南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

人足寄場から徒刑場への変更はOK・ 仮刑律的例 44

2024年10月05日 | 仮刑律的例
人足寄場から徒刑場への変更はOK・ 仮刑律的例 44
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(要旨)人足寄場を徒刑場としてよい
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【長崎府より問合からの問合せ】
明治2年2月、長崎府からの問合せ
先般刑法官から、
・追放・所払は徒刑に換えること、
・もっとも、徒刑をどのようにするかは各府藩県により検討すべきこと
・当面その見込みに基づいて運用すること
と御布令がありました。
これまで当長崎府においては、追放刑又は肉刑(入墨を入れる刑)に処すべき者は勿論、無罪であっても無宿で立廻り風儀がよくない者は、当長崎府大黒町に設けられた人足寄場へ送り、
それぞれが持つ技能を活かして働かせ、教諭を加えることで更生を促していました。期限が満ち、身寄りの者が引き受けを願い出れば、引き渡しをしていました。
これは旧幕府時代からの仕来りですので、今般、この人足寄場を徒刑場に改め、追放刑とすべき者たちに技能を習得させ、年限が満ちたら身寄りの者に引き渡します。また、肉刑を受けた者や罪は無いものの無宿で立ち回って風儀を乱す者は、同所内の「懲溜え場」(懲らしめのための拘束施設)に送り、徒刑者と同じく技能を習得させ、教諭を加えます。身分を弁えた行動により、身寄りの者に引き渡すことを前提に当面仮定します。
つきましては、関係者各位への書面写を添え、上記の通り報告し、お伺い致します。

【明治政府からの返答】
伺のとおりでよい。

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(コメント)
この長崎府からの伺いは「仮刑律的例 26 刑律問合」の最初の伺いとほぼ同様です。

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脱走者への処置 仮刑律的例 43-2

2024年09月30日 | 仮刑律的例
脱走者への処置 仮刑律的例 43-2
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(要旨)脱走者への処置は藩に任せる
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【美作勝山藩からの伺】
明治2年3月2日、美作勝山藩からの伺い。

・美作勝山藩の藩主三浦玄蕃頭(三浦顕次)の東京の下屋敷にいた家来(大須賀平左衛門ら)が昨年五月に脱走しました。
その後この者たちを発見したので、連れ戻して謹慎させました。
東征大総督府の御参謀にお伺いしたところ、「在所に連れ戻しさらに厳重な禁錮を申し付けよ」とのご指示がありましたので、そのとおりにしております。
・その後、この者どもはみな深く反省し、妻子や眷属に至るまで日夜悲泣哀歎しております。
・この度、天皇陛下のご即位の大礼に伴い、全ての罪人に大赦が発令されました。そこで、大須賀平左衛門らにも格別のご慈悲をもって、ご憐憫いただきたく思い願い出ました。このようなお願いを申し上げるのは恐れ多いことですが、どうかご慈悲を賜りますようお願い申し上げます。

【返答】
同年三月五日、返答。
この件は御藩の判断に任せる。適切な処置を行い、その処置の結果を届け出ればよい。

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(コメント)
・美作の勝山藩は、美作国真島郡勝山(現岡山県真庭市勝山)にあった藩です。藩庁は勝山城に置かれていました。
文中の「昨年5月」というのは、慶応4年5月のことです。この年の9月に改元していますので、慶応4年=明治元年です。この頃は戊辰戦争のさなかであり、江戸城の無血開城は慶応4年4月11日のことですので、一部家臣が脱走したのは、その翌月のことです。
・脱走の理由は伺いからは分かりませんが、時節から考えると、その者たちが幕府側のシンパだったとか、それとも戦さに駆り出されること自体が嫌で逃げたかでしょうか。
・家来が脱走したということは、戦時中の戦闘員の戦闘放棄と位置づけられます。東征大総督府(官軍)の当時の指示は、「在所に連れ戻しさらに厳重な禁錮を申し付けよ」でしたから、美作に送り、当地で不自由な謹慎生活を送っていたものと思われます。
・その後、官軍は会津城も攻め落とし、東北まで平定。明治天皇の即位の礼、それに伴う大赦が行われるなど、状況が様変わりしました。
・一方、脱走した家臣も「みな深く反省し、妻子や眷属に至るまで日夜悲泣哀歎」しており、美作勝山藩としても潮時と見て、今回の伺いとなったのでしょう。
・明治政府の判断は「この件は御藩の判断に任せる。適切な処置を行い、その処置の結果を届け出ればよい」というもので、藩に任せるというものです。戊辰戦争も函館戦争を残すだけの時期ですから、戦闘はほぼ収束に向かっており、戦闘員の脱走を厳しく追及する時期は既に終わっているとの雰囲気が伝わってきます。


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「闕所」 仮刑律的例 43-1

2024年09月19日 | 仮刑律的例

「闕所」 仮刑律的例 43-1
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(要旨)徒刑でも「闕所」は従来どおり
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【伊那県からの伺】
明治2年2月25日、伊那県からの伺い。

「闕所」に関する取扱いの件について
昨年冬に御布告された刑律ですが、闕所の取扱いについてどのようにしたらよいでしょうか。
従前は追放刑や所払の刑に処していたので、闕所としても問題はありませんでした。
今後、徒刑に処した上で、従来の慣例通り闕所を科しますと、刑期満了で帰農しても生計を立てられず、戸籍から離れることになってしまうでしょう。
そこで、条理に適合し、相応の刑を科すために別紙のとおりに取扱うことを提案いたします。科す刑に関することですので、至急のお返答をお願いいたします。
(別紙)
一、磔刑、梟首、死罪、流刑の場合
上記の場合、田畑・家屋敷・家財は従来通り闕所とする。
一、三年の徒刑(従来の重追放に相当)
田畑・家屋敷・家財は闕所(従来通り)。徒刑年月が満了したときは、生計を立てられるよう、官から従来通り闕所したものの一部から家族1人あたりおよそ金10両程度支給する。
ただし、闕所金の額が10両以下であれば、全て支給する。
一、二年の徒刑(従来の中追放に相当)
田畑・家屋敷は闕所(従来の通り)。徒刑年月が満了したときは、生計を立てられるよう、官から従来通り闕所したもののの一部から家族1人あたりおよそ金5両程度支給する。
ただし、闕所金の額がそれ以下であれば、前項と同様とする。
一、一年の徒刑(従来の軽追放に相当)
田畑のみ闕所(従来の通り)。徒刑年月が満了したときは、生計を立てられるよう、官から従来どおり闕所したものの一部から家族1人あたりおよそ金3両程度支給する。
ただし、闕所金の額がそれ以下であれば、前項と同様とする。

【返答】
3月12日返答
・徒罪であっても官没(官による没収)は従来の通りでよい。
・刑期の長短によって支給する金額を増減するのはどのような考えによるものか。追放・所払の刑を廃止し、徒刑に改められた御趣旨は、天下に無籍の徒をなくすためである。徒刑中であっても望みに任せ、生計を立てる資金が得られるように、各府藩県にて役人が配慮すべきである。以上、申し添えて返答する。

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(コメント)
・伊那県は、慶応4年(明治元年)8月から明治4年11月まで存在していた県。現在の長野県南部、愛知県東部を管轄していました。
これまで「仮刑律的例 31・32 強盗に刎首、強盗殺人には梟首」や「仮刑律的例 34 徒刑囚への対応」という伺いを出していました。
今回は「闕所」に関する取扱いの伺いを提出しています。
・「闕所」というのは、江戸時代、追放以上の刑に処せられた者の領地・財産を没収することです。
・伊那県の従前の扱いは次のようであったことが伺いからわかります。
一、磔刑、梟首、死罪、流刑の場合
田畑・家屋敷・家財は従来通り闕所とする。
一、重追放の場合
田畑・家屋敷・家財は闕所とし、闕所したものの中から家族1人あたりおよそ金10両程度支給。
一、中追放の場合
田畑・家屋敷は闕所とし(家財は闕所としない)、闕所したもののの中から家族1人あたりおよそ金5両程度支給。
一、軽追放の場合
田畑のみ闕所とし(家屋敷、家財は闕所としない)、闕所したものの中から家族1人あたりおよそ金3両程度支給。
・「闕所」=領地・財産の没収であり、根こそぎにするというイメージで見ていたのですが、そうではないようです。没収した中から、家族1人あたりに一定金額を支給しています。没収した金額を上回ることはないようですが、がその金額以下であれば、全て支給とするとしております。この場合は、本人からは取り上げたものの、家族に返すことになるので、本人から家族への譲渡が行われたのと実質的に同じです。
・伊那県では、この運用を徒刑の場合にスライドさせたものを明治政府に提案し、伺いを提出しています。
明治政府の回答は、
①徒罪であっても官没(官による没収)は従来の通りでよい
②刑期の長短によって支給する金額を増減するのはいかがなものか
というものでした。回答の中では
③追放・所払の刑を廃止した理由は、天下に無籍の徒をなくすためと、徒刑制度を導入した趣旨についても述べています。

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恐喝者につき戸締の刑 仮刑律的例 42

2024年09月09日 | 仮刑律的例

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(要旨)村内の揉め事の際の恐喝者につき戸締の刑とされた事例
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【三河県からの伺】
明治2年2月、三河県からの伺い。

昨年12月中、三河県幡豆郡津平村の百姓たちが騒動を起こした件(既にお届け済)については
、出動し鎮撫致しました。村の一同へ問い質したところ、首謀者は3名であり、同村の彦助方へ5ヶ条の難題を突きつけて300両を恐喝したものです。この事を自白致しましたので、召捕りの上、入牢を申付けております。
300両は既に彦助方へ返還させました。
本件につきましては、徒党の罪は逃れられないところですが、愚民の者たちであり思慮分別を欠いて行動した結果であり、今に至ってではありますが、深く反省している様子もうかがえます。よって、寛大な措置として徒刑に処したいところですが、当県ではいまだ徒刑の準備ができておりませんので、首謀者3名につき「村追放」が妥当と考えます。ご決定の上、御沙汰お願い致します。
☆本文には

【返答】
追伸:恐喝された金員は被害者に返還されており、首謀者3人には50日間戸締めを申し付けるのが妥当である。

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(コメント)
・本件は三河県からの伺いであり、村騒動に際して300両を恐喝した首謀者の刑に関するものです。三河県は首謀者3名に「村追放」が妥当と考えて伺いをしたのですが、明治政府は「50日間戸締め」としており、見解が分かれています。
・明治政府は、村追放のような追放刑に代えて徒刑(懲役刑)を導入するようにと指導していますが、徒刑はそれ専用の施設が必要なため、施設を整える準備期間が必要です。
明治政府としては、徒刑もできない、追放刑もしたくないということで、50日間戸締めを決めたのではないかと考えます。
・なお、本件が発生した三河県幡豆郡(はずぐん)は現在の愛知県西尾市、額田郡幸田町のあたりです。



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村内の揉め事につき戸締の刑 仮刑律的例 41

2024年08月29日 | 仮刑律的例
村内の揉め事につき戸締の刑 仮刑律的例 41


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(要旨)村内の揉め事きつき戸締の刑とされた事例
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【三河県からの伺】
明治2年2月、三河県からの伺い。

(はじめに)
幡豆郡の村々での金銭の押借り騒動が発生したことにつきましては、既にご報告してありますとおりです。
今般、この一件について調べを終えましたので、関係者の申口(供述書)を添付し、お伺い致します。
関係者の供述は多少異同がありますが、要は、
発頭人4人が元大庄屋の者5人の些細な過失を口実に17ヶ村を扇動し、徒党を組むような行いをしたものです。
(元大庄屋の者5人について)
また、元大庄屋の者5人が陣屋に備えられていた品々を持ち出したのは、これを自分の物にする意図はなく、上知(版籍奉還)の際に旧主の物であるので、従前の例に従って前後を弁えずに持ち出したものでした。
しかしながら、勝手に持ち出したことには問題があり、かつ、平生からの行状が不行届でしたので、昨年の冬から手錠宿預けとしております。
(悪民4人について)
悪民の4人は自白し、入牢させました。その後調査したところ、疑いのあったことは事実無根であり、悪民たちの口実によるものだということが判明しました。
(元大庄屋の手錠を解く)
よって、元大庄屋5人の手錠を2月3日に解いた上で、改めて宿預けと致しました。
(発頭4人の刑)
発頭4人は死罪に値しますが、不作で難渋しており、愚民が糊口のために一時的に悪事を企てたものであり、その他別段の悪企みを行ったわけではありませんので、死一等を減じ、徒罪三年と考えましたが、当県においてはまだ徒刑場を整備しておりませんので、これまで通り国境払の処分といたします。
(元大庄屋の刑)
元大庄屋4人については、上記の次第により、改めて百日謹慎を申し付けました。
もう一人の元大庄屋については、陣屋の品の持ち出しには加わっていないことから、無罪放免と考えます。御評決の上、御沙汰ください。何分にも村の費用が嵩んでおり、難渋しているとの嘆願がでておりますので、早々に御沙汰いただきたくお願い申し上げます。


【返答】
元大庄屋5人については、戸締20日、徒党村々配当金子を戻させよ。発頭人4人については戸締百日を申し付ける。
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(コメント)
・本件は三河県からの伺いであり、村騒動に関するものです。 伺いだけでは事案の詳細がよくわかりません。三河県からすると、関係者の申口(供述書)を添付したので、それを読んでもらえばわかりますということなのですが、申口が残っていないため、細かな事情までは不明となってしまっています。
・本件が発生した三河県幡豆郡(はずぐん)は現在の愛知県西尾市、額田郡幸田町のあたりです。
・伺いの文中でわかる範囲で事案を紹介しますと、本件は、発頭人4人が大庄屋の者5人の些細な過失を口実に17ヶ村を扇動し、徒党を組むような行いをしたというものです。その動機について伺いでは、「不作で難渋しており、愚民が糊口のために一時的に悪事を企てたもの」とありますから、経済的困窮が引き金となったことがわかります。
また、「金銭の押借り騒動」ともありますから、強引にお金を引き出そうとしたのかもしれません。
・大庄屋は本件が発生した際に、陣屋に備えられていた品々を持ち出したことを咎められています。持ち出した理由は、自分の物にするというものではなかったようです。
しかし、やはり問題な行動ではあるので、昨年の冬から手錠宿預けとされ、その後2月3日には手錠は取れましたが、宿預けは継続となりました。宿預けや手錠宿預けというのは、未決即ち刑が決まる前の措置です。それ自体は刑ではありませんり
・明治政府からは、元大庄屋5名について指示された戸締20日が刑の内容となります。「戸締」というのは、その者の家の門を釘付にし、謹慎させることをいうので、単なる謹慎よりも厳しい措置のようです。
・発頭人4人は明治政府により戸締百日とされました。三河県は国境払という追放刑にしたかったようですが、追放刑は行わないというのが明治政府の方針ですので、戸締の刑として元大庄屋よりも刑期を長くしています。


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梟首の量刑が是認された事案 仮刑律的例 40

2024年08月19日 | 仮刑律的例
梟首の量刑が是認された事案 仮刑律的例 40
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(要旨)賀茂郡福本村出身の常四郎(浮過喜助の弟)は因島鏡ノ浦の独り身の女性商人宅に侵入し、同女を殺害し、盗みを行った。この者は梟首にすべきである。
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【安芸広島藩からの伺】
明治2年2月24日、安芸広島藩からの伺い。

賀茂郡福本村の常四郎(浮過喜助の弟)が、御調郡因島鏡ノ浦古手の商人すみ(独身)の家に忍び込み、殺害した上で盗みを働きました。
これは不届きなこの上ない行為です。春に大赦が布告され、それ以前の罪については原則として罪に問われないことになっておりますが、事案からして到底許すことが出来ません。
当藩としては、引き回しのうえ、村内で獄門に処すべきと思料しておりますが、死刑は御裁許を経なければならないとの仰せでありますので、お伺いする次第です。

【明治政府からの返答】
明治2年6月3日
天皇から裁可を経て以下のとおり返答する。
この者は、独り身の女商人方へ忍び入り、同人を殺害し、盜みを働いており、不届至極である。よって、梟首が相当である。
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(コメント)
・安芸広島藩からの伺いです。
住居侵入・強盗殺人罪につき広島藩は梟首相当と考え、明治政府においても梟首が妥当としています
・事件の発生場所は、「御調郡因島鏡ノ浦古手」です。現在の広島県尾道市因島鏡浦町。
「御調郡」は「みつぎ」と読みます。「古手」は小字になるためか、現在の地図上ではでてきません。
・事件の発生場所は、商人をしていた「すみ」という名前の女性。「独身」との記載がありますが、一人で住んでいたことから、加害者の悪質性を強調したかったのでしょうか。女性の一人暮らしを狙って犯罪を起こしたのであれば相当に悪質です。
・加害者は常四郎というもので、賀茂郡福本村の出身、浮過喜助の弟であることが記載されています。「浮過常四郎」と書けば良さそうなものですが、その者の所属を示すのが江戸時代の決まりで、その考え方が踏襲されていることがわかります。賀茂郡福本村は、現在の広島県東広島市西条町福本です。
・本件の刑は梟首であり、この当時で一番重いものです。伺いでは「引き回しのうえ獄門」と記載していますが、同じ意味です。本件は住居侵入・強盗殺人罪の事案であり、現代では無期懲役以上になりますから、梟首との判断は当時の量刑相場からは一般的なものでしょう。
・この伺いからは、梟首がどのような場所で執行されていたかが分かります。引き回しのうえ、「村内で」獄門に処すべき、と書かれており、加害者本人の所属していた村(本件では賀茂郡福本村)で獄門が行われます。
・現代の死刑は拘置所の刑場において行われますが、江戸時代や明治初年には必ずしも刑場で行われていたというわけではありません。
犯罪発生地や死刑囚の住んでいた村などでも行われており、これを吉田正志は「所仕置き」とネーミングしています(吉田正志『仙台藩の罪と罰』)。
本件も所仕置きの事案といえます。
・江戸時代のものですが、所仕置きの例として、木更津村(千葉県木更津市)でのものがあります。刑に処せられる者の父親所有の畑で行われるというもので、かなり非人道的です。
刑の内容:打首(斬首)
刑に処せられる者:〇〇右衛門の倅
執行日時:元治2年2月5日夕刻(1865年)
執行場所:木更津村の死刑囚の父親(〇〇右衛門)所有の畑
刑の執行に携わった代官側役人の数:68名
執行の公開の有無:公開
見物人:約2万人
*重城良造『重城保日記物語』


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徒刑囚が2回脱走したら死罪 仮刑律的例39

2024年08月01日 | 仮刑律的例
徒刑囚が2回脱走したら死罪 仮刑律的例39

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【兵庫県からの伺】
明治2年2月20日、兵庫県からの伺い。
一、当県の支配する摂州新在家村の百姓森之助の弟松之助には、虚偽をもって自らを誇る行いにより、従前徒罪を申し付けました。にもかかわらず、再三にわたり徒刑場から脱走しました。
松之助の脱走の経緯は次のとおりです。
昨年(慶応4年=明治元年)4月4日、兵庫県で入牢。
同年8月31日、即位の礼による恩赦で出牢し、村預りとなる。
同年10月15日、再び入牢。
同年11月15日、徒罪となる。
同年11月26日、徒罪場から脱走。
同年12月23日、元の刑期を倍にしての徒罪となる。
本年(明治2年)1月2日、再び徒罪場から脱走。
同年1月12日、入牢。

松之助は、普段から行いが悪く、博奕や大酒を好み、親族や村役人の指示に従わず、村内を惑乱させていました。昨年(慶応4年=明治元年
)4月4日に召捕り入牢させましたが、改心の様子が見られないため、永牢の刑に処すべきところ、御大礼(即位の礼)の恩赦で8月31日に出牢し、村預けとなりました。
その後、松之助は、一緒に入牢していた摂州石屋村の太醇が、仕置済で出牢したことを聞き及んで、10月5日、太醇に会いに行きました。酒を酌み交わしてながら話しているうちに、太醇から今の仕事を聞かれたので、松之助は「兵庫県の役人になった」と嘘を言いました。
これを聞いて太醇は、「森村の百姓伊兵衛が、村内の安太郎から依頼を受け、大阪から金子を持ち帰る途中で賭博で負けて金子をすってしまった。兵庫県の役人に成りすまして、伊兵衛に対し召し捕るぞと脅せば、金子差し出すだろう」と話しを持ちかけました。
そこで松之助は、兵庫県の役人の佐々木八郎と名乗って、伊兵衛宅を訪れ、「安太郎の金子を横領したのは不届きである。お前を召し捕るよう内命を受けてきた。しかし、金子を返せば穏便に済ませる」と告げ、伊兵衛から金三両を受け取りました。この金は酒食に使い果たしとのことです。この一件については、松之助を徒罪の刑に処しました。
しかし、松之助は11月26日に徒罪場の窓格子を破って脱走しました。その後、松之助を召し捕り、敲の刑に加え、元の刑期を倍にしての徒罪としました。
その後、松之助は本年正月2日暁に徒刑場から再び脱走しております。播州路を徘徊していたところを召し捕って取り調べをしましたところ
松之助は、「徒罪で働くのが嫌であったので脱走した」と申し、脱走後に悪事は働いていないと述べています。
しかし、松之助は過去にも度々脱走しており、徒罪場の規律を厳守するためにも、厳罰が必要です。脱走を2回した場合は刎首に処してしかるべきと思料します。
死刑以上は天皇の御裁可を経るべきとの御布令ですのでお伺いする次第です。

【明治政府からの返答】
明治2年6月30日
天皇から裁可を経て以下のとおり返答する。
この者は、昨年8月に出牢し、徒刑を申付けたのに、再度徒罪場を脱走した。不届きの至りであり、刎首とする。

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(コメント)
・松之助は摂津国新在家村の出身です。新在家村は現在の神戸市灘区新在家南町あたりでしょうか。
・松之助の犯罪について順をおってみてみます。
一度目は、永牢相当でしたが、明治天皇の即位の礼の恩赦となり、その後村預けとなっています。このときの理由が、伺いでは「普段から行いが悪く、博奕や大酒を好み、親族や村役人の指示に従わず、村内を惑乱させていました。」との記載しかなく、具体的な行為の記載がないので、これで永牢相当と言われても、ちょっとよく分かりません。いずれせよ一度目は入牢したものの、刑事処分はなかったということになります。
・二度目の犯罪は今でいえば詐欺罪に該当する犯罪です。
慶応4年=明治元年の8月31日に釈放され、10月5日には犯行に及んでいます。犯行に至る経緯な共犯者のことがかなり細かく書かれていますが、松之助の関係で整理すると次のようなものになります。
松之助は、太醇と共謀の上、明治元年10月5日、森村の百姓伊兵衛方に赴き、同人に対し自らを兵庫県の役人の佐々木八郎であると名乗り、「安太郎の金子を横領したのは不届きである。お前を召し捕るよう内命を受けてきた。しかし、金子を返せば穏便に済ませる」と告げ、伊兵衛から金三両を詐取したものである。
・松之助はこの犯罪により同月15日には再び捕まって入牢し、11月15日に徒罪の刑とされています。釈放後すぐに犯行に及んでいるところを見ると、自分の行為を反省するということがなかったようです。
・二度目の犯罪ではありますが、刑事処分としては初めてです。徒罪ですから、徒罪場で強制的に仕事をさせます。今の懲役刑と同じようであったと考えて良いでしょう。
しかし、刑を言い渡されてから2週間も経たないうちに、徒罪場から脱走しています。
・徒罪場からの逃走については、明治政府の方針は「一度目の脱走は当初の刑を倍にして役につかせ、二度目は死罪」となっています。
兵庫県は、これに従い12月23日、元の刑期を倍にして徒罪を科しています。
・しかし、これまた2週間と経たない明治2年1月2日に松之助は再び徒罪場から脱走します。二度目の逃走です。
明治政府の判断は、二度目の逃走であるから、死罪(刎首)とせよというものでした。徒罪は明治になってから始まった制度であり、逃走防止が至上命題であったことは理解できるものの、二度の逃走で死罪はいくらなんでも無茶苦茶に厳しすぎます。なお、現代では逃走罪の法定刑は懲役1年以下です。

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伺い本文では松之助の犯行がよくわからないと思ったのか、太醇について補足する文章が伺い中にありましたので、これも訳しておきました。
〈太醇についての補足〉
太醇なる者は、摂州御影村定次郎ら3人が所持していた紙入などを勝手に持ち帰り、村内の安太郎方においては、その母ちかえに持ちかけて融通手形を騙し取り、得た金は酒食などに使い果たしてしまっております。また、無宿の新三郎(この者の行方はつかめておりません)から融通手形を借りて、これまた使い果たしております。
これらの行為は不埒であり、太醇に入墨の上、重敲の刑に処せられるべきと思料しておりましたが、即位の礼の恩赦御により罪一等を減じ、重敲のみとし、親に引き渡しました。
太醇は、自分が刑を受けたのは村内の福松(安太郎の息子)が讒言したのだと逆恨みし、福松に恨みを晴らしてやる安太郎に恨みを抱き、安太郎から依頼を受けた伊兵衛に難題を持ちかけたということです(松之助の供述)。なお、太醇はこの一件により、11月から徒刑に処せられています。

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仮刑律的例 38 明治元年行政官布告の刑律問合

2024年07月29日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 38 明治元年行政官布告の刑律問合

【近江膳所藩からの伺】
明治2年正月、膳所藩からの伺い。
先年、刑律の御布告があったことに謹んで敬服いたします。つきましては、以下の点について伺い奉ります。
【伺い①】
・刑律の御布告では、「その他の重罪および焚刑は、梟首に代えること」とありましたが、すべての重罪に適用されるということでよろしいのでしょうか。
・故幕府の御委任当時に梟首と定められていた罪科の者については、どのように取り計らわれるべきでしょうか。この罪科にあたるものについては、吟味詰口書と共に伺書を提出すればよろしいでしょうか。
⇒いずれもそのとおりである。
(全ての重罪及び焚刑は梟首とすべきである。従前梟首とされていた刑について梟首とすべきときは、吟味詰口書と共に伺書を提出すべきである)

(コメント)
明治元年に発せられた行政官布告(明治元年十月晦日)についての質問です。
この布告は以下のような内容です。
ア 新しく刑律を制定するまで、公事方御定書により刑を定めること。但し、以下の点を修正する。
イ 磔刑は君父を弑する大逆に限る
ウ その他の重罪や焚刑は梟首とする
エ 追放や所払いは徒刑に変える
オ 流刑は蝦夷地に限られる
カ 百両以下の窃盗罪は死罪とはしない
キ 死刑については勅裁(天皇の裁可)を経ることが必要であるから、府藩県とも刑法官に伺いを出すべき。
伺い①では、ウ及びキについての確認です。


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【伺い②】徒刑場等について
刑律の御布告では、「追放刑・所払は徒刑に換えよ」とのことです。徒刑場というのは、それぞれの場所によってもどのようなものが良いというのはあるかとは思いますが、どのような取扱い方がよろしいものでしょうか。また、罪人の目印等は相応のものでよろしいでしょうか。そのことにつき、届出しなくてもよろしいでしょうか。
・徒刑の取扱い方は、各藩等に任せる。
・罪人の目印についても自由である。もっとも、定めた場合は政府に届出されたい。

(コメント)
明治元年行政官布告(前項)の「追放や所払いは徒刑に変える」との点についての質問です。今の懲役刑にあたる徒刑は、明治になって導入されましたので、各藩からの問い合わせが相次いでいる事項です。明治政府行政官の返答は、「徒刑の取扱い方は、各藩等に任せる」というものであり、明治2年時点では、現場に丸投げでした。


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【伺い③】窃盗罪について
・刑律の御布告では、「被害金額が100両以下の窃盗は死刑とはしない」とのことですが、そのような場合、徒刑とすべきでしょうか。
⇒そのとおりでよい。

・100両以下といっても罪状に軽重がありますが、徒罪の年数に反映させてもよいでしょうか。
⇒そのとおりでよい。

・物を盗んで他所で質入れしたり売り払ったしまい、盗品自体の現物を確認出来ない場合は、本人の申し立てどおりに金額を認定してよいでしょうか。
⇒そのとおりでよい。


(コメント)
明治元年行政官布告(前項)のうち「百両以下の窃盗罪は死罪とはしない」との点についての質問です。百両以下の窃盗罪は徒刑に処すること、罪状の軽重は徒罪の年数に反映すべきこと、盗品を確認できない場合には本人の申立てによって被害額を認定してよいと明治政府は返答しています。


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【伺い④】徒罪について
・徒罪人は労働をさせて、わずかばかりでも報奨金を与え、刑が満期を迎えたときは、本人の希望に応じて、住居や家業を与えて良いでしょうか。それとも、本人の生国に戻すべきでしょうか。
⇒刑が満期を迎えたときは、本人の希望に応じてよい。

・徒罪中に脱走した者は、どのような刑とすればよろしいでしょうか。
⇒一度目の脱走は当初の刑を倍にして役につかせよ。二度目は死罪とすべきである。

・徒罪は窃盗をした場合に限らないという扱いでよろしいでしょうか。
⇒徒罪は窃盗の場合には限らないものである

(コメント)
脱走した者の刑がかなり過酷です。
「逃走の初犯は刑を2倍にし、再犯は死罪」が、明治政府の方針。徒刑自体が制度として固まっておらず、逃走した者は厳罰に処すという方針自体は理解できるものの、量刑が異様に厳しいのには驚かざるを得ません(現代では逃走罪が成立して、その分の刑期が延びるだけです。死罪にはなりません)。

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【伺い⑤】その他
・徒刑のほか、諸払いは全て廃止でよろしいでしょうか。
⇒全て廃止である。

・無宿の者が窃盗をするつもりで人家に忍び入ったが、窃盗は未遂に終わった場合はどのように取り扱いましょうか。
⇒新しい律を制定するまでは笞刑に処すほかは、これまでの例どおり取り扱えばよい。

・怪しげな者を取り押さえて、取調べたところ、他領で悪事をしたと自白し、盗賊に間違いないときは、その地の領主に引き渡してよろしいでしょうか。
但し、遠隔地の場合には、吟味詰の口書を添付して、京都府に本人を差し出すことでよろしいでしょうか。
⇒場所がどこであっても、領主にさしだすようにすべきである。

・新しい刑律を制定するまでは、従来の例によるとのことですが、旧幕府にご委任の刑律令書はどのような書類かお教えください。
⇒御定書百か条によるべきである。

(コメント)
江戸時代は、それぞれの藩に裁判権限があり、複数の藩にまたがるような事件は、江戸で裁くことになっていました。そのため、他領地のでの事件は領主に送るべきか、京都府(当時の明治政府の本拠地)で裁くのかという疑問が生じたのでしょう。明治政府は、事件の起こった場所の領主に送るべきであると指示しています。


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仮刑律的例 37 秋月藩士の庄屋殺害⇒切腹

2024年07月18日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 37 秋月藩士の庄屋殺害⇒切腹

〈事案の概要〉
秋月藩士・田代勝兵衛が、大酒の勢いで親戚でもある庄屋を殺害しました。秋月藩は、同人の刑として切腹とし、明治政府もこれを認めた事例です。
秋月藩士の田代は手元不如意で 、庄屋(宗右衛門)や地元の医師から借金をしていました。
返済が滞ったことから、医師は宗右衛門から田代に督促してくれるよう依頼し、宗右衛門は黒田藩の関所に督促に訪れました。
田代はその際不在でしたが、後でこれを聞いて激怒。翌日、酒に酔った状態で宗右衛門を殺害したというものです。
秋月藩は切腹が相当と考え、明治政府も異論なく認めています。
借金まみれとなり、返済に窮して、殺人に及ぶという何とも救いようのない事件です。庄屋は自己の職責を果たしただけですので、加害者がこれに憤るのは逆ギレ以外のなにものでもありません。



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【筑前秋月藩からの伺】明治二年二月十五日
明治2年2月、筑前秋月藩からの伺い。
【伺い】
当藩の田代勝兵衛という者は、昨夏筑後国堺の関所で勤務していたときに大酒を飲み、久留米領御井郡下川村先の庄屋宗右衛門という者を殺害しました。
勝兵衛と宗右衛門は親戚関係にあり、普段から親しくしておりました。勝兵衛は手元不如意となり、近村の医師から借金をしていました。借金の返済が遅れたため、医師は庄屋の宗右衛門に督促を依頼しました。
宗右衛門は督促の為、黒田藩の関所を訪ねましたが、勝兵衛は他所で出仕しており不在でしたので、宗右衛門は勝兵衛の借金の件を関所に伝えて帰りました。
勝兵衛は藩邸に帰って来て、宗右衛門が来たことを聞き非常に不愉快となりました。勝兵衛は以前から宗右衛門に金を借りておりましたが
、返済が滞っておりました。宗右衛門からはそのうち督促がなくなっていたのです。今回、医師からの借金の督促とはいえ、宗右衛門が来たので、おかしいではないかと思ったとのことです。
勝兵衛は翌日、宗右衛門への怒りを抑えることができず、酩酊状態で下川村に赴き、宗右衛門を殺害しました。
勝兵衛は本来であれば、役職を守り、他領に行くことは許されません。さらに、以前にも法を犯したことがあり、今回のような事件が起きたため、重々不埒であると考え、割腹を申し付けるべきと評決しました。このことはすでに久留米藩にも連絡しました。しかし、昨年11月から死刑の裁決については、お伺いをし裁決を仰ぐ必要があるとのことですので、本件処分につきお許しいただくようお願い致します。

【返答】伺いのとおりでよい。

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仮刑律的例 36 傷害致死罪は従犯的立場でも徒刑3年

2024年07月01日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 36 傷害致死罪は従犯的立場でも徒刑3年

〈事案の概要〉
本件は徳次という者が弥三郎を木の枝で殴り、死亡させてしまったというもので、現代では傷害致死罪に問われるべきものといえるでしょう。
徳次は逃亡中であり、逮捕されていないのですが、本件に関わった繁松及び藤兵衛は逮捕されており、この両名について伺いがなされています。
両名は徳次と以前から知り合いで、この日も一緒に酒を飲んでいました。そこへ、被害者の弥三郎が加わり、徳次と口論になりました。酒を飲んでいたときは、口論は収まったのですが、散会の後、徳次と弥三郎が再度トラブルとなり、繁松と藤兵衛が徳次に加勢したことから、罪に問われたものです。現代風にいえば、傷害致死罪の共犯ではあるものの、致死の原因行為は行っていない共犯という位置付けになるかと思います。
明治政府の判断は、両名につき徒刑3年というものです。各人の供述内容が付されておりますので、事案の詳細はそちらでご確認ください。

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【美濃加納藩からの伺】明治二年二月十三日
明治2年2月、美濃加納藩からの伺い。
【伺い】
去年(辰年)8月中、上加納村の非人番徳次は、同村の繁松・藤兵衛という者と申合せ、上茜部村地内字大野で弥三郎という者を酒に酔った勢いで打擲し、弥三郎を死亡させました。徳次は出奔し行方知れずであり、手配をしてありますがを、今もって行方がわかりません。そこで、繁松及び藤兵衛につき次のとおり所置したいので、よろしく御指図下さるようお願い致します。
【返答】明治2年2月
繁松及び藤兵衛は両人とも徒刑3年とすべきである。
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〈繁松の供述〉
一、私は8月に逮捕されました。本件について正直にお話し致します。
私は、御園町柏森の仲番兼蔵所の掛り人(居候)しております繁松と申します。8月7日昼に自宅で藤兵衛と居ましたところに、徳次がやってきて、「酒を飲みに行こう」というのですが、手持ちの金がないといって断りました。すると徳次は、自分が締めていた帯を私に渡して、「美濃屋の利助方に行って質入れしてきてくれ」と言いました。質入れしたところ、銭1貫100文になりました。御園町横町で藤兵衛及び徳次と待合せ、御園町伊勢屋六左衛門方に行き、酒を松屋で銭700文で買い、伊勢屋で酒を飲みはじめました。
上茜部村字名大野の弥三郎という者が通りかかりましたので、徳次が声をかけ、弥三郎と徳次は伊勢屋の裏座敷で酒を飲んでいました。
すると、徳次が我々が酒を飲んでいるところに来て、弥三郎と一緒に酒を飲もうというのです。一度は断ったのですが、しつこく勧めるため、やむなく同席することになりました。そのうち買った酒がなくなってしまいましたので、
徳次は弥三郎に「金一歩借してくれ」と頼みました。しかし、弥三郎は「医師に行ってきたので金はない」と断り、腹をたてて、徳次を蹴落してしまいました。 藤兵衛と私で徳次の不調法を詫び、店の亭主も出てきて200文の冷酒を買うことで一旦は落ち着きました。
日没後に散会となり、弥三郎、徳次、私と藤兵衛の順に店を出ました。
その後、私と藤兵衛は上加納村字六十荷という場所で弥三郎と徳次が喧嘩をしているのを見ました。私は、弥三郎の横腹を蹴りつけたところ、彼は倒れてしまいました。そこへ、徳次が
木の枝で殴ったら、死んでしまったようにみえたので、当惑しつつ帰宅しました。
弥三郎の衣服についてお聞きですが、私は全く知らないことです。徳次のその後の行動についても全く知りません。
以上、正直に申し上げました。

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〈御園町の伊勢屋六左衛門の供述〉
一 、8月7日昼、私の店に、上茜部村字名大野の弥三郎という者が来て、上加納村の仲番の徳次という者の名前で願書を書いてもらいたいとの頼みがありました。私が文章を書いている間に弥三郎と徳次とは酒を飲み始めました。そのうち弥三郎から徳次に、藤兵衛と繁松も呼んで一緒に飲もうといい、両人も一緒になって酒を飲んでいました。
そのうち酒がなくなってしまったようで、
徳次は弥三郎に「金一歩借してくれ」と頼みました。しかし、弥三郎は「医師に行ってきたので金はない」と断りました。徳次は多少金をもっていたようで、これを知った弥三郎は、「金をもっているのに、なぜ私に金を出せというのか」と腹をたてて、徳次を蹴落してしまいました。
「口論や喧嘩をうちでしては困ります」と言って聞かせ、その場は一旦収まりました。
200文で冷酒を繁松が買ってきて、さらに3人は酒を飲んでいました。
肴代の448文が未払いでしたので、弥三郎は、「19日までにお支払いに来ます」といい、日没後に弥三郎、徳次、繁松と藤兵衛の順に店を出ました。
本件について知っていることは以上のとおりです。

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〈藤兵衛の供述〉
一、私は、下加納村の藤兵衛と申します。
8月に逮捕されました。本件について正直にお話し致します。
8月7日昼、御園町柏森の繁松のところに居ましたところに、徳次がやってきて、「酒を飲みに行こう」というのですが、手持ちの金がないといって断りました。すると徳次は、自分が締めていた帯を繁松に渡して、「美濃屋の利助方に行って質入れしてきてくれ」と言いました。質入れしたところ、銭1貫100文になりました。御園町横町で藤兵衛及び徳次と待合せ、御園町伊勢屋六左衛門方に行き、酒を松屋で銭700文で買い、伊勢屋で酒を飲みはじめました。
上茜部村字名大野の弥三郎という者が通りかかりましたので、徳次が声をかけ、弥三郎と徳次は伊勢屋の裏座敷で酒を飲んでいました。
すると、徳次が我々が酒を飲んでいるところに来て、弥三郎と一緒に酒を飲もうというのです。一度は断ったのですが、しつこく勧めるため、やむなく同席することになりました。そのうち買った酒がなくなってしまいましたので、
徳次は弥三郎に「金一歩借してくれ」と頼みました。しかし、弥三郎は「医師に行ってきたので金はない」と断りました。その後、弥三郎は徳次が金をもっていることを知って、腹を立てて徳次を蹴落してしまいました。 私と繁松とでで徳次の不調法を詫び、店の亭主も出てきてしまいました。200文の冷酒を買うことで一旦は落ち着きました。
日没後に散会となり、弥三郎、徳次、私と繁松の順に店を出ました。
その後、私と繁松は上加納村字六十荷という場所で弥三郎と徳次が喧嘩をしているのを見ました。私は、弥三郎の横腹を蹴りつけたところ、彼は倒れてしまいました。そこへ、徳次が松割木で殴ったら、死んでしまったようにみえたので、当惑しつつ帰宅しました。
弥三郎の衣服についてお聞きですが、私は全く知らないことです。徳次のその後の行動についても全く知りません。
以上、正直に申し上げました。


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