。

盛岡城跡 to 里川口町

盛岡城跡 to 里川口町



花巻川口町は宮沢賢治が生まれた町です。

寛政12年10月3日(1800年)
朝から八つ頃まで晴れ、そのあと曇る。朝七つ半に(花巻川口町を)出立。鬼柳を通り、金ヶ崎で中食。水澤に八つ半ころに着き、止宿。この日の夜は曇天であったと思う。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は花巻川口町(花巻市)〜水澤(奥州市)地図では約30キロ。当時は不定時法なので、七つ半は日の出約一時間前のこと。うっすら明るくなってきたときに出立し(七つ半出立)、日のある頃に(八ツ半)次の宿に到着するのが旅の基本です。

里川口町 to 水沢駅

里川口町 to 水沢駅



水沢は高野長英の出生地(1804年生)。水沢には高野長英記念館があります。

寛政12年10月4日(1800年)
朝から晴曇り、夜は晴天。七つ半後に(水澤を)出立し、前澤を通り、一ノ関町に八つ頃に着き、止宿。同町は田村紀三郎が藩主、三万石。この夜測量を行った。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は水澤(奥州市)〜一ノ関町(一関市)。地図では約25キロ。止宿場所は一関藩、藩主は田村紀三郎(当時16歳)で三万石。田村紀三郎は後に「田村宗顕」と名乗ります。一ノ関は現在は岩手県ですが、当時は仙台藩の支藩でした。

水沢駅 to 一関市役所

水沢駅 to 一関市役所



寛政12年10月5日(1800年)
朝から昼まで晴天。七つ半に(一ノ関町を)出立。有壁、金成、澤辺を経て、月館(築館とも)に八つ半頃に着。夜は白雲で、雲の合間から測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は一ノ関町(一関市)〜月館(栗原市)。地図では約27キロ。2日から四日連続で出立は七つ半(日の出約1時間前)です。一ノ関は岩手県ですが、有壁から宮城県。月館(旧築館町)まで進んできました。本文の「(築館とも)」は忠敬が書いており、地名にどのような漢字を当てるか一定していなかったことが分かります。

一関市役所 to 栗原市立築館小学校

一関市役所 to 栗原市立築館小学校



寛政12年10月6日(1800年)
朝から晴れ、夜は曇る。朝六つ前に(月館を)出立。高清水、荒谷を経て、古川で中食。三本木を経て、七つ半過ぎに吉岡に着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は月館(栗原市)〜吉岡(大和町)。地図では約39キロ。本日は朝六つ(日の出時)に出立しており、いつもより少し遅い旅立ちです。その為到着もいつもより遅く七つ半(日の入りの一時間前)着。

栗原市立築館小学校 to 吉岡宿本陣案内所

栗原市立築館小学校 to 吉岡宿本陣案内所



本日泊まる吉岡宿は2016年に、映画『殿、利息でござる!』に当時の宿場町の出来事が取り上げられました。これは「国恩記」という江戸時代に書かれた記録に基づいた映画です。

寛政12年10月7日(1800年)
早朝少し晴れ、測量。六つ前雨、五つ過ぎから晴れ。吉岡を出立し、富谷新町、北田を経て、九つ半に仙台城下国分町に着き、止宿。夜晴れ、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は吉岡(大和町)〜仙台国分町(仙台市)。地図では約22キロ。本日は距離が短いため、九つ半(午後1時)には仙台到着。中食についての記載がないことから、中食を食べる前に仙台に着き、夜までは少しはのんびりできたのではないかと思われます。夜は晴れたので、測量(天体観測)を行っています。

吉岡宿本陣案内所 to 国分町

吉岡宿本陣案内所 to 国分町



寛政12年10月8日(1800年)
朝から晴天、九つ頃から少し曇る、夜は薄曇り、測量。本日、森岡(盛岡)から仙台留めで出した先触を受けとり、止宿先を書き添えた(先触の案文は盛岡から出したものと同じ)。また、従前の添触の写しや浅草司天台の高橋先生への書状が先触と共に届くように手配した。
三橋氏より仰せのあった天文暦学一件についての書面も旅行中認めたので、高橋先生にご覧いただくよう手配した。四つ頃、町役人にこれらを渡した。(国分町に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は所用をこなすため仙台国分町逗留。①先触、添触の処理、②師の高橋至時への書状の送付手配、この書状には③三橋藤右衛門へのレポート案も同封。レポート案を師匠に見てもらい添削を受けるためです。筆マメな忠敬は、高橋至時への書状を記録しています。⇒ブログに現代訳を掲載しました。
#伊能忠敬 #測量日記

伊能忠敬、帰路仙台から師匠高橋至時に書状を出す - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り...

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寛政12年10月9日(1800年)
朝から曇晴れ、八つ過ぎ小雨、夜も曇天。朝七つ半に国分町を出立し、長町、中田、増田を経て岩沼で中食。岩沼大明神に参詣し、佐原の油屋四郎兵衛の墓へ立ち寄った。槻木を経て、舟迫に七つ頃着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は仙台国分町(仙台市)〜舟迫(柴田町)。地図では約30キロ。「舟迫」は現代では船迫(ふなばさま)と表記します。

国分町 to 〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目

国分町 to 〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目



忠敬は途中岩沼(岩沼市)で岩沼大明神に参詣しています。現在の竹駒神社。明治以前は以前は武隈明神といわれていました。名称が変わったのは、国家神道の流れの中で、明神思想が否定されたため。明治以降は稲荷神が主祭神とされました。

また、岩沼では佐原の油屋四郎兵衛の墓へ立ち寄ったとあります。この点については、千葉県図書館さんのリサーチがありますが、はっきりしたことはわからないようです。

『伊能忠敬測量日記』によると、寛政12年10月9日に宮城県岩沼の竹駒明神にお参りした後に「・・・佐原... | レファレンス協同データベース

レファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。参加館の質問・回答サービスの事例、調べ...

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寛政12年10月10日(1800年)
早朝測量。晴曇り。朝七つ後、舟迫を出立。大河原に朝六つ前に着いた。大河原宿の入口で鈴木公にお会いして江戸への帰府届の儀を伺う。本陣で村上三郎右衛門殿にお会いし、津田公に頼まれたご挨拶をした。金ケ瀬、田宮を経て、白石で中食。斉川を経て、越河に八つ半過ぎに着き、止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は舟迫(柴田町)〜越河(白石市)。地図では約26 km。途中、大河原宿で津田公(佐原の領主)に頼まれた所用を済ませてから越河宿(現在は越川と表記)まで歩を進めています。

〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目 to 白石市立越河小学校

〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目 to 白石市立越河小学校



挨拶をした「村上三郎右衛門」は旗本 。伊能忠敬は往路でも会っています(5月9日条)。このときは村上が江戸へ向かう途中でした。今回は忠敬が復路、村上は箱館に向かう途中のようです(三橋成方と交替で箱館の奉行所に詰めるため)。
 「津田公」は佐原の領主で、蝦夷地測量についても伊能忠敬を何かとバックアップしていました。

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