南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

腰掛・聴訟-明治初期の裁判所の様子

2022年11月28日 | 歴史を振り返る
腰掛・聴訟-明治初期の裁判所の様子

1 腰掛
明治初期の裁判所では、裁判所に着届を提出した後は、腰掛というところで控えます。腰掛は江戸時代からあったものです。
明治7年の代言人の業務日誌に腰掛で控えている様子が記されています
明治7年5月3日(1874年)
「午前8時、裁判所へ出頭。着御届を提出して(腰掛に)控える。ほどなく呼び込みあり、聴訟へ入る。」(鳥海秀七の代言人業務日誌) 

(江戸時代の腰掛)
高橋敏『江戸の訴訟』には江戸時代の腰掛について、「腰掛とは奉行所に召喚されたものの控所である。普通は茶屋を営み、審理を待っている訴訟人などに湯茶、敷物、草履、筆紙など売って業とした」と述べられています(同書62頁)。
 江戸時代は、腰掛という場所で茶屋営業を行っている者がおり、収益をあげていたのでした。

(腰掛での茶屋営業の禁止)
明治2年(1869年)には、腰掛での茶屋営業が禁止されました。
国立公文書館には、「訴訟所腰掛茶屋営業差止并同営業人ヘ金員下賜」(明治2年2月・太政官・請求番号昭56警察00008100-083)なる史料が所蔵されており、同年に腰掛が茶屋を営業することが禁止されたことがわかります。
(参考:橋本誠一『明治初年の裁判』56頁)

(現代)
その後、腰掛という場所もなくなり、現代に腰掛はありません。裁判所に一般用控室や代理人控室はありますが、控室にいても呼出してはもらえません。民事事件の口頭弁論期日では、関係者は法廷の傍聴席で待機し、そこで呼出しを待ちます。

2 聴訟
明治初期の裁判所では、裁判所に着届を提出し、腰掛で控えていると、呼び出しがあり、裁判官又は担当掛の前に出ます。現在なら法廷ですが、当時は「聴訟へ入る」と言っていたようです。聴訟は、民事訴訟という意味で用いられる言葉です。
#明治初期の裁判所
#聴訟
(参考)
#鳥海秀七の代言人業務日誌 より
1874年5月3日(明治7年)
午前8時、裁判所へ出頭。着御届を提出して控える。ほどなく呼び込みあり、聴訟へ入る。
(現代)
民事事件の口頭弁論期日では、関係者は法廷の傍聴席で待機し、そこで呼出されたら法廷の前にでて裁判官と相対します。なお、明治初期は民事裁判の口頭弁論は一般人には非公開でした(現代は公開)。
(裁判の公開)
1872年(明治5年)11月、司法省は裁判の公開について戸長・副戸長に裁判の傍聴を許可することが可能としました。これまで、傍聴人は新聞・出版関係者に限るとされており、公開範囲が広がりましたが、一般人全員に解放されるのはまだ先です。なお、このときの公開の範囲は、民事の手続きは全部ですが、刑事の手続きは刑の申渡しに限られていました。


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明治初期の裁判所の様子

2022年11月24日 | 歴史を振り返る
明治初期の裁判所の様子

1 明治初期の裁判所の休庁日は1・6休暇でした
明治当初は、官公庁では曜日に関係なく、1・6休暇(毎月1の日と6の日を休む)でした(4勤1休体制)。官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施されたのは1876(明治9)年ですので、それ以前は1・6休暇でした。
(1・6休暇の根拠法令)
1・6休暇の根拠法令は1868(明治元)年9月の太政官布告です。これにより、31日を除く1と6のつく日を休日とされました。
(参考)
#鳥海秀七の代言人業務日誌より
1874年(明治7年)5月1日
休庁
5月6日
休庁。長池屋住六寛秀と共に、猪ノ鼻台に行き、宗胤寺にに参詣した。
(現代)
現在は裁判所も土日休みの週休二日制です。

2 千葉に裁判所が設置されたのは、明治6年6月15日に千葉県が誕生したことが契機です
〈千葉への裁判所設置〉
明治6年に印旛・木更津の両裁判所を統合した千葉裁判所が設置されました(千葉市史・史料編)。印旛県と木更津県が合併して、千葉県となるのが、明治6年6月15日のことです(この日は現在千葉県民の日とされています)。県の合併により、千葉町に裁判所が設置されることになります。

6月15日は千葉県民の日 千葉県の成立 - 法律事務所南斗のブログ

(千葉県民の日)6月15日は千葉県民の日です。1873年(明治6年)、印旛県と木更津県が合併し、千葉県が誕生したことを記念するもの。県庁は千葉郡...

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3 裁判所に出頭したら着届。出頭は午前8時
〈裁判所への出頭時刻、着届〉
裁判所へに出頭したら、まず着届を提出。「着御届」とも。これは江戸時代からあったもののようです。出頭は午前8時。今と比べるとかなり早い!
(参考)
#鳥海秀七の代言人業務日誌 
1874年(明治7年)5月2日
午前8時頃裁判所へ出頭。着御届を提出(以下略)
(現代)
現在の民事裁判では、出頭すると「出頭カード」というものに、名前を書く扱いになっています。
 民事訴訟の法廷は午前10時からです。明治初期にら午前8時だったので、どのように変遷したのか興味深いところです

4 裁判所には基本的に連日出頭
#明治初期の裁判
〈裁判所への連日出頭、宿〉
明治初期の代言人は区切りがつくまで、裁判所が休みの日を除いて毎日出頭。遠方から来る代言人は宿に泊まっていました。
(参考)
#鳥海秀七の代言人業務日誌 
1874年(明治7年)5月
2日 午前8時頃裁判所へ出頭(以下略)
3日 午前8時、裁判所へ出頭(以下略)
4日 着御届を出し、控えていたところ、午前10時ころ呼込みとなり、聴訟へ入る。(中略)宿へ下がったのは午後5時過ぎであった。
(現代)
民事裁判の期日は連日ではなく、一ヶ月程度又はそれ以上先の日を指定されます。明治初期と今とではこの点が全く違うので、いつから今のようになったのか興味深いところです。


5 裁判官が少なかったので、担当掛が前調べ
〈担当の掛り〉  
明治初期には裁判官は少なく、千葉裁判所は一人たったのではないでしょうか(明治7年時点では小杉直吉裁判官)。そのため、担当掛が前調べなどをしていたようです。
小杉直吉裁判官について

千葉裁判所の2代目所長、小杉直吉は徳川慶喜の謡いの師匠か - 法律事務所南斗のブログ

(小杉直吉)初代千葉裁判所所長の川西権少判事が、所長になる前の職務でミスを犯して、その責任を取らされて更迭という記事を書いたことがあります(千...

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(参考)
#鳥海秀七の代言人業務日誌 
1874年5月2日(明治7年)
午前8時頃裁判所へ出頭。着御届、提出。午後4時頃まで控えておりましたところ、脇屋様御掛りの分は、一同明日に罷り出よと裁判所から言われました。どうも、ご担当がご病気で出勤していないようです。
 鳥海代言人の事件は、「脇屋様」の担当だったようですが、どうも病気のようであり、脇屋様担当分は明日に回されてしまいました。
(現代)
現在の民事訴訟では裁判官が裁判の仕切りは全て行い、書記官は事務連絡や記録を行うだけです。







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文政10年11月中旬・色川三中「家事志」

2022年11月21日 | 色川三中
文政10年11月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年11月11日(1827年)晴
昨夜、入江(名主)のところに本田殿の唐話を聞きに行く。今夜で三日目。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本田鉄三郎という人は、あちこちに行き面白い話をして、お礼をもらっていたようで、三中はすっかりハマってしまっており、今夜で三日目です。どうも本田殿が中国に行った話しらしく、「唐話」と記載しています。

文政10年11月12日(1827年)
(編集より)本日、休筆です。
#色川三中 #家事志

文政10年11月13日(1827年) 甲寅 晴
夕方、本田殿の唐話を聞きに行こうとしたが、本田殿が風邪のため中止。これまでに三夜話しを聞いた。家に帰ってから記憶に残ったことを書こうとするが、面白さを忘れている。聞いたことの八割は忘れている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日も本田殿の話しを聞きに行こうとしましたが、残念ながら本田殿が風邪でお話し会はお休み。三中は本田殿の話しを家に帰ってから書き残していますが、どうにも面白さが伝わらないと嘆いています。この時代、言文一致ではないでしょうから、話ししの面白さが伝わらないのはその影響もあるように思われます。

文政10年11月14日(1827年) 晴
伊勢屋の長太郎が髪置き。150文で雪駄を買い、母にもっていってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「髪置き」とは「髪置きの儀」のことでしょう。3歳の子の健やかな成長を願う、平安時代にもあった儀式。七五三の由来の一つといわれています。親しい人の子どもに贈り物をしていたのですね。三中は雪駄を贈っています。

文政10年11月15日(1827年) 晴
伊勢屋からこわめし、向かいの竹中からは餅、利八からはこわめしをもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
知り合いから様々なものをいただいたことが記載されています。三中の日記では、〇〇に△△を送ったとか、〇〇から△△をもらったとかいう記事がいきなりポンとでてくるので、戸惑います。

文政10年11月16日(1827年)
(編集より)本日、休筆です。
#色川三中 #家事志

文政10年11月17日(1827年)曇
鈴木勘解由様が御家老になられ、昨日江戸から土浦にお下がりになられたとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
鈴木勘解由は土浦の藩士のようです。土浦藩の藩主は、参勤交代がなく江戸に定住しています(江戸在府)。この場合、家老が土浦に定住して藩政を仕切ります。三中は町人ですが、藩の役人とは付き合いがあるので、藩士の異動記事も日記に記しています。

文政10年11月18日(1827年)
(編集より)本日、休筆です。
#色川三中 #家事志


文政10年11月19日(1827年)曇 庚申
昼四つ半時(午前11時)、高砂屋清左衛門殿が来られて、新宅に関する紛争の件について話した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「新宅」は三中の親戚のこと。親戚との間に深刻なトラブルを抱えており、なかなか解決がつきません。いろんな人が中に入っているのですが、うまくいかず。5月にはこんなこともありました。


文政10年11月20日(1827年)
17日に本田殿の唐話は終わってしまった。6回で最終回だという。聞き洩らしたこともあり、本日新たに初めから唐話を行うというので、出席。164文を支払う。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本田鉄三郎の話しにすっかりハマってしまい、ついに二セット目に突入(一セット6回)。新たにお金を払わねばならず、164文を払っています。

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東京都国分寺市の弁護士職員採用

2022年11月19日 | 地方自治体と法律
(東京都国分寺市の弁護士職員採用)
 先日、国分寺市の弁護士職員採用募集がひまわり求人に掲載されていました(2022年11月1日付)。ひまわり求人は、日弁連は弁護士の求人情報を無料で掲載しているサイトです。
その内容。
#特定任期付公務員(弁護士)
国分寺市の政策部政策法務課担当係長(フルタイム)
☆勤務開始予定:2022年 11月 1日から
随時
採用候補者と調整の上、原則として2023年4月1日までの日で採用。
☆想定される業務:
・行政運営に係る法務相談に関すること
・行政不服審査及び訴訟に関すること(審理員及び指定代理人としての活動を含む)
・条例,規則,訓令その他例規の指導及び審査に関すること
・法務研修の計画及び実施に関すること
・その他政策法務に関すること
・その他法律専門職としての知識及び職務経験が生かせる職務
☆給与:月額350,900円~(令和4年10月現在)
※法曹として従事した経験に基づき格付けた給料額に、地域手当(16%)を加算
※扶養手当、住居手当、通勤手当(月額上限55,000円)、超過勤務手当、期末・勤勉手当(年間おおむね4.45月分)等を支給

国分寺市のホームページには以下のような記載がありました。
「令和4年10月19日現在、政策法務課に1名の特定任期付職員(弁護士)が配属されています。今回の募集により採用となった際には、政策法務課に配属となる予定です。」

(感想)
 国分寺市さんは、弁護士職員を特定任期付職員として2名採用する方針のようです。国分寺市ホームページでは、この募集は10月20日付けでアップされていたようなのですが、勤務開始予定日が2022年 11月 1日からとなっているということは、随分と急な募集です。
 国分寺市は本年春頃にも同様の募集をしていましたので、弁護士職員1名が10月末に退職するという予定であり、春に募集をかけたが、採用に至らなかったという状況なのではないかと思われます。
 春先には、応募資格を「1967年4月2日以降に生まれ、弁護士としての実務経験が2年以上ある法曹有資格者の方」としておりましたが、今回は「弁護士としての実務経験が2年以上ある法曹有資格者」としており、年齢制限を外しております。
 東京近辺に弁護士は多いですから、なぜ国分寺市さんが採用できなかったのかは不明ですが、給与の見かけが低い(月額35万円)というのがあるのかもしれません。
しかし、地域手当が16パーセントつくので、これを含めると約40万7000円となり、期末手当が年間おおむね4.45月分ですから、
40万7000円×16.45=669万円強
となります。
 日弁連は自治体での弁護士職員の給与について「年収ベースで概ね800万円程度となっているケースが多いようです」としています。国分寺市の給与はこれよりも100万円以上低いのですから、他と比較すると敬遠される理由にはなってしまうかもしれません。

特定任期付職員の給与について

弁護士の特定任期付職員の採用と給与 - 法律事務所南斗のブログ

(自治体内弁護士)自治体内で働く弁護士は徐々に増えているといわれております。日弁連では、「自治体内弁護士」と呼んでいますが、弁護士としての登録をして...

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法律事務所(弁護士事務所)は2022年10月から社会保険の強制適用事業所となりました

2022年11月17日 | 法律事務所(弁護士)の経営
(はじめに)
 従業員の社会保険適用(健康保険・厚生年金)について、法律事務所(弁護士事務所)を例にして考えてみます。

(今回の法改正)
 法律事務所は、法人の場合(弁護士法人が設立されている場合)と個人経営の場合があります。
 法人の場合は、従業員が社会保険に加入することは義務となります(強制適用事業所)。
 個人経営の場合は、法律事務所は加入することが義務ではない事業所(任意適用事業所)でした。
 しかし、法律が改正され2022年10月から社会保険の強制適用事業所となりました(厚生年金保険法6条1項1号レ)。この法改正により、法律事務所で常時5人以上の従業員を使用するものは、社会保険に加入することが義務となります。

(2022年10月以降の個人経営の法律事務所の社会保険加入)
 2022年10月以降の個人経営の法律事務所の社会保険加入は次のようになります。
①常時5人以上の従業員を使用⇒強制適用事業所(社会保険に加入する法的義務あり)
②それ以外⇒任意適用事業所(社会保険に加入する法的な義務はない)

(法律事務所の経営者の視点から)
 法律事務所の経営者の視点から考えてみます。
 経営者としては、社会保険に加入すると経済的には負担が増えます。社会保険の保険料は労使折半ですから使用者負担分が負担増になるのです。
 社会保険に加入すれば従業員の福利厚生ためになりますが、経済的な負担を抑えるために社会保険に加入していない法律事務所も少なくないようですい。
 従業員を社会保険に加入しないとするためには、〈5人以上の従業員を使用しない〉で経営するほかありません。
 ここで「従業員」というのは、次のような方です。
①正社員
②パート、アルバイト等のうち、1週間の所定労働時間及び1ヶ月の所定労働日数が正社員の4分の3以上である方
 常時5人以上の従業員を使用せずにこじんまりとした経営を行っていく場合は、2022年10月以降も任意適用事業所扱いとなりますので、社会保険の適用を受けるか否かは任意ということになります。

(委託という手法)
 今後、小規模な法律事務所では従業員をできるだけ雇用しないという手法をとる経営者がでてきてもおかしくはありません。
 その場合、「委託」という手法を採用して仕事を行なっていくことが考えられます。
 現時点でも、電話受付代行を利用している法律事務所はあるのかもしれませんが、それ以外のタスクでも活用の余地はありそうです。


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文政10年11月上旬・色川三中「家事志」

2022年11月14日 | 色川三中
文政10年11月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年11月1日(1827年)壬寅
・天晴れて風静か
・大枝清兵衛殿が来られた。
・夜の四つ時過ぎ(午後10時)に店の者を集め、お触書の写しを読んで聞かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大枝清兵衛は江戸の薬種問屋であり、三中は薬種商ですから、取引関係にある方。営業の関係で方々を回っているのでしょうか。8月2日にも土浦に来ており、このときに三中のもとで働いていた太七の訃報を伝えています。


・午後10時過ぎから従業員に集合をかけてお触書の写しを読み聞かせたとは、従業員にとっては甚だ迷惑ではないかと思いますが、きっと三中はこれが良いことと思ってやっているんでしょう。

文政10年11月2日(1827年)曇 癸卯
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の日記は、「曇 癸卯」と書いてあるだけで、その他の記載がありません。こういうのは時々ありますが、体調が悪いのかもしれません。

文政10年11月3日(1827年)
(編集より)本日、三中先生は休筆。昨日は本文のない日記でしたが、今日は休筆。もっとも、明日には何ごとがあったとの説明もなく、普通に日記を書かれるのではないかと推察します。
#色川三中 #家事志

文政10年11月4日(1827年)曇
朝、隣の横田家から横田義兵衛の件で妻のせいが呼ばれた。八つ過ぎ時に、せいとまきの二人を隣家に遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の日記には配偶者(せい)に関する記載はごく僅かです。6月22日に里帰りの記事がありますがそれ以来。家の外での出来事の記載がメインなので、家の中のことについては記事になかなかなりにくいようです。


文政10年11月5日(1827年)曇 冬至
中町の政助殿(間原家)の一周忌は来年1月6日なのだが、2ヶ月前倒して明日(11月6日)に行うことにしたとのこと。当方からは白米三升を遣わした。お返しはもみ一重。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・中町の政助殿は本年1月6日没。一周忌は来年のはずですが、1月は正月、12月は師走で忙しいということなのか、2ヶ月前倒しして明日行われます。特に珍しいという風にも書かれていないので、こういう融通無碍さは江戸時代には結構あったのでしょうか。
・文政十年は11月5日が冬至。今年(2022年)は12月22日で1ヶ月半ほどのずれです。

文政10年11月6日(1827年)丁未 雨
中町の政助殿の一周忌の件で、今朝隣主人とともに間原宅に行く。寺にも同道。終日雨。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日の記事にもあったように、本日中町の政助殿(間原家)の一周忌。三中は仲の良い隣のご主人と法事に参加。終日雨。昨日が冬至でしたから、一日中寒い雨が降る中での一周忌です。


文政10年11月7日(1827年)
四ツ(午前10時)過ぎころ、間原平右衛門様が来られ、土地を五七間譲ってくれないかとの話があったが、そのことについてはいずれお聞きしましょうと返事をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土地を一部譲ってほしいとの要請を受けましたが、三中は回答を保留にしました。まだ20代と若いこともあり、即答を避け、周囲の人に相談をしながら回答しようという考えのようです。

文政10年11月8日(1827年)
・夜になってから川口で隠居している祖父のところに行き、昨日間原様から要請のあった土地のことにつき相談。
・寒気甚だし。霜月になってからはじめて。
#色川三中 #家事志
(コメント)
11月ですが、旧暦なので冬至は過ぎており(11月5日が冬至)、太陽暦でいえば年末。冷え込むのも当然ですが、この年はことのほか寒く感じたようです。
三中は土地の売却につき、少し離れたところで隠居生活をしている祖父のところに行って相談をしています。

文政10年11月9日(1827年)
夜になってから、入江(名主)のところに行き、本田鉄三郎殿の話しを聞く。今月5日についで二日目。この者、面白い話を聞かせてくれる。入江からは「変わった客が来た」とのことで勧められたことから、話を聞いている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
面白い話を聞くことは、いつの世も娯楽のひとつ。テレビもインターネットもない江戸時代では、リアルに話をきくほかありません。本田鉄三郎という人は、あちこちに行き面白い話をして、お礼をもらっていたのでしょうか。名主が面白いからと勧めてくれたため、三中も話を聞いています。

文政10年11月10日(1827年)
田宿町の不動尊のための勧化に行った。真鍋と西門を歩いて回っていたら、日が暮れてしまった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
勧化(かんげ)というのは、勧進と同じ意味で、寺の建立・修復のため寄付を募ることです。三中が住んでいる田宿町にある不動尊のために勧化を行い、真鍋地区と西門地区を日暮れまで歩いて回ったことが書かれています。
三中の家付近から真鍋にある八坂神社(当時は牛頭天王社)までの道のり

土浦城 大手門跡 to 土浦総鎮守 八坂神社

土浦城 大手門跡 to 土浦総鎮守 八坂神社



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児童相談所の常勤弁護士職員の採用

2022年11月11日 | 地方自治体と法律
(名古屋市児相の弁護士職員採用)
 日弁連は弁護士の求人情報を無料で掲載しているのですが(ひまわり求人)、先日、名古屋市児相の弁護士職員採用募集が出ていました。
その内容。
特定任期付公務員(弁護士)
名古屋市の児童相談所職員(フルタイム)
2022年11月1日付で日弁連のひまわり求人に掲載。
☆勤務開始予定:2023年 4月 1日から
☆想定される業務:児童虐待に係る安全確認・一時保護の実施や支援困難な親との面接・相談業務などの児童相談所における児童虐待対応業務及び職員への法的対応の助言・指導など
☆給与:地域手当を含め月額590万円程度
そのほか、通勤手当、期末手当(年3.25月分)等の諸手当。
☆名古屋市のアピール
現在、名古屋市には3つの児童相談所があり、各1名弁護士を任期付職員として配置することとしています。児童の権利擁護及び児童虐待に関する業務に携わった経験を有し、児童虐待対応業務を行う意欲のある方を募集します。

(児相での弁護士職員の仕事)
名古屋市中央児童相談所に任期付公務員として勤務していた橋本佳子弁護士(2015年4月から勤務)はインタビュー記事で弁護士職員の仕事について次のように発言しています。
「業務は、家事審判の申立てを始めとする法律事務が中心となりますが、一時保護への同行、保護者及び子どもとの面談、関係機関への訪問、ケース会議への参加など、ケースワーカーと共に動くこともあります。」
https://www.aiben.jp/about/library/2710-05-child.html

(児童相談所が常勤で弁護士を雇用しているのは未だ少数)
「厚生労働省によると、2020年4月時点で児童相談所の常勤弁護士数は16人です。157人の非常勤弁護士と比較すると、配置が進んでいない状況です」(江戸川区役所・船崎まみ弁護士へのインタビュー)。
https://www.bengo4.com/times/articles/244/

(感想)
 児童福祉法は、児童相談所に弁護士の配置等を義務付けています(児童福祉法12条3項)。この規定は2016年の法改正によるものです。
 もっとも、常勤職員として弁護士を児童相談所に配置するだけではなく、非常勤職員としてでもよいことになっており、また職員ではなく、委託契約でもよいことになっています。常勤職員として弁護士を採用するのは、財政的な負担が重いことから、常勤職員を採用するのは少数の自治体にとどまっています。 
 2020年4月時点の状況は江戸川区役所・船崎まみ弁護士のインタビューにあるとおりで、常勤弁護士数は16人、非常勤弁護士が157人となっています。
 今回の募集は常勤弁護士を採用しようとするものであり、名古屋市児相の積極的な姿勢が窺えます。


 

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個人情報保護法-本人への周知義務と体制の整備

2022年11月10日 | 法律事務所(弁護士)の経営
〈本人への周知義務〉
個人情報取扱業者は、保有個人データに関する事項について本人に周知する義務があります。
具体的には次の情報を本人の知りうる状態(ホームページへの掲載も可)に置かなければならないものとされています(個人情報保護法32条1項)。
①個人情報取扱事業者の氏名(名称)、住所
②すべての保有個人データの利用目的
③保有個人データの利用目的の通知の求め又は開示などの請求に応じる手続きや手数料の額
④保有個人データの安全管理のために講じた措置
⑤保有個人データの取扱いに関する苦情の申出先

〈ガイドラインの記載〉
次のような記載例がガイドラインに掲載されています。
(基本方針の策定)
 個人データの適正な取り扱いの確保のため、「関係法令・ガイドライン等の遵守」「質問及び苦情処理の窓口等」についての基本方針を策定
(個人データの取り扱いに係る規律の整備)
 個人データの取得、利用、保存等を行う場合の基本的な取扱方法を整備
(組織的安全管理措置)
 整備した取り扱い方法に従って個人データが取り扱われていることを責任者が確認
(人的安全管理措置)
・個人データの取扱いに関する留意事項について、従業員に定期的な研修を実施
・個人データについての秘密保持に関する時効を就業規則に記載
(物理的安全管理措置)
・個人データを取り扱うことのできる従業者及び本人以外が容易に個人データを閲覧できないような措置を実施
・個人データを取り扱う聞き、電子媒体及び書類等の盗難又は紛失等を防止するための措置を講じるとともに、事業所内の移動を含め、当該機器、電子媒体等を持ち運ぶ場合、容易に個人データが判明しないよう措置を実施
(技術的安全管理措置)
・個人データを取り扱うことのできる機器及び当該機器を取り扱う従業者を明確化し、個人データへの不要なアクセスを防止
・個人データを取り扱う機器を外部からの不正アクセス又は不正ソフトウエアから保護する仕組みを導入
(外的環境の把握)
 個人データを保管しているA国における個人情報の保護に関する制度を把握した上で安全管理措置を実施

〈体制の整備〉
 個人情報取扱事業者は、個人情報の取扱いに関する苦情の適切かつ迅速な処理に努めなければならず、苦情の処理にあたっては、苦情処理窓口の設置や苦情処理の手順を定める等必要な体制の整備に努めなければなりません(個人情報保護法40条)。 この規定に関し、ガイドラインではプライバシーポリシーについて次のようなコメントをしています。
「本人との信頼関係を構築し事業活動に対する社会の信頼を確保するためには、プライバシーポリシーやプライバシーステートメント等といわれる個人情報保護を推進する上での考え方や方針を策定し、それをホームページへの掲載等によって子表紙、あらかじめ対外的にわかりやすく説明することが重要である。また、委託の有無、委託する事務の内容を明らかにするなど委託処理の透明化を図ることも重要である。」

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茨城県の板橋村

2022年11月07日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
 土浦の薬種商色川三中の日記を読んでいます。
 日記中に「板橋」という地名が時々でてくるので(末尾参照)、茨城県にも板橋があるのか?と疑問だったので、調べてみました。

(板橋村)
 「板橋村(いたばしむら)は、1889年(明治22年)4月1日から1955年(昭和30年)6月10日まで存在した茨城県筑波郡の村。現在の茨城県つくばみらい市北東部に当たる地域。」(ウィキペディア)とありますが、これは明治時代の板橋村のことですから、色川三中の生きていた時代(19世紀前半~)とは地域が異なるのでしょう。
 そこで、明治時代の板橋村がどのような経緯で成立したかについて調べてみますと、
「1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い板橋村、神生村、野堀村、南太田村、勘兵衛新田、武兵衛新田、重右衛門新田、狸穴村、高岡村、大和田村が合併して筑波郡板橋村が成立。」
とあります。このときに成立した板橋村のもとになったのが江戸時代にもあった「板橋村」ということになるはずです。この村のことを以下、「江戸時代の板橋村」といい、「明治時代以降の板橋村」とは区別することとします。
 「明治時代以降の板橋村」は、1955年(昭和30年)6月10日に伊奈村へ編入され消滅してしまいます。その後、伊奈村は1985年(昭和60年)に伊奈町となり、2006(平成18)年に合併によりつくばみらい市となっています。

(つくばみらい市板橋)
 つくばみらい市には「板橋」という地名が残っており、「江戸時代の板橋村」はこの地域に含まれているように思います。
 同市板橋2370番地には、不動院(板橋不動尊)があります。大同年間(806~809年)の創建とされ、本尊不動明王は国の重要文化財。「板橋不動尊」「板橋のお不動さん」として古くから関東一円に親しまれ信仰されていたといいます。
 地名として「板橋」は残っていますが、残念ながら「伊奈」や「つくばみらい」に押されています。
 不動院近くの小学校は「伊奈東小学校」ですし、郵便局も「伊奈郵便局」です。
 「伊奈」の名前がついているのは、「明治時代以降の板橋村」が1955年(昭和30年)6月10日に伊奈村に編入されたことによります。「伊奈」もつくばみらい市の成立(2006年)により消滅してしまいました。
「伊奈」はもともと地名ではないので(江戸時代の代官伊奈忠治に由来)、今後のネーミングとして残るのかどうか気になります。

(終わりに)
 茨城県にあった板橋村について簡単ですが、調べてみました。
 「明治時代以降の板橋村」においては村史は作成されていないようです。合併後の伊奈町では町史編纂事業が行われていたようですので、機会があれば関連文献も調べてみたいと思います。

【色川三中の日記における「板橋」の記載】
文政10年9月12日(1827年)乙卯
結婚以来、妻の実家(谷田部)に顔を出しておらず、吉兵衛同道で夜明け前に出立。大鯛、平目、小鯛各一枚を持参。途中、板橋(つくばみらい市)に寄る。谷田部着は七つ(午後4時)過ぎ。夜に帰るつもりが、引き止められ泊まることになり、酒を酌み交わす。

文政10年9月23日(1827年)晴
所用をこなすため河原代(龍ヶ崎市)へ、谷田部佐助と利八を同道し赴く。日之沢の二十三夜様を参詣(いつもは代参)。八つ過ぎ細井氏宅へ。佐助はいつもどおり藤代、板橋へ遣わす。細井氏から酒肴をだされる。夜までよもやま話をし、歌の道、国学、医談、薬品のことを話し、細井氏宅に泊まる。

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文政10年10月下旬色川三中「家事志」

2022年11月03日 | 色川三中
文政10年10月下旬色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年10月21日(1827年) 晴
吉兵衛の親が来て、吉兵衛の代わりに弥治兵衛の倅が店にくるという。吉兵衛に対しては厳しい処分とせざるを得ない旨、申し聞かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
無断欠勤をした従業員吉兵衛の続報。吉兵衛本人は相変わらず店には来ず、吉兵衛の親が対応しています。江戸時代でも本人が対処しないことはあったようです。吉兵衛の代わりの従業員の手配まで親が伝えに来ています。

文政10年10月22日(1827年)
(編集より)本日、三中先生は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政10年10月23日(1827年) 晴
先月20日夜、馬橋村のけんかで一人死に、22日夜布佐の土手で飛脚が殺され、晦日には毛有村で賊に百姓一人が殺された。わずか十日で変死人三人とはいかなる事か。今月も19日暁方に布川で金百両を持っていた旅人一人が殺された。賊は府中の者で、既に捕らえられたとのことだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この時期の土浦周辺でも治安が悪化していたことが窺える記事。わずか十日で変死人三人(傷害致死1件、強盗殺人2件)。その上、今月も金百両がからむ強盗殺人事件が起きてしまいました。さすがにこの事態は異常で治安の悪化が懸念されます。

文政10年10月24日(1827年)晴
下総に住む元従業員の与市からまた書状が届いた(今月20日付)。隣の同役の家が火事で焼けてしまい、その始末に取り掛かったので、土浦に行く日を決めるのが難しいとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の不祥事が続いたため、与市を呼び戻し体制を立て直そうと、三中は考えているのですが、なかなか戻ってきてくれません。8月12日に呼び寄せる書状を送りましたが、2ヶ月経っても土浦に戻ってきてくれない状況です。


文政10年10月25日(1827年)
(編集より)本日、三中先生は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政10年10月26日(1827年)晴
田中清吉が朝来たので、吉兵衛のことについて決めたことを話した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
田中清吉は三中の従業員の仲介をしているようで、吉兵衛の解雇の件の決定事項についても知らせておきたかったようです。明日には吉兵衛への請求金額が明らかになります。

文政10年10月27日(1827年)曇
吉兵衛の親を呼び寄せて、朝に来てもらった。書付を差し入れるように申し聞かせた。2両2朱余りを極月(12月)15日限りに支払ってもらう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
店の従業員吉兵衛は無断欠勤をし、そのままバックレ。これでは解雇するしかありません。給料は前払いしてあるので、働いていない分を返金してもらうことになります。書付の詳細はブログに書きました。

江戸時代の解雇の際の書付・色川三中「家事志」より - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉土浦に住んでいた薬種商色川三中は、日記「家事志」で、様々なことを書いています。経営者であるだけに、従業員についての記事も多いです。ここでは無断欠勤を...

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文政10年10月28日(1827年)
(編集より)本日、三中先生は休筆です。
10月下旬は休筆が三度に及びご迷惑をおかけします。来月はそこまでの休筆はない予定です。
#色川三中 #家事志

文政10年10月29日(1827年)晴
朝、吉兵衛の親を呼び寄せ、書付に印形を押すよう申し聞かせた。夜になってようやく吉兵衛の親が書付に印形を揃えてもってきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
吉兵衛の解雇に伴う精算ですが、ようやく書付に押印がなされ決着しました。一昨日(27日)には書付案ができており、後は関係者の押印だけでした。吉兵衛問題はこれで片がつきました。

#色川三中 #家事志
文政10年10月は小の月なので、10月30日は存在しません。

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