南斗屋のブログ

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若森県の郷宿

2023年08月31日 | 公事宿・郷宿
若森県は1869年(明治2年)2月9日 - 1871年(明治4年)11月12日 という短い期間、現在の茨城県内に存在していた県。若森県の名は、県庁が若森(現つくば市若森)にあったことによります。
#公事宿・郷宿
つくば市若森

若森 · 〒300-3252 茨城県つくば市

〒300-3252 茨城県つくば市

若森 · 〒300-3252 茨城県つくば市



若森県の管轄区域は常陸(新治、筑波、真壁、茨城四郡)及び下総(豊田、岡田、結城三郡)と広範囲で、560余りの村、石高は約28万石です。

若森県に郷宿に関する史料が残っており、『大穂町史』に取り上げられています。
郷宿とは、「江戸時代、訴訟、裁判などで江戸へきた者を宿泊させ、訴訟指揮を請け負った旅宿のこと。江戸以外では郷宿(ごうやど)という所が多い。」(コトバンク)と説明されております。

公事宿・郷宿に関する史料発掘は進んでいるとは言い難い状況です。法学では法制史的な側面に研究の重点があったため、公事宿関係の研究はさほど進んではおりません。

江戸等の大都市にある公事宿ですら、そのような研究状況ですから、地方の郷宿の研究はなかなか進みません。
郷宿に関する史料自体が少なく、その紹介が遅れていることも研究が進まない理由の一つかと思われます。

ご紹介する若森県の史料は、郷宿と茶漬屋(料理提供)が営業範囲を巡ってトラブルになっていたことに関するものであり、当時の双方の営業利益の主張も垣間見える興味深いものです。

『大穂町史』には史料(郷宿・茶漬屋議定)の縮小版の写真及びその内容が記されています。郷宿と茶漬屋双方の氏名と押印があり、郷宿が10軒、茶漬屋が19軒連印しています。おそらく若森県の郷宿と茶漬屋の殆どがこの議定に加わったのでしょうから、明治2年8月時点のそれぞれの名前もこの史料から特定できます。

議定(協定)の内容の一番目は昼食の提供時期についてです。
「若森県支配の村むらから公事出入りなどのために村役人たちが郷宿へ来るが、その客人たちへ郷宿が昼飯を提供するのは昼時刻に限ること。当日中に御用を済ませて帰村したい客人へ茶漬屋より取り寄せて支度いたしたのでは刻限遅れになり、御用済みになっても翌日までかかってしまっては無益の入用がかかる。急ぎの御用の場合は郷宿にてありあわせの品を差し出してもよい。そうでないときは郷宿から昼飯を提供してはならない。」
(コメント)
〈昼飯を提供するのは昼時刻に限る。例外的に急ぎの御用の場合は郷宿にてありあわせの品を昼食として差し出してもよい〉という協定内容です。
郷宿が昼食を提供するとはいっても、茶漬屋より取り寄せて提供しているようです。茶漬屋が低い価格で郷宿に提供している場合は、その分儲けられる機会を失ってますし、茶漬屋で食べてくれれば、他のものもついでに注文してくれるかもしれません。茶漬屋が客を自分の店で食べさせたいと思うのももっともな話し。そこで、郷宿の昼食提供は昼時までが原則という協定内容となったのでしょう。
郷宿が普通の宿であれば、何をするのも自由なはずですが、公事宿として公事関係者の逗留が義務付けられるので、郷宿側に縛りが課せられることになるのです。

議定(協定)の内容の二番目は酒肴の提供についてです。
「郷宿では酒肴を提供しないが、客人が酒がほしいので買ってきてくれと頼んだ時はやむを得ないので これに応ずること 。肴を希望する客人には、茶漬屋から取り寄せて提供し、決して郷宿からは出さないことにする。」
(コメント)
これもまた郷宿の特殊性からの縛り。郷宿では酒肴を提供できないのが原則で、客が酒肴を規模したときは例外的に認めるが、酒は買いに行き、肴は茶漬屋からの取り寄せとすることという縛りが課せられています。

議定(協定)の内容の三番目は茶漬屋で酔っ払って寝てしまう者の取扱いについてです。
「若森県の御用で郷宿へ宿泊する客人は、いうまでもなく たとえ公事出入(訴訟ごと)で出頭し 、止宿しているものであっても、郷宿に知らせることなく 茶漬屋 に留めおいて 御用に支障をきたしては 御役所に申し訳ない。客が酒に酔ったならば 郷宿へ送り届けること 。また歩行できないほど熟睡してしまった客は茶漬屋へ止宿させその旨を郷宿へ知らせること。」
(コメント)
公事出入の関係者が公事宿に泊まらねばならないのは、役所から呼び出すがあったときの連絡先となるためです。裁判がないときに出かけるのは自由なのですが、連絡をつけられるようにしておく必要があります。酒を呑んでそのまま泥酔してしまう者がいるのは、今も昔もかわりません。帰ることのできるものは、郷宿に送り届け、歩くこともできないほど熟睡してしまった者は、茶漬屋で泊まることを郷宿に知らせることが協定されました。



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明治初年の児童虐待- 継子殺し-は死刑? 仮刑律的例 #10継子殺し処置

2023年08月28日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #10継子殺し処置

【伺い】
とみ(入牢中)は継子を殺害しました。不届き至極につき入牢を申し付け、大罪であるため、当春の大赦にもかかわらず、出牢させておりません。
旧幕府の刑律では死刑に処すべきとあります。よって、死刑でよろしいでしょうか。誤一札(本人の謝罪文)の写しを添えてお伺い致します。
【返答】
継子殺しのとみ、短慮の所業でもあるので、死罪から一等を減じての処置とすべきである。

【コメント】
・本件は10番目の伺いです。これまでの9例は全てどの藩からの伺いであったかが記されていたのですが、本件は伺いの主体が明らかにされていません。また、犯行の日時も明らかではありません。
・継子殺しとあるだけで、犯行の詳細も分かりません。「誤一札(本人の謝罪文)の写し」に犯行の詳細が記載されているはずであり、政府側はこの内容を把握しているはずですが、編集段階ではその点は落としています。
・政府は死刑を回避するようにと回答。その理由は〈返答〉では、短慮の所業であることしか触れられていませんが、大赦があることも減刑の要因と読むべきでしょう。
・当春の大赦というのは、明治天皇の元服を理由とする大赦のこと。天皇の父、孝明天皇は慶応2年12月25日崩御し、明治天皇は慶応3年1月9日、満14歳(元服前)で践祚。慶応4年1月15日に元服。この元服を理由として同日参与役所からの大赦の布告が行われています。
・内容は以下のとおり。
「今般朝政御一新となり、この15日に御元服の御大礼が行われた。天皇は、御仁恤(あわれんで情をかけること)の聖慮を以って、この世を天下無罪の域にしたいとの思し召しであり、朝敵を除いて全ての者を大赦とする。各国とも漏れなくこれを実行すべきである。」
(慶応4年1月15日参与役所からの布告)
・本件は継子殺しとはされておりますが、この時代は殺人罪と傷害致死罪の区別がなく、全て「殺し」と括られてしまっています。政府の返答で「短慮である」即ち計画性がないとそれていることからも、現代であれば傷害致死の事案なのかもしれません。現代でも児童虐待事案で児童死亡事案は傷害致死罪が多いです。
・現代であれば、児童虐待ととらえられる事象ですが、この当時はそのような意識はほとんどなかったのでしょう。


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三中、瘧にかかるも全快 文政11年8月中旬・色川三中「家事志」

2023年08月24日 | 色川三中
文政11年8月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年8月11日(1828年)
発熱。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中、瘧に感染中。
瘧は発熱と間日(熱がない日)を繰り返します。本日は発熱。


文政11年8月12日(1828年)
熱なし。
江戸にいる利助から書状が届く。想定外のことが起きたとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中、瘧に感染中。
一週間ほど前に、利助を江戸に出張に行かせていますが(8月6日条)、悪いときには悪いことが続くもので、想定外のことが起きたとの書状が届きました。


文政11年8月13日(1828年)
熱なし。気分もよし。早朝起きて露水を飲み、供物をいただき、漢方薬を服す。母は百仏を拝し、妻は田螺を三つ取ってきてくれた。終日発熱なく、瘧はついに治ったようだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日も発熱せず、今日も発熱なし。体調も良くなり、瘧はようやく治りました。妻のせいさんが田螺を取ってきてくれたというのが可愛い。

文政11年8月14日(1828年)
土浦藩の木原行蔵様から病気見舞いに、白玉しるこを頂戴した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「木原行蔵様」は土浦藩の武士。三中は町人ですが、木原様とは様々な交流があり、本の貸し借り等もしています(文政10年9月8日条)。三中が病気と聞きつけて、白玉しるこを病気見舞いに贈ってくれました。
白玉しるこ

木原様に本を返す

文政11年8月15日(1828年)
・七兵衛を大宝八幡宮へ代参させ、坂井の千勝明神に金二朱を奉納させた。家内安全を祈願。
・本日、中秋の名月。しかし、夜曇り月見えず。中秋無月。
#色川三中 #家事志
(コメント)
下妻市の大宝八幡宮と「千勝明神」こと下妻市坂井の千勝神社に家内安全を祈願(いずれも代参)。妻の出産が近づいており、そのための祈願でしょう。三中は、この二社へのお参りにはかなり力を入れていて、昨年2月には自らお参りをしています。


文政11年8月16日(1828年)快晴
夜分に、仙台三度飛脚で水戸の立原屋重右衛門殿の書状が届く。浪人者のことについて書いてあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三度飛脚というのは、月に三度の飛脚便のこと。「仙台三度飛脚」というので、江戸・仙台間の飛脚ルート。水戸の書状を土浦に持ってきていますから、現在の常磐道、常磐線ルート。浪人者のこととはありますが、具体的に何が起きたのかは記載なく不明。

文政11年8月17日(1828年)曇
昨夜届いた書状。与市に頼むほかない。下富谷村の与市宛に急飛脚。飛脚の岡田屋に金一分と二百文、賃先払いで依頼。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨夜、届いた書状は一大事のよう。
下富谷村(千葉県匝瑳市)に戻っている与市宛に書状を急飛脚で出しています。
飛脚には先払いしていますが、書きぶりからは一般的には飛脚は賃金後払いだったようですね。


文政11年8月18日(1828年)曇
七兵衛が大宝堺村千勝様の護摩札を持ってきた。15日に代参させていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「千勝様」は千勝神社のこと。現在の千勝神社はつくば市泊崎あるのですが、江戸時代は今の下妻市坂井にありました(現在の千勝神社下妻分社)。三中は、「堺村」と書いていますが、「坂井村」のようです。江戸時代の地名は読んで同じなら良いみたいなところがありまして、同じ人でも気分での漢字変えたりしています。

文政11年8月19日(1828年)雨・晴
昨夜、田中の八幡様で内検見。従前のやり方とは変わり、高持・小前の双方を立ち会わせ、入札で引方するというやり方とのこと(病気ゆえ不参、横田から聞いた話しである)
#色川三中 #家事志
(コメント)
「内検見」は、その年の租率を決めるにあたり、村役人・地主立ち会いのもとに、稲の出来ぐあいを検査して実収高をさだめること。内検(コトバンク)。税金に関することなので、三中もかなりの関心をもって書き留めています。
 
文政11年8月20日(1828年) 晴
今月17日に出した飛脚が下総から与市のをもって戻ってきた。私の書状を読み、与市は水戸へ行ってくれたという。細かいことは飛脚から口頭で聞く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
8月17日に下総にいる与市宛に派遣した飛脚ですが、4日目に土浦に帰ってきました。行きに2日、帰りに2日。土浦から下総下富谷村は遠いですね。土浦からは片道60キロ以上あります。

土浦城 大手門跡-八日市場駅 (63 km)

土浦城 大手門跡 to 八日市場駅

土浦城 大手門跡 to 八日市場駅







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夜盗には死刑でよいですか? 仮刑律的例 #9盗賊処置

2023年08月21日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #9盗賊処置
(要約)
(明治元年十一月、伊予西条藩からの伺)
夜盗を働き入牢中の者について伺います。この者、一度夜盗を行いましたが、当春の大赦により釈放致しました。しかし、釈放後に再び夜盗を行いました。重ねての犯罪、不届き至極ですので、死刑としてよいかお伺いします。
【返答】
この者、夜盗とはいっても強盗ではないので、再犯に及んだとはいえ死刑にするほどのことはない。当年九月の即位の礼前の犯罪であり、本来の罪から一等を減じて処置されたい。

以上はかなり要約したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
#仮刑律的例 #9盗賊処置
【伺い】
明治元年十一月、松平左京大夫(伊予西条藩)からの伺
一 中西村に入牢している弥之吉は夜盗を行いました。重々不届き至極であり、死刑を申し付けようとしたところ、当春に大赦があったため、釈放致しました。
しかし、ほどなくして再び夜盗を行い、多額の被害が出ました。重ねての犯罪、不届き至極であり、旧幕府の刑律(公事方御定書)及び領内の法に照らすと、死刑に処すべきですので、死刑としてよろしいでしょうか。
一 中村に入牢している良蔵は夜盗を行いました。重々不届き至極であり、死刑を申し付けようとしたところ、当春に大赦があったため、釈放致しました。
しかし、盗賊亀吉と申す者と申合せ、親元から品物を盗み取りました。
これまた不届き至極ですので、弥之吉と同様死刑としてよろしいでしょうか。
一 洲之内村に入牢している桃太郎は、夜盗を行いました。重々不届き至極であり、死刑を申し付けようとしたところ、当春に大赦があったため、釈放致しました。
しかし、まもなく夜盗に立ち返りましたのは、不届き至極であります。前同様、死刑としてよろしいでしょうか。

【返答】盗賊弥之吉他二名は夜盗とはいっても強盗ではないので、再犯に及んだとはいえ死刑にするほどのことはない。当年九月の即位の礼前の犯罪であり、本来の罪から一等を減じて処置されたい。


【コメント】
・伊予西条藩からの夜盗を行った者の処置についての伺いです。夜盗とはいっても強盗ではなく、窃盗犯のようです。
・伊予西条藩は三名の者を死刑にしようと考えたため、明治政府に伺いを立てています。明治初年、死刑にする場合は、政府に伺いを立てよという決まりでした。
・三名の犯罪パターンはほぼ同じで、夜盗⇒大赦による釈放⇒夜盗の再犯というものです。
・窃盗犯とはいえ、「公事方御定書」では、①10両以上のお金を盗んだ場合、②他人宅に忍び込んで物を盗んだ場合は死罪とされていました。それゆえ、伊予西条藩の担当者は、旧幕府の刑律(公事方御定書)等により、本件は死刑に処すべきと考えたのです。
・しかし、明治政府はこの考え方を取りませんでした。窃盗については、明治元年10月に公事方御定書の考え方を否定して、死刑となるべき要件を限定しています。倉庫破りをしたが窃盗には至らなかった場合は笞50回、盗みをした場合は被害金額が20金以下であれば笞百回との布告がでています(刑律改定についての行政官布告)。この考え方を前提として、本件については死刑とするまでもないとの結論を出していると思われます。
・本件で裁判対象となっている者はいずれも牢屋に入れられております。牢屋は今でいえば拘置所、つまり裁判がでるまでに拘束される場所です(未決勾留場所)。裁判にかけられている三名は、全員異なる村に拘束されています(中西村、中村、洲之内村)。江戸では伝馬町に牢屋敷を建て、集中的に拘束していたため、異常な過剰拘禁状態が生じていましたが、地方では江戸ほどの犯罪件数はないたので、伝馬町村牢屋敷のような大きな施設は作らず、村のレベルで牢屋を作っていたのではないかと思います。




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博奕犯は他藩の者でも処罰してよいですよね? 仮刑律的例 #8博奕処置

2023年08月17日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #8博奕処置

【超訳】
(明治元年、丹波亀山藩から伺い)
うちの藩内で博奕をやった他藩の者は、うちの藩で処罰して良いですよね?以前からそうやってますし。
〈政府の返答〉いいよ。

(もう少し真面目な要約)
(明治元年十一月、丹波亀山藩からの伺)
当藩の領内で博奕をした他藩の者は、当藩で取調べ、処罰してよろしいでしょうか(従前の方法はこれです)。それとも、その者の支配地頭に引渡した方が良いでしょうか。
〈返答〉従前どおりの方法でよい。他藩の者は、支配地頭にも了解を得たうえで、役場において取調べを行い、刑を科してよい。

以上はかなり要約したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
#仮刑律的例 #8博奕処置
【伺い】
明治元年十一月、松平図書頭(丹波亀山藩)からの伺
当藩の領内で博奕をした者を召し捕りました。その中には他藩の者もおりました。
これまでの仕来りでは、他藩の者は、その支配地頭にも了解を得たうえで、当役場において取調べを行い、領法のとおり刑を科しておりました。
今般の政府のご布告からしますと、他藩の者はその支配地頭に引渡した方がよろしいのでしょうか。そうしますと、当藩には不都合なことも生じてしまいます。
いずれの取計いが妥当かお伺いする次第です。
【返答】従前どおりの方法でよい。他藩の者は、支配地頭にも了解を得たうえで、役場において取調べを行い、刑を科してよい。

【コメント】
・丹波亀山藩からの博奕に関する裁判の伺いです。
・江戸時代、他領の者は裁判できないのが原則でした。例外は博奕の場合。この場合は、犯罪地の領主に裁判権が認められていました(寛政6年=1794年以降)。これは博奕への取締強化、事件の迅速な処理のためです。それだけ、博奕が流行ってしまって何とか禁圧したかったのでしょう。
・丹波亀山藩でもそのような扱いがされていたことがわかります(「他藩の者は、その支配地頭にも了解を得たうえで、当役場において取調べを行い、領法のとおり刑を科しておりました。」)。博奕の場合、犯罪地の領主が他藩の者に裁判権を行使していました。
・この方針を明治政府のもとでも行ってよいのかが問題になりましたが、明治政府は、この扱いを認めています。少なくとも博奕については、他領の者でも処罰できることが明らかになったといえます。

追記
・現代では、どこの者であっても犯罪地で刑事裁判ができます。
刑事訴訟法の規定(2条1項)
裁判所の土地管轄は、犯罪地又は被告人の住所、居所若しくは現在地による。


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文政11年8月上旬・色川三中「家事志」

2023年08月14日 | 色川三中
文政11年8月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年8月1日(朔)(1828年)
【行商終了】本日、行商先から夕方帰宅。風静かにして、天気佳し。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商は本日で終了し、土浦に帰宅しました。行商の成果について直接の言及はありませんが、「風静かにして、天気佳し」との記載からは十分な成果があったことを窺わせます。
今年の8月1日は旧暦6月15日となります。旧暦6月15日は宮薙。神社の掃除をする行事です。茨城、千葉だけにあるようです。旧暦6月15日が本来の宮薙の日ですが、太陽暦ではスライドして7月15日に、さらに平日を避けて15日周辺の土日に行われているようです。昔ながらのところは7月15日早朝に行っているところもあります。


文政11年8月2日(1828年)晴
蜘蛛病の患者に効くだろうと思い、主治医の日向医師に勧めた処方は、やはり効いた。蜘蛛は便と共に排出されたとのこと。大効無比。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「蜘蛛病」というのは、口から蜘蛛を吐く(!)婦人の奇病のこと。色川三中は薬種商で、医師ではないのですが、どうも自分の処方に自信があるらしく、主治医の日向医師に処方を指導しています。結果、蜘蛛病は治りました。「大効無比」との言葉からは、してやったりとの三中の得意気な顔が想像されます。

文政11年8月3日(1828年)雨
東覚寺の住職と入樋の件で話す。「名主の入江氏とこの件でギクシャクしておりますが、彼に恨みがあってのことではありません。彼とは幼少のころからの竹馬の友です。この件は昔からの例のとおり行われるべきというのが我々の考え方でして、名主にはその点で反対しているのです」と住職に申しあげた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中は後年国学者として名を残すだけあって、自分がこうと考えたことには自信をもってそのまま突き進もうとする傾向があるようです。本日の入樋の件についても、昔からの例によるべきとの考えに至ってからは、全くブレておりません。

文政11年8月4日(1828年)雨
日向医師から蜘蛛病患者の件で話しあり。
私が処方した薬は効いたが、藤田医師(土浦藩御典医)が先に治療していたからで、私の処方は補助的な効果しかなかったという。なぜ、そんなに藩御典医の権威をことさらに持ち出すのか。医師たるもの仁心により人を救うことを考えなければ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
蜘蛛病の婦人は三中の考えた処方で治ったのですが(8月2日条)、日向医師は藩御典医の権威を持ち出し、三中の処方に否定的な発言を面と向かってしてしまいました。三中はこれに怒っています。実証的考えの三中にとっては、藩御典医の権威に日和った考え方は許せなかったのでしょう。

文政11年8月5日(1828年)
西門松喜の借金を完済。
間に入ってくれていた熊野屋が借金の証書をもってきてくれた。熊野屋にはお礼に、わり酒一升、三杯漬け一皿を贈った。
夜、熱が出た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「西門松喜」は土浦町西門地区の松屋喜兵衛さんのこと。昨年6月23日に合意が成立しており、毎月支払いをしていました。
交渉がかなりゴタゴタしたこともあり、この借金の完済は嬉しかったのでしょう。熊野屋さんは交渉のときから間に入っていたので、お礼をしています。


文政11年8月6日(1828年)
朝、従業員の利助を江戸に出立させた。
本日、終日体調不快。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員「利助」を三中は重宝して使用しており、母親が江戸に旅をするに当たっても同行者としています(4月4日条)。今回江戸に出張させていますので、何か重要な用事なのでしょう。


文政11年8月7日(1828年)曇
本日体調戻り、大いに良し、と思っていたら、夕方から発熱。どうも瘧にかかったらしい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日の記事「本日、終日体調不快」となっており、心配でしたが、やはり病気だっようです。ぎゃく【瘧】は寒さやふるえや高熱が一定の時間をおいて繰りかえされる病気。おこり、とも。病気の知識のある三中らしく、発熱の波でそれと分かったようです。

文政11年8月8日(1828年)
発熱なし(間日)。
江戸から大枝清兵衛殿が2ヶ月ぶりに来られたが、瘧の症状が続いているので、上がらずに帰ってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日発熱し、瘧だと考えた三中。今日は熱発はありません。取引先が来ましたが、瘧にかかっては、会って話すわけには行きません。大枝清兵衛は江戸の薬種問屋。本拠は江戸で、土浦には営業に時々来ます。土浦には2ヶ月ぶり。


文政11年8月9日(1828年)
発熱。
#色川三中 #家事志
(コメント)
瘧は熱発と発熱がない日を繰り返すのが特徴なようです。三中は「発熱」「間日」(発熱がない日のこと)を簡潔に日記に記載しています。

文政11年8月10日(1828年)晴
発熱なし(間日)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
瘧は熱発と発熱がない日を繰り返すのが特徴なようです。三中は「発熱」「間日」(発熱がない日のこと)を簡潔に日記に記載しています。今日は発熱がない日(間日)でした。





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明治初年の被告人の扱い方 仮刑律的例 #7罪囚人取扱方

2023年08月10日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #7罪囚人取扱方

(明治元年十一月、但馬村岡藩からの伺)
【超訳】
(伺)
被告人となった武士を裁判のために連行するのに乗物を使用してよいですか。
(返答)乗物を用いよ。

・三度の食事は一汁一菜で良いでしょうか。
(返答)そのとおりでよい。

・刃物等は渡さないということでよろしいか。爪切りは番士の内でとらせることでよいか。
(返答)そのとおりでよい。

・髪結いも番士の内でとらせることでよいか。月代は剃らせないことでよいか。
(返答)そのとおりでよい。

・風呂には月に何度入らせるべきか。
(返答)沐浴は見計らってさせるべきである。

・病気の際はかかりつけの医師に診察させ、容態によって届けがあれば、当方の医師に診せることでよいか。
(返答)そのとおりでよい。

・衣類や夜具は木綿でよいか。
(返答)そのとおりでよい。

・呼出の際は羽織・袴を着用すべきか。
(返答)そのとおりでよい。

・その際に腰縄をかけるべきでしょうか。
(返答)腰縄をかけるには及ばない。

・三度の食事のほか、当人の好みで食べ物を足してもよいか。
(返答)そのとおりでよい。

・囲いの内では煙草盆や火鉢は差し入れないことでよいか。
(返答)そのとおりでよい。

・呼出すときに、警固のための付添一つの数、昼夜の警衛人数は何人が良いでしょうか。
(返答)付添人及び警衛の人数はその時に考えたとおりで良い。

・番士の面々は、士分だけでなく足軽を取り混ぜてもよいか。
(返答)そのとおりでよい。

・本人から筆や紙の所望があった場合、渡しても良いか。
(返答)そのとおりでよい。

【コメント】
・【伺い】と【返答】は、元々はそれぞれまとめられているのですが、見やすさ優先で一問一答形式にしてみました。
・但馬村岡藩は維新時に立藩された藩で、江戸時代には藩としては存在していませんでした。それが理由かわかりませんが、細かい事項まで伺いに記しています。おかげで現代の我々には、この当時の被疑者・被告人がどのように扱われたかが分かります。これもまた貴重な伺い例です。
・この伺いはあくまでも武士が被疑者・被告人の場合であると思います。原文にはそのような限定した表現はないのですが、その前提でないと成りたたない箇所があります。
・武士以外の者はこの取扱いの範囲外ということになります。かなりの差異があったと思われます。





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帰村。江戸出府する五郎兵衛 嘉永6年7月・8月上旬大原幽学刑事裁判

2023年08月07日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年7月・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年7月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝、小石川の高松様方へ行き、暇乞い(高松様はご出仕で不在)。昼、湊川に戻る。その後、高松様がおいでになり、邑楽屋でうんとん(うどん)をご馳走になる。昼過ぎ出立。扇橋から行徳まで船。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸訴訟組に帰村許可が出ましたので、五郎兵衛は帰り支度。食いしん坊五郎兵衛は、昼食にうどんを奢られたのが嬉しかったよう。五郎兵衛はうどんのことは、「うんとん」と記しています。


扇橋-常夜灯公園(新大橋通り経由)

扇橋 to 常夜灯公園

扇橋 to 常夜灯公園



#五郎兵衛の日記 
嘉永6年7月2日〜28日までお休み。
五郎兵衛は嘉永6年7月2日〜28日まで長沼村に帰村していますので、日記に記事がありません。
#大原幽学刑事裁判 


嘉永6年7月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
日の出とともに長沼を出立する。五兵衛殿が、大森(白井市)まで一緒に来てくれた。大森で役所の手続き。御添翰を頂戴し、本日鎌ケ谷の鹿嶋屋泊。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)五郎兵衛らは一時許可を得て帰村していたので、裁判のために江戸に行かなければなりません。五郎兵衛の住む長沼村(成田市)から江戸までは一泊二日。大森宿(印西市)では江戸に出る手続き。江戸への出府も何回かになり、これももう慣れたものです。宿泊は鎌ケ谷の鹿嶋屋。(前回の出府と同様)。鹿嶋屋には渡辺崋山も宿泊したことがあります。
「文政8年(1825年)に蘭学者で画家の渡辺崋山が木下道を旅した際には、この鹿島屋に立ち寄っています。崋山がこの時の旅のことを記した『四州真景図』には「釜谷宿(中略)鹿島屋夕食 三人にて百四文、但し酒一合ニ付二十八文共ニ」とあり、酒を飲みながら鹿島屋で夕食をとったことが記されています」
鹿嶋屋について。
「鎌ケ谷宿には寛政12年(1800年)には7軒の旅籠が、また明治7年(1874年)には 鹿島屋 丸屋 銚子屋 船橋屋 という4軒の旅籠が存在したことがわかっています。」


7月30日
嘉永6年に7月は小の月のため7月30日はありません。
#五郎兵衛の日記 はお休みです。

7月31日
旧暦に31日はありません。
#五郎兵衛の日記 はお休みです。


嘉永6年8月上旬・大原幽学刑事裁判

嘉永6年8月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
鎌ケ谷を朝出立し、行徳で早めの中食。昼前に船に乗って、江戸の扇橋に着く。
邑楽屋(大原幽学の公事宿)で皆と相談。経費節減のため、公事宿を替えた形にして、皆で借家に住むこととする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
鎌ケ谷宿(鎌ケ谷市鎌ケ谷)を出発し、江戸に着きました。鎌ケ谷〜行徳は木下街道、行徳〜扇橋は船です。裁判のため江戸滞在を強制されるので、経費を節減するために、皆で借家に住むことを計画しています。違法行為ですが、背に腹は代えられないとの思いからでしょう。

嘉永6年8月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
公事宿替えの手続きのため、勘定奉行所等に行く。山形屋の手代から「何か気に入らないことがあったのですか」といわれた。小生から「山形屋さんには問題はないです、役所に近いところにするだけです」と答えた。
奉行所に宿替届を提出。呼び出されて訴所へ。「この度の儀であるが、10月5日まで帰村を認める。なお、幽学は村預けとする。幽学は浪人であるから、本来であれば揚がり屋に入ることとなるから、村預けは御上の御仁志である」との仰せ。
この日、蓮屋に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
公事宿替えの手続きを行っています。五郎兵衛ら長沼村組は山形屋という公事宿に泊まっていましたので、山形屋さんから宿替えの理由を尋ねられています。自分たちの落ち度だと思ったのでしょうか。五郎兵衛らは江戸に来たばかりですが、審理もないまま、また帰村が認められました。
今度は約2ヶ月認められています。

嘉永6年8月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日、奉行所から帰村許可がでたので、本日はその準備。淀藩上屋敷で帰村の届けをし、ご返翰を頂戴する。山形屋、邑楽屋に暇乞いの挨拶。山形屋では、宿替えの理由を再度尋ねられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛らは帰村の準備。奉行所からの許可がでたら、領主(長沼村は淀藩が領主)の確認が必要で、村に帰るにはご返翰が必要です。後はお世話になった方に挨拶。山形屋からは再度宿替えの理由を尋ねられています。

嘉永6年8月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
上様がご出館なされるので、道は通行止め。夕方、ようやく通行できるようになったので、小石川の高松様宅に暇乞いに(高松様は上様ご出館のお供で不在)。その後
明日の出立のため荷造りをする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日領主のご返翰(帰村の確認証)をいただいたので、法的な準備は整いましたが、本日は将軍が城外に出るため、付近一帯が交通規制。小石川の高松氏にも暇乞いの挨拶をしに行きました。

嘉永6年8月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝、出立。扇橋から行徳行きの船に乗ろうとしたが、今日は船が出ない。やむなく今井の渡しまで河岸を歩く。八幡まで行って休憩し、鎌ケ谷で昼食。途中から馬を頼む。大森に夕方着き、淀藩のお役所にご返翰をお渡しする。「勝手次第帰村せよ」との仰せに従い、木下まで行き、乗船。根本屋清兵衛で泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は江戸からの出立日。扇橋から行徳行きの船が出ているのですが、なぜか今日は欠航。やむなく、今井の渡しまで歩いてるんですが、その距離約8キロ!結構な距離です。扇橋が、日記は淡々と書かれています。
扇橋-今井の渡し旧跡 (8.1 km)

扇橋 to 今井の渡し旧跡

扇橋 to 今井の渡し旧跡



嘉永6年8月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝、出立。龍台村の知り合いに立ち寄り、昼前に帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「龍台村」は成田市竜台。五郎兵衛の居住地長沼村(成田市長沼)からは4キロ程の距離です。帰り道なのでふらっと立寄ってみたのでしょう。
五郎兵衛は帰村したので、日記はしばらく(8月7日〜10月2日)お休みです。
再開は10月3日。
五竜台-長沼(国道408号経由)

竜台 to 長沼

竜台 to 長沼



8月7日〜10月2日まで #五郎兵衛の日記
はお休みです。10月3日から再開します。





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追剥と考えてるようだけど、違うよ。追落としだ 仮刑律的例 #6流刑

2023年08月03日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #6流刑
【超訳】
(明治元年十月、松代藩からの伺)
夜間に路上で金を奪おうと考え、往来の者が逃げて転んでしまったことに乗じて、金を出せと脅して6両強をとった者がいます。
追剥であり、死罪でよいでしょうか。
(返答)
本件は追剥ではない。追落とし。
追剥なら死罪だが、追落としだから。大赦あったし、ワンランク落として流刑で処理して。

元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
#仮刑律的例 #6流刑
【伺い】
明治元年十月、真田信濃守(松代藩)からの伺い
甲州無宿仙次郎が追剥を致しました。以下がその口書です。今般、天皇御即位による大赦が出され、犯情許しがたい者を除くほかは全て罪一等を減じるように、犯情許しがたい者と思料するときは口書と共に役所にお伺いをするようにとの仰せでした。
本件は、犯情許しがたく死罪とすべきかと思料致しますので、お伺いする次第です。

(仙次郎の口書)
父親芳太郎のもとにおりましたが、生活が苦しく、日々の生活にも難渋しましたので、一昨年(寅年)九月に親には無断で家を出て帳外となりました。姉が甲州無宿春吉の女房で信州善光寺町におりましたので、姉を頼って同町に行き、春吉の子分となって同居致しました。
昨年(卯年)九月に、春吉の承諾のもと、越後に行って、日雇い稼ぎを致しました。その後、春吉が大病したため、今年の二月には善光寺町に戻って参りました。
四月八日夜、春吉方で、春吉の子分である無宿者の清之助とその弟角太郎と酒を飲んでいました。酒を飲んでいるうちに、「和田村の長五郎のところに行って金を借りて来ようぜ」という話しになり、同人方まで行きました。私は木刀を持って行きました。あいにく同人は留守でしたので、道を戻ってきました。
三輪村地内字高土手というところまで来ますと、見知らぬ男一人が通りかかりました。この男を見て、清之助らに「ケンカを仕掛けて金を奪おう」と誘ったのです。清之助はそういうことは辞めようと当初は言っていたのですが、最終的には同意し、皆でその男に声をかけました。その男は逃げましたので、皆で追いかけました。するとその男は転んでしまったので、皆で取り押さえ、「金を持っているならだせ」と脅したのです。男は懐中より金子入りの紙入れを差し出しましたので、それを奪い取りました。
春吉方に戻って紙入れの中を見ますと、6両1分1朱、銭400文が入っていました。これを清之助に1両1分1朱、角太郎には1両2分2朱、春吉に1両2分渡しまして、残りの1両3分2朱400文は私が取りました。
捕まったときには1分100文が手元に残っていましたが、そのほかは酒食遊興に使ってしまいました。
以上、有り体に私のしたことを全て申し上げました。牢舎に入れられてからも調べを受け、「今回の件以外にも追剥その他盗みをしているのであれば、包み隠さず申しのべろ」といわれましたが、本件以外には決してやっておりません。
追剥をしてしまい申し訳のしようもなく、御仕置を仰せ付けられましても毛頭恨みは致しません。

【返答】追剥であれば死罪とすべきだが、本件は追落としとみてよい。よって、死罪から一等減刑して流刑として処すべきである。

【コメント】
・本件は口書(供述調書)が引用されており、様々なことが分かります。
・本件の被告人仙次郎は、甲州(山梨県)の出身です。当時は人別帳のある村から勝手に抜けることは違法であり、この違法な状態を「無宿」といっていました。仙次郎は甲州出身の無宿なので、「甲州無宿仙次郎」と呼ばれています。
・甲州出身の仙次郎が村を抜けて、生活をしていたのが、信州善光寺町です(現長野市元善町)。門前町だけあって栄えており、それに伴い無宿者も流れ込んできています。仙次郎の姉は無宿者の春吉と結婚して、善光寺町に住んでおり、仙次郎も姉夫婦を頼ってこの町にやってきたのでした。
・仙次郎は「春吉の子分として」同居しており、また本件犯行に加わった清之助らも春吉の子分とありますから、徒党を組んでヤクザのようになっていたと思われます。
・仲間と夜に酒を飲んでいるのに、唐突に「和田村の長五郎のところに行って金を借りて来ようぜ」という話しになることもおかしいですし、その際に木刀を持って行くのも変です。押しかけ強盗をしにいくのだろうと見るのが自然です。それをあくまでも「金を借りにいく」と強弁する仙次郎はどっぷりとヤクザの世界にハマっているようです。
・犯行場所は三輪村(長野市三輪)です。善光寺町からは北国街道で約1.4 km。
上額山 善光寺-三輪(旧北国街道/相ノ木通り/県道399号経由)(1.4 km)

善光寺 to 三輪

善光寺 to 三輪


・本件は、夜間に往路で金を奪おうと考え、往来の者が逃げたが転んでしまったことに乗じて、金を出せと脅して6両強をとったというもので、現代なら強盗罪の共犯、被害者が怪我をしていれば強盗致傷罪の共犯となります。 しかし、江戸時代は追剥と追落としの区別がされており、量刑に大きな差がありました。
・公事方御定書では追剥は獄門、追落は死罪であり、追剥の方がかなりの重罪と考えられていました。両者の区別は衣類の剥ぎ取りをしたものが追剥、懐中物の奪取をしたものは追落と考えられていました(石井良助『盗み・ばくち』)。
・本件の犯行は懐中物の奪い取りであり、衣類の剥ぎ取りは行っていませんから、「追落」です。追剥にはなりません。
・このような考え方から、【返答】では「追剥であれば死罪とすべきだが、本件は追落としとみてよい。よって、死罪から一等減刑して流刑として処すべきである。」としているのです。


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