南斗屋のブログ

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嘉永6年2月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年02月27日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年2月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。

嘉永6年2月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記
入門希望者平蔵が神文(誓約書)を書き終えた。蓮屋(公事宿)の座敷を借りて、平蔵は爪印を押した。湊川の借家に行き、出来上がった神文を大先生(大原幽学)にお納めした。大先生から平蔵に書物2枚等をお譲りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
平蔵の入門は、平蔵自身の意識がしっかりしていなかったこともあり、五郎兵衛も手こずっていましたが、神文(誓約書)の提出までこぎつけました。山形屋から蓮屋に連れて行ったのは、蓮屋に荒海村の仲間が泊まっているからでしょう。

嘉永6年2月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記
入門者平蔵が村へ帰るので、暇乞い(挨拶回り)。まずは湊川の大先生(大原幽学)のところへ。その後、蓮屋(公事宿)に行ったが、荒海村の仲間は留守だった。平蔵は昼前に出立。

我々は再び湊川の借家へ行ったが、特に何もなく夕方には宿(山形屋)へ帰る。甚右衛門が長沼村から到着。差添えを五兵衛と交替するため。交替の届出を領主の稲葉様の上屋敷(小川町)に提出した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
入門者平蔵が帰るので挨拶回り。まずは大原幽学に行き、その後荒海村の仲間が泊まっている蓮屋に行きましたが、残念ながら不在。長沼村の差添え(訴訟の付添い)が交替。甚右衛門は昨年12月にも差添えで江戸に来ています。


嘉永6年2月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記
差添え交替の届出をするために、五ツ時(午前8時)に宿を出て奉行所に行く。
差添えの五兵衛、交替要因の甚右衛門も一緒。山形屋(公事宿)の下代の案内あり。宿に戻ったのは九ツ半(午後1時)で、五兵衛は村に帰って行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「下代」は公事宿の従業員。奉行所関係の案内は下代がしてくれます。今日は差添え(村役人の付添)の交替の手続き(五兵衛⇒甚右衛門)。手続きが終わったので、五兵衛は長沼村に帰っていきました。

嘉永6年2月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行く。途中、蓮屋(公事宿)に寄り、荒海村平右衛門らと共に行った。湊川の借家で昼食。七ツ時(午後4時)に宿(山形屋)へ戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛ら長沼村(成田市長沼)の者は、当初蓮屋に宿泊していましたが、途中から山形屋に宿替えをしました。荒海村(成田市荒海)の者は引き続き蓮屋に宿泊しています。荒海村の平右衛門は、大原幽学の高弟の一人です。


嘉永6年2月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記
今日は湊川の借家には行かず。五色で昼食。四日市の竹屋でタバコを買い、両替町の下村で油を買った。蓮屋(公事宿)に泊まっている幡谷村の古老が病気になったので見舞いに行った後、七ツ時(午後4時)に宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所から呼出しがなく、ひたすら待機の日々です。江戸にも慣れてきたようで、昼は外食、タバコ等の日用品も買う場所を覚えたようです。


嘉永6年2月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼まで宿(山形屋)にいる。昨日と同様五色で昼食。その後、湊川の借家へ。日暮れ時に宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日も今日も昼は外食。こういう記事を見ていますと、結構気楽に外食できる場所が江戸にあったのだなと思います。湊川の借家は作戦本部の役割をしており、情報のやり取りのために、一日一度は寄る決まりとしていたのでしょう。

嘉永6年2月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記
仲間と共に湊川の借家へ。同所で昼食。大先生(大原幽学)は、又左衛門と共に所用で出かけて行った。平右衛門と幸左衛門は、高松様のお宅へ行ったが、お留守のため空振り。七ツ半時(午後5時)に宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学と一緒に出かけていった(菅谷)又左衛門は諸徳寺村(千葉県旭市)の名主。大原幽学の高弟の一人です。大原幽学から又左衛門宛の書状はインターネットで見ることができます。

嘉永6年2月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記
雨、宿から出ず。幡谷の古老はまだ蓮屋で臥せっているようである。元俊医師が持っている薬を取りに来た者あり。
本日の昼食は仲村屋からの出前。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・長沼村(成田市長沼)からは、五郎兵衛と元俊が奉行所から呼出されています。五郎兵衛は農民で、元俊は医師。薬を持っているので、病人がでると、元俊のところに薬を取りにくるのでしょう。
・五郎兵衛は昼食についてはマメに記載しています。今日は珍しく出前。雨が降っていたからでしょう。

嘉永6年2月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前中に湊川の借家へ行く。大先生(大原幽学)は小石川へ行っており留守。平右衛門も書付のことで小石川へ行った。夕方に宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日が雨で足止めをくっていたためか、本日は皆出かけており、作戦本部の湊川に行っても、大原幽学も留守でした。

嘉永6年2月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記
差添え(付添)の甚右衛門と共に湊川の借家へ行く。本の書き写しをする。夕方に宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
やることがないためか、本日は本の書き写しをしています。貸本屋で本を借りて、本の写しを作成しているのでしょう。
貸本屋について
「江戸の出版社文化を支えたといわれる貸本屋は、店を構える大店から、背丈にありあまる本を笈箱や風呂敷で背負って得意先をまわるものまで、文化五年(1808)には市中に656軒あったといわれる」
高橋敏『江戸の訴訟』69頁(岩波文庫)


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「十三枚」と高安宗悦

2023年02月24日 | 歴史を振り返る
土浦の薬種商色川三中の日記「家事志」には次のような記事があります。

〈夜に木原行蔵様がお出でになられた。木原様ご自身は足が痛くなり、ご子息はお怪我をされたとのこと。ご子息にはいまだお見舞いもしませんで、と申し上げたところ、「息子の方は明日十三枚に行かせて診てもらうつもりだ。」と仰られた。〉
(文政9年8月18日(1826年))

 記事には「十三枚に行かせて診てもらう」という言葉が出てきます。文脈からすると、医者に診てもらうという意味になりそうですが、「十三枚」とは人の名前にしては随分変わっていますが、何を表すのでしょうか。

「十三枚」とは、高安宗悦という医師のことを指します。この医師は佐原扇島(千葉県香取市扇島)で医業を営んでいました。「高安宗悦」は代々世襲されています。

「佐原扇島の整骨医高安家。河童から骨接ぎの妙薬を伝授されたという伝承をもつ『十三枚膏』を製造・販売して広く名を知られた。館山の鈴木家、佐倉の佐藤家(順天堂)と共に「房総の三医」と称せられたという。」(「家事志」解説)

江戸時代にはかなり高名な医師だったようです。
『佐原市香取郡医師会史』(1982年)にも高安家の記載があります。
「高安家は扇島の医家。16代に及ぶ。高安本世堂医院。祖先は河内国(大阪府)高安郡に於いて楠木氏に仕えていたが、のち扇島に移住し、その場所が十三枚といわれた。本世堂と称し、代々接骨院を業とし、宗悦を襲名しているが、十三枚の地名は殆ど高安家の代名詞となっている。」

十三枚というのはもともと地名であり、そこに高安家が移住。医師として高名になり、商品名『十三枚膏』のネームバリューもあって、十三枚は高安本世堂医院を指すことになったのです。

ここで冒頭の色川三中「家事志」の記事を再度見てみましょう。記事中「木原様」と呼ばれる人は、息子を十三枚に行かせる、即ち佐原の扇島にある高安本世堂医院まで行かせて医師にみせると言っているのだということが分かります。

ところで、色川三中らは土浦(茨城県土浦市)にいるのに、高安本世堂は佐原扇島(香取市扇島)にあります。
土浦(茨城県土浦市)から扇島(香取市)まで結構距離があります。グーグルマップで土浦駅-香取市扇島までの距離を測ってみる42 kmあり、徒歩だと8時間かかるとでます。怪我をしているのに、そんなに長い距離を行かせるのでしょうか?

土浦駅 to 高安宗悦像

土浦駅 to 高安宗悦像



実は、土浦-佐原間には水運があったのです。霞ヶ浦の水運です。
現代では霞ヶ浦の水運は観光だけの利用になっていますが、江戸時代は人と物資の往来に利用されていたのです。水運によれば、怪我人でも移動に負担はそれほどはかからなかったでしょう(時間はかかったでしょうが)。

高安家ですが、残念ながら16代で終わりを告げてしまいました。高安本世堂医院は現在はありません。16代高安宗悦は1979年11月6日に没し、これにより高安家の歴史は扇島においては幕を閉じたとされています。

香取市扇島には、高安宗悦像が建っており、往時の記憶を留めています。

高安宗悦像 · 〒287-0801 千葉県香取市扇島

彫刻

高安宗悦像 · 〒287-0801 千葉県香取市扇島





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文政11年2月中旬・色川三中「家事志」

2023年02月20日 | 色川三中
文政11年2月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年2月11日(1828年)
親戚(叔父の利兵衛殿のおい)が柴崎村から土浦に来た。家に泊まり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
親戚が柴崎村から土浦に来ました。柴崎村は現在の茨城県稲敷市柴崎。土浦までは約25 kmです。歩けば半日かかります。事前に手紙で知らせてきたのか、事前の連絡なく来たのか、この点は書いてありませんが、今と違って事前の連絡手段は手紙しかなく、手紙を送るには飛脚か知り合いに頼むしかないので、どうやって連絡をつけていたのか興味深いところです。

柴崎 to 土浦城 大手門跡

柴崎 to 土浦城 大手門跡



文政11年2月12日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年2月13日(1828年)
一昨日から泊まっていた親戚(叔父の利兵衛のおい)は、本日柴崎村(稲敷市)に帰って行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
柴崎村から訪ねてきた利兵衛殿(叔父)のおいは、三中の家に2泊して、地元に戻っていきました。家に人を泊めることが普通に行われていた時代です。



文政11年2月14日(1828年)
日向亮元の母親が昨夕亡くなった。日向亮元も江戸から戻ってきた。本日葬礼。金一朱、米三升、手伝いを一人遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
2月10日に、日向亮元の母親が危篤になりましたが、13日にお亡くなりに。日向亮元は医師で、一人前の医師になるように支援していたそうです。江戸から急を聞いて駆けつけていますが、親の死を看取ることができたのでしょうか。

文政11年2月15日(1828年)
勅使河原様のご息女が昨日死去。叔父の利兵衛殿を遣わした。本日葬儀。手伝いを一人遣わした。高恩ある人なので、以後も付き合いを欠かさずに行うべきである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日に引き続き訃報。勅使河原様にはだいぶお世話になったようで、昨日、本日と続けて手伝いを出しています。葬儀に人を遣わすというのは、付合いとして大事だったようで、三中はマメにその点を書き記しています。

文政11年2月16日(1828年)
伊勢屋からの依頼で、(伊勢屋の)新宅に行き交渉を行う。交渉はうまくいった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が自分の揉め事を他人に交渉してもらっている記事は多いのですが、これは三中が他人の揉め事の交渉を行った記事。この時代は揉め事はお互い様という感覚だったのでしょうか。それとも報酬も支払われたので家業の助けになったのでしょうか。

文政11年2月17日(1828年)
朝から交渉事で深谷村(かすみがうら市)に行く。知り合いの清水氏に会い、菓子百文を渡す。清水氏の孫(女子)は今年六歳になるというが、初めて清水氏に会ったときはまだ生まれていなかったはずだ。この子の母親はそのときにはいたが、今は亡くなってしまったという。光陰矢の如しである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中はまだ数えで27歳ですが、物思いにとらわれるような記事が時々あります。以前生まれていなかった女の子が生まれており、その子の母親は亡くなってもういない。何とも切なく、無常を感じざるを得ません。
 深谷村は現在の茨城県かすみがうら市深谷。土浦までは約10 kmです。深谷村の清水家は、三中の曽祖父の実家。曽祖父は清水家から色川家に養子に来ています。

土浦城 大手門跡 to 深谷

土浦城 大手門跡 to 深谷




文政11年2月18日(1828年)
#色川三中 #家事志
(編集より)本日から24日まで三中先生、ご休筆です。三中先生にしてはこれほど長い期間休筆されるのは珍しく、後に次のようにコメントされています。
「仕事は繁盛しており、雑用も忙しい。持病も再発してしまって、これらすべてを日記に書き記すことなどできない。漢方薬(麻黄湯)を自己流で処方して服用して、調子は良くなった。」

文政11年2月19日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日ご休筆のため、2月17日の日記(深谷村の清水家を訪れたときのこと)の補遺をご紹介します。
#色川三中 #家事志
「知り合いの清水氏の近くの小家がある。聞けば、去年そこの婿殿が出奔してしまい、分散を行ったという。今はひどく荒れてしまっていて目も当てられない。」
(コメント)
ふと目に入った家がとても荒れていて目も当てられない状態。聞けば、婿殿は出奔して分散(破産の一種)したといいます。これもまた無常。現代と同じ格差社会。三中は事業を成功させていくのですが、このように夢破れて去って行く者も多かったのでした。

文政11年2月20日(1828年)
#色川三中 #家事志
(編集より)色川三中先生、本日ご休筆のため、この時代の手配書(御触書)をご紹介します。

(御触書)
一 要助の人相書。同人は、本年(文政10年)10月1日暁に、下総国葛飾郡古河石町の富之助を殺害し、同人の妻やすにけがを負わせて逃走。同人は被害者富之助の従業員である。
 一 年齢は21歳くらい
 一 中丈中肉、面体は丸く、色は白い
 一 眼は細い
 一 眉毛は濃い
 一 髪・月代とも濃く、髪は厚い方である
 一 身常体
 一 歯並びは揃っており、話し方は静かである
 一 逃走したときの衣類。木綿の茶の縦縞の袷。木綿の紺の縦縞の単物を着ており、木綿の紺の縦縞三尺帯を締めている。
(以下略)
全文は別記事をご覧ください。

江戸時代の殺人事件の御触書 - 法律事務所南斗のブログ

〈はじめに〉土浦に住んでいた薬種商色川三中は、日記「家事志」で、様々なことを書いています。ここでは御触書を紹介します。御触書自体は文政11年1月4日付で日記に書き写...

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嘉永6年2月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年02月13日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年2月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。

嘉永6年2月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師とともに公事宿の山形屋に行き、宿替えを要望。
山形屋「藩のお方が御承知にならないと…。私どもには何とも申し上げようがありません」
もっともな話しなので、領主の淀藩の上屋敷(小川町)に行った。足立鏡蔵様とお話しし、ご承知くださったので、山形屋に宿替え。下代に着届を作成してもらい、提出。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛らは当初蓮屋という公事宿に泊まっていたのですが、山形屋に宿替えを要望。宿替えは領主の同意が必要なため、淀藩上屋敷まで行って、宿替えを承知してもらいました。山形屋は馬喰町にある公事宿です。

嘉永6年2月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師と共に、湊川の借家へ行く。源兵衛殿に髪を結ってもらった。荒海村の平右衛門が来たので、午後2時ころに丁子屋に多葉粉(タバコ)を一緒に買いに行った。夕方には山形屋に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
先月までは打合せは、大原幽学の宿泊先の邑楽屋で行われていましたが、打合せがしやすいように湊川の借家を借り、ここが打合せの拠点となっています。奉行所から呼び出しがあるまでは、ひたすら待機。髪を結ったり、多葉粉(タバコ)を買いに行ったりと江戸での生活を楽しむ余裕が出てきました。

嘉永6年2月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師と共に日本橋の文魁堂に、硯、墨、筆などを買いに行く。昼食後、湊川の借家へ。大先生(大原幽学)は書き物。高松様もおいでになられて種々相談。
夕方風呂に入って、夕暮に湊川をでる。途中、籾蔵裏の鍛冶屋で火箸を、あたらし橋の丁子屋で多葉粉(タバコ)を買う。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所から呼出しがあるまで待機しなければなりません。呼出しはいつあるか分からず、長期戦を覚悟しなければなりません。その為の買い物でしょう。硯、墨、筆、火箸を購入しています。「多葉粉」はタバコです。

嘉永6年2月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
本所の森下町で書物箱(中古)を二つ買う。宿に戻って中食を食べた後、湊川の借家へ。大先生(大原幽学)は書き物をされており、高松様や力蔵様もおられた。
諸徳寺村(現旭市)の善兵衛殿と宿への帰り道をご一緒した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本所の森下町は、現在の東京都江東区森下。深川神明宮の門前町として栄えたところです。現在の馬喰町駅から森下駅までは2㎞弱であり、中古の物を安く売っているところとして有名だったのかもしれません。

馬喰町 to 深川神明宮

馬喰町 to 深川神明宮



嘉永6年2月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨で終日宿。書物を書き写す等して時間を過ごす。浜町の桝屋に手紙を持っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
いつも大原幽学のいる湊川の借家に行き、打合せ等をしていますが、今日は大雨のため外出できず。長い裁判の間にはこんなこともあります。

嘉永6年2月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家で昼食。夕方に元俊医師、平右衛門殿(荒海村)と共に山形屋に帰る。
晩になって、龍ヶ崎から二名の者が山形屋に来た。大風で誠に騒々しい、火事も三か所から出ており、夜眠ることもできない。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日は大雨で宿に籠もらざるをえませんでしたが、今日は無事に外出でき、湊川の借家で昼食。しかし、特にやることもないようで七ツ時ころ(午後4時)には宿に戻っています。晩になって大風。火事がでて騒々しい夜となってしまいました。

嘉永6年2月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記
本日も大風。外にでることもできず、終日宿にいて、写し物をする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨晩に引き続き大風、春のあらし。今日は大人しく、宿に籠もっています。「写し物」とは、貸本屋で本を借りて、本の写しを作成すること。高橋敏『江戸の訴訟』(岩波文庫)でも貸本を書き写すエピソードが紹介されています(同書69頁)。

嘉永6年2月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ。荒海村の平右衛門が入門希望者(四ツ谷村の平蔵)を連れてきた。大先生(大原幽学)に初めてお目通り。が、平蔵が余りにもやる気がない。本来なら誓約書(神文)を書くのだが、弟子の我々に平蔵とよく話すようにとの大先生のご指示。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学に弟子入りしたいという者(平蔵)が湊川の借家にやってきました。しかし、やる気がなく、どうもシャキッとしない様子。弟子入りの誓約書は、五郎兵衛らとよく相談してから提出するようにといわれてしまっています。

嘉永6年2月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日の入門希望者の平蔵の態度が悪かったので、朝飯後からそのことで話し合い(昼食抜き)。平蔵もようやく理解してくれたので、一緒に湊川の借家に行き、大先生(大原幽学)と会う。夕方にようやく茶漬けにありつく。湊川で夕飯まで済ませてから、夜四ツ時(午後10時)に山形屋に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は入門者平蔵のお世話。入門の動機が今ひとつだったのか、五郎兵衛らがカウンセリングをして、ようやく入門の決意が固まったようです。昼食抜きで入門者の世話をし、夕方にようやく茶漬けにあずかれました。

嘉永6年2月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記
宿(山形屋)で平蔵に誓約書(神文)の書き方を教える。昼食は五色という店でとる。日暮れになって村の付添人(差添え)の交替要因が来た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も入門者平蔵のお世話。本日は誓約書(神文)の書き方を教えています。江戸時代の裁判は裁判の当事者だけではなく、村から付添人(差添え)を出さなければなりませんでした。差添人は江戸にいる限り村での仕事ができませんから、今回の記事のように時々は交替していたようです。



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文政11年2月上旬・色川三中「家事志」

2023年02月10日 | 色川三中
文政11年2月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年2月1日(朔)(1828年)
辛未 雨
#色川三中 #家事志
(コメント)本日は天気だけの日記の記載です。ここのところ書いていない日も多かったので、天気が書けただけでもやる気がでたのかもしれません。このあと日記は連日書き継がれます。

文政11年2月2日(1828年)
夜、伊勢屋のいせ太が来る。伊勢屋の身上(財産)について大いに話した。いせ太が帰ったのは九つ時(午前0時)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
伊勢屋さんとは親しくお付き合いをしています。1月下旬には伊勢屋で元服した者を書き留めていますした。今日は、夜になってから伊勢屋の財産について議論となり、真夜中まであれこれと話しをしたようです。



文政11年2月3日(1828年)癸酉 風
今日は霊社十三回忌。御神酒及び茶飯をお供えした(茶飯は、かわらけで洗米して炊いたもの)。高松大和守を呼び、祝詞をあげてもらった。以後は、忌にあたるごとに家内中仕事を休むこととする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
十三回忌の記事ですが、仏式ではなく神式です。国学の影響でしょう。三中は国学にはだいぶ入れこんでいたことがわかります。


文政11年2月4日(1828年)
大町金兵衛殿との件は、大変難しい交渉であったが、本日内済(示談)となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
内済というのは、示談のことです。江戸時代は内済と言っていました。大町金兵衛殿との件は、ようやく示談ができ、一息ついた三中でした。


文政11年2月5日(1828年) 晴
高津(土浦市)の名主の世話人方へ、与市を遣わした。金二朱を用意したが、それでは話しがつかず与市は戻ってきた。昼過ぎ、名主の世話人方から人が来て、再考してほしいというので、金百疋を上乗せして話合いに応じた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市は先月18日に下総(千葉県)から土浦に戻ってきてくれました(1月24日条)。本日は高津の集落との交渉で、早速活躍しています。与市を交渉に向かわせていますから、一筋縄ではいかないようで、一旦は話合いを打ち切って戻ってきています。



文政11年2月6日(1828年)
利兵衛戻る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
利兵衛は色川三中の叔父。事業に失敗したのか破産となり、現在は三中の事業を手伝っています。その利兵衛が「戻った」というだけの記事。どこから戻って何をしていたのか書いていません。三中の日記にはこういう唐突な記事が多く、コメントを書きづらいことこの上なしです。

文政11年2月7日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年2月8日(1828年)曇
町内のもめごとが内済(示談)となった。今後はもろもろの勘定を行うにあたっては、高持百姓と小前百姓が一人ずつ立ち会うことが決まったとの町からお触れがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の記事の内済(示談)は、三中自身は関与しておらず、町からのお触れを書き留めたもののようです。高持百姓は本百姓ともいい、年貢付きの田畑を持って、持高相当の年貢、諸役を勤める中堅の百姓のこと。小前百姓はそれ以下の百姓。身分制下の対立が激しくなってきていることが窺えます。

文政11年2月9日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年2月10日(1828年)
夜、日向亮元の母親が危篤との連絡。江戸にいる日向亮元や水海道に住む関係者に飛脚で知らせる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「日向」は医師である日向亮元のこと。その母親が危篤。日向亮元は江戸にいるので、飛脚を使って急報を知らせます。三中は日向亮元が一人前の医師になるように骨を折っており、身内のような心配ぶりです。


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嘉永6年1月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年02月06日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年1月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。

嘉永6年1月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記
2月には江戸に戻ってくるよう奉行所からいわれており、本日八ツ時に長沼村を発つ。元俊医師及び今回の村の差添である組頭の五兵衛と。市右衛門が馬で送ってくれた。本日は大森宿(印西市)の角屋で泊。六ツ半到着。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
12月の審理で2月に再度出頭せよと奉行所からの指示がありました。被告人である元俊医師と五郎兵衛のほか、村の役人が差添人として同行します。
八ツ時(午後2時)という遅い出発なので、大森宿で宿泊と決めていたのでしょう。長沼村(現成田市長沼)から大森(現印西市大森)までは約18 kmです。市右衛門が馬で送ってくれました。

長沼 to 大森

長沼 to 大森



嘉永6年1月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝、組頭の五兵衛殿が大森の役所に行き、江戸へ行く手続きを済ませた。村から出るときは大森の役所で手続きしなければならないのだ。五ツ半時に大森宿を出立。鎌ヶ谷宿の鹿嶋屋で昼食。坂佐井で暮六ツとなって、大雨も降ってきたので同所泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大森宿(現印西市大森)で江戸へ行く手続き。大森には長沼村の領主である稲葉氏(山城国淀藩)の役所(陣屋)があり、村を出るときは届けを出します。
鎌ケ谷(現鎌ケ谷市鎌ケ谷)で昼食を取りました。坂佐井で泊と書いてあるのですが、坂佐井が今のどこなのか同定できません。五郎兵衛たちが通っている木下街道の宿場の名前では坂佐井という宿はないのです。

嘉永6年1月30日(晦日)(1853年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半に坂佐井を出立し、九ツ時には江戸の本銀町蓮屋に到着する。蓮屋は先月も泊まった公事宿だ。
八ツ半時、元俊医師と共に大先生(大原幽学)に挨拶に行く。大先生は公事宿とは別に松下町湊川に借家を借りており、今後はここが拠点となる。
湊川で話合い。我々の宿を馬喰町山形屋にできないかとの話がでた。どうも蓮屋さんではこの裁判うまく対処できないという見立てのようだ。七ツ時、蓮屋に戻る。
荒海村の平右衛門や喜兵衛も届を出しにいって夜六つ半には宿に帰ってきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸に到着。先月泊まった本銀町の蓮屋に荷物を降ろしました。
その後、五郎兵衛と元俊医師は、大原幽学らのいる松下町湊川の借家へ。大原幽学は先に江戸に到着していました。
ここで、蓮屋から馬喰町の山形屋に宿替えできないかとの話がでました。蓮屋も山形屋も公事宿ですから、弁護士の交替のようなものです。

本銀通り · 東京都中央区

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文政11年1月下旬・色川三中「家事志」

2023年02月02日 | 色川三中
文政11年1月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年1月21日(1828年)
(編集より)本日色川三中先生は休筆です。昨日夕方行商からお帰りになられお疲れなのかな。
#色川三中 #家事志

文政11年1月22日(1828年)
伊勢屋さんのところの文二郎が元服。今後は「淋兵衛」との名のりとなる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
元服についての記事。目出度いことです。
伊勢屋さんとはいろいろと付き合いがあって、近いところですと11月中旬には髪置きのお祝いで雪駄を送っていました。


文政11年1月23日(1828年)
#色川三中 #家事志
(編集より)本日色川三中先生は休筆です。一昨日も休筆です。公私共にお忙しいのかもしれません(行商後ということもありますし)。明日は書いていただけると信じておりますが、しばらく休筆日がある予感がします。


文政11年1月24日(1828年)
与市が今月18日に土浦に戻って来てくれた。七兵衛を下総にまで行かせて、うまく説得してくれたおかげだ。七兵衛が与市と連れ立って土浦に連れて帰ってきてくれた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市がようやく戻ってきてくれました。与市は、下総富谷村(千葉県匝瑳市)で庄屋まで務めた人物で、なぜか土浦まで来て色川家の様々な仕事をこなしていました。昨年5月中旬に与市は国に帰ってしまい、色川家の仕事が回らず、三中に負担がかかっていました。与市の復帰で戦力アップは間違いなしです。


文政11年1月25日(1828年)
(編集より)本日色川三中先生は休筆です。
#色川三中 #家事志

【告知】
1月28日から大原幽学の刑事裁判(弟子五郎兵衛の日記より)を再開します。12月に奉行所から、村に帰ってよいが、2月には江戸に出てくるようにといわれて、裁判がお休みとなっていました。
大原幽学が刑事裁判となった経緯

大原幽学の刑事裁判と「五郎兵衛日記」 - 法律事務所南斗のブログ

(大原幽学の刑事裁判と「五郎兵衛日記」について)大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」というものがあります。日記原本は...

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文政11年1月26日(1828年)丙寅
大町金兵衛との交渉が、非常に難しい。間に入っている利兵衛や藤兵衛からそのように報告を受けたのだが、さてどうしたものやら。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大町金兵衛との交渉が難しいことになっているようです。相変わらず前置きなしの記事でして、大町金兵衛が何者で、どのような交渉なのかの説明はありません。ともかく難しいことになっているのはわかるのですが…

文政11年1月27日(1828年)
(編集より)本日色川三中先生は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年1月28日(1828年)
#色川三中 #家事志
(編集より)色川三中先生、2日続けて休筆です。お忙しいのか、それとも昨日、大町金兵衛との交渉が難所に差し掛かっているとの記事がありましたからそのストレスなのか…

文政11年1月29日(1828年)
大町金兵衛との交渉の件。高砂屋(清左衛門)から「明日、大町金兵衛のところに行ってくれないか」と頼まれる。交渉が難航しており、直々に大町金兵衛のところに行かなければ解決しないようである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
1月26日の記事に続けて大町金兵衛との交渉の記事。これまで間に人を介して交渉を行なっていましたが、三中自身が直接交渉しなければならないようです。


文政11年1月30日(晦日)(1828年)
庚午 晴れ
大町金兵衛のところで、交渉を行う。難しい交渉である。ここ数日の忙しさとこの交渉でかなり疲れた。筆舌に尽くしがたいほどの疲弊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
1月26日からこのかた大町金兵衛との交渉記事ばかりであり、相当なストレスがかかっていたようです。あまり弱音は吐かないのですが、「筆舌に尽くしがたいほど疲弊した」との弱気な言葉を残しています。


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