南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

明治6年、裁判所の留置場修理(千葉)

2022年02月28日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
 国立公文書館のデジタルアーカイブというサイトは、非常に面白いです。インターネット上で公開されている文書もあり、自宅にいながらにして閲覧ができます。
 私は千葉県人なので、千葉の史料を求めて検索をかけていますが、「千葉県千葉裁判所留置場修理」という文書を見つけました。これがなかなか面白いのです。
1873 (明治6年)11月5日付、千葉裁判所の川西権少判事の伺いを紹介します。

(川西権少判事伺)
 川西権少判事は、当時の千葉裁判所のトップ、今で言えば所長にあたります。所長から司法省に対して出された伺いの大意は次のようなものでした。
「当裁判所は当年の8月に合併以来、営繕のことは大した出費とならないように、差配しておりました。定額の修繕費用で、差し当たり取り繕っておりましたが、当裁判所内の囚人留置所が手狭になって、差支えが生じておりました。別紙絵図面積書のとおり、これまで千葉町にあった圏及び圍を、当裁判所内にひきつけ修理致しておりましたが、小破営繕多端につき、定額営繕金では不足で臨時出費をせざるをえません。絵図面積を添付いたしますので、お伺い致します。」

(裁判所の合併) 
 この伺いの最初の方に「当年の8月に合併」という言葉があります。
 1873 (明治6年)、印旛県と木更津県が合併し、千葉県となりました。裁判所は印旛県と木更津県にそれぞれ設置されていたのですが、合併に伴い千葉県に設置されました。千葉県の成立は6月15日で、この日は今は千葉県民の日となっております。裁判所の合併は、それに遅れること2ヶ月だったようです。

(「囚人留置所」)
 裁判所には、「囚人留置所」というものがあったようです。今の刑務所は、当時「監獄」と呼ばれていたので、「囚人留置所」というのは、監獄とは別ものなよでしょう。今でも、刑務所のほかに、裁判所には留置施設がありますから、そのようなものが当時からあったのかもしれません。
 身体を拘束されて裁判を待っている者を「未決」といいますが、未決の者は普段は監獄内で拘束されています。裁判を受けるときには、裁判所に連れてこられることになりますが、いろいろな人が出入りする判所の普通の待合室に待たせておくわけにもいかなので、留置施設が必要になります。
伺いにある「囚人留置所」というのは、このような施設なのではないかと考えています。

(「圏及び圍」)
ところで、よくわからないのは、「圏及び圍」という言葉です。
伺いの原文では、「別紙絵図面積書の通、是迄千葉町に有之候圏并圍共、当裁判所へ引付修理致候へ共」とあり、千葉町にあった「圏并圍」が裁判所に移転されたことがわかりません。
 また、請人と大工が作成した請負書では、「千葉本町にありました圏大小3つを千葉裁判所内へ持ち運びます。また、圍4間に2間屋根萱葺のものを取り崩し、これも裁判所に持ち込みます。」とあるので、持ち運びができるものであって、そこに身体を拘束された者を留置しておくことは何となくわかるのですが、具体的にどのように使うのか、「圏」と「圍」は何が違うのかについては、よくわからないままです。
 また、「司法省が上請する千葉県裁判所囚人留置場が狭隘につき在来の圏等移転し、修繕する件については、余儀ないことであり、経費についても不相当とはいえません。よって、許可していただきたく伺いいたします。」と財務課議按に書かれているので、留置場の修繕というのは、「圏及び圍」の修繕だということがわかり、当時ではこれだけ書いてあれば当然わかるでしょという前提のようなのです。

(修理費は金25円50銭)
 なお、修理費は金25円50銭です。
 下記のような達が出されています。

明治6年12月3日
大蔵省へ達
 別紙千葉裁判所留置所修理の儀についての司法省伺はそのとおりとするように。金25円50銭を支払うよう取り計らわれたく指令する。


参考文献
・国立公文書館蔵「千葉県千葉裁判所留置場修理」(請求番号 太00601100-01300)

【追記】
1 その後、鳥居甲斐晩年目録・弘化2年11月24日条に「圏牢は南面し、延丈五尺、袤丈二尺、広く行廊を運らし、門戸三所にあり。浴室圊房附きたり」との記載に行き当たりました。また、圏牢の西には南北13間、東西6間の空地があり、食後の散歩としてその空地を歩くことが許されていました(弘化3年4月21日条)。
 以上は、鳥居耀蔵が丸亀藩預かりとなり、丸亀に到着したときの記事です。「圏」の理解に何らかの参考になるかもしれません。
2 兵庫津ミュージアムでは兵庫県の初代県庁を復元すると共に仮牢が復元されています。この仮牢が圏か圍のどちらかに関係があるのではないかという気が致します。
3 2022/11/28追記
千葉県『千葉県史明治編』(1962年)300頁には以下の記載があり、「圏及び圍」が千葉の取締所(後の警察署)の施設であった可能性はあるように思われますが、さらに調査を要します。
「印旛県では、明治4年(1871)11月の県創立以来、警察のために佐倉、千葉、本行徳、流山、古河、関宿、布佐、水海道、結城に取締所を設けていました。」
4 2023年4月29日追記
「圏」=仮牢であるという文献がありました。武州多摩郡柴崎村の名主鈴木平九郎の『公私日記』には、柴崎 村で暴行事件を起こしたものを 日野宿の岡引に引き渡した 、その者は日野宿の圏に入れられたが、圏から脱走したという趣旨の記載があること(天保9年1月19日条)、同じく柴崎村にいた無宿者を取り押さえ、日野宿圏に渡したとの記載があること(同年2月3日条)、ここでの「圏」とは仮牢であるということが指摘されています。
日野村は組合村の寄場であり、柴崎村には留置施設がないので、日野村に留置施設があったということのようです。
大口勇次郎「村の犯罪と関東取締役出役」(『近世の村と町』吉川弘文館所収)

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色川三中「家事志」文政10年2月20日-2月26日

2022年02月27日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、その日の一部の大意を記したものです。

1827(文政10)年2月20日
持病で不快なので引きこもっていた。不快だったが、快くまどろむうちに夢を見た。夢の中では亡き祖父と田のくろを歩いていた。富士山の夢だった。富士山が突然天にのぼり、雲の中にきらめくというところで、目が覚めた。
#色川三中
#家事志

1827(文政10)年2月21日
彼岸に入る。
体調は相変わらずよくないので、利兵衛殿に参詣してもらって、卒塔婆を立て、経を読んでもらうようにした。
昨日餅を4斗5升ついたので、各所に配ってもらったのだが、日向に餅を持っていくのを忘れた。日向にはこわめしをふかして持っていってもらった。
#色川三中
#家事志

1827(文政10)年2月22日
一橋殿(徳川治済)が2月20日に薨去されたので、公方様(徳川家斉)から通例のとおり喪に服するようにとの触れが来た。普請は今日から7日、鳴物は14日間停止せよとのことである。
#色川三中
#家事志

1827(文政10)年2月23日
彼岸の供物をもらったことの覚えを日記に書きつけた。30人余りから白米や油揚げ干瓢をいただいた。
石屋伊助の年貢のことで問題が生じており、与市にいろいろと動いてもらった。
#色川三中
#家事志

1827(文政10)年2月24日
与市に頼んで、虎徹の刀等を木原様に持っていってもらった。この刀は、坂村に貸してあったので、昨日谷田部佐助に頼んで取ってきてもらったものだ。
九つ時(正午前後)には隣の主人が来た。夜には田中清吉が来て、それぞれ用向きについて話した。
#色川三中
#家事志

1827(文政10)年2月25日
色川助右衛門が金比羅参りをするというので、金二朱を餞別として渡した。助右衛門は40歳ばかりで、いまだに妻がなくひとりで暮らしている。故あって憐れむべきひとである。
#色川三中
#家事志

1827(文政10)年2月26日
亡き父の石碑ができたというので、今日の夕方西寺に持っていき、明朝立てるという段取りを、与市に申し入れてもらった。開眼料として200銅も与市に渡しておいた。
夕方には石碑を6人で担いで行ってもらった。
#色川三中
#家事志





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国広稔弁護士  BC級戦犯裁判弁護人となった千葉県と関わりのある弁護士

2022年02月24日 | 歴史を振り返る
国広稔弁護士
 BC級戦犯裁判弁護人となった千葉県と関わりのある弁護士

・明治32年10月14日生(参考文献1-610頁)
・昭和2年 弁護士登録(参考文献1でのインタビュー)

・昭和11年 新潟県弁護士会に移籍する。玉井潤次弁護士の招きに応じたもの(参考文献1でのインタビュー)。
玉井弁護士と共に小作事件の代理人となる。

・昭和18年 東京弁護士会に移籍(参考文献1でのインタビュー)     
 同インタビューでは、「玉井先生が逮捕されたこともあり健康を害され、また戦争が激しくなって弁護活動も思うようにできなくなり、昭和18年に一旦は東京弁護士会に入りましたが、食糧事情も窮迫してきましたので、家内の縁で成田の転居したのです。成田ならなんとか食べるものも手に入るだろうという考えでした。」と発言しています。

・昭和22年1月
 シンガポールでのBC級戦犯裁判の弁護人となる。
⇒国広弁護士の弁護人活動については、過去記事でも紹介しました。
「終戦になって、また私の生活は一変しました。戦後の戦争犯罪人裁判の英軍関係の法廷の弁護人を希望したのです。」と発言しています(参考文献1でのインタビュー) 。
 弁護活動の終期については、史料で食い違いが見られますが、シンガポールに9ヶ月、ボルネオに2ヶ月、あとは香港に滞在し、昭和23年3月に帰国したとするのが妥当でしょう(参考文献2、3)。
 なお、参考文献1では、「赴いたのはシンガポール、ボルネオなどであり、シンガポールに1年半、ボルネオに4ヶ月、香港に6ヶ月滞在した。」と発言しています。

・昭和24年12月7日 東京弁護士会から千葉弁護士会(現千葉県弁護士会)に移籍(参考文献1-596頁)

・昭和36年6月19日 法務省参与井上忠男から法務省でインタビューを受ける(参考文献3)。

・昭和53年11月21日 千葉県弁護士会のインタビューに応じる(参考文献1-405頁)

・昭和59年3月16日死去(参考文献1-610頁)

参考文献
1 千葉県弁護士会『千葉県弁護士会史』(1995年)
・参考文献でのインタビューとは、
「国広稔先生に聞く」(上記参考文献p405)を指します。
2 復員局法務調査部「外地戦争裁判弁護士名簿」(昭和26年4月20日)(国立公文書館所蔵)
3 「元戦争裁判弁護人国広稔氏より聴取事項」(井上忠男・昭和36年6月19日)
(国立公文書館所蔵)




 


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明治時代の千葉の裁判所の状況

2022年02月21日 | 歴史を振り返る
(甲部地方巡察使復命書・明治十六年)
 1883(明治16)年の千葉の裁判所の状況が、国立公文書館所蔵史料で公開されていました。
 甲部地方巡察使復命書というもので、政府の公式記録です(参考文献)。
 大体こんな感じのことが書いてありました(原文は漢文調)。
「千葉県内の裁判所を視察したが、民事・刑事とも格別繁多とはいえない。
ただ、勧解は数が甚だ多く、毎日原告や被告が法廷に充満している。惜しむらくは、件数が夥しく多いので、裁判官が勧解をするのに十分な時間がないことである。そのため、不調となるものが多い。
 検察官と裁判官は相調和しており、軋轢がない。
 現在裁判所が設置されているのは、千葉郡千葉に始審裁判所と治安裁判所、望陀郡木更津村及び匝瑳郡八日市場に始審裁判所支庁と治安裁判所である。
 千葉と木更津、八日市場の位置間隔は適当だと考える。
 民事事件で最も多いものは、金銀貸借、地券その他の証券及び地所売買等に関するものである。
刑事事件では、賭博、窃盗、闘殴が最も多い。」

(明治16年には千葉の裁判所は3か所)
 この復命書からわかるのは、明治16年には千葉の裁判所は3か所であったということです。
千葉=始審裁判所と治安裁判所
木更津と八日市場=始審裁判所支庁と治安裁判所
 千葉県が成立するのは、1873(明治6)年6月のことであり、裁判所が千葉県に置かれるようになったのも同年からです。当初は寺院に仮住まいをしていたようですが、1874(明治7)年から現在のはじめは、現在の裁判所所在地である千葉市中央区中央の方に移ったそうです。当時は「千葉郡千葉」と呼ばれていたのですね。
 
(始審裁判所と治安裁判所)
 始審裁判所と治安裁判所というのは、聞きなれない言葉ですが、この時期の裁判所の呼び方です。
始審裁判所=現在の地方裁判所
治安裁判所=現在の簡易裁判所
 明治の初期は、裁判所の呼称が頻繁に変わっていまして、1881(明治14)年から始審裁判所、治安裁判所という呼び方が使われています。
 1890(明治23)年11月施行の裁判所構成法で、始審裁判所⇒地方裁判所、治安裁判所⇒区裁判所と名前が変わりましたので、始審裁判所、治安裁判所という名称が使われたのは、わずか9年程度でした。

(金銀貸借)
 当時、民事事件で多いものは、お金の貸し借りの関係と不動産ということで、この問題は昔から多かったのだなと思います。
 現在なら「金銭貸借」といいますが、この当時は、「金銀貸借」なのです。
 江戸時代から「金銀貸借」という言葉が使われており、明治になっても16年程度だと、江戸時代と同じく「金銀貸借」が使われていたことがわかります。

(勧解)
 「勧解」はこの時期独特の制度ですが(明治8年~23年)、現代でいえば、調停と似たような制度です。
 当事者の申立てで始まり、裁判官が和解(合意)を試みるという制度。
 1883(明治16)年当時は、勧解を先にしないと、訴訟に進めなかったようでして(勧解前置主義)、そのため勧解が多かったのかもしれません。
 勧解が不調となるというのは、勧解が成立しない、つまり合意できないということです。
 裁判官が丁寧にやれば、合意ができるかもしれないのに、案件が多すぎるのに比して、裁判官が少ないから合意ができないのではないかというのが、巡察使の感想でした。

(参考文献)
・国立公文書館蔵「公文別録・甲部地方巡察使復命書・明治十六年・第一巻」
(請求番号 別00066100-001)

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官有林編入とその取戻し 土睦村の尾張野山林取戻事件から

2022年02月17日 | 歴史を振り返る
(土睦村の尾張野山林取戻事件から学ぶ官有地編入の歴史)
 以前、土睦村(現:千葉県睦沢町)の尾張野山林取戻事件についてとりあげました。
 同事件は、土睦村の下ノ郷地区の山林は、もともと住民の共有であったのに、官有林とされてしまったことから、これを住民のものに取り戻そうとした訴訟事件でした。
 この事件の背景としては、地租改正という土地から税金収入を得ようとした明治政府の方針があり、誰が土地の所有権を有するのかを確定しなければならず、権利関係が曖昧だったものなので、とりあえずは「公有地」として曖昧なものを曖昧なままにしていたのですが、最終的には官有地に編入しようという方向性になった、これを実現したのが「地区名称区別」の改正であったということをお話ししました。
 
(地区名称区別の改正による官有地編入の強行)
「地区名称区別」の改正の影響ですが、下記参考文献によりますと、地区名称区別の改正により、民有地編入の条件は厳格となった、すなわち、官有地編入が強行された、とあります。
 そのため、東北地方では官有林が多くなりました。
 官有林と民有林との割合は、青森県97%、秋田県94%に達したそうです。 
 官有地に編入するということはどういうことかというと、住民(農民)の入会慣行が排除されるということです。
 それまで、住民はその山林に入って、自然に生えていた草木を採取して暮らしており、これを入会慣行というのですが、そのようなことは官有林となったから、もう認めないというのです。官有林に生えている草木は国のものだから、これを取るのは窃盗だ!ということになり、今まで住民に認められていた行為が、一夜にして窃盗犯扱いされるという事態になったのです。
 このような扱いをされては、住民の側も怒るに決まっています。
 参考文献では、「官有地編入は、入会慣行の排除となり、農民側の抵抗を招いた。官有地に編入された山林原野における入会慣行を求める訴訟が多発し、大審院まで争われた。」と簡潔に記していますが、住民側からすれば、ある意味当然のことであり、それに対して、訴訟で全力で国と争うということが全国で見られたわけです。

(国有土地森林原野下戻法)
 さて、このようなことで住民の不満のエネルギーが溜まってしまうこととなり、さすがに政府もこの問題に決着をつけないといけないと思ったのでしょう、1899(明治32)年には、「国有土地森林原野下戻法」を制定します(明治32年法第99号)。
 この法律は、地租改正等で官有に編入となり、現在国有である土地森林原野及び立木竹について、官有に編入したときに所有権のある者に対して、返還(下戻)を認めるというものでした。
 これだけ聞くと、住民側に配慮した法律のように見えますが、この法律の肝は、下戻し請求に期限をもうけたところで、1900(明治33)年6月30日までの請求に限るというものでした。
 同法の交付は、1899(明治32)年4月でしたので、公布の日からわずか1年2ヶ月しか受け付けないというとものでした。
 土睦村史では、「明治33年再度農商務大臣に請願をしたが、37年に至って不許可の指令に接した」と書かれているのですが、ここでいう「請願」は、国有土地森林原野下戻法に基づく請求のことであるとすると時期的にはピッタリきます。

(行政裁判)
 土睦村の下戻請求は、1904(明治37)年に大臣によって却下されてしまったのですが、この処分に対しては取消しを求める裁判を起こすことができました。
 当時は、今と違って、「行政裁判所」という特殊な裁判所があり、下戻請求取消事件は、この行政裁判所での裁判となります。
 どこが特殊化というと、「行政裁判所」は一審にして終審の裁判所で、東京にただ一つしか設置されなかったという点です。裁判を起こすには、東京で起こさなければならず、しかも一発勝負で上訴ができないという仕組みだったのです。
 裁判所には長官一人と評定官若干人が置かれ、5人以上の合議によるというのも、他の裁判所とは違って独特の仕組みでした。
 参考文献では、「行政庁の違法な処分に対する国民の権利救済手段としては極めて不十分な制度であった」と評価されております。現代でも行政訴訟は、住民の勝訴率は高くないのですが、現代よりも行政よりの裁判が多かったのかもしれません。
 しかし、この困難な訴訟を乗り切り、勝訴判決を得たというのが、土睦村尾張野山林取戻事件の結果でした。

参考文献:牧英正=藤原明久編『日本法制史』288-289頁(青林書院、1993年)

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土睦村の重大事件・尾張野山林取戻事件

2022年02月14日 | 歴史を振り返る
(行政裁判所の勝訴判決を勝ち取った土睦村)
土睦村史に尾張野山林取戻事件が村の重大事件ということで、掲載されていました。
明治時代の行政裁判所の判決となたケースなのですが、明治時代の、しかも行政裁判所の判決というのは、あまりお目にかからない珍しいものなので、紹介します。

(土睦村と土睦村史)
 土睦(つちむつ)村は、かつて千葉県にあった村で、現在は千葉県長生郡睦沢町となります。1899年の町村制施行により発足し、当時は千葉県長柄郡内の村でした(その後、長柄郡が長生郡となる)。1955年に他の村と合併し、睦沢村となったことで、土睦村は消滅しました。
 土睦村史は、1952年5月に刊行されたもので、著者は鵜澤昇作(1880年~1962年)。鵜澤さんは、1936年~1940年に同村の村長を務めた方です。土睦村史のほかに、「千葉県蚕糸沿革史」「睦沢村故事漫録」「川島郷土誌」を著しています。
 土睦村史は、もともと全文手書き、ガリ版刷りです。2015年に睦沢町教育委員会が復刻しました。

(尾張野山林取戻事件の概要)
 土睦村史に重大事件として取り上げられているもののうち、筆頭に挙げられているのが、この尾張野山林取戻事件です。この事件は古く、明治事件の判決です。
 土睦村下之郷字尾張に所在する山林(実測約40町歩)に関する紛争です。
 同山林は元来下之郷地区の所有地として、区民の薪炭採集地だったのですが、1873(明治6)年に政府が官有地としてしまいました。下之郷地区は、同地区に戻すように、請願を行ったのですが、政府の採用するところとなりませんでした。
 1900(明治33)年に改めて下戻を申請しましたが、1904(明治37)年農商務大臣はこれを不許可としました(明治37年9月20日付林第16536号指令)。下之郷地区は、この指令を取消すべく、行政裁判所に訴えを提起しました。
 1909(明治42)年4月29日、行政裁判所は、判決で、農商務大臣の指令を取消し、下之郷地区に山林を取戻すことを命じました。
 著者は、「以上の如く明治6年土地没収以来、36年目にして解決した訳で実に地方稀にみる大事件であった。」とこの事件を評価しています。

(背景に地租改正)
 この土睦村にとっての大事件、背景には地租改正が絡んでいます。
 地租改正事業は、明治6年の地租改正法の公布により着手され、同8年の地租改正事務局の設置以降本格的に進められ、同14年にほぼ完了しました(国税庁のホームページ)。
 国の側からみれば、地租を払ってもらうには、所有権が誰にあるかを確定させなければなりません。国税庁のホームページですと、「この地租改正により土地の所有権が公認され、地租は原則として金納となりました。」とありますが、民の立場から見れば、所有権を認めてやるから、税金を払えということになります。

(地所名称区別)
 実際にどのように土地を区分するかを明らかにしたのが、地所名称区別問いものです。
 1873(明治6)年3月の太政官布告です(明治6年3月第114号布告)。この地区名称区別では、官有地、民有地、公有地という3分類の区分です。村持ちの山林原野は公有地に分類されました。
 公有地というのが聞き慣れないですが、それもそのはず翌1874年には、地所名称区別の改正され、この公有地の区別はなくなってしまうのです(明治7年11月7日太政官布告第120号(改正地所名称区別)。
 公有地はどのように解消されたのかというと、官有地か民有地のどちらかになったのです(2分類)。 
 そして、村持ちの山林原野で官有地に編入されてしまったのも多いのです。住民からすると、今まで自分たちで使っていたものが、官有地になってしまったということになります。
 土睦村の尾張野山林も、この地区名称区別の改正に伴って官有地に編入されてしまったのではないかと思われます。これを民有地にするのは、年月と大変な労力が必要となったのでした。


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市長交際費の運用を変えた武蔵野市長交際費事件最高裁判決から考える

2022年02月10日 | 地方自治体と法律
(武蔵野市長交際費事件の市長交際費)
 市長交際費については、武蔵野市長交際費事件が市長交際費の基準を判示しています。とはいえ、その交際費基準は、抽象的なので、実際のケースにどうあてはめるとよいのかというのは、この事件の最高裁判決だけを読んでいてもよくわかりません。
 高裁判決ですと、この点について割と丁寧に判示していますので、整理してみました。

(武蔵野市長交際費事件で違法とされた交際費)
1 市内のジャズのライブハウスの新店主披露祝賀会が開催され、市長として招待を受けたので祝金として1万円を支払った。
(理由;高裁判決の判示)
・ライブハウスの新店主は、元市会議員であり、市政功労者であるとは認められるものの、祝賀会自体は、全くの個人として新たにライブハウスの営業の開始を祝賀する会合であって、地方公共団体との関係においておよそ公的性格が認められない。
・また、地域における商業振興の意味があるとも認められない個人的会合であって、客観的にみて地方公共団体が、儀礼的行為を行うことによって行政の円滑な運営を図ることができるという公益に資するものとみる余地もない
・本件祝金の金額等を考慮するまでもなく、上記祝賀会への祝金を交際費から支出することは、社会通念上相当な範囲を逸脱したものといわざるを得ない。
2 武蔵野市部課長会の研修後の懇親会に市長、助役及び収入役が列席するに際して祝金を交付することとし、同会の会長に対し3万円を支払った。
(理由;高裁判決の判示)
・部課長会は、武蔵野市のすべての部課長で構成された団体であるが、その構成員は、すべて市長の指揮監督下にある内部職員である上、部課長会の行う研修も、実質的には職務の一環と考えられる。そうすると、その研修後の懇親会に出席することは、客観的に見て地方公共団体の長としての対外的活動とはおよそいい難いものであるから、このような会への出席に交際費を支出することは、社会通念上相当な範囲を明らかに逸脱したものといわざるを得ない。
・交際費は、もともと地方公共団体の長として対外的活動を行うことに要する経費であるから、市長の指揮監督下にある行政事務部門の職員との懇談、懇親のためにこれを支出することが交際費の性格上許されないのは当然。

3 市内に所在するA寺の第10世住職継承披露祝賀会に市長が列席するに際して祝金を交付することとし、A寺住職に対し1万円を支払った。
(理由;高裁判決の判示)
 第十世住職は、市の民生・児童委員、人権擁護委員を歴任しているものであり、また、上記祝賀会には、地元関係者や民生委員、保護司、商工会議所や商店会連合会幹部などが出席していることが認められるとしても、上記祝賀会は、そのような資格の者が集まる公的な性格を有する会合ではなく、それ自体は、G寺という宗教団体の主催した祝賀会にすぎず、また、客観的にみて地方公共団体が、儀礼的行為を行うことによって行政の円滑な運営を図ることができるという公益に資するものとみる余地もないから、本件祝金の金額等を考慮するまでもなく、上記祝賀会への祝金を交際費から支出することは、社会通念上相当な範囲を逸脱したものといわざるを得ない。

(武蔵野市長交際費事件で適法とされた交際費)
1 B大学出身の市議会議員及び市職員から成る武蔵野市役所B会の懇親会に市長が列席するに際して祝金を交付することとし、同会代表幹事に対し1万円を支払った。
(理由;高裁判決の判示)
 支払の対象となった稲門会は、武蔵野市職員と同市議会議員の中の早稲田大学出身者で構成する親睦団体であるから、市長の指揮監督下にある内部職員だけの組織ではなく、むしろ社会活動の一つである同窓会活動を行うために設立されたものであって、武蔵野市からみれば、一応の外部性があり、客観的にみて地方公共団体が、儀礼的行為を行うことによって行政の円滑な運営を図ることができるという公益に資するものと認められ、その支払額も1万円と社会通念上常識の範囲内であり、それ自体には、公務性や行政上の有益性が乏しいとしても、社会通念上相当と認められる必要かつ最小限度の範囲内の儀礼を尽くすためにされたものというべきであるから、本件支払が違法とまではいうことはできない。

2 市議会の会派であるCクラブの忘年会に市長が列席するに際して祝金を交付することとし、同クラブ会派代表者に対し1万円を支払った。
(理由;高裁判決の判示)
 市長は、市政の運営のため、市議会及びこれを構成する市議会の会派や市議会議員と交流することは、市の事務の円滑、適正な遂行を図る上で必要なことであるから、そのような会合に出席し、交際費を使用することは、交際費の本来の目的にかなったものというべきであるし、その金額も1万円と社会通念上常識の範囲内である上、忘年会への出席も社会通念上相当と認められる必要かつ最小限度の範囲内の儀礼を尽くすためにされたと認められるから、本件支払を違法ということはできない。

3 宮崎県内の全焼酎製造業者によって結成された同県の特産品の消費拡大等を目的とする団体の定例会に市長が列席するに際して祝金を交付することとし、同団体幹事長に対し5000円を支払った。

(理由;高裁判決の判示)
 焼酎愛飲党は、宮崎県の特産品の消費拡大、産業振興を目的とする団体であり、市長として、このような団体のイベントに参加するために、交際費から支出することは、市の事務の円滑、適正な遂行を図る上で必要なことであるから、そのような会合に出席し、交際費を使用することは、交際費の本来の目的にかなったものというべきであるし、その金額も5000円と社会通念上常識の範囲内である上、定例会への出席も社会通念上相当と認められる必要かつ最小限度の範囲内の儀礼を尽くすためにされたと認められるから、本件支払を違法ということはできない。


(交際費の支出の違法性判断基準について)
 高裁判決は違法性判断基準を述べてますので、以下に掲げておきます。
 最高裁の判示の方が規範性があるのでしょうが、高裁判決の方がわかりやすいと思われるからです。
「交際費とは、一般的には、対外的に活動する地方公共団体の長又はその他の執行機関が、行政執行上、あるいは当該団体の利益の為に当該団体を代表し外部とその交渉をするために要する経費であり、その中には、特定の事務の円滑、適正な遂行を図ることを目的とするのではなく、交際それ自体、すなわち、一般的な友好、信頼関係の維持増進自体が目的であるものも含まれる。
 そして、その外部には、市議会関係も含まれると考えられるが、自らの指揮監督下にある行政事務部門の職員との関係は、原則として外部には当たらず、交際費の性格上、内部職員の会合に出席するために交際費を支出することは、社会通念上相当な範囲にとどまるとはいえず、基本的に違法であると考えられる。



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家事審判での裁判官の忌避を申立てる

2022年02月07日 | 家事事件関係
(法的根拠)
 家事審判でも裁判官(審判官)の忌避を申立てることはできます。
 法律上の根拠は、家事事件手続法11条になります。
第十一条 裁判官について裁判又は調停の公正を妨げる事情があるときは、当事者は、その裁判官を忌避することができる。
2 当事者は、裁判官の面前において事件について陳述をしたときは、その裁判官を忌避することができない。ただし、忌避の原因があることを知らなかったとき、又は忌避の原因がその後に生じたときは、この限りでない。

(忌避申立てと手続きの停止)
 忌避を申立てた場合、裁判所の対応は次の二通りがあります。
A 次のような要件を充たす場合は、忌避を申立てられた裁判官自身が却下の判断を行う(簡易却下)
ア 家事事件の手続を遅滞させる目的のみでされたことが明らかなとき。
イ 当事者は、裁判官の面前において事件について陳述をした後で、裁判官を忌避した場合。ただし、忌避の原因があることを知らなかったとき、又は忌避の原因がその後に生じたときは、この限りでない。
ウ 忌避の申立てについての最高裁判所規則所定の手続きに違反するとき。
B 裁判官が合議体で忌避が妥当かを判断する。

 法律上は、Bの方が原則として書いてあります(家事事件手続法12条)。この場合、もともとの手続きは停止します(同条4項)。
 しかし、忌避の申立ての度に、このような強力な効果を与えてしまったら、手続きは進まなくなってしまいます。そこで、忌避を申立てられた裁判官自身が判断できるし、この場合は手続きは停止しない(同条5項、7項)という簡易却下の制度を規定しています。
 簡易却下には、前記ア~ウの要件がありますが、もっとも用いられるのは、「ア 家事事件の手続を遅滞させる目的のみでされたことが明らかなとき。」でしょう。

(忌避を認めない決定についての異議申立手段~即時抗告)
 忌避を認めない決定について異議申立てをしたい場合には、即時抗告ができます(同条9項)。
 家事事件手続法の即時抗告は、「審判」に対するものと、「審判以外の裁判」に対するものをわけていますので、この二つを取り違えてはいけません。
 忌避を認めない決定は、「審判以外の裁判」になりますから、同法99~102条の規定が適用されます。
・即時抗告は1週間以内に行わなければなりません(同法101条1項)。
・即時抗告をしても、執行停止効はありません(同条2項)。

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