南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

仮刑律的例 38 明治元年行政官布告の刑律問合

2024年07月29日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 38 明治元年行政官布告の刑律問合

【近江膳所藩からの伺】
明治2年正月、膳所藩からの伺い。
先年、刑律の御布告があったことに謹んで敬服いたします。つきましては、以下の点について伺い奉ります。
【伺い①】
・刑律の御布告では、「その他の重罪および焚刑は、梟首に代えること」とありましたが、すべての重罪に適用されるということでよろしいのでしょうか。
・故幕府の御委任当時に梟首と定められていた罪科の者については、どのように取り計らわれるべきでしょうか。この罪科にあたるものについては、吟味詰口書と共に伺書を提出すればよろしいでしょうか。
⇒いずれもそのとおりである。
(全ての重罪及び焚刑は梟首とすべきである。従前梟首とされていた刑について梟首とすべきときは、吟味詰口書と共に伺書を提出すべきである)

(コメント)
明治元年に発せられた行政官布告(明治元年十月晦日)についての質問です。
この布告は以下のような内容です。
ア 新しく刑律を制定するまで、公事方御定書により刑を定めること。但し、以下の点を修正する。
イ 磔刑は君父を弑する大逆に限る
ウ その他の重罪や焚刑は梟首とする
エ 追放や所払いは徒刑に変える
オ 流刑は蝦夷地に限られる
カ 百両以下の窃盗罪は死罪とはしない
キ 死刑については勅裁(天皇の裁可)を経ることが必要であるから、府藩県とも刑法官に伺いを出すべき。
伺い①では、ウ及びキについての確認です。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【伺い②】徒刑場等について
刑律の御布告では、「追放刑・所払は徒刑に換えよ」とのことです。徒刑場というのは、それぞれの場所によってもどのようなものが良いというのはあるかとは思いますが、どのような取扱い方がよろしいものでしょうか。また、罪人の目印等は相応のものでよろしいでしょうか。そのことにつき、届出しなくてもよろしいでしょうか。
・徒刑の取扱い方は、各藩等に任せる。
・罪人の目印についても自由である。もっとも、定めた場合は政府に届出されたい。

(コメント)
明治元年行政官布告(前項)の「追放や所払いは徒刑に変える」との点についての質問です。今の懲役刑にあたる徒刑は、明治になって導入されましたので、各藩からの問い合わせが相次いでいる事項です。明治政府行政官の返答は、「徒刑の取扱い方は、各藩等に任せる」というものであり、明治2年時点では、現場に丸投げでした。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【伺い③】窃盗罪について
・刑律の御布告では、「被害金額が100両以下の窃盗は死刑とはしない」とのことですが、そのような場合、徒刑とすべきでしょうか。
⇒そのとおりでよい。

・100両以下といっても罪状に軽重がありますが、徒罪の年数に反映させてもよいでしょうか。
⇒そのとおりでよい。

・物を盗んで他所で質入れしたり売り払ったしまい、盗品自体の現物を確認出来ない場合は、本人の申し立てどおりに金額を認定してよいでしょうか。
⇒そのとおりでよい。


(コメント)
明治元年行政官布告(前項)のうち「百両以下の窃盗罪は死罪とはしない」との点についての質問です。百両以下の窃盗罪は徒刑に処すること、罪状の軽重は徒罪の年数に反映すべきこと、盗品を確認できない場合には本人の申立てによって被害額を認定してよいと明治政府は返答しています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【伺い④】徒罪について
・徒罪人は労働をさせて、わずかばかりでも報奨金を与え、刑が満期を迎えたときは、本人の希望に応じて、住居や家業を与えて良いでしょうか。それとも、本人の生国に戻すべきでしょうか。
⇒刑が満期を迎えたときは、本人の希望に応じてよい。

・徒罪中に脱走した者は、どのような刑とすればよろしいでしょうか。
⇒一度目の脱走は当初の刑を倍にして役につかせよ。二度目は死罪とすべきである。

・徒罪は窃盗をした場合に限らないという扱いでよろしいでしょうか。
⇒徒罪は窃盗の場合には限らないものである

(コメント)
脱走した者の刑がかなり過酷です。
「逃走の初犯は刑を2倍にし、再犯は死罪」が、明治政府の方針。徒刑自体が制度として固まっておらず、逃走した者は厳罰に処すという方針自体は理解できるものの、量刑が異様に厳しいのには驚かざるを得ません(現代では逃走罪が成立して、その分の刑期が延びるだけです。死罪にはなりません)。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【伺い⑤】その他
・徒刑のほか、諸払いは全て廃止でよろしいでしょうか。
⇒全て廃止である。

・無宿の者が窃盗をするつもりで人家に忍び入ったが、窃盗は未遂に終わった場合はどのように取り扱いましょうか。
⇒新しい律を制定するまでは笞刑に処すほかは、これまでの例どおり取り扱えばよい。

・怪しげな者を取り押さえて、取調べたところ、他領で悪事をしたと自白し、盗賊に間違いないときは、その地の領主に引き渡してよろしいでしょうか。
但し、遠隔地の場合には、吟味詰の口書を添付して、京都府に本人を差し出すことでよろしいでしょうか。
⇒場所がどこであっても、領主にさしだすようにすべきである。

・新しい刑律を制定するまでは、従来の例によるとのことですが、旧幕府にご委任の刑律令書はどのような書類かお教えください。
⇒御定書百か条によるべきである。

(コメント)
江戸時代は、それぞれの藩に裁判権限があり、複数の藩にまたがるような事件は、江戸で裁くことになっていました。そのため、他領地のでの事件は領主に送るべきか、京都府(当時の明治政府の本拠地)で裁くのかという疑問が生じたのでしょう。明治政府は、事件の起こった場所の領主に送るべきであると指示しています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松彦七郎及びその家族

2024年07月27日 | 大原幽学の刑事裁判
高松彦七郎及びその家族

(高松様とは)
五郎兵衛日記(大原幽学の江戸裁判の様子を記録した弟子五郎兵衛の日記)には、「高松様」が頻繁にでてきます。例えば、嘉永6年(1853年)6月11日条。
「湊川の借家へ行く。夕方、高松様来られる。『この度の異国船騒動で内海(東京湾)にある陣所の見分を命じられました。夕方に深川に集合し、船で行きます。御小人目付200人の中からこのお役目に選ばれたのは4名。名誉なことです。』」
異国船騒動というのは、ペリー来航のことです。この非常時に陣所の見分を命じられた高松様というのは何者でしょうか。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(高松彦七郎は幕府の役人)
「高松様」は高松彦七郎という小人目付です。
参考文献には以下のように紹介されています。

▼高松彦七郎茂雅 1787~1865。小人目付、俸禄15俵 一人扶持、屋敷は江戸小石川同心町。
1856(安政3)年、御小人頭に昇任して80俵。

御小人頭に昇任していますから、かなり優秀であり、評価された人物であることがわかります。先ほど紹介した五郎兵衛日記でも、多数の小人目付の中から4名の枠の中に選ばれており、その活躍ぶりが分かります。なお、高松彦七郎は、嘉永6年(1853年)時点で満年齢では66歳で、高齢となっても充実した働きぶりでした。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(高松様の家)
高松様の屋敷は「江戸小石川同心町」にありました。現在の文京区春日二丁目、小日向四丁目付近です。
大原幽学らが拠点としていた神田松枝町までは
約4km、歩けば1時間かかりますから、あまり近いとはいえません。

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 2丁目

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 2丁目


大原幽学や弟子たちは頻繁に高松家を訪れていますし、高松彦七郎らも神田松枝町の借家を来訪しています。
彦七郎は小人目付として出仕しますが、その帰り道に神田松枝町まで寄ることもあります。

嘉永6年6月13日(1853年)
昼過ぎ、高松様が湊川の借家に来られる。
四日四晩徹夜で、御城からのお帰りとのこと。高松様「こ度の御役目、首尾よく終わりました。異国船は本日正午に出帆し、立ち去りました」

この記事からはペリー来航への対応で、高松彦七郎は小人目付としての仕事で四日四晩徹夜し、まっすぐに小石川の屋敷には帰宅せず、大原幽学らのいる借家に足を運んだことがわかります。ペリーは既に出航し、江戸に戦争の危険がないことを真っ先に知らせたかったのでしょうか。高松彦七郎が大原幽学らを大切にしているかがこのことからも分かります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(高松彦七郎の両親)
高松彦七郎の両親もこの当時は健在です。

嘉永6年6月12日(1853年)の五郎兵衛日記の記事
昨日、幽学先生は高松様がご出立なされてから、小石川(高松氏の自宅)にお祝いに行かれ、小生も同道。高松様のご両親は異国船来航に意気盛ん。
親父様「年はとりましたが、合図の鐘があればお城へ駆けつけ、命を差し出し一働きする存念です。後世に恥をさらすようなら御恩に報いたい。」
奥様「合戦になれば、私も長刀で参戦致します」
高松彦七郎は満年齢では66歳となるので、両親は80代以上ですから、この血気盛んさはスゴいですね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(高松家と大原幽学の接点)
幕府の役人である高松彦七郎がなにゆえ大原幽学らと接点をもったのでしょうか。
参考文献は、次のように説明しています。

「彦七郎の父悦次郎は元長部村百姓の生まれで、江戸にでて苦労の末、金を貯め御家人株を買って下級幕臣になったとされる。悦次郎没後、息子の彦七郎が 御小人目付高松家を継ぐことになった。幕臣株の売買は珍しいことではなく、 江戸には公然と市場まであった。融通無碍の江戸社会は、形式さえ整えば何でもありであった。
れっきとした幕臣の高松彦七郎は何ゆえに窮地の浪人幽学を救ったのか。幽 学が潰れ百姓となっていた長部村の生家遠藤茂兵衛家を再興したことを、彦七 郎はたいそう恩義に思っていたといわれ、また幽学の性学に共鳴し二人には強い絆があったといわれる(松沢和彦・木村礎「高松家と大原幽学」『ひかたの歴史と民 俗』四号)。」

前項の五郎兵衛日記の記事によれば、嘉永6年6月の時点では、高松彦七郎の父親は存命です。
「年はとりましたが、合図の鐘があればお城へ駆けつけ、命を差し出し一働きする存念です。」との発言からは、幕府の役人であったことが窺われます。
そうしますと、参考文献の記載のうち「悦次郎没後、息子の彦七郎が 御小人目付高松家を継ぐことになった」というのは不正確です。「悦次郎没後」ではなく、「悦次郎隠居後」が正確なのではではないでしょうか。
いずれにせよ、幕臣がもとは千葉の一農村の百姓身分であり、幕臣株を購入して江戸でその子孫が役人として出世していくものの、一方で生まれ故郷のことは忘れずにいるということにはなります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(高松彦七郎の子)
高松彦七郎には2人の男子がいたことがわかっています。長男は彦三郎茂省。次男は力蔵です。
参考文献には以下のように紹介されています。
▼嗣子彦三郎茂省(1818~63)も小人目付、小日向服部坂上。1861(文久元)年には遣欧使節に随行、その後福沢諭吉とも交友があった。
次男力蔵も幕府に出仕。

彦三郎も力蔵も五郎兵衛日記に出てきます。特に、次男力蔵は大原幽学を頻繁に訪れています。

嘉永6年4月2日(1853年)
早朝、湊川の借家へ。力蔵様がおいでになっており、大先生(大原幽学)の教えを書面で奉行所に提出したほうがよいのではないかと大先生と協議されていた。

この記事の「力蔵様」が高松力蔵です。大原幽学は刑事裁判の被告人になっているので、どうやったら有利になるのかを打合せしています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

参考文献
高橋 敏『大原幽学と飯岡助五郎』



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五郎兵衛、武家奉公人になる・嘉永7年7月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年07月25日 | 大原幽学の刑事裁判
五郎兵衛、武家奉公人になる・嘉永7年7月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
小生、明日から旗本の藪様の御屋敷で働くこととなった(幸左衛門殿の奉公先)。金江津(かなえつ)村に住んでいる「忠三郎」と名乗る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所からは帰村許可が出ましたが、今回五郎兵衛は村には帰らず、幸左衛門が働いている藪様(旗本)のところで急遽働くことになりました。なんと出自と名を偽っています(五郎兵衛は長沼村(現成田市)の農民)。それでお武家様の奉公人になれちゃうんですね。

〈その他の記事〉
・幽学先生は、惣右衛門殿に褒美として向島方面を見物。これまで一切怠けず勤勉に勤めたため。
・伊兵衛父は帰村のため、地頭所に届けを提出した。
・昼過ぎに神谷様が来られた。奉行所からは帰村が許可されたことを申し上げたところ、「さても難渋しておられますな。お察し致します」等とお話しなられて、夕方にはお帰りになられた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・今日から御屋敷で仕事。
・早朝、板縁廊下、御玄関、広間、取継御役所を掃除。
・昼に、御殿様は明13日朝から青山の長谷寺に御仏参するとの御触れあり。御厩から、明日日の出の1時間前には起こしてくれと頼まれる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛(日記の筆者)が藪様(旗本)のところで本日から働くことになりました。そのためこの日記は、武家屋敷奉公記の様相を呈し、幽学先生の動静は少なくなります。これはこれで面白いので、しばらく五郎兵衛の奉公の様子をお楽しみ下さい。
・今日の記事に出てくる「青山の長谷寺」(ちょうこくじ)は、東京都港区西麻布二丁目にある曹洞宗の永平寺東京別院です。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・夜番を勤め、日の出2時間前に大部屋を起こし、1時間前に御厩等を起こす。早朝、平作殿(本番)と二人で掃除。夕方、御道具の片付け等。仲番の体調が悪いため、本日も夜番を勤める。11回巡回。
・本日、御殿様は12人の供を従えて青山の長谷寺へ御仏参。夕方に御戻り。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
御殿様が青山の長谷寺へ御仏参。五郎兵衛は、日の出前から皆を起こして行きます。
朝には掃除。この後休んだようですが、夕方からは道具の片付けをし、また本日も夜番を勤めています。よく働きます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・朝食後、すぐに松枝町の借家行く。小刀と鋏を買って堀留へ行き、藺を買って、筵を作る。
・伊兵衛父から、「幽学先生が会計の帳面がなんだかさっぱりわからないから、書き直すように」と言われ、書き直す。
・夕方、先生が借家にお戻りになったので、ご挨拶をして、暮れ方に番町の御屋敷まで戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は藪家での仕事は休みです。松枝町の借家に行き、所用をこなします。相変わらず五郎兵衛の会計帳面は要領を得ないようです。奉行所からは帰村許可が出ていますが、五郎兵衛だけでなく、幽学先生や伊兵衛父親も帰村せず、江戸暮らしを継続しています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝、掃除。五ツと四ツに時触れ。
昼は素麺を手伝い。九ツ時に大野様の書面を小出信濃守内五郎左衛門様にお届けする。その後網すかり。七ツ時に夜具上げ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
日記中の「小出信濃守」は丹波国園部藩9代藩主小出 英教(こいで ふさのり)のこと。天保14年に家督を継ぎ、。同年12月、従五位下・加賀守。後に信濃守。
安政2年に27歳で死去。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除。御膳をいただく。御役所、御次の間や、御玄関、御床下げ。五味様のところへ四回、御作事の方へは二回行った。それから夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
12日から働き始めたので、今日で5日目。かなり張り切って働いていることが、記事からも窺えます。今日もまた夜番を勤めます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。松枝町の借家に行くが、幽学先生は留守。伊兵衛父から、先生は小生や幸左衛門と会わないように避けている、小生らが態度を変える必要があると聞かされた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は休み(非番)。幽学先生の住んでいる松枝町の借家に行きますが、幽学先生は留守。伊兵衛父の話しでは、あえて五郎兵衛と顔を合わせないようにしているようです。

〈詳訳〉
非番。少し網すかり。昼過ぎに松枝町の借家に行く。幽学先生は留守だった。伊兵衛父からこんな話しがあった。
「先生は皆から逃げてしまっているので、話しはできない。何かいえば五郎兵衛には恨まれるし、幸左衛門殿は顔を膨らます、節五郎はハァというばかり。話をしても仕方ないから諦めてしまったよと仰っていたぞ」
小生は伊兵衛父に、「幽学先生がそのような態度だと私どもは困ってしまうのです」というと、伊兵衛父は、「そういう態度が幽学先生を恨むことに繋がるのだ、よく考えてみろ、幽学先生にご苦労を掛けてしまい、先生のお話しを逆恨みする。今後はこのようなことがないように日々顧みて心を改めなければならない。お前の顔は人が嫌がる顔だ。そんな顔つきでは側にいるのも嫌になっても仕方がない。修行して直せ。病気なのも顔つきも毎日鏡を見て、修行してなおすがよい。食事も2合半までは良いだろう。塩物が一日2回というのは多すぎだ。一日1回にして、漬物を少々にしないと養生にならない。幸左衛門や節五郎ともよく話しをしておけ。晦日にみんなで集まったときでも、楽しめるようになっていないとな」と心配して親切に話していただいた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。掃除、夕方に御床あげ。
節五郎殿が小生の職場(薮様御屋敷)に来た。幸左衛門も交えて話し合い。今後はお互いに腹を割って話し合い、問題点を改善していくことを決めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日、幽学先生に避けられていることが分かった為、幸左衛門、節五郎が集まり、3人で対策を打合せ。過去のことは気にしても仕方がないので、これから問題がおこったら、その時々で指摘しあって反省するという方向性を確認しました。

〈詳訳〉
本日は添番。掃除、夕方には御床あげ。
夕方、節五郎殿が小生の職場(薮様御屋敷)に来た。幸左衛門も交えて話し合い。「これまでの心得違いを心配して、どうしようこうしようということを話しても無駄なこと。これからは、腹蔵なく指摘しあって、少しでも問題のあることは改めることにしよう」



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。掃除三ヶ所。床下げ。
九つ時、牧野筑後守の家から御使者がお出でになり、煙草盆や御茶を差し上げた。
松平伊予守から御回状。
本日も夜番。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日、本番及び夜番。よく働きます。文中に「牧野筑後守」とありますが、筑後守となった牧野氏はいません。牧野「備後守」であれば、嘉永7年(1854年)4月26日、江戸城桜田門番に任じられた牧野貞長を指すことになります。

〈その他の記事〉
七つ時、幸左衛門殿が松枝町の借家に行かれたが、幽学先生は外出しておられてお会いできず。伊兵衛父と相談したとのこと。
〈その他の記事へのコメント〉
幸左衛門が幽学先生のところに行きましたが、先生は幸左衛門も意図的に避けています。顔を合わせては小言を言っていたので、この方がいざこざを避けられるとの判断でしょうか。伊兵衛父が仲介役となっています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。五味様のために薪割。
昼休みに幸左衛門殿とさかきゆすりをする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日休みですが、幽学先生のところに行きません。昨日、幸左衛門が行っても避けられたので、自分が行っても同じことと思ったのでしょうか。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疫病流行る・文政12年7月中旬・色川三中「家事志」

2024年07月22日 | 色川三中
疫病流行る・文政12年7月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』の一部を現代語訳(大意)したものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月11日(1829年)
〈盆棚についてのお触れ〉
・盆棚は手近なところに作り、一灯提灯や灯籠を灯すことも、軒近いところではいけない
・ 子供たちには、小提灯などを持って灯すことは、絶対にさせない
町役人は昼夜、灰屋番は絶えず巡回し、火の元に注意する
#色川三中 #家事志
(コメント)
・盆棚(仏壇のお盆飾り)についてのお触れ。火事を心配しての諸注意が興味深い。軒近いところにするな、子どもたちに小提灯などを持って灯させるな、灰屋番は常時巡回、町役人も昼夜巡回等、徹底しています。やはりこの時代火事は怖い。
・「灰屋番」というのは、このお触れを見ると火元に注意する役のようですね。町役人が昼夜巡回なのに、灰屋番は常時巡回になっていますので。

【詳訳】
〈盆棚についてのお触れ〉
・例年のとおり、盆棚は手近なところに作ること。
・一灯提灯や灯籠を灯すことも、軒に近いところにしてはいけない。特に風が強いときは、早めに消すこと。
・香の火や灯明等についても注意が必要である。
・ 子供たちには、小提灯などを持って灯すことは、絶対にさせないようにすること。
右の通り周知徹底せよ。
町役人は昼夜、灰屋番は絶えず巡回し、火の元に注意すること。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月12日(1829年)晴
夕方、谷田部の佐助の町内の者が来た。「佐助の病状が悪化し、今晩にも命が尽きるかもしれない」とのこと。佐助の請人である新右衛門宅に佐助の証文を返した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部の佐助は、谷田部の実家で病となり、状態はよくなかったのですが(7月6日条〜)、ついに危篤状態に。三中は、佐助が亡くなることを想定して、証文を返してしまっていますが、いくらなんでも早すぎでは…。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月13日(1829年)晴
七兵衛(従業員)が昼過ぎに茂木から馬で帰ってきた。瘧(マラリア)にかかったという。
佐助が死んだとの報は入らず。与兵衛も瘧にかかっている。利助は治った。従業員4人が病気で困った。今年は瘧がかなり多く、霍乱も多い。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この時期、瘧(マラリア)や霍乱(コレラ等)が流行っています。従業員の七兵衛もマラリアに罹患。茂木は、現栃木県芳賀郡茂木町?でしょうか。従業員が次々に疫病にかかり、事業にも支障が出てきています。

〈その他の記事〉
・先日の江戸の大火の後、数日経った焼死者の遺体でも、親族が近づくと血が出て、焼け焦げた古い遺体でも湿り始めたという。これは事実であり、嘘ではないとのこと。
・先日、川口で水死者が2、3人でた。そのため、神龍寺和尚が川を施餓鬼した。多忙のため、詳細は省略する。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月14日(1829年)晴
昼過ぎに御奉行所の巡回あり。いつものように杖を持って角まで行く。御礼はなし。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日の記事はちょっとよく分かりません。御奉行所が町の状況を見るために巡回、それに町役人が同行することまでは分かるのですが、「杖を持って角まで行く」はよくわかりません。
杖が町役人の必須アイテムであることは、以前の記事(2月12日条)で出てきたのですが、それにどのようや意味がこめられているのでしょうか…。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月15日(1829年)曇
昼前に谷田部の徳左衛門(佐助の親)が来て、佐助は11日以降体調がやや良くなり、強い発作は起こっていないとのこと。徳左衛門は、わざわざその事だけ言いに来てくれた。酒を出して一緒に飲んだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部の佐助は病にかかって重篤な状態となり、12日にも命が尽きるかも…といわれておりましたが(7月12日条)、その後小康を保っています。そのことだけをいいに、佐助の父親が三中の元を訪れました(谷田部-土浦を往復するのは一日仕事です)。


〈その他の記事〉
・明後日(17日)に弟の金次郎を連れて鹿嶋へ売掛金の回収に行くことに決めたので、用意を始めた。
・昼に、菅間村の利助が来る。概ね体調回復したとのこと。何ということだろう。難治の病にかかった人が、今ここにいて、そのときには元気だった佐助の命は旦夕に迫っているのだから。
・祇園の夜、中町で騒ぎを起こした武士が、先日追放となった。中町町内にも科料が申し付けられた。今回、中町・東崎両町の町役人に町御奉行所様から、「このたび御上様(将軍)から御役義を仰せ付けられたのであるから、藩には綱紀を改めるようにと言ってある。町方も特に心がけて、御家中へ対して無礼がないよう、且つ風儀を悪くしないよう心懸けるように。また、このことは町役人から町民へも徹底せよ」との仰せがあった。
〈その他の記事のコメント〉
・土浦の祇園祭りは、先月(旧暦6月13日〜15日)に行われました。騒ぎを起こした武士がいたようで、追放刑となってしまいました。中町町内も科料となったのは、騒ぎとなってしまったことの責任を取らされているのでしょう。
土浦藩主土屋彦直(よしなお)はこのとき寺社奉行でしたので(文政11年11月1日条)、藩内の綱紀粛正に務めています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月16日(1829年)晴或いは曇
・朝、大町の五頭玄仲老に谷田部佐助の様子を見に行ってもらうよう頼んだ(明日からは行商の為)。
・町組小頭の御用を勤めた後、名主の入江とのころに行き、明日の為に暇乞い。
#色川三中 #家事志
(コメント)
明日から三中は、弟と一緒に行商に出かけます。行商は1月(正月)と7月(お盆)に行っています。町役人に就任してからの行商は初めてです。この間は町役人の仕事ができませんので、名主に行商に行く挨拶(暇乞い)をしています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月17日(1829年) 晴
〈行商出立〉
・残暑甚だし。弟の金次郎を連れて東方の得意先に行商に出発。嘉兵衛と利助は得意先の掛取り(売掛金回収)。利八は山口村の日向医師に掛取り。本日、安食の松金屋で泊り。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・恒例の行商が始まりました。毎年行商は1月と7月。昨年の行商出立日も7月17日で、今回と同じ日です。初日の安食村(かすみがうら市安食)もルーティン。「松金屋」の名は初出かも。
土浦⇒安食

土浦市 to 安食の道祖神

土浦市 to 安食の道祖神


・安食村の出身者に水戸天狗党の三総裁の一人、竹内百太郎がいます。
竹内家はしょうゆ、酒の醸造、薬(神應丸)の販売を手がけていました。
百太郎は1831(天保2)年に同村で生まれ、青年期には水戸藩の藩校・弘道館で学ぶ。江戸で商売をする傍ら、北辰一刀流の千葉周作道場や西洋砲術家の佐久間象山にも師事。その後、天狗党に入り、党の筑波山挙兵に参加。藤田小四郎らとともに三総裁のひとりとなる。その後、天狗党は粛清され、百太郎も元治2年2月4日敦賀で処刑された。35歳。

〈その他の記事〉
・手野村(現土浦市手野町)の入口で老女に出会い、家に便りを頼んだ。
・有川のところで、六物新志、本草纂疏、遠西名物考の三冊につき話して時間を過ごす。東方では雷雨。
・残暑甚だしく、行き交う人々の臭いがとても不快である。遊女が多くの人と交わるのは、なんと辛いことだろうか、一般的に、人は初めて見る人には心を許せないものだ。女性は固く心を閉ざし、変化を嫌う性であるが、習慣によって変化していくものなので、何とも思わなくなるのであろうか。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月18日(1829年)巽(南東)の風、時折り雨。
〈行商中〉
(安食を出て)夕方に高浜に到着。大雨と暴風の恐ろしい状況で、この日は暮れた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商2日目。一泊目安食(現かすみがうら市安食)⇒二泊目高浜(現石岡市高浜)。このルートも昨年と同じです。今日の天気は、大雨と暴風であり、行商も大変だったことでしょう。
安食⇒高浜

安食の道祖神 to 高浜

安食の道祖神 to 高浜



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月19日(1829年)晴
〈行商中〉
(高浜を出立し)玉造泊
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商3日目。高浜(現石岡市高浜)から玉造
へ(現かすみがうら市玉造)。これも昨年7月行商と同じです。
高浜⇒玉造

高浜 to 行方市役所玉造庁舎

高浜 to 行方市役所玉造庁舎



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月20日(1829年)晴
〈行商中〉
(玉造に)滞留、銚子屋では馳走を出してくれた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商4日目。玉造宿(現かすみがうら市玉造)に連泊(玉造連泊は昨年7月行商に同じ)。玉造周辺にお客さん(医師)が多く、連泊しないと回りきれないのでしょう。玉造の宿は銚子屋。2年前は「酒肴でる」との表現でしたが、今回の「馳走」と同趣旨でしょうか。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仮刑律的例 37 秋月藩士の庄屋殺害⇒切腹

2024年07月18日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 37 秋月藩士の庄屋殺害⇒切腹

〈事案の概要〉
秋月藩士・田代勝兵衛が、大酒の勢いで親戚でもある庄屋を殺害しました。秋月藩は、同人の刑として切腹とし、明治政府もこれを認めた事例です。
秋月藩士の田代は手元不如意で 、庄屋(宗右衛門)や地元の医師から借金をしていました。
返済が滞ったことから、医師は宗右衛門から田代に督促してくれるよう依頼し、宗右衛門は黒田藩の関所に督促に訪れました。
田代はその際不在でしたが、後でこれを聞いて激怒。翌日、酒に酔った状態で宗右衛門を殺害したというものです。
秋月藩は切腹が相当と考え、明治政府も異論なく認めています。
借金まみれとなり、返済に窮して、殺人に及ぶという何とも救いようのない事件です。庄屋は自己の職責を果たしただけですので、加害者がこれに憤るのは逆ギレ以外のなにものでもありません。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【筑前秋月藩からの伺】明治二年二月十五日
明治2年2月、筑前秋月藩からの伺い。
【伺い】
当藩の田代勝兵衛という者は、昨夏筑後国堺の関所で勤務していたときに大酒を飲み、久留米領御井郡下川村先の庄屋宗右衛門という者を殺害しました。
勝兵衛と宗右衛門は親戚関係にあり、普段から親しくしておりました。勝兵衛は手元不如意となり、近村の医師から借金をしていました。借金の返済が遅れたため、医師は庄屋の宗右衛門に督促を依頼しました。
宗右衛門は督促の為、黒田藩の関所を訪ねましたが、勝兵衛は他所で出仕しており不在でしたので、宗右衛門は勝兵衛の借金の件を関所に伝えて帰りました。
勝兵衛は藩邸に帰って来て、宗右衛門が来たことを聞き非常に不愉快となりました。勝兵衛は以前から宗右衛門に金を借りておりましたが
、返済が滞っておりました。宗右衛門からはそのうち督促がなくなっていたのです。今回、医師からの借金の督促とはいえ、宗右衛門が来たので、おかしいではないかと思ったとのことです。
勝兵衛は翌日、宗右衛門への怒りを抑えることができず、酩酊状態で下川村に赴き、宗右衛門を殺害しました。
勝兵衛は本来であれば、役職を守り、他領に行くことは許されません。さらに、以前にも法を犯したことがあり、今回のような事件が起きたため、重々不埒であると考え、割腹を申し付けるべきと評決しました。このことはすでに久留米藩にも連絡しました。しかし、昨年11月から死刑の裁決については、お伺いをし裁決を仰ぐ必要があるとのことですので、本件処分につきお許しいただくようお願い致します。

【返答】伺いのとおりでよい。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弟子とうまくいかない大原幽学 嘉永7年7月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年07月15日 | 大原幽学の刑事裁判
弟子とうまくいかない大原幽学 嘉永7年7月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は邑楽屋(公事宿)手代の米八方に病気見舞いに行かれた(白玉を持参)。昼からは散歩に出かけ、夕方にお戻りになった。
・小生は万屋に袴代を持っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生が邑楽屋(公事宿)の手代に病気見舞いを自らしています。雑事は概ね五郎兵衛らにまかせているので、珍しいことです。
幽学先生も五郎兵衛が知らないところでは色々と気をつかっているのかもしれません。

〈その他の記事〉
・朝早くから幽学先生に叱られた。
「何で良佑の帰村のことを手前どもが相談するのか。良祐に恥をかかせたいのか。何かの宿意があるのか。良佑が帰村するのは初めから決めてあることなのだ。そんなことをしているのならば、 今後予めは何事も手前どもに関わらないからな。」
・良祐は朝早くから、外川屋へ土産をもって挨拶に行った。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、幸左衛門殿が小頭の役につくと知り、「難しい役だし、慢心する役だ。危うし、危うし」と仰っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幸左衛門は諸徳寺村(現千葉県旭市)の者。同村の地頭、藪家(旗本)の門番を務め(2月5日条)、この度小頭の役に就くこととなりました。世間的には出世ですが、幸左衛門は幽学先生に反発しており、師弟の間には溝ができています。

〈その他の記事〉
・幽学先生と良祐殿は脇差を調べて、国元へ送る相談をしていた。
・晩に惣右衛門殿が来て、借家に泊まり。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生に会計の帳面を確認してもらおうしたら、「そんなものは見る必要がない」と言われた。先生のご機嫌を損ねてしまった。誠に不首尾であった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日の記事では幸左衛門との間での問題が表れていました(7月2日条)。今日は五郎兵衛とです。確かに五郎兵衛の会計帳面の付け方は、あまりうまくないようですが、五郎兵衛なりに努力したのだから、少しは褒めて上げましょうといいたいです。

〈その他の記事〉
・朝方、惣右衛門殿は職場に戻った。
・長左衛門殿と大家が借家に来て、碁打ち。
・昼過ぎに武左衛門殿が来てすぐ帰った。昨日、公事が一件済み、帰村するように仰せ付けられたとのこと。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
体調が悪くなり、高橋医師(脚気治療医)のところに薬をもらいに行った。借家に戻ったら、伊兵衛父から「五郎兵衛よ。気持ちをうまく切り替えて幽学先生に応対してくれ。先生は大変困っておられるぞ」との話しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は幽学先生との間に溝ができており、そのことも影響してか体調も崩してしまいました。伊兵衛父も心配しており、幽学先生との溝は師弟一同に波紋を起こしています。

〈その他の記事〉
・小生は、昨日昼から再び水気が起こり、脚気治療の高橋医者へ薬をもらいに行き、昼ころに帰宅した。
・武左衛門殿が昨日公事が済み、帰村する。御役所へ御届け及び御礼の打合せのために借家に来た。夕方には帰られた。
・伊兵衛父が赤坂へ行き、昼ころに帰宅した。
その後、小生に「五郎兵衛がうまく気持ちを切り替えて対応しないといけないぞ。幽学先生は大変困っておられる。」との話しがあった。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生から、「五郎兵衛にはこれからは怒らない。体調が悪いならば村に帰っても良いぞ」といわれた。その後に「これまでにない不実な生活だ。よく考えてみろ」とも。
幸左衛門殿もダメ出しされたとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、五郎兵衛及び幸左衛門にダメ出し。「これからは怒らない」というのは口をきいてくれないということでしょう。幽学先生の二人への対応は転機を迎えました。

〈詳訳〉
・朝食後、幽学先生から、「五郎兵衛よ、これまで長々と付き合わせてきて、言いたいことを言わせてもらったが、これ以上怒っても仕方がないから、今後は怒らない。脚気が良くならないから、村に戻って療養したほうがよいだろう。」との話しがあったが、「お前も節五郎も、これまでにない不実な生活をしてきているぞ。よく考えてみろ。」とも言われた。
・夕方、幸左衛門殿が借家に来られた。
幽学先生は、「幸左衛門に何を言っても仕方がない。これ以上は諦めた。予は何事も一切構わないから、これからは勝手にするが良い」と話しをされたとのこと。
・惣右衛門殿は明後日7日過ぎに帰村されるとのこと。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生「手前らの考え方は筋が通らないことばかりだ。予が置かれている苦境を考えてみよ。自分はどうなってもよい。手前たちが、道を志す良き人になってくれれば。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日は五郎兵衛と幸左衛門にダメ出しをした幽学先生ですが、本日も気持ちが収まらないのか厳しい言葉を五郎兵衛に対して投げかけています。「予が置かれている苦境」や「自分はどうなってもよい」という言葉からは、裁判の結果が厳しいことを覚悟し、今後の弟子のことを慮る幽学先生の考えを見て取ることができます。

〈その他の記事&詳訳〉
・幽学先生から次のようなお話し。「長沼組の性学には筋が通らないことばかりだ。予が置かれている苦境を考えてみれば、手前たちは何でもできるはずたが。長部村の良左衛門のことを考えてみろ。良左衛門はどんな事でも本質を見抜いているぞ。自分はどうなってもよい。手前たちが、道を志す良き人になってくれれば良い。」
・幸左衛門殿は昨日泊まられて、朝方に職場に戻られた。
・昼から良祐殿が小石川へ石牌料の金を持参された。
・昼過ぎ、野田村の安蔵弟が来た。幽学先生から「茶うけが瓜漬だけとは何事だ!」と客人が帰られてから、大いに叱られた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
夕方、蓮屋(公事宿)から明日(8日)奉行所に出頭せよとの呼出状が届いた。外で仕事をしている者に人をやって、このことを知らせた。小生は蓮屋へ行き、明日の差添えをお願いした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所からの呼出しが届きました(実際には公事宿から届きます)。これまでひたすら待たされるばかりでしたが、審理は進むのでしょうか。

〈その他の記事〉
・兵右衛門殿、太次兵衛殿が逗留された。
・朝食後に、自分の病(脚気)でご迷惑をおかけしますと幽学先生に申し上げたところ、「養生が叶わないのだから、いたしかたない」といわれた。また、その他種々小生の不誠実な点についてもお話になられた。
・小生は幽学先生に叱られことで、先生不在の間に、伊兵衛父に相談した。伊兵衛父からは、「どうにももっとな事だ。物事正直でなくてはならない。以後は自分勝手なことは少しもしないことと決め、心を変えるほかない。」との話しがあった。
・太次兵衛殿から借家の二階で内々に話したいといわれた。「五郎兵衛は病気とのことだが、死ぬ気でことにあたると決心して欲しい。我々も同じように急度改心し、幽学先生との約束(議定)を守り通す。国元の改革は五郎兵衛の覚悟一つである。ぜひ頼みます。」との話しであった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
全員で奉行所に出頭。
昼過ぎに訴所への御呼出しあり。
「帰村を認める。閏七月晦日までに江戸に戻るように」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨夕奉行所から呼び出しがあったので、全員で奉行所にさ出頭しましたが、「閏7月晦日(来月末)までの帰村を認める」というもの。審理が進むことはありませんでした。
なお、嘉永7年は閏月があり、来月がうるうる7月です。


〈その他の記事〉
・万徳(公事宿)へ行き、帰村の為の役所に御返翰をいただきたい旨の相談をしたが、今日はもう刻限がも遅いので、明日にしましょうとのこととなった。
・借家に戻ると、井上先生がおいでになっていたので、私の病気の事を話した。「しびれがないのならば、脚気ではないぞ。」とのこと。脚気衝心ではなければ、小生も仕事をしようと思い、幸左衛門殿の下仲番の仕事につく相談をした。
なか夜に太次兵衛殿、兵右衛門殿二階で話す。「今の状況で帰村しても国元は困ってしまうぞ。この度は死を覚悟して勤めてもらいたい。代わりに我らが帰村して、改革を行う。犬死にだけは決してさせない。ぜひ決心してもらいたい。」との話し。小生、死すると覚悟を決め、幽学先生の御心配にならぬように改心することを誓った。
(その他の記事へのコメント)
・五郎兵衛は自分の病気を脚気と思っていましたが、井上先生(多分医者)から、脚気ではないといわれました。
・しかし、道友からは、帰村してくれるな、死を覚悟して江戸で勤めよと言われてしまい、真面目な五郎兵衛は、死んでもやるぞと覚悟を決めてしまいます。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・良祐殿は帰村の手続き。外川屋(公事宿)の案内で、清水様(御三卿の一)に届けを提出。昼に戻られる。
・節五郎殿は田安様(御三卿の一)に帰村届けを提出。
・小生は御上屋敷へ万屋(公事宿)下代の案内で、御返翰を頂いた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日、奉行所から、「閏7月晦日までの帰村を認める」旨の帰村許可な出た為、各々帰村の手続きを行っています。

〈その他の記事〉
夕食後、幽学先生に叱られた。「干潟(長部村等)は内証の相談等はしないぞ。長沼の方(五郎兵衛ら)は、どうして内証で相談しておるのだ。こういう風だから、何をやっても無駄なのだ。」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
奉行所から帰村を仰せ付けられたことを、地頭所に届け出た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所から来月(閏7月)末までの帰村許可が出たので、それまでは江戸で待機しなくてもよくなりました。五郎兵衛は、この間も江戸にいるつもりなのですが、地頭所には奉行所での帰村許可を届出ています。


〈その他の記事〉
・伊兵衛父は番町の藪様の仲番の勤務をされた。
・惣右衛門殿に国元から飛脚が来た。惣右衛門殿は奉公先に暇を願うとのこと。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疫病流行る 文政12年7月上旬・色川三中「家事志」

2024年07月11日 | 色川三中
疫病流行る 文政12年7月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月朔(1日)(1829年)曇
・間原七兵衛と相談し、川口(現土浦市川口)に行き、府中(現石岡市)に人を遣わす。
・寺島嘉兵衛の嫁ひさが挨拶に来る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は町役人に就いており、ここ最近は町役人関係の記事が多かったのですが、今日の日記は三中の仕事関係、又はプライベート関係のようです。日記の特性上、前後の脈絡がよくわからず、コメントを書くのも苦労するタイプの記事です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月2日(1829年)曇り、少々暖
・貨幣改鋳(文政南鐐一朱銀)についての町触れあり。
・夜、ひものや一件について、入江(名主)から書状が届いたので、名主宅まで行き話しをした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「ひものや一件」
三中はひものやに家を貸していて、その関係のトラブル。ひものやは、借りた家に三尺の庇を勝手に作ってしまったのです。交渉がまとまって一度合意したのですが、再度紛争になり、名主が介入するような状況となってしまっています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月3日(1829年)晴れたが冷気
下男の喜兵衛を小川(現小美玉市)に行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日、晴れたのに冷気ありとの記事です。やはり気候がおかしい。旧暦7月、今なら8月なのに、昨日は「少々暖」、今日は「冷気」とかなりの冷夏です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月4日(1829年)
三中先生、本日休筆です(本日のみ、明日再開)。
#色川三中 #家事志

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月5日(1829年)晴 暑し
名主宅に百姓代色川庄右衛門殿を招き、経費分担の打合せ。駒市や公儀の役人が土浦に出向く等したため、出費が増えている。百姓代からは異論も出たが、先例どおり3分の1は馬宿の負担、3分の2は町方で負担し、各人に割り当てとすることに決定した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町の事業は現代なら自治体が収支を管理していますが、この時代はその都度経費を誰が負担するかを決めていたようで、町方での負担分をどのようにするかのすり合わせをしています。

〈詳訳〉
・水銭の計算に関して、入江(名主)宅に惣年寄兼百姓代の色川庄右衛門殿が来られた。
前年までは名主が村役人と打合せることはなかったが、小前の者たちが了承をしないことがあってはいけないので、先規を乱さないように、内々庄右衛門殿と打合せをすることとしたのである。
・この7月は、公儀の御役人が何度も土浦に出向いており、その分支払いが多くなっている。ざっと150貫ほど余計にかかっているようど。
・東崎町負担分等もあるから、この分が全て中城町負担分にはならないが、昨年暮れに比べれば900文程度上回るだけであるから、割付けは昨年暮れと同様で良いであろう。
・駒市の支出と役所の新たな支出の合計25〜26貫となっている。先例では3分の1は馬宿のものに割当て、3分の2は惣町に割当てることとなっている。今回は水銭が多いが、水銭の分も除外せずに割り当てることとする。
・百姓代の色川庄右衛門殿は、馬市の支出を町方が負担するのはおかしいのでないかという者もあり、その分については馬宿と半々に割り当てることが適切ではないかだろうかとの意見であった。
我々町役人側では先例に従って決定するべきと考え、先例どおりとすることに決まった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月6日(1829年)曇
谷田部佐助の兄が来た。佐助は病気で、非常に体調が悪く、谷田部で臥せっているとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部の佐助(色川家の従業員)が病気になってしまいました。お兄さんがわざわざ三中のところに来るほど体調が悪いようです。佐助は一人で営業もでき、有力な従業員です(文政11年9月6日条)
https://x.com/tk23956/status/1699152713370796514?t=W6dWhhkddjmcZcC1-ZsA3Q&s=19


〈その他の記事〉
・水銭の割り当てに関して、百姓代色川庄右衛門が出席。町役人は栗山殿が出席。鈴木殿、奥井殿は病気で出席できないとのこと。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月7日(1829年)晴 炎暑甚し
・早朝に谷田部の徳左衛門方へ行く。
佐助は病気で、非常に体調が悪いようであった。鰻とナマズを割いて酒飯を食べるように指示した。
・今川に立ち寄り、夕方まで遊ぶ。親戚の飯塚に寄ってから土浦に帰る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・昨日、従業員(谷田部の佐助)の体調が非常に悪いと聞いた三中は谷田部(現つくば市谷田部)まで出向いています。谷田部は土浦から往復で約30キロで日帰りができる距離です。ついでに、今川家や飯塚家にも寄っています。
・谷田部の今川家は谷田部台町村の名主の家。色川三中の父親は今川家の三男で、色川家の養子となっています。


〈その他の記事〉
・宅三郎と一緒に帰る。日の沢道を7〜8丁行ったところで、草むらの中に香りが漂っていることがあるという。7〜8年前からあるそうだ。香りは桂花のようである。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月8日(1829年)晴
・立秋、末伏。
・昼前に大地震。
・半兵衛が今日から水銭の集金を始めた。本日の集金額は17貫431文。私が金額を改めて、金額を記し、印鑑を押して集めた金を送った。
・谷田部佐助の家に越婢加朮附湯を送った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「昼前に大地震」とありますが、この日に歴史に残るような著名な大地震はなかったようです。前年(文政11年)11月には歴史的な大地震があり(三条地震)、その被害等も聞いているので(同年12月5日条)、地震に敏感になっているのかな。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月9日(1829年)曇
昼ころ谷田部佐助方から人が来た。佐助は昨日の昼過ぎに頭痛がひどくなり、体調が悪化し、日暮れ頃に一時的に気絶したとのこと。石膏の瞑眩ではないかと思い、昨日遣わした薬をよく煎じた上で、指先で少しずつ呑むようにと指示した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部佐助が一時的に意識昏迷となってしまいました。三中は「瞑眩(めんげん)」ではないかと考えています。瞑眩とは、長患いの後、服薬すると症状が一時的に悪化する現象で、長期化していた病が改善する途中経過にみられ、その後回復すると言われているものです。

〈その他の記事〉
・熊野屋平兵衛は、金見御用(金銀貨幣の真贋の鑑定)を勤めあげたため、本日帯刀が認められることとなった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月10日(1829年)晴
谷田部佐助の見舞いに利八殿(叔父)に行ってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部佐助は、一時的に意識昏迷となり(7月9日条)、誰もが心配するほどの体調です。三中は店の者を谷田部佐助の見舞いに遣わしています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五郎兵衛、体調を崩す 嘉永7年6月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年07月08日 | 大原幽学の刑事裁判
五郎兵衛、体調を崩す 嘉永7年6月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝早く、伊兵衛父が私のために鏡を取り寄せてくれた。「幽学先生はじめ一同心配しているから、医者に見せて治療したが良いぞ」と言われた。幽学先生にもご相談。高橋医師のところへ脚気の薬を買いに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛も体調を崩しており、脚気ではないかも心配されています。伊兵衛父のアドバイスで、五郎兵衛も脚気治療で評判の高橋医師に薬を買いに行っています。

〈その他の記事〉
・幽学先生は早めに昼飯を食べてから出かけられ、夕方にお戻りになった。
・暮方には長左衛門殿が来て、晩には家主様が来て夜遅くまで碁を打たれた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生から次のお言葉あり。
「予が何かいうと、皆不機嫌になってしまう。予がこの借家を出た方が皆のためかもしれぬな。もうすぐ良左衛門が江戸に来るので、そのときに決めることとする」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、かなり弱気になっております。五郎兵衛が脚気となったことが、こたえたのでしょうか。「予が他所に行った方が皆のためかもしれぬな」と借家から別の場所に移りたいとの発言も飛び出しており、精神的にかなり追い詰められた感じとなっています。

〈詳訳〉
朝飯後、幽学先生からお話しがあった。「予が何かいうと、皆不機嫌になってしまう。何か反抗めいたことをいわれているようで誠に困る。」「五郎兵衛の脚気は養生・治療したが良い。帰村して治療しても良い。ここで暮らすとなると、病気なのに予のせいで国元へ帰さないといわれそうである。これも予の不徳のせいであるから仕方ない。予が他所に行った方が皆のためかもしれぬな。よく皆で相談しなさい。」
先生は、良左衛門殿が江戸に来るまでは我慢して待っているとも仰った。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は非常に困った様子。
「親父様(伊兵衛)は予の助けというが、自分勝手に網のことをやっており誠に困る。どこへいってもその人その人の好むところを勤めて、その人の心持ちを良くするのが人の情だ、それがなければ礼とはいえぬ」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は今日も弱気な発言。伊兵衛父(名主まで務めた人物)の言動まで何やら気に食わず、愚痴をこぼしています。長期間裁判を待たざるを得ないプレッシャーからでしょうか。


〈その他の記事〉
・石川様(旗本)の新部屋から白米を持ってきた。
・幸左衛門殿は昨日藪様の御門番から小頭となった。惣右衛門殿が早朝借家に来られ、贈物としては何が良いだろうかと相談をして、昼前に職場に戻られた。
・昼から平太郎殿が来られ、夕方帰られた。
・武左衛門殿が来られ、内済書附を持参して先生に御目に懸けられ、夕方帰られた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝に高橋医師で脚気の薬を買いに行った。
・幽学先生は「節五郎の病気がぶり返さないようにしないとな。まずは食事に気を付けることだ。養生が悪いようでは仕方がないから、よく気を付けよ、節五郎にもよくよく言っておくように」と仰られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛も節五郎も脚気にかかっており、なかなか良くなりません。この時代、脚気になる原因(ビタミンB不足)が分かっていないのですから、治療も功を奏しないでしょう。江戸で白米を食べること自体が原因なので、帰村して玄米を食べる生活になれば改善するのですが…。

〈その他の記事〉
・先生は朝早くクボ町へ行き、脇差1本を買って、昼ころお戻りになられた。
・昼から長左衛門殿が来られて浅草へ行かれた。
・井上先生が来られ、神道仏道の講釈をして、夕方帰られた。
・晩に長左衛門殿が来られて、夜遅く帰られた。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝、喜兵衛殿が暇乞いのために借家に来た。が、碁を打ちだすとに熱中し、今日は借家に止まると言いだした。昼からは堀之内へ参詣に行き、夕方に帰ってくるとまた碁打ち。晩には家主も来て、一緒に碁。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・喜兵衛殿は荒海村の人。裁判の当事者ではなく、村役人として差添(付添)で江戸に来ているのでしょう。暇乞いに来たのですから、今日江戸を出立する予定だったはずですが、碁を打っているうちに気が変わり、江戸を立つのは明日に延期してしまいました。
・喜兵衛が参詣にいった「堀之内」は、「堀之内のお祖師様」として知られる妙法寺(現杉並区堀ノ内)。思いついて参詣に行ったようですが、借家のある神田松枝町からは10キロ以上あります。

〈その他の記事〉
・幽学先生は昼から買い物にお出かけになり
、大小を買って、昼過ぎにお戻りになられた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・良祐殿は小石川の高松家に土用見舞に行き、昼過ぎに戻られた。
・伊兵衛父は新橋向の医学館に土産物をもっていった行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良佑殿や伊兵衛父は世話になったところに挨拶に行っています。「土用見舞」(≒暑中見舞)と記されています。この時期がちょうどシーズンなのでしょう。

〈その他の記事〉
・昼前に幽学先生は藤元屋にお出かけになられた。一度お戻りののち、昼からはまた外出され、夕方お戻りになった。
・宝田村の忠兵衛殿が文平からの手紙を持参された。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿に会いに、旗本の石川様の御屋敷までいく。田安家の御役所への暑中見舞につき節五郎殿と打合せ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
田安家は、荒海村(現成田市荒海)を領有しており、今回裁判の為に江戸長期滞在を強いられている村民に同情的です(嘉永6年12月10日条等)。荒海村の平右衛門がパイプ役でしたが、別件で幽学先生に叱られて江戸にはいません(2月4日条)。五郎兵衛と節五郎が田安家担当となっており、贈答品の打合せをしています。

〈その他の記事〉
・幽学先生は、昼からお出かけになられ、夕方ころお戻りになられた。
・長左衛門殿が昼頃来られ、夕方に「深川の方へ行く」とのことで帰られた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝、節五郎殿が田安家に暑中見舞いに行かれた。御代官様には泡盛一升、御立合二人にら上酒二升ずつ、御手代へは上酒一本ずつ、物手士へは200文を持参された。
・昼からは原様や村上様へも泡盛を持って行かれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日、田安家への暑中見舞いにつき節五郎と相談しており(6月27日条)、節五郎が田安見るとを訪れています。贈答品の費用は幽学一門の財布から出ているはずです。これも裁判対策費用のうちです。

〈その他の記事〉
・幽学先生は、昼からお出かけになられ、夕方ころお戻りになられた。
・晩に先生と良祐殿は薬研堀へ植木見物に行かれた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・良祐殿は鰹節を買いにいき、強い餅米を選んで餅屋に頼んで二升四合の餅を搗いてもらった 。
・伊兵衛父は両国の筒井筒で、こうせん、あられを買って来られた。
・小生は幽学先生と二人で掃除。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
月の末日は道友が集まり、皆で食卓を囲みます。良祐殿が鰹節を買いにいき、餅屋に頼んで餅を搗いてもらったのも、伊兵衛父が両国で、こうせん、あられを買って来てくれたのも、明日の準備でしょう。明日が楽しみです。

〈その他の記事〉
・良祐殿は石川様屋敷での仕事を辞めることになった。本日、石川様方の書読師匠のところへ暇乞いに行かれた。
・幽学先生は、昼からお出かけになられ、夕方ころお戻りになられた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年6月晦日(30日)(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝に節五郎殿と惣右衛門殿、昼には七右衛門殿、武左衛門殿が借家に来られる。餅を食べる。
・幸左衛門殿が昼過ぎに来てから、一同大食。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
月の末日は道友が集まり、皆で食卓を囲みます。幽学先生から叱られて、捨て台詞を吐いてしまった幸左衛門殿も顔を見せました。「一同大食」したといいますから、ストレス発散にもなったのでしょう。

〈その他の記事〉
・幸左衛門、節五郎、小生の三人で良祐殿の帰村の話しをしていたら、幽学先生は御立腹になって、「お前たちが良祐の帰村につきとやかくいうことではない」と叱られた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第五回講義

2024年07月06日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第五回講義

第五回講義(明治18年5月6日)
本日は前回に引き続いて、私訴を行うべき者について説明致しましょう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

私訴を起すことができるのはどのような者でしょうか。
一 被害者
二 被害者の相続人
相続人は先人の権利義務を継ぐ者ですので、起訴の権利もまた相続人に移転します。有形の財産だけでなく、無形財産も相続するからです。
権利は無形財産の一種ですから、先人が損害を受け、その者が私訴権を有していた場合には、相続人が先人の権利を継承して起訴することができるのです。ただし、相続人が起訴する際には、犯罪の時期によって多少の違いがあります。被害者の死亡時期の前後に分けて説明致しょう。
1. 被害者の死去前に係る犯罪
2. 被害者死去の原因となった犯罪
3. 被害者死去後に係る犯罪
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第一の場合:被害者の死去前に係る犯罪について説明しましょう。
被害者が生存中に他人の犯罪によって財産に損害を受けた場合、要償の権利(私訴権)を持つことは当然です。
被害者が死亡した場合、相続人はその財産を引き継ぐため、損害を受けた者は先人に代わって損害賠償請求をすることができるのです。
例えば、先人が生存中に他人に土地を横奪されたとします。横奪がなければ、相続人はその土地を引き継いでいたはずです。しかし、相続人は横奪されたことで土地を引き継げなくなったのですから、相続人に起訴権が与えられなければなりません。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
身体の安全や自由などに対して損害を受けた場合にも相続人は起訴権を有します。
なぜなら、訴権は無形財産の一種であり、先人が起訴せずに死亡した場合、その訴訟権は相続人に移転するからです。さらに、自由や安全が侵害されたことは、道義上の損害であり、間接的には財産にも損害を及ぼす性質を持っているので、相続人が起訴権を持つのは当然のことだと言えるでしょう。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
名誉毀損の場合
損害を受けたのが、財産でも身体の安全・自由でもなく、名誉であった場合、相続人に起訴権があるでしょうか。
これは前の二つの場合と大きく異なります。
前の二つの場合における損害は有形のものであり、目で見ることができるものでした。しかし、名誉毀損の場合は無形損害に属するものなので、目で見分けることができないのです。この点については少し詳しく説明する必要があります。
名誉毀損罪は被害者の告訴がなければ成立しません。そのため、被害者である先人が起訴せずに死亡した場合、相続人に訴権がないといわなければなりません。
もともと、名誉毀損罪を訴えるかどうかは被害者自身の選択に委ねられるべきものです。
よって、被害者が起訴せずに死亡した場合、被害者には起訴する意思がなかったと考えざるをえません。
被害者に起訴する意思があった場合には、自ら訴えるか、又は事故などで自らが訴えられない場合は、他人へ委託するか、又は生前に子孫へ起訴を遺言するといった方法で意思を示すことができたはずだからです。これらの方法を何もせずに死亡した場合は、被害者には起訴する意思がなかったと考えるのです。
先人に起訴する意思がなかったのに、相続人が勝手に起訴した場合、先人の意思に反する結果になります。
本人の意思に反する行為は、法律の趣旨にも反することになります。
先人が起訴せずに死亡した場合、相続人に訴権を持たせないのは以上の理由によります。
名誉の損害は、人の立場や感覚によって大きく異なるだけでなく、被害者の気持ちによっては訴えることでさらに名誉を損なうと考える場合もあります。
しかし、この訴権を他人に委ねた場合は、他人が訴訟を起こすことで、かえって被害者の心情に苦痛を増す可能性があります。
そのため、この訴権は検察官にも委託させていないのです。

先人が起訴せずに死亡した場合、相続人に起訴権がないのはおわかりいただけたかと思います。
一方、先人がすでに訴訟を起こして死亡した場合、相続人はその訴権を引き継ぐことができます。この場合には、先人の意思に反する心配はないからです。
このように、被害者である先人が起訴したかどうかによって、相続人の訴権の有無が変わってくるのです。これが名誉の損害と他の損害との違いです。
我が国のように新法が制定されて間もない国では、これらの区別は実際には必要ないかもしれません。しかし、条理上はこうであるべきして、実際にフランスではこのような判決例が存在しています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第二の場合:被害者の死因となった犯罪の場合には、相続人に私訴権があるのは当然です。
既に述べたように、親子や夫婦は直接の被害者として、相続人としての名義ではなく、相続人固有の名義で起訴することができます。しかし、このような犯罪に関する起訴は、多くは公益に関わるため、検察官に属すべきものです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第三の場合:被害者死亡後の犯罪の場合
第三のケースは、被害者が死亡した後の犯罪に関係するものです。
「人は一度死んでしまえば、もう二度と害を受けることはないのではないか」 と疑問を抱く人もいるでしょう。
しかし、死者に害を加える可能性がないわけではありません。具体的には死者の名誉が毀損される場合です。
そして、この場合には、死者も依然として人として扱われるべきです。そもそも、死者を人として扱うべきかどうかについては、古くから議論されてきました。
しかし、私は場合によっては死者も人として認めるべきだと考えています。実際に、我が国の法律もこの説を取っています。例えば、刑法第359条には「死者を誹毀した者は誣罔に出たるに非ざれば、前条の例に従って処断することを得ず」と規定されています。
この規定を見ると、死者を一個人として認め、これを保護する精神に基づいていることが分かります。法律の美徳と言ってよいでしょう。
刑法第264条や第265条のように、死者を人と同視して、保護する法条も存在します。このように、死者を人と見なす場合があることを知っておいていただきたいのです。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
死者の名誉を誹毀する犯罪について、4点に分けて説明致しましょう。
(第一) 直接に相続人自身の害となるべき場合
この場合においては、相続人として訴える必要はありません。直接、自分名義で起訴することができます。例えば、ここに一人の富豪がいて、その父親が死去した後、ある人がそれを誹謗して、「某は、かつて不正な行為によって富を得た者である。今は富豪と呼ばれ、人から尊敬されているけれども、その当初の不正な行為によって富を得た者だから、今日の富は不正な富である。何を以てこれを誉れとするに足るだろうか」と言ったとしますな。
この誹謗は死者に対する罪です。
しかし、この誹謗が世間に広まれば、相続人の信用が地に落ち、仕事や人間関係に大きな影響を及ぼすでしょう。このような損害は相続人にの直接の損害として、相続人本人の名義で起訴することができます。もし、事実の如何によって刑事裁判所に訴えることができない場合は、民事裁判所に損害賠償請求をすることができます。|


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第二)相続人の損害とならない場合
相続人は起訴の権利を有しません。
通常、相続人が先人の権利を相続するときは、その相続を受けた時点に現存するもの以上のものを受け取ることはできません。しかし、相続人が損害を受けていないのですから、その権利は相続の時点で異なるところがありません。
訴権が相続人に移転される理由がないのですり。
刑法を適用する上で、死者に対する誹毀罪は、その誹毀が誣罔に出るか否かによって、即ち事実の存否によって罪を問うか否かを決定します。このように事実の有無に基づいて罪の有無を定めることは、公益の観点から定められたものです。
死者に対する中傷を生者に対する場合と同様に、事実の有無を問わないとすると、歴史を編纂する者は、刑罰に触れることを恐れ、筆を燃やしてその仕事を廃することになるでしょう。歴史叙述は讃美のみとなり、批判することがなくなり、世に正史の一篇のみ残ることとなります。このような結果は、公益を害します。
日本の刑法では、このように明文があるのですが、フランス刑法には明文の規定がなく、この点に関しては説が分かれており、議論がなされています。
死者に対する誹毀の罪では、相続人は告訴権のみを持ちますが、この告訴は、犯罪があったことを裁判官に報告することにとどまりますので、告発と同じです。相続人は私訴権を持ちません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第三) 被害者の債権者は起訴権を有する
被害者の債権者が起訴権を持つ理由を詳細に説明すると長くなるので、ここでは要点のみ説明します。
被害者が窃盗などの被害に遭い、財産を失った場合、被害者は債務を弁済できなくなる可能性があり、その結果、債権者も直接的な損害を受けることになります。
「義務者の財産はすべて権利者の抵当である」というのは民法一般の原則です。この原則は、フランス民法2092条及び2093条に存在し、日本の民法草案でもこの点が規定されています。
この原則は、債務者が支払いを怠った場合、債権者は債務者の財産を売却して弁済を受けられることを黙示的に承諾したことを意味します。
よって、上記の原則に基づき、被害者の財産が損害を受けた場合、債権者は自らの権利を守るために私訴を行うことができるというべきです。
もし債権者に私訴権がないとすると、どのようなことになるでしょうか。
一人の富豪に金銭を貸していた人がいるとしましょう。賊が富豪宅に忍び込んで大金を盗んだとします。富豪は、残りの財産を全て売却しても債務を支払えなくなったとしましょう。この場合、債権者は加害者である盗賊に対して直ちに起訴をする権利があります。そのように考えなければ、債権者は債務者をして加害者に対する賠償請求をさせるしかありませんが、何かの理由でこの請求をしなかった場合、債権者は損害を回復することができません。
債権者がただちに加害者に対して賠償の訴えを起こすことができるならば、何ら不都合はありません。
刑法上の観点からいうと、その当否につき問題もありますが、民法上の観点からは全く疑いのないところです。
債務者が身代限りとなった場合に、債権者が直ちにこの権利を行使するのは、我が国で現に実施されていますから、私訴においても同様であるべきです。
被害者の債権者が、私訴を行うのは、財産上の損害に関する場合に限ります。身体や名誉など損害の場合には私訴権はありません。身体や名誉などの場合にまで私訴権があるとすると、適用範囲が際限なくなってしまいます。したがって、私は財産上の場合に限るものと考えております。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第四) 私訴の権利の譲渡を受けた者は起訴をすることができる
訴権は一種の財産とみることができ、被害者がそれを有しているので、その処分は被害者の意思次第です。訴権の譲渡が法律で禁じられていない以上、有形物と同様、譲渡できるということになります。即ち、わが国においては、私訴の売買は禁じられていないので、理論上、譲渡はできるものと解するほかありません。
この点、裁判官が最も注意すべきことは、賠償の金額を定めるにあたっては、寧ろ少額になりすぎても過大になりすぎないようにすることにあります。賠償の金額が常に売買の金額を超える点で決めるようなことになれば、これによってますます濫訴の風潮を招くようになりかねないからです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
小括
私訴を行うことができる人は、次のとおりです:
1. 被害者
2. 被害者の相続人
3. 被害者の債権者
4. 私訴権の譲渡を受けた人
私訴を行うことができる人については、治罪法で明文化しておらず、民法に委ねられています(治罪法第2条には、民法に従い、被害者に属するものとされています)。
以上で、公訴を行うことができる人と私訴を行うことができる人を説明しました。次回からは公訴と私訴を受くべき人について説明します。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代の歌舞伎興業 文政12年6月下旬・色川三中「家事志」

2024年07月04日 | 色川三中
江戸時代の歌舞伎興業 文政12年6月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月21日(1829年)朝曇 晴天炎暑
・さるふた松の木(先月、雷で折れた松の木)を伐採させていただくよう下目付に願いを出し、町奉行所へ届書を提出した。
・夜に大雷。
#色川三中 #家事志
(コメント)
雷で折れた松の木の処理方法。町役が下目付に願いを出し、町奉行所へ届けを出すことが必要です。、藩の許可を得たうえで、町方が伐採するというルールであることが分かります。

〈その他の記事〉
・大国屋勘兵衛が土用見舞いに鯨二切れを持って来た。
・久米三源之助、大吉など四人が中村(現土浦市中)から籠で来訪した(中村まで駕籠で迎えに行った)。
・明日、山之部様が水戸様の名代として紀州(藩主が亡くなったことの)の御悔みに御登りなられる。稲吉宿でご宿泊されてから土浦を通られるとのこと。人足44人、馬12疋を用意し、本日藩のご見分あり。御歩行目付、下目付、組小頭等のみであり、町年寄は吉右衛門が参加
(大見分はなし)。
先年、山之部様が御通りになった様子について、今朝上よりお尋ねられたが、分からず。なにぶんにも18〜19年前のことである。
←〈その他の記事へのコメント〉
・先日、紀州藩の徳川太真様が御逝去になられました(6月10日条)。山之部様が水戸藩の代理でお悔やみをいいに、江戸に赴かれるため、途中土浦を通過します。水戸街道の稲吉宿(現かすみがうら市下稲吉)で宿泊し、土浦を通過するのですが、通過する町では人足や馬の用意をしなければならないのですね。その見分を藩の役人がしています。見分よりも厳しい大見分というのもあるようです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月22日(1829年)晴
・東覚寺(等覚寺)での芝居は明日が初日。川原代村の木村氏、細井氏、谷田部へ芝居が始まることを手紙で知らせる。
・芝居の通り札を二枚をもらう。
・町組一同の頼みにより、芝居出役の間、川口蔵で入湯できるように手配。
#色川三中 #家事志
(コメント)
等覚寺で芝居興行はいよいよ明日が初日。三中は川原代村の知り合いに芝居のお誘いの書状を書いています。川原代村は現龍ケ崎市川原代で、土浦からは20キロ以上あります。芝居興行自体が珍しいので、このくらいの距離でも見に行くのですね。

〈その他の記事〉
・朝方、山之部様が土浦を御通りになった。
先払を務める。問屋出役は金之丞が担当。東覚寺(等覚寺)で小休止。昼前には御通りは終わったので、土浦藩には相済とお届けした。
←〈コメント〉
・山之部様が本日土浦を御通りになられました。三中は町役人として先払いを務め、無事土浦を御通りになられたのを見届けた上で、藩に報告しています。
☆「山之部様」というのは、水戸藩の名代として紀州に藩主が亡くなったことのの御悔みに赴かれる方です(6月21日条)。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月23日(1829年)朝曇、昼より晴
御奉行様の御見分あり。明日、本田様が土浦をお通りになられる為。
夕方、富田屋市郎平方で酒乱の者あり。本田様が御通りになる道沿いであり、目障りになることから、御組衆に杖で打たれて捕らえられた。町組合小頭の野口様宅へ行き、このことをご報告し、お詫び。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、山之部様が土浦を御通りになられたのに続いて、今度は本田様が土浦を御通りになられます。酒乱の者に対して杖で打たれて捕らえるという実力行使っぷりがスゴい。理由も「目障りになるから」です。酒乱の程度もひどかったのかもしれませんが…。


〈その他の記事〉
・町御郭内の道破損箇所の修理につき書付案を作成した⇒付1
・次のように藩のご担当者に報告した。
中城分の田に、すべて植付けいたしました。
この段、ご報告いたします。
以上
中城町年寄 (4名の名前は略)
名主 入江全兵衛
丑六月
佐久間勝助様


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月24日(1829年)
・東覚寺(等覚寺)での芝居初日。せゐ(妻)、川口隠居(祖父)、金次郎(弟)や店の者合わせて9名が芝居を見た。
・明日の芝居見物のため、川原代村の木村源三郎と池端の子息(長男)、細井玄庵殿が来られた。嘉兵衛が千代松を連れてきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
等覚寺での芝居が始まりました。許可されたのは24-27日までの4日間です。三中の家族は初日に店の従業員と一緒に芝居を見に行っています。川原代村からも知り合いは20キロ以上の歩いて、今日は土浦に泊まり。明日の芝居見物に備えます。

〈その他の記事〉
・昼過ぎに、本田様の御通りを迎えに銭亀橋へ出向き、先払いを務めた。町内えびす屋が不調法だったためお詫びをした。
・桜橋で御見送りを済ませ、下座した。御すだれ番が来られ、町役人であると申し上げたところ、御駕籠の戸が開けられて、御通りになった。
・本田様が首尾よく御通りとなったので、藤井様(町奉行)にご報告をした。
・富田屋が昨日の騒動で迷惑をかけたと、黒鯛2尾持参。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月25日(1829年)晴
・等覚寺での芝居の演目
23日、24日が義経千本桜
25日が忠臣蔵の六段目迄(所作有り)
26日が忠臣蔵の九段目迄
・川原代村の客4人等合計8人は、先般もらった札2枚で芝居を見ることができた。川原代村の客4人は夕方帰られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
等覚寺での芝居の演目は義経千本桜と忠臣蔵で、現在も上演される演目。もっとも、忠臣蔵は九段目まで通しで演じているようですから、部分的にしか演じない現代とは演じる時間の長さは異なっているのでしょう。

〈その他の記事〉
・本日、大小札合わせて780枚であり、その旨お届けした。
・日没後、谷田部村の飯塚御袋、宅三郎、栄吉、庄三郎の4人が来た。一同から土産菓子を1袋ずついただいた。また、町役を仰せ付けられた祝儀として、飯塚庄九郎殿から金2朱、今川宅三郎殿から金1朱をいただいた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月26日(1829年)晴・曇定まらず
・朝早く、羽織立附で町役人の仕事に出る。供は茂吉。
・本日の芝居の大札は477枚、小札は127枚とお届けした。
・本日朝、芝居を2日間延長していただく旨の願書に奥印を押して町組小頭に提出。1日に限り延長が認められた(28日まで)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
芝居の興業は大成功。興業側としては延長してさらに儲けを増やしたいところですが、土浦藩が認めたのは一日だけです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月27日(1829年) 少雨
・今日の狂言(昨日土浦藩にはお届け済)
中入前:名木仙台萩
中入後:幡随院長兵衛
・今日は大入りで1500-1600人もいたのではないか。谷田部村から来た知合いは昨日も今日も芝居を見にいった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
芝居は本日観衆1500人超の大入り。寺の境内でこれだけの人数が集まっています(芝居は等覚寺の境内で行われています)。少雨でもこの入りですから、すごい熱気だったことでしょう。

〈その他の記事〉
・御目附の軍司新左衛門殿に御不幸があり、上下でお悔やみに伺う。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月28日(1829年)雨
・艮風(北東)が打ち続き、冷たい雨。 夜に大雨。
・芝居は今日(28日)までであったが、雨のため、晴れの日に順延。
・いそ鰹が届く。初鰹以来であり珍し。近年、鰹が獲れる時期が遅くなっているが…。
#色川三中 #家事志
(コメント)
太陽暦ならば8月ころのはずですが、冷たい雨。低温傾向が顕著な文政末期です。
芝居は等覚寺の境内で行われているので、雨が降れば芝居はできません。芝居はあと一日ですが、晴れの日まで延期です。劇場がなく、外での興行ではこうするしかないのでしょう。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月29日(1829年)雨
・冷気不順。本日も雨であり、芝居は順延。
・名主及び年寄一同で暑中御見舞。
(挨拶廻り)
両小頭、両御奉行、吟味衆佐久間様、組頭衆石嶋様、御代官佐久間様、大久保様、矢嶋様、神龍寺、中里様、神田様
以上のとおり廻り、暑中の御嬉嫌伺いを申し上げた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人(名主及び年寄)一同での暑中見舞い。藩役人の関係者を順に廻っていく、文字どおりの挨拶廻りです。挨拶廻りの筆頭は「両小頭」とありますが、これは町組小頭のことで、土浦は中城町と東崎町に分かれており、それぞれ小頭がいるので、「両小頭」となっているのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年6月30日(晦日)(1829年)曇
・雨は上がるも、北風吹き、冷気甚し。
・本日で芝居興行終演。源之助の所作は上出来であった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
雨が上がり、千秋楽の芝居が行われました。あいにく北風が吹き、寒いコンディション(夏なのに!)。
「源之助」は澤村源之助のことでしょう。1829年ですから二代目。

〈その他の記事〉
・加賀人足の件であるが、配分については、中城からは20人、東崎からは8人が計毎月28人ずつ出すことになった。明日、中城から5人を1日〜4日まで出す。その旨、小屋方居役、宮本勝左衛門様へお届けした。
・夜には水戸の役人の件に関して、下目附の宮崎様方へお伺いした。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付1 (6月23日条)
乍恐以書付奉願上候
私共町内の商人は、御厚恩により渡世を続けており、有り難く幸せに存じております。つきましては、冥加のため毎月二十人ずつ町御郭内の道破損箇所を修理させていただきたく存じます。
然る処、右人足共は当地に不案内で、御用をこなせないのではないかと懸念しております。
つきましては、誠に勝手なお願いで申し訳ないのですが、右二十人分の冥加日雇銭を、一人につき百十六文ずつ納めさせていただきたく存じます。
この願いの通り仰せ付けくださいますよう、よろしくお願い致します。以上
文政十二年丑年六月
中城町年寄 (4名略)
名主 入江全兵衛

町御奉行所様

右のように書付案を出したが、これもでも認められないということで、一月に28人ずつ人足を出す方向で検討せざるを得ないようだ。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付2 (6月29日条)
去年中から懸案となっている悪水の費用分担の件
総費用:59両2分
* 御上からの補助金:14両2分
* 自己負担:45両

自己負担の内訳:
* 虫掛からの拠出金:15両
* 中城:30両
町方にてこの金額を借用し、これを利付10年賦で返済する。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする