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久離・勘当は認めない・仮刑律的例 49

2024年12月30日 | 仮刑律的例
久離・勘当は認めない・仮刑律的例 49
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(要旨)久離・勘当は認めない
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【播磨姫路藩主からの伺い】
明治2年3月27日、 播磨姫路藩主からの伺い
旧幕府の頃は久離・勘当をした場合は届け出をすればよい扱いでしたが、この度御一新(明治維新)となり、脱藩した者は帰藩させるようにとの寛大な措置が取られています。
久離・勘当をした場合はどのように扱えば良いでしょうか。
領主が受付けた上で、お届けすればよろしいでしょうか。それとも、脱藩者と同様に扱うべきでしょうか。
適切なご指示をいただきたく、この件についてお伺い申し上げます。以上。

【明治政府からの返答】
久離・勘当は、天下に無籍の者がないようにとの(天皇の)御旨意(この点については既に布告したとおりである)に抵触する。よって、久離・勘当は行わず、寛大に取り扱うべきである。

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(コメント)
・仮刑律的例もこの播磨姫路藩主からの伺いで最後です。最後は久離・勘当について。勘当は現代でも聞く言葉ですが、久離(きゅうり)は全く聞かないので、ご存知ない方も多いでしよう。まずは語義を確認しましょう。
久離:親族中の目下の者(子・弟・甥) の犯罪や債務負担について、連帯責任・社会的非難を免れるため、目上の者(親・兄・叔父)が親族関係の断絶を言い渡し、役所に届出て人別帳からはずしてもらうこと。
勘当:主従・親子・子弟の 縁を切って追放すること。久離より軽いが、同じく人別帳からはずすことを役所に届け出る。
・久離も勘当も「人別帳からはずす」という点では同じですが、久離の方が重いのです。この説明ですと、犯罪や債務負担について、連帯責任・社会的非難を免れるという点が勘当とは異なる点です。
・久離・勘当は現代法の感覚からすると、親族法であり、刑事法とは関係がないように見えてしまいますが、犯罪等について連帯責任を免れるという点が江戸時代は刑法的な感覚でとらえられていたのでしょうか。
・江戸時代までは久離・勘当は普通に行われていました。伺文中でも「旧幕府の頃は久離・勘当をした場合は届け出をすればよい扱いでした」と述べられています。
姫路藩は久離・勘当を認めたかったようですが、明治政府は、「天下に無籍の者がないように」との方針を採っており、脱藩した者も帰藩させておりました(仮刑律的例 #5脱籍者処置)。この方針からは、久離・勘当を認めることはできないことになりますので、返答は「久離・勘当は行わず、寛大に取り扱うべきである」とされています。

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蟄居中、髭や月代を整えてもよし・仮刑律的例 48の3

2024年12月19日 | 仮刑律的例
蟄居中、髭や月代を整えてもよし・仮刑律的例 48の3
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(要旨)蟄居中、髭や月代を整えてもよし
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【近江仁正寺藩主からの伺い】
明治2年3月29日、 近江仁正寺藩主からの伺い

預かりの者4人は、長期間の蟄居生活のため、最近頻繁に逆上するため難渋しております。差し支えなければ、髭や月代を整えてもよいように申し伝えたいのですが、問題はございませんでしょうか。お伺い申し上げます。

【明治政府からの返答】
伺いのとおりで問題ない。

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(コメント)
・仁正寺藩は、近江国蒲生郡仁正寺(現滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩です。
・「預かりの者4人」がどのような者か伺文からはよくわかりませんが、「蟄居生活」と記載されていることからすると、武士であり、現代風にいうと禁錮刑を受けていたのではないかと思われます。
・「差し支えなければ、髭や月代を整えてもよいように申し伝えたい」とありますので、髭や月代を整えることを認めず、伸ばし放題であったようです。
・伺いでは髭や月代を整えることの許可を明治政府に求めるものですが、政府は「伺いのとおりで問題ない」とあっさりと認めています。

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徳川慶喜の謹慎は解除せず・仮刑律的例 48の2

2024年12月16日 | 仮刑律的例
徳川慶喜の謹慎は解除せず・仮刑律的例 48の2

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(要旨)徳川慶喜の謹慎の解除は認めない
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【駿河府中藩からの伺い】
明治2年3月、 駿河府中藩主徳川家達の家来からの伺い

徳川慶喜公は昨年の春以来、深く恐れ入っており一室に謹慎しております。元々、慶喜公は気鬱の性格でありますが、この度のことで自然と鬱閉弱骸となるのではないか深く心配しています。恐れ多いお願いではありますが、どうか月に一度か二度だけでも、久能山の墓参などを許していただけないでしょうか。私たちとしてはこれが精一杯のお願いであり、どうかこの事情をお汲み取りいただき、許可していただけましたら、これほどありがたいことはありません。以上の件、何卒ご理解の上、お願い申し上げます。


【明治政府からの返答】
〈刑法官意見〉
この歎願は決して御採用になってはいけないと存じます。

〈議参意見〉
刑法官の見込みのとおり、容易には採用致しかねる。

※議参とは、議政官の議定と参与のこと。
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(コメント)
徳川慶喜は、1868年(慶応4年・明治元年)江戸開城後に水戸・弘道館から宝台院に移り、静岡での謹慎が始まりました。
今回の伺いは明治2年(1869年)2月になされております。伺いによれば、「元々、慶喜公は気鬱の性格でありますが、この度のことで自然と鬱閉弱骸となるのではないか深く心配しています」とのことであり、体調を心配してのことで、謹慎の全部を解除せよというのではなく、
「どうか月に一度か二度だけでも、久能山の墓参などを許していただけないでしょうか」というお願いでした。
しかし、この時期は北海道で戊辰戦争が継続しており、明治政府からすれば、徳川慶喜の謹慎は一部解除であっても時期尚早であったようです。
刑法官の意見が、「この歎願は決して御採用になってはいけないと存じます」となっているのは、このような考え方が背景にあるのでしょう。
徳川慶喜、謹慎が解かれたのは、戊辰戦争の終結(1869年(明治2年)5月)からも4ヶ月もあとの、同年9月のことでした。

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刑法官 けいほうかん
明治初期の司法権を担当した政府機関。1868年(明治元)閏4月の政体書発布にともない京都に設置された。同年10月の東京移転までに捕亡(ほぼう)・鞫獄(きくごく)・監察の3司を備えたが,民事裁判は民部省が管轄したままで,刑事裁判についても各府藩県の裁判所に対し刑の適用の大枠を示す程度の機能をはたすにすぎなかった。翌69年5月には監察司が独立して弾正台となり,7月刑法官は司法省の前身にあたる刑部(ぎょうぶ)省へと改組された。
(山川 日本史小辞典 改訂新版)

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三浦休太郎らの禁錮への処分変更について・仮刑律的例 48の1

2024年11月28日 | 仮刑律的例
三浦休太郎らの禁錮への処分変更について・仮刑律的例 48の1
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(要旨)
・三浦休太郎及び井田政一郎は、明治元年冬に天裁(天皇の御判断)により押込め処分となった。
・国元(紀州)で押込めを行っていたが、両人の件は明治政府の刑法局へ移管とし、刑は国元での禁錮刑に変更する。
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【紀伊藩からの伺い】
明治2年3月5日、 紀伊藩徳川中納言からの伺い

中納言(紀伊藩)の家来三浦休太郎及び井田政一郎は、昨年の冬、天裁(天皇の御判断)によりご寛大な処置をいただきました。国元へ送った後、重臣の屋敷に預け、厳重に取り締まっていました(これまで士分で重罪を犯した者と同様の処置です)。
この度御趣意に基づき革政(ご一新)となり、刑法の局も新たに設立されましたので、上記二名を刑法局に移管したく思います。このことが、これまでの寛大な御配慮に背くことのないように、中納言は禁錮の処置に変更することでよいかお伺いするよう指示を受けました。以上につきお伺い致します。

【明治政府からの返答】
即日に押紙をもって返答
伺いのとおり刑法局へ移管とし、取締の方法については藩の見込のとおり禁錮として取計らってよい。

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(コメント)
・三浦休太郎及び井田政一郎の処分についての伺いです。伺いからは、三浦らが何か問題を起こし、明治元年の冬に天裁(天皇の御判断)によりご寛大な処置となったことがわかります。
・何の問題を起こしたかは不明ですが、「士分で重罪を犯した者と同様の処置です」とあるので、重罪に相当することを起こしたようです。
処分の内容は、国元の重臣屋敷での押込めです。
・今回の伺いで、両名は国元(紀州)で「押込め」の執行が行われていたところ、両人の件は明治政府の刑法局へ移管とし、刑は引き続き国元(紀州)で行われるのですが、禁錮に変更することになりました。
・「禁錮」というのは、現代に至るまで残っている刑ですが、明治初年には武士に対して行われた刑でした。
明治3年に公布された新律綱領では武士には次の刑が科されています。
「士族に対しては,閏刑として,謹慎(外部の人に接見通信する事を許さないもの),閉門(門扉を閉ざし,薪糧等を通ずるほか,奴婢といえども出入りすることを許さないもの),禁錮(一室内に鎖錮させるもの),辺戍(北海道に送り,辺境の軍役にあてるもの),自裁(自ら屠腹させるもの)の五種の刑を設けた」(法務省昭和43年版犯罪白書
・今回の伺いのきっかけは、「刑法局」が新たに設立とされています。しかし、この「刑法局」というのがよくわかりません。浅古他『日本法制史』には、「新政府に よる裁判制度の編制は、慶応 4年正月の刑法事務科設置に 始まり、同年2月の刑法事務局を経て、同年閏4月の政体書により、刑法官が設置さ れ、断獄(刑事裁判)事務を掌った。」とあり、刑事裁判を所管したのは、 刑法事務科⇒刑法事務局⇒刑法官と変遷しました。さらに、刑法官は、版籍奉還後の明治2年7月に刑部(ぎょうぶ)省へと改組されます。
このように「刑法事務局」や「刑法官」はあるのですが、「刑法局」はありません。名称としでは、「刑法事務局」が近いのですが、慶応4年2月〜同年閏4月までの短期間しかなく、今回の伺いの時期(明治2年3月)とも合いません。

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刑法官 けいほうかん
明治初期の司法権を担当した政府機関。1868年(明治元)閏4月の政体書発布にともない京都に設置された。同年10月の東京移転までに捕亡(ほぼう)・鞫獄(きくごく)・監察の3司を備えたが,民事裁判は民部省が管轄したままで,刑事裁判についても各府藩県の裁判所に対し刑の適用の大枠を示す程度の機能をはたすにすぎなかった。翌69年5月には監察司が独立して弾正台となり,7月刑法官は司法省の前身にあたる刑部(ぎょうぶ)省へと改組された。
(山川 日本史小辞典 改訂新版)

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三浦休太郎は次のような人物です。
三浦安(三浦休太郎)
コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)によれば、以下のとおり。
○1829-1910 幕末-明治時代の武士,官僚。
文政12年8月18日生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)西条藩士。本藩の紀伊(きい)和歌山藩籍にうつり,外交役をつとめる。慶応3年坂本竜馬のいろは丸沈没事件を処理。このため竜馬暗殺への関与をうたがわれ,海援隊士におそわれて負傷した。維新後は東京府知事,宮中顧問官を歴任。貴族院議員。明治43年12月11日死去。82歳。本姓は小川。通称は休太郎。
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長崎府の徒刑規則・仮刑律的例 47

2024年11月18日 | 仮刑律的例
長崎府の徒刑規則・仮刑律的例 47
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(要旨)
・徒刑者(受刑者)はそれと分かるように両鬢を剃り落とすので、市中や郷中で徘徊する者を見かけたら留置き、役所へ報告するせよ。
・徒刑場(元人足寄場)で、市中相場の約三分の二の料金で精米を行う。
・徒刑場の人足(労働者)を雇いたい者も歓迎する。
・詳細は細則を参照すること。
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【長崎府の徒刑規則】
明治2年2月、 長崎府から届出られた徒刑規則。

徒刑を言渡した者(受刑者)たちは、両鬢(もみあげ)を剃り落とすこと及び手業(仕事)について、別紙の通り市や郷、隣藩県に通達しました。

---
〈別紙〉
一 郡用方掛(郡の役人)および町方掛(町の役人)へ
今回、徒刑者(受刑者)には、これまで季節ごと衣服を貸与していたが、これを中止し、今後は両鬢(もみあげ)を剃り落とす。徒刑者(受刑者)の逃亡防止のためである。
このような者が市や郷を徘徊しているのを見かけたら、すぐにその者を留置き、役人から徒刑役所へ訴え出るように。状況によっては褒美を与える。見聞していながら無視したり、内密に宿泊を許したりするようなことがあれば、本人だけでなく、その役人も厳しく処罰する。
このように、市や郷で漏れなく触れをせよ。
巳(明治二年)二月
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一 隣藩県へ達書
このたび、徒刑場を設置し、徒刑者(受刑者)を収容し、作業を行わせる。彼らが市や郷に出ることもあり、彼らが逃亡しないように受刑者には両側の鬢(もみあげ)を剃っておく。
もしこのような姿の者が貴藩・貴県を徘徊していた場合は、すぐに捕えて、早急に当府に知らせていただきたい。
巳(明治二年)二月
長崎府

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一 郡用方掛(郡の役人)および町方掛(町の役人)へ

大黒町(現長崎市大黒町)に新たに設置した徒刑場(元人足寄場)において、市中相場の約三分の二の料金で精米を行う。希望者は徒刑場に申し出よ。
また、人足(労働者)を雇い入れたい者も、同様に徒刑場に申し出よ。願い次第で同様の相場でその者を派遣する。
これらは救助(更生)の一環であり、これまでのやり方を一新し、手続きを簡易なものとし、庶民の便宜を考慮したものであるので、遠慮せず申し出よ。細則は以下の通りである。
---
一、精米を希望する者
徒刑場の門内で商人を待機させているので、その者に申し出ること。遠方の者は、最寄りの場所で出入している商人たちに申し出ればよい。その場合、すぐに徒刑場から受取担当者を派遣し、三日以内に精米を渡す。急いで精米を希望する場合は、その旨を申し出よ。即座に精米を行う。
---
一 米を受け取る際は、斤数(重さ)を確認して受け取り、精米ができた際には、斤数(重さ)が書いてある書類に見届判を押してから受領すること。
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一 精米は極白とする。精米の仕上がりが悪い場合は、遠慮なく申し出ること。再度精米する。その際に追加の料金は不要である。」
---
一 米屋によって、精米の仕上がりに差があるから、自分の希望に合った仕上がりを心得ている米屋を選んで、希望どおりに精米してもらうこと。

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一 糠や俵などはすべて返却する。ただし、当方に引き取りを希望するのであれば、市中の相場に基づいて買い取る。

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一 徒刑人足(受刑者)を雇いたい者は、精米と同様、徒刑場に申し出よ。中食(昼食)は雇主の負担とするが、漬物以外の副菜は決して出してはならないし、賃金以外に一銭でも渡してはならない。

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一 徒刑役所での精米の金額及び人足賃(受刑者の賃金)は以下のとおりとする。ただし、賃金の変動に応じて増減することがある。
(精米)
− 五斗俵は一貫文
- 四斗俵は800文
- 三斗俵は600文
ただし、自分で持ち運びを行う場合は、1俵ごとに24文ずつ賃金から差し引く。
(人足賃)
- 人足賃は一貫文
以上の内容を、市中および郷中で漏れなく周知するように。
已(明治二年)二月
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徒刑の者(受刑者)の御赦免(釈放)の際の取り扱いについての伺い
野口豊太郎
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徒刑または溜入り(病人・未成年者用の牢屋)を命じられた者の刑期が満了した場合は、徒刑は官府において赦免(釈放)を命じ、溜入りは徒刑役所で赦免(釈放)を申し伝え、居住していた町及び身寄りの者に引き渡すことでよいでしょうか。また、人別については、どのようにすれば良いでしょうか。以上、お伺い致します。
巳(明治二年)二月
野口豊太郎
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(返答)
今後、徒刑から赦免(釈放)する者は身寄りを確認して引き渡しをせよ。人別については、引き受けた者から、その筋に申立てをするように。
上記の内容を、漏れなく市中および郷中に知らせよ。

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徒罪について・仮刑律的例 46

2024年10月31日 | 仮刑律的例
徒罪について・仮刑律的例 46
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(要旨)
・徒罪の年限は1年、1年半、2年とされたい。
・窃盗50両以上100両未満は徒罪
・徒罪を受けている者の拘束の方法や恥ずかしめを与える方法は各藩の裁量に任せる
・女性も徒罪を科すことができる

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【鳥取藩からの伺い】
明治2年3月6日、 鳥取藩からの伺い

先般、刑律御改正がありましたが、次の点についてお伺い致します。
【伺①】どのような罪状の場合に徒罪を言渡したらよいでしょうか。

【返答】
徒罪の年限は1年、1年半、2年とされたい。また、その他の犯罪は、以下を参考にしてして決めていただきたい。
火附・強盗人ヲ殺ス者⇒梟首
強盗・百両以上窃盗・強奸⇒刎首
窃盗五十両以上⇒徒罪
同二十両以上⇒笞 百
同一両以上⇒笞 五十
同一両以下⇒笞 二十

(コメント)
鳥取藩からの徒罪についての一般的な問合せです。徒罪は現代の懲役刑に相当すると説明されることが多いのですが、この伺いを見ていくと、現代とは様々な相違点があることに気がつきます。
【伺①】は、どのような罪状の場合に徒罪を言渡したらよいかというものです。明治政府が明確に示したのは、窃盗50両以上100両未満の場合は徒罪ということだけで、その他の犯罪は、示したものを参考にしてして決めよという、ほぼ丸投げ状態です。


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【伺②】
一 徒罪を執行したときに、首に鐶(かせ)をかけたり、斬髪をしてもよいでしょうか。なお、これは、古髠鉗(こりょうかん)と呼ばれる刑罰によるものです。鐶(かせ)は銅・鉄・真鍮等で作るということでよいでしょうか、またその製法があればお教え下さい。
一 斬髪というのは、髻(もとどり)から斬るという方法だけでよいでしょうか。剃下げや惣髪にすることはいけないということにして良いでしょうか。

【返答】
徒罪を受けている者の拘束の方法や恥ずかしめを与える方法については、現時点では取決めがないので、各藩の裁量で取り扱うこととしてよい。

(コメント)
【伺②】は、徒罪を受けている者の拘束の方法や恥ずかしめを与える方法についてです。懲役刑は、刑務所に収容して自由を奪い、労務作業(木工、印刷、洋裁など) を義務づけるものですが、その他の「恥ずかしめを与える方法」等は想定されておりません。しかし、鳥取藩は首に鐶(かせ)をかけたり、斬髪をするという方法で、徒罪に服していることを明らかにしておきたかったようです。明治政府は、現時点では取決めがないので、各藩の裁量で取り扱うこととしてよいと、鳥取藩の自由裁量を認めています。

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【伺③】
一、婦人も徒罪に処して良いでしょうか。

【返答】
良い。なお、婦人徒罪における苦役方法は、各藩の独自の裁量で取り扱ってよい。

(コメント)
女性に対して徒罪(徒刑)を科してよいとの明治政府の考えは、「仮刑律的例24」(京都府からの明治元年12月26日付け伺い)により明らかになっています。
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/133cb0047bf2f05e8879cae5ff01a305
仮刑律的例24では笞刑を女性に科すことは相当ではないので、徒刑でよいかとの伺いに対して、明治政府がこれを是認し、女性の徒刑は、場所を区別して行うのが最も良いこと、徒刑の場所を整備する迄は、過怠牢舎で代替してもよいことという返答がなされています。

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【伺④】
一、流罪に処するのはどのような犯罪の場合でしょうか。

【返答】
流罪は、死罪よりも軽く、徒罪よりも重い犯罪に対して科される刑罰である。

(コメント)
明治初年にはまだ流罪(流刑)が残っていました。新しく徒罪(徒刑)が導入されたため、鳥取藩としてはどのような場合に流罪を適用したら良いのか迷っていたようです。
明治政府の返答は、徒罪〈流罪〈死罪 という関係を示した素っ気ないもので、これだけでは鳥取藩も困ったことでしょう。仮刑律的例23では、「流刑にすべき者:追放刑にしたのに追放場所から戻った者、女犯の僧、15歳以下で死罪にあたる罪を犯した者。それ以外は一つ一つ答えることはできない。」との考えを明治政府は示しているのですが、鳥取藩にはこの返答を示しておらず、明治政府内でも明確な方針が打ち出せていなかったようです。
なお、他の仮刑律的例での流罪事例は次のとおりです。
・高額窃盗事案(被害額100両超)であり、本来死罪とすべきところ、大赦があったことを理由として流罪7年とした事例(仮刑律的例 17、度会藩)
・兵庫県の判事の下男が、2名の者に脇差しで切り付け、一名を死亡させ、一名に重傷を負わせたことにつき、流罪としたもの(仮刑律的例 27、兵庫県)


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御預け罪人への食事は一汁一菜で良い・仮刑律的例 45

2024年10月28日 | 仮刑律的例
御預け罪人への食事は一汁一菜で良い・仮刑律的例 45
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(要旨)御預け罪人への食事は一汁一菜で良い

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【筑前福岡藩からの伺い】
明治2年3月8日、 筑前福岡藩から御預け罪人の取扱について心得方伺い

伺①三人の者を一つの間とすることでよいでしょうか、それとも、それぞれ別の間とした方がよいでしょうか。
伺②罪人を引き受けるときは、網乗物が良いでしょうか。
【返答】
引戸駕で錠を締めるべきである。
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(伺①、②へのコメント)
・本件の伺いは「御預け罪人」とあり、この意味が定かではありませんが、内容からして「罪人」は未決の者を指すと思われます。現代的にいえば、被疑者の扱いをどのようにすべきかという問合せです。
・伺い①は、被疑者を雑居とすべきか、独居とすべきかについての問合せですが、明治政府はこの点については返答していません。
・伺い②は、被疑者をどのように護送するかという点に関するものです。福岡藩は、「網乗物」を使用した方が良いかと尋ねています。
「網乗物」とは、士分以上の重罪人の護送に用いた青い網をかけた乗物(かご)のことですので、「御預け罪人」というのは、身分的には士分以上であったのかもしれません。
これに対して、明治政府の返答は、「引戸駕で錠を締めるべき」というもので、福島藩の問合せよりも格の低いもので良いとの返答です。
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伺③ 罪人を御請取りするときには、警衛一小隊を出してもよろしいでしょうか。
伺④食事については、御作法に則ったものはお出しできないと思います。
【返答】
一汁一菜でよい。


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(伺③、④へのコメント)
・伺い③は、被疑者の受取りに際して警衛一小隊を出してもよいかとの問合せですが、明治政府はこの点については返答していません。
・伺い④は、食事に関する問合せです。「食事については、御作法に則ったものはお出しできない」といっているので、やはり「御預け罪人」は身分の高い方なのでしょう。
明治政府の返答は、「一汁一菜でよい」と実に素っ気ない。
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伺⑤帯や下帯等は着用させないように致します。その他御作法があれば御指図下さい。

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(伺⑤へのコメント)
・福岡藩の問合せは、被疑者の自殺防止の観点から帯や下帯等は着用させないというもので、その他指示があればご指示下さいとしておりますが、明治政府は何ら返答をしておりません。
福岡藩はかなり気をつかっているように見えますが、明治政府が返答もしていないものも散見されます。自分で考えて実行せよということなのでしょうか。

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人足寄場から徒刑場への変更はOK・ 仮刑律的例 44

2024年10月05日 | 仮刑律的例
人足寄場から徒刑場への変更はOK・ 仮刑律的例 44
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(要旨)人足寄場を徒刑場としてよい
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【長崎府より問合からの問合せ】
明治2年2月、長崎府からの問合せ
先般刑法官から、
・追放・所払は徒刑に換えること、
・もっとも、徒刑をどのようにするかは各府藩県により検討すべきこと
・当面その見込みに基づいて運用すること
と御布令がありました。
これまで当長崎府においては、追放刑又は肉刑(入墨を入れる刑)に処すべき者は勿論、無罪であっても無宿で立廻り風儀がよくない者は、当長崎府大黒町に設けられた人足寄場へ送り、
それぞれが持つ技能を活かして働かせ、教諭を加えることで更生を促していました。期限が満ち、身寄りの者が引き受けを願い出れば、引き渡しをしていました。
これは旧幕府時代からの仕来りですので、今般、この人足寄場を徒刑場に改め、追放刑とすべき者たちに技能を習得させ、年限が満ちたら身寄りの者に引き渡します。また、肉刑を受けた者や罪は無いものの無宿で立ち回って風儀を乱す者は、同所内の「懲溜え場」(懲らしめのための拘束施設)に送り、徒刑者と同じく技能を習得させ、教諭を加えます。身分を弁えた行動により、身寄りの者に引き渡すことを前提に当面仮定します。
つきましては、関係者各位への書面写を添え、上記の通り報告し、お伺い致します。

【明治政府からの返答】
伺のとおりでよい。

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(コメント)
この長崎府からの伺いは「仮刑律的例 26 刑律問合」の最初の伺いとほぼ同様です。

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脱走者への処置 仮刑律的例 43-2

2024年09月30日 | 仮刑律的例
脱走者への処置 仮刑律的例 43-2
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(要旨)脱走者への処置は藩に任せる
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【美作勝山藩からの伺】
明治2年3月2日、美作勝山藩からの伺い。

・美作勝山藩の藩主三浦玄蕃頭(三浦顕次)の東京の下屋敷にいた家来(大須賀平左衛門ら)が昨年五月に脱走しました。
その後この者たちを発見したので、連れ戻して謹慎させました。
東征大総督府の御参謀にお伺いしたところ、「在所に連れ戻しさらに厳重な禁錮を申し付けよ」とのご指示がありましたので、そのとおりにしております。
・その後、この者どもはみな深く反省し、妻子や眷属に至るまで日夜悲泣哀歎しております。
・この度、天皇陛下のご即位の大礼に伴い、全ての罪人に大赦が発令されました。そこで、大須賀平左衛門らにも格別のご慈悲をもって、ご憐憫いただきたく思い願い出ました。このようなお願いを申し上げるのは恐れ多いことですが、どうかご慈悲を賜りますようお願い申し上げます。

【返答】
同年三月五日、返答。
この件は御藩の判断に任せる。適切な処置を行い、その処置の結果を届け出ればよい。

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(コメント)
・美作の勝山藩は、美作国真島郡勝山(現岡山県真庭市勝山)にあった藩です。藩庁は勝山城に置かれていました。
文中の「昨年5月」というのは、慶応4年5月のことです。この年の9月に改元していますので、慶応4年=明治元年です。この頃は戊辰戦争のさなかであり、江戸城の無血開城は慶応4年4月11日のことですので、一部家臣が脱走したのは、その翌月のことです。
・脱走の理由は伺いからは分かりませんが、時節から考えると、その者たちが幕府側のシンパだったとか、それとも戦さに駆り出されること自体が嫌で逃げたかでしょうか。
・家来が脱走したということは、戦時中の戦闘員の戦闘放棄と位置づけられます。東征大総督府(官軍)の当時の指示は、「在所に連れ戻しさらに厳重な禁錮を申し付けよ」でしたから、美作に送り、当地で不自由な謹慎生活を送っていたものと思われます。
・その後、官軍は会津城も攻め落とし、東北まで平定。明治天皇の即位の礼、それに伴う大赦が行われるなど、状況が様変わりしました。
・一方、脱走した家臣も「みな深く反省し、妻子や眷属に至るまで日夜悲泣哀歎」しており、美作勝山藩としても潮時と見て、今回の伺いとなったのでしょう。
・明治政府の判断は「この件は御藩の判断に任せる。適切な処置を行い、その処置の結果を届け出ればよい」というもので、藩に任せるというものです。戊辰戦争も函館戦争を残すだけの時期ですから、戦闘はほぼ収束に向かっており、戦闘員の脱走を厳しく追及する時期は既に終わっているとの雰囲気が伝わってきます。


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「闕所」 仮刑律的例 43-1

2024年09月19日 | 仮刑律的例

「闕所」 仮刑律的例 43-1
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(要旨)徒刑でも「闕所」は従来どおり
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【伊那県からの伺】
明治2年2月25日、伊那県からの伺い。

「闕所」に関する取扱いの件について
昨年冬に御布告された刑律ですが、闕所の取扱いについてどのようにしたらよいでしょうか。
従前は追放刑や所払の刑に処していたので、闕所としても問題はありませんでした。
今後、徒刑に処した上で、従来の慣例通り闕所を科しますと、刑期満了で帰農しても生計を立てられず、戸籍から離れることになってしまうでしょう。
そこで、条理に適合し、相応の刑を科すために別紙のとおりに取扱うことを提案いたします。科す刑に関することですので、至急のお返答をお願いいたします。
(別紙)
一、磔刑、梟首、死罪、流刑の場合
上記の場合、田畑・家屋敷・家財は従来通り闕所とする。
一、三年の徒刑(従来の重追放に相当)
田畑・家屋敷・家財は闕所(従来通り)。徒刑年月が満了したときは、生計を立てられるよう、官から従来通り闕所したものの一部から家族1人あたりおよそ金10両程度支給する。
ただし、闕所金の額が10両以下であれば、全て支給する。
一、二年の徒刑(従来の中追放に相当)
田畑・家屋敷は闕所(従来の通り)。徒刑年月が満了したときは、生計を立てられるよう、官から従来通り闕所したもののの一部から家族1人あたりおよそ金5両程度支給する。
ただし、闕所金の額がそれ以下であれば、前項と同様とする。
一、一年の徒刑(従来の軽追放に相当)
田畑のみ闕所(従来の通り)。徒刑年月が満了したときは、生計を立てられるよう、官から従来どおり闕所したものの一部から家族1人あたりおよそ金3両程度支給する。
ただし、闕所金の額がそれ以下であれば、前項と同様とする。

【返答】
3月12日返答
・徒罪であっても官没(官による没収)は従来の通りでよい。
・刑期の長短によって支給する金額を増減するのはどのような考えによるものか。追放・所払の刑を廃止し、徒刑に改められた御趣旨は、天下に無籍の徒をなくすためである。徒刑中であっても望みに任せ、生計を立てる資金が得られるように、各府藩県にて役人が配慮すべきである。以上、申し添えて返答する。

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(コメント)
・伊那県は、慶応4年(明治元年)8月から明治4年11月まで存在していた県。現在の長野県南部、愛知県東部を管轄していました。
これまで「仮刑律的例 31・32 強盗に刎首、強盗殺人には梟首」や「仮刑律的例 34 徒刑囚への対応」という伺いを出していました。
今回は「闕所」に関する取扱いの伺いを提出しています。
・「闕所」というのは、江戸時代、追放以上の刑に処せられた者の領地・財産を没収することです。
・伊那県の従前の扱いは次のようであったことが伺いからわかります。
一、磔刑、梟首、死罪、流刑の場合
田畑・家屋敷・家財は従来通り闕所とする。
一、重追放の場合
田畑・家屋敷・家財は闕所とし、闕所したものの中から家族1人あたりおよそ金10両程度支給。
一、中追放の場合
田畑・家屋敷は闕所とし(家財は闕所としない)、闕所したもののの中から家族1人あたりおよそ金5両程度支給。
一、軽追放の場合
田畑のみ闕所とし(家屋敷、家財は闕所としない)、闕所したものの中から家族1人あたりおよそ金3両程度支給。
・「闕所」=領地・財産の没収であり、根こそぎにするというイメージで見ていたのですが、そうではないようです。没収した中から、家族1人あたりに一定金額を支給しています。没収した金額を上回ることはないようですが、がその金額以下であれば、全て支給とするとしております。この場合は、本人からは取り上げたものの、家族に返すことになるので、本人から家族への譲渡が行われたのと実質的に同じです。
・伊那県では、この運用を徒刑の場合にスライドさせたものを明治政府に提案し、伺いを提出しています。
明治政府の回答は、
①徒罪であっても官没(官による没収)は従来の通りでよい
②刑期の長短によって支給する金額を増減するのはいかがなものか
というものでした。回答の中では
③追放・所払の刑を廃止した理由は、天下に無籍の徒をなくすためと、徒刑制度を導入した趣旨についても述べています。

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