徒刑囚が2回脱走したら死罪 仮刑律的例39
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【兵庫県からの伺】
明治2年2月20日、兵庫県からの伺い。
一、当県の支配する摂州新在家村の百姓森之助の弟松之助には、虚偽をもって自らを誇る行いにより、従前徒罪を申し付けました。にもかかわらず、再三にわたり徒刑場から脱走しました。
松之助の脱走の経緯は次のとおりです。
昨年(慶応4年=明治元年)4月4日、兵庫県で入牢。
同年8月31日、即位の礼による恩赦で出牢し、村預りとなる。
同年10月15日、再び入牢。
同年11月15日、徒罪となる。
同年11月26日、徒罪場から脱走。
同年12月23日、元の刑期を倍にしての徒罪となる。
本年(明治2年)1月2日、再び徒罪場から脱走。
同年1月12日、入牢。
松之助は、普段から行いが悪く、博奕や大酒を好み、親族や村役人の指示に従わず、村内を惑乱させていました。昨年(慶応4年=明治元年
)4月4日に召捕り入牢させましたが、改心の様子が見られないため、永牢の刑に処すべきところ、御大礼(即位の礼)の恩赦で8月31日に出牢し、村預けとなりました。
その後、松之助は、一緒に入牢していた摂州石屋村の太醇が、仕置済で出牢したことを聞き及んで、10月5日、太醇に会いに行きました。酒を酌み交わしてながら話しているうちに、太醇から今の仕事を聞かれたので、松之助は「兵庫県の役人になった」と嘘を言いました。
これを聞いて太醇は、「森村の百姓伊兵衛が、村内の安太郎から依頼を受け、大阪から金子を持ち帰る途中で賭博で負けて金子をすってしまった。兵庫県の役人に成りすまして、伊兵衛に対し召し捕るぞと脅せば、金子差し出すだろう」と話しを持ちかけました。
そこで松之助は、兵庫県の役人の佐々木八郎と名乗って、伊兵衛宅を訪れ、「安太郎の金子を横領したのは不届きである。お前を召し捕るよう内命を受けてきた。しかし、金子を返せば穏便に済ませる」と告げ、伊兵衛から金三両を受け取りました。この金は酒食に使い果たしとのことです。この一件については、松之助を徒罪の刑に処しました。
しかし、松之助は11月26日に徒罪場の窓格子を破って脱走しました。その後、松之助を召し捕り、敲の刑に加え、元の刑期を倍にしての徒罪としました。
その後、松之助は本年正月2日暁に徒刑場から再び脱走しております。播州路を徘徊していたところを召し捕って取り調べをしましたところ
松之助は、「徒罪で働くのが嫌であったので脱走した」と申し、脱走後に悪事は働いていないと述べています。
しかし、松之助は過去にも度々脱走しており、徒罪場の規律を厳守するためにも、厳罰が必要です。脱走を2回した場合は刎首に処してしかるべきと思料します。
死刑以上は天皇の御裁可を経るべきとの御布令ですのでお伺いする次第です。
【明治政府からの返答】
明治2年6月30日
天皇から裁可を経て以下のとおり返答する。
この者は、昨年8月に出牢し、徒刑を申付けたのに、再度徒罪場を脱走した。不届きの至りであり、刎首とする。
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(コメント)
・松之助は摂津国新在家村の出身です。新在家村は現在の神戸市灘区新在家南町あたりでしょうか。
・松之助の犯罪について順をおってみてみます。
一度目は、永牢相当でしたが、明治天皇の即位の礼の恩赦となり、その後村預けとなっています。このときの理由が、伺いでは「普段から行いが悪く、博奕や大酒を好み、親族や村役人の指示に従わず、村内を惑乱させていました。」との記載しかなく、具体的な行為の記載がないので、これで永牢相当と言われても、ちょっとよく分かりません。いずれせよ一度目は入牢したものの、刑事処分はなかったということになります。
・二度目の犯罪は今でいえば詐欺罪に該当する犯罪です。
慶応4年=明治元年の8月31日に釈放され、10月5日には犯行に及んでいます。犯行に至る経緯な共犯者のことがかなり細かく書かれていますが、松之助の関係で整理すると次のようなものになります。
松之助は、太醇と共謀の上、明治元年10月5日、森村の百姓伊兵衛方に赴き、同人に対し自らを兵庫県の役人の佐々木八郎であると名乗り、「安太郎の金子を横領したのは不届きである。お前を召し捕るよう内命を受けてきた。しかし、金子を返せば穏便に済ませる」と告げ、伊兵衛から金三両を詐取したものである。
・松之助はこの犯罪により同月15日には再び捕まって入牢し、11月15日に徒罪の刑とされています。釈放後すぐに犯行に及んでいるところを見ると、自分の行為を反省するということがなかったようです。
・二度目の犯罪ではありますが、刑事処分としては初めてです。徒罪ですから、徒罪場で強制的に仕事をさせます。今の懲役刑と同じようであったと考えて良いでしょう。
しかし、刑を言い渡されてから2週間も経たないうちに、徒罪場から脱走しています。
・徒罪場からの逃走については、明治政府の方針は「一度目の脱走は当初の刑を倍にして役につかせ、二度目は死罪」となっています。
兵庫県は、これに従い12月23日、元の刑期を倍にして徒罪を科しています。
・しかし、これまた2週間と経たない明治2年1月2日に松之助は再び徒罪場から脱走します。二度目の逃走です。
明治政府の判断は、二度目の逃走であるから、死罪(刎首)とせよというものでした。徒罪は明治になってから始まった制度であり、逃走防止が至上命題であったことは理解できるものの、二度の逃走で死罪はいくらなんでも無茶苦茶に厳しすぎます。なお、現代では逃走罪の法定刑は懲役1年以下です。
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伺い本文では松之助の犯行がよくわからないと思ったのか、太醇について補足する文章が伺い中にありましたので、これも訳しておきました。
〈太醇についての補足〉
太醇なる者は、摂州御影村定次郎ら3人が所持していた紙入などを勝手に持ち帰り、村内の安太郎方においては、その母ちかえに持ちかけて融通手形を騙し取り、得た金は酒食などに使い果たしてしまっております。また、無宿の新三郎(この者の行方はつかめておりません)から融通手形を借りて、これまた使い果たしております。
これらの行為は不埒であり、太醇に入墨の上、重敲の刑に処せられるべきと思料しておりましたが、即位の礼の恩赦御により罪一等を減じ、重敲のみとし、親に引き渡しました。
太醇は、自分が刑を受けたのは村内の福松(安太郎の息子)が讒言したのだと逆恨みし、福松に恨みを晴らしてやる安太郎に恨みを抱き、安太郎から依頼を受けた伊兵衛に難題を持ちかけたということです(松之助の供述)。なお、太醇はこの一件により、11月から徒刑に処せられています。
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