土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を記したものです。
1827年3月20日(文政10年)
雨であったが、全く足らない。渇水が甚だしい。夕方に戻る。
#色川三中
#家事志
1827年3月21日(文政10年)
八つ時(午後2時)、川口の隠居(祖父)を呼んで、債務整理の件を話す。それにつけても60-70両はないと話しにならないようだ。店を閉めるべきだろうか。店を休んでも言い訳にしかならないだろうか。
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1827年3月22日(文政10年)
四つ時(午前10時)、嫁の清(せい)を初めて里帰りさせた。餅をついて持たせた。籠は裏町の庄助に頼む。また、田中清吉から馬を借りた。馬方は下男の忠七に任せた。
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1827年3月23日(文政10年)
九つ時(正午)、馬方としていた下男の忠七がようやく帰ってきた。先方で馳走になり、酔って泊まった為に昨夜戻るべきところ、戻らなかったのだ。忠七は詫びを入れてきた。
入夜、田中清吉が来て、上総屋等の債務整理の件のことを相談した。
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1827年3月24日(文政10年)
昨日に引き続き、入夜、田中清吉が来た。熊野やの件については、持合金が足らず、いまだに支払うことができない。
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1827年3月25日(文政10年)
朝、知人と熊野やの件につき相談。昼には熊野やに自ら行き、話しをした。
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1827年3月26日(文政10年)
田中清吉外1名と連れ立って、上総屋に行き、交渉を行う。7月に5両、12月にも5両支払うといったら、随分納得してくれたようである。当方から提案した15年払いというのは、もう少し期間を短くするようにできないのかとは言われたが、概ね合意はできそうである。
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1827年3月27日(文政10年)
・田中清吉と債務整理の件で交渉に行った。
・疱瘡(天然痘)に感染したものがいるので、与市を見舞いにやった。
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1827年3月28日(文政10年)
疱瘡(天然痘)が流行っている。昨日とは別の者もかかったというので、菓子をもって見舞いに行かせた。
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1827年3月29日(文政10年)
朝五つ時(午前8時)、与市らと共に小田村(現つくば市小田)へと赴く。熊野節五本を進物とした。
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(熊野節とは、焙乾法で作られた鰹節)
1827年3月30日(文政10年)
人生は曰く言い難い。
先月は高砂やと終夜私の家で酒を飲み、悪口雑言を言い罵っていた。荒れに荒れて朝五つ時(午前8時)まで飲んでいた。ところが、今月は様々な事が片付いて、今日は彼の家で快く過ごせている。大切なのは忍の一字だ。
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(感想など)
・(20日)三中は、以前の記事(3月9日)でも、雨が降らないことを嘆いています。土浦は舟運の町でもあるので、農産物のほか舟運も気になるのでしょう。
・(22日)三中の二度目の妻清は、谷田部(現・つくば市)に実家があります。結婚してから初めて実家へ。三中は同行しません。
三中は馬を所有していないので、必要に応じて借りていたようです。
・(22日、23日)下男の忠七、登場。奥様の里帰りに馬方として同行します。奥様の実家で歓待を受け、飲みすぎて、帰りが遅くなる大失態。今回は詫びて終わりましたが、このあとどうなりますやら。
・(22日、23日)この記載から、馬は荷物運搬用で、土浦-谷田部(つくば市)を日帰りで往復するためだったことがわかります。
・(26日)
上総屋との債務整理の交渉が続いていますが、本日の交渉で先が見え、色川三中も少しホッとしている様子が日記の記載からもうかがえます。数多の債務の交渉をするのは20代半ばの三中にとって、かなりのプレッシャーだったのでしょう。
・(27日)
天然痘の記事が出てきました。日記には「疱瘡」と書かれています。約200年前の天然痘の流行。人類は天然痘を封じこめることができたので、天然痘の記憶は忘れさられています。しかし、流行り病はいつの世にもあること。ここ数年のコロナの猖獗はそのことを人類に教えてくれています。
・(28日)
知り合いが天然痘となったと聞き、店の者に菓子を持たせて見舞いに行かせる。知り合いが病気になったら見舞いをするというのがデフォルトの世の中なんですね。
・(29日)
田地売却で債務整理のためのキャッシュを生み出します。売却の際には書付を買主に交付しますが、その書付の写しも日記には掲載されています。
・(30日)
前日に田を売却してキャッシュを確保でき、債務整理も方向性が見えてきたものもあるからでしょうか、3月も晦日を迎え(陰暦なので31日はありません)、少し感傷的になる三中でした。