(はじめに)
国立公文書館のデジタルアーカイブというサイトは、非常に面白いです。インターネット上で公開されている文書もあり、自宅にいながらにして閲覧ができます。
私は千葉県人なので、千葉の史料を求めて検索をかけていますが、「千葉県千葉裁判所留置場修理」という文書を見つけました。これがなかなか面白いのです。
1873 (明治6年)11月5日付、千葉裁判所の川西権少判事の伺いを紹介します。
(川西権少判事伺)
川西権少判事は、当時の千葉裁判所のトップ、今で言えば所長にあたります。所長から司法省に対して出された伺いの大意は次のようなものでした。
「当裁判所は当年の8月に合併以来、営繕のことは大した出費とならないように、差配しておりました。定額の修繕費用で、差し当たり取り繕っておりましたが、当裁判所内の囚人留置所が手狭になって、差支えが生じておりました。別紙絵図面積書のとおり、これまで千葉町にあった圏及び圍を、当裁判所内にひきつけ修理致しておりましたが、小破営繕多端につき、定額営繕金では不足で臨時出費をせざるをえません。絵図面積を添付いたしますので、お伺い致します。」
(裁判所の合併)
この伺いの最初の方に「当年の8月に合併」という言葉があります。
1873 (明治6年)、印旛県と木更津県が合併し、千葉県となりました。裁判所は印旛県と木更津県にそれぞれ設置されていたのですが、合併に伴い千葉県に設置されました。千葉県の成立は6月15日で、この日は今は千葉県民の日となっております。裁判所の合併は、それに遅れること2ヶ月だったようです。
(「囚人留置所」)
裁判所には、「囚人留置所」というものがあったようです。今の刑務所は、当時「監獄」と呼ばれていたので、「囚人留置所」というのは、監獄とは別ものなよでしょう。今でも、刑務所のほかに、裁判所には留置施設がありますから、そのようなものが当時からあったのかもしれません。
身体を拘束されて裁判を待っている者を「未決」といいますが、未決の者は普段は監獄内で拘束されています。裁判を受けるときには、裁判所に連れてこられることになりますが、いろいろな人が出入りする判所の普通の待合室に待たせておくわけにもいかなので、留置施設が必要になります。
伺いにある「囚人留置所」というのは、このような施設なのではないかと考えています。
(「圏及び圍」)
ところで、よくわからないのは、「圏及び圍」という言葉です。
伺いの原文では、「別紙絵図面積書の通、是迄千葉町に有之候圏并圍共、当裁判所へ引付修理致候へ共」とあり、千葉町にあった「圏并圍」が裁判所に移転されたことがわかりません。
また、請人と大工が作成した請負書では、「千葉本町にありました圏大小3つを千葉裁判所内へ持ち運びます。また、圍4間に2間屋根萱葺のものを取り崩し、これも裁判所に持ち込みます。」とあるので、持ち運びができるものであって、そこに身体を拘束された者を留置しておくことは何となくわかるのですが、具体的にどのように使うのか、「圏」と「圍」は何が違うのかについては、よくわからないままです。
また、「司法省が上請する千葉県裁判所囚人留置場が狭隘につき在来の圏等移転し、修繕する件については、余儀ないことであり、経費についても不相当とはいえません。よって、許可していただきたく伺いいたします。」と財務課議按に書かれているので、留置場の修繕というのは、「圏及び圍」の修繕だということがわかり、当時ではこれだけ書いてあれば当然わかるでしょという前提のようなのです。
(修理費は金25円50銭)
なお、修理費は金25円50銭です。
下記のような達が出されています。
明治6年12月3日
大蔵省へ達
別紙千葉裁判所留置所修理の儀についての司法省伺はそのとおりとするように。金25円50銭を支払うよう取り計らわれたく指令する。
参考文献
・国立公文書館蔵「千葉県千葉裁判所留置場修理」(請求番号 太00601100-01300)
【追記】
1 その後、鳥居甲斐晩年目録・弘化2年11月24日条に「圏牢は南面し、延丈五尺、袤丈二尺、広く行廊を運らし、門戸三所にあり。浴室圊房附きたり」との記載に行き当たりました。また、圏牢の西には南北13間、東西6間の空地があり、食後の散歩としてその空地を歩くことが許されていました(弘化3年4月21日条)。
以上は、鳥居耀蔵が丸亀藩預かりとなり、丸亀に到着したときの記事です。「圏」の理解に何らかの参考になるかもしれません。
2 兵庫津ミュージアムでは兵庫県の初代県庁を復元すると共に仮牢が復元されています。この仮牢が圏か圍のどちらかに関係があるのではないかという気が致します。
3 2022/11/28追記
千葉県『千葉県史明治編』(1962年)300頁には以下の記載があり、「圏及び圍」が千葉の取締所(後の警察署)の施設であった可能性はあるように思われますが、さらに調査を要します。
「印旛県では、明治4年(1871)11月の県創立以来、警察のために佐倉、千葉、本行徳、流山、古河、関宿、布佐、水海道、結城に取締所を設けていました。」
4 2023年4月29日追記
「圏」=仮牢であるという文献がありました。武州多摩郡柴崎村の名主鈴木平九郎の『公私日記』には、柴崎 村で暴行事件を起こしたものを 日野宿の岡引に引き渡した 、その者は日野宿の圏に入れられたが、圏から脱走したという趣旨の記載があること(天保9年1月19日条)、同じく柴崎村にいた無宿者を取り押さえ、日野宿圏に渡したとの記載があること(同年2月3日条)、ここでの「圏」とは仮牢であるということが指摘されています。
日野村は組合村の寄場であり、柴崎村には留置施設がないので、日野村に留置施設があったということのようです。
大口勇次郎「村の犯罪と関東取締役出役」(『近世の村と町』吉川弘文館所収)