南斗屋のブログ

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寛政12年閏4月・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年04月30日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12庚申年閏4月
台命を蒙り蝦夷地に下向しける道中の記

寛政12年4月(19日出立)・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12庚申年閏4月
台命を蒙り蝦夷地に下向しける道中の記
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年閏4月19日(1800年)その1
朝五つ前、深川出立。上下6人。
この日朝から小雨、昼には止む。
深川八幡宮参詣。
両国通り浅艸司天台へ立ち寄り、高橋先生から御神酒を給う。荷物は、深川から千住宿へ積送した。千住宿での送別人は、佐原地頭所より仰せつけられた渡邊殿ほか数名。千住宿にて中食残らずとる。酒肴をもって別れる。
千住、草加、越谷を通り、大澤宿に七つ頃着。中嶋善太郎家に止宿。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
・深川は、当時、伊能忠敬の住居がありました(現在の江東区門前仲町1-18)。
・「深川八幡宮」は、富岡八幡宮のこと。現在、伊能忠敬銅像が境内にあります。
・一日目の宿は大澤宿。現在の埼玉県越谷市大沢。奥州街道の越ヶ谷宿は、もとは荒川右岸の越ヶ谷と左岸の大沢の二つの町を合わせた範囲の宿場町でした。
・現在の門前仲町駅から越谷駅までは直線で約25キロ。大澤宿は越谷駅よりも北ですから、約30キロ弱かもしれません。


寛政12年閏4月20日(1800年)
添触れ写しを大澤宿より出す。朝五つ前に出立。朝より晴れて坤風。春日部、杉戸宿、幸手宿を通る。利根川舟渡しで関所有り。栗橋宿、中田宿を通り、古河城下に七つころ着。宿は柏屋平八。夜に測量。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
越谷から古河宿(茨城県古河市)まで来ました。現在の越谷駅から古河駅までは約40キロ。
出立は朝五つ(午前8時)、到着は七つ(午後4時)が目安とされていたようです。今日の忠敬は朝五つ前出立でした。


寛政12年閏4月21日(1800年)
朝曇天。四ツ頃より少晴れ。九つ半頃よりまた曇る。八つ半小雨。七つ頃より小雨。夜は大雨。
古河宿を朝五つ前に出立。野木宿、間々田宿、小山宿、新田宿、小金井宿、石橋宿、雀宮宿を通り、宇都宮城下に暮六つ前に着。宿、成田屋喜右衛門。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
・宇都宮宿(栃木県宇都宮市)まで来ました。現在の古河駅から宇都宮駅までは約46キロ。
・測量日記には天気に関して細かく記載されています。測量に関係があるためでしょうか。

寛政12年閏4月22日(1800年)
朝雨止み曇天。四ツ頃より少晴れ。終日白雲。
朝六ツ半後出立。白澤宿、氏家宿、喜連川、佐久山を通り、大田原宿に七つ半頃に着。宿、大玉子屋弥市。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
宇都宮を出て、本日は大田原宿(栃木県大田原市)まで来ました。宇都宮駅から大田原市役所は約40キロ。朝の出立がいつもより遅いのは、雨が止むのを待っていたからですかね。

寛政12年閏4月23日(1800年)その1
朝より曇天。朝六つ頃出立。鍋掛、越堀、芦野宿、白坂宿を通り、白河に七つ頃着。宿は因幡屋茂兵衛。白河城下での御用宿は小家で手狭のため、因幡屋に宿を変えた。
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年閏4月23日(1800年)その2
因幡屋は屋号で、名は丸屋清吉といい、酒造をしている。下総佐原で丸屋伊右衛門というものの酒屋を借りている。生国は近江で、丙午の年(1786年)に大坂で米商をしていたが、損をだして、関東に出てきた。佐原で商売をしているとは、不思議な縁である。酒肴を以て饗応してもらった。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
・大田原を出て、白河宿(福島県白河市)まで来ました。大田原市役所から白河駅までは約40キロ。
・原則として幕府の御用宿に泊まっていたようですが、白河では手狭な為別の宿(因幡屋)に泊。因幡屋は、伊能忠敬が名主をしていた佐原(千葉県香取市)でも店を出しており、不思議な縁をかんじています。

寛政12年閏4月24日(1800年)
朝小雨、昼後より大雨、夜も大雨。
朝六つ後出立。太田川宿、大和久宿、久来石宿、須賀川宿、笹川宿、郡山宿、高倉宿を通り、本宮宿に七つ後着。止宿。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
白河宿(福島県白河市)を出て、本宮宿(福島県本宮市)まできました。白河駅から本宮駅まで約52キロ。本宮宿は奥州街道から会津街道が分岐する場所でした。明治時代、上京のために野口英世が利用したのは本宮駅だったのですが、会津街道が本宮で接続していたからなのです。


寛政12年閏4月25日(1800年)
朝より大雨、昼前小雨になり、八つ後より雨やむ。曇天。朝六つ半頃出立、杉田宿、二本松城下、八丁目宿、若宮宿、福島城下を通り、瀬上に七つ半頃に着。夜は大雨。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
本宮宿(福島県本宮市)を出て、瀬上(せのうえ)宿まできました。本宮駅から瀬上駅までは約37キロ。瀬上は、現在の福島県福島市です。

寛政12年閏4月26日(1800年)
朝小雨、九つ後より雨止む。少晴、暮合より曇天。朝六つ後出立。桑折宿、藤田宿、貝田宿、越河宿、齋川宿、白石町、刈田宮宿、金ケ瀬宿を通り、大河原宿に七つ後に着。止宿。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
瀬上宿(福島市)〜大河原宿(宮城県大河原町)。瀬上駅から大河原駅までは約40キロ。大河原は江戸時代になると奥州街道の宿場町となり、米や紅花の集積地として栄えました。仙台藩の直轄地で代官所や藩主の宿泊施設であった御仮屋が置かれていました。
https://www.town.ogawara.miyagi.jp/1272.htmhttps://www.town.ogawara.miyagi.jp/1272.htm

寛政12年閏4月27日(1800年)
朝より七つ頃まで晴天、後曇天。
朝六つ後出立。舟廻宿、槻木宿、岩沼宿、増田宿、中田宿、長町宿を通り、仙台城下国分町に八つ半後に着。止宿。この夜測量。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
・今日の行程は、大河原宿(宮城県大河原町)〜国分宿(宮城県仙台市)。現代の大河原駅から国分町までは約33キロです。今では歓楽街として有名な仙台の国分町ですが、江戸時代は宿場でした。
・吉田正志「仙台城下の御用宿」(藤田覚編『近世法の再検討』所収)には、国分町に旅籠屋が集中するようになった経緯について次のように述べられています。
〈慶長6年(1601)に仙台城の築城が始まった当時、仙台城下にあたる地域はいまだ荒野の状態だったらしく、仙台城下はまったく新たに建設されたといってよいといわれる。基本計画に沿って建設された城下には人口の集中も進み、また他地域からの来訪客も多くなったであろう。早くも同15年(1610)に仙台奉行が二日町検断に対し旅籠を置くことを命じている。元禄期には二日町に隣接する国分町に旅籠屋が集中するようになったようである。〉


寛政12年閏4月28日(1800年)
朝より昼頃まで晴天、八つ後より曇天。
朝五つ頃出立。北田宿、新町(富谷新町)、吉岡宿、三本木宿を通り古河宿に七つ前に着。止宿。夜測量。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
今日の行程は、国分町(仙台市)〜古河(古川)宿(宮城県大崎市)。国分町から古川駅までをグーグルマップで測ると約40キロ。

古川宿の紹介。
http://matinami.o.oo7.jp/hokkaidou-tohoku/oosaki-furukawa-nanoka.htmlhttp://matinami.o.oo7.jp/hokkaidou-tohoku/oosaki-furukawa-nanoka.html


寛政12年閏4月29日(1800年)
朝五つ半後まで霧深、四ツ前より晴天。
朝五つ頃出立。荒谷宿、高清水宿、宮野宿、金成宿を通り、有壁宿に七つ頃に着。止宿。この夜測量。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
今日の行程は、古河宿(宮城県大崎市)〜有壁宿(宮城県栗原市)。宮城県北部まで来ましたので、岩手県は目の前です。古川駅から有壁駅までをグーグルマップで測ると約40キロ。相変わらず朝五つ(午前8時)出立、一日40キロペースで北上しています。旅程にまで伊能忠敬の生真面目さが反映しているように感じます。

有壁宿本陣は、元和五年(1619年)に奥州道中の宿駅として創設。参勤交代制度が確立後は、松前・八戸・盛岡・一関の藩主や各藩重臣が通行の際に宿泊しました。
https://www.kuriharacity.jp/map/170/20180802172500.htmlhttps://www.kuriharacity.jp/map/170/20180802172500.html

閏4月は29日までで、4月30日はありません。

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BC級戦犯横浜裁判で、千葉県内が現場となった事件

2022年04月25日 | 横浜BC級戦犯裁判
BC級戦犯横浜裁判で、千葉県内が現場となった事件は大別すると以下の3件です(事件番号は法務省がふったもので、国立公文書館でもこの番号で管理されています)。
1 長生郡日吉村事件(茂原事件とも呼ばれている事件ですが、茂原は現場ではなく不正確)(日吉村は現在長生郡長柄町)
①23号事件(武士道事件)⇒過去記事
②112号事件
③210号事件

2 佐原町事件
①260号事件
②275号事件
(佐原町は現在香取市)

3 西畑村事件(245号事件)
(西畑村は現在夷隅郡大多喜町)

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2022年・弁護士自らが犯罪の嫌疑をかけられた事件、逮捕、起訴などされた事件

2022年04月23日 | 法律事務所(弁護士)の経営
弁護士が被疑者・被告人となった報道、犯罪の嫌疑をかけられた事件についてのメモです(2022年)。気が付いたときに記載しているので、網羅的なものではありません(日付は報道のあった日)。

・2022年5月12日(NHK)
 2015年、遺産相続の手続きを依頼され、預かっていた現金のうちおよそ2300万円を着服。業務上横領の疑いで逮捕。

・2022年4月23日(tbc東北放送)
4月22日、自宅で70代の女性に対し牛乳瓶を投げつけ、右まぶたを切るけがをさせた傷害の疑いで弁護士を逮捕。

・2022年3月30日(テレビ熊本)
熊本県弁護士会所属の弁護士が8800万円を着服したという業務上横領罪の被疑事実で、同弁護士会が熊本地検に告発状を提出。

・2022年3月17 日(産経新聞)
無免許運転疑いの弁護士逮捕 兵庫

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自治体職員への暴力事案-行政対象暴力

2022年04月22日 | 地方自治体と法律
気がついたもののみ、メモとしてあげています。

1 千葉県での自治体職員への暴力事案
2022年
2月7日 公務執行妨害罪で逮捕(松戸市)
 同日午後2時25分ごろ、50代の女性が松戸市役所で窓口対応をしていた女性職員の顎を飛沫防止用のビニールシート越しに殴った疑い。別の職員が「来訪者から職員が殴られた」と110番通報した。
(2月8日千葉日報)
#行政対象暴力


3月24日 公務執行妨害罪で逮捕(市川市)
同日午前9時20分~25分ごろの間、市川市役所で、70代男性が生活支援課の職員に対し、はさみが入った袋を突きつけ「対応しないと通行人を刺してやる」などと脅迫して職務を妨害した。 市川署によると、生活保護費をめぐるトラブルで激高したとみられる。同課の職員が110番通報し、現行犯逮捕。
(3月25日千葉日報)


4月13日  器物損壊罪で逮捕(千葉市)
午後0時半ごろ、千葉市美浜保健福祉センターで、自称脚本家の50代男性が、同センター職員が使用していたノートパソコンを平手で殴打し、液晶画面を割った疑い
(器物損壊)で現行犯逮捕。
(4月14日千葉日報)

2 千葉県以外での自治体職員への暴力事案
3月23日 公務執行妨害罪で逮捕(鹿児島市)
同日、60代男性が鹿児島市役所の庁舎内で、相談に応じていた職員の頭に頭突きする暴行を加え、職務の執行を妨げた疑い(公務執行妨害罪)。別の職員が110番した。
(3月24日南日本新聞)


3月31日 公務執行妨害罪で逮捕(岐阜市)
同日、70代男性が岐阜市役所の障がい福祉課フロアで、同課の女性職員の顔を平手で打つ暴行を加え、職務の執行を妨害した疑い(公務執行妨害罪)。タクシー券交付の手続きを断られ暴行。別の職員が110番した。
(同日岐阜新聞WEB)



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色川三中「家事志」文政10年4月中旬

2022年04月21日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

【日記】
1827年4月11日(文政10年)
一昨日より持病のため引き籠もっていたが、だいぶ良くなった。
初鰹来、江戸より、一貫500文くらい。
#色川三中
#家事志

1827年4月12日(文政10年)
田村惣七なるものが来て、大蛇の歯と称するものを売りにきた。奇物ではあるが、大蛇の歯ではなく竜歯である。竜といってもまことの竜ではなく、竜骨石とでもいうべきもの(注:ナウマン象の化石)。それを説明して納得してもらい、金一両で購入した。
#色川三中
#家事志

1827年4月13日(文政10年)
下男の忠七は、9日の夜虫掛(現:土浦市)に行ったまま帰って来ず、10日に人を使っても挨拶もなく人もよこさない。昨日口入した者にも、これ以上使うことはできないと言っておいた。
今日の朝になって請人と共に忠七が詫びを入れに来た。今後は真面目に働くというので、暫く様子を見ることにした。
#色川三中
#家事志


1827年4月14日(文政10年)
昨夜は大雨で、川の水が増した。
店には今年燕が巣を造っていない。 
今月の朔日(1日)、今日と、かまどの前の木を切ったところに羽蟻がたくさんいる。数万も這い出て飛散したのではないかと思うほどだ。天気が変わる兆しであろうか。
#色川三中
#家事志

1827年4月15日(文政10年)
七つ前時より雷雨、電光、あられ交じりに降った。
向利兵衛殿が分散(私的債務整理)となった。四つ時頃より、財産の売却が始まり、家財の代金が17貫文余り、造作を賃借人会売り渡したのが金4両、瀬戸物など金2両2分、合計9両ばかりとなった。組合のものは分散には金2両2歩もあれば十分であると申していた。
#色川三中
#家事志

1827年4月16日(文政10年)
・向利兵衛の分散(私的債務整理)配当に預かるため、与市殿に出向いてもらった。
・先日来様子を見ていた下男の忠七だが、不埒であると言わざるをえないので、仲介者にその旨人を遣わしてその旨伝えた。
#色川三中
#家事志

1827年4月17日(文政10年)
九つ時、与市を入江(名主)へ遣わす。先日分散した向殿(叔父)からの譲渡証文に奥印をもらうためである。
#色川三中
#家事志

1827年4月18日(文政10年)
高砂屋と中村屋の和議の件。隣家の主人の仲介で、明日には和議の予定。明日の四つ時に和議、その後、組合への振る舞いを八つ時に行う。その旨両名及び組合へ伝えた。
#色川三中
#家事志

1827年4月19日(文政10年)その1
高砂屋と中村屋の和議の件。
定刻(四つ時)に高砂屋は来たが、中村屋は来ない。待つこと1時間。ようやく中村屋は来たが、今度は「和談はしない」といいだし、折角まとまりかけた話しを蒸し返す。
#色川三中
#家事志

1827年4月19日(文政10年)その2
田中清吉も来て、中村屋にいい聞かせ、九つ時になってようやく和談となった。二階の座敷で酒を酌み交わした。組合への振る舞いは、七つ前からとなり、四つ過ぎに皆帰った。
#色川三中
#家事志

1827年4月20日(文政10年)
隣家の主人に昨日の高砂屋と中村屋の和談の礼に行く。昼過ぎより大雨。夜になってもやまず、夜中ようやくやむ。
#色川三中
#家事志


【感想等】
・(11日)
三中の体調も良くなったようです。初鰹の便りも聞き、その相場を書き留めています。やはり初鰹は土浦でも人気だったようです。

・(12日)
竜歯(ナウマンゾウの化石)の話しですが、色川三中は、十代に江戸で大坂屋平六という薬種問屋で丁稚奉公し、そこでの物産会(今でいう展示会?)で竜歯が展示されていたことがあって、それを覚えていたそうです(中井信彦著『色川三中の研究 学問と思想篇』)。

・(13日)
忠七がまたやってしまいました。一ヶ月も経たないうちに、またもバックレ。3月23日に行先で飲んだくれて、翌日帰りの失態をしています(過去記事参照)。さすがに三中も我慢ができず、仲介者に解雇を通告せざるを得ませんでした。
忠七には忠七なりの言い分があるのかもしれません。労働基準法もない時代ですから、給料安いとか、休みがないとか、人遣い荒すぎとか。
しかし、連絡もなしのバックレはさすがに当時でもルール違反でしょう。他の従業員の手前、三中が厳しい対応をしたのは当然でしょう。今日は結論を保留としていますが、さてこの労使の緊張関係、どうなりますか…。⇒続きは17日に。

・(14日)
3月下旬には、雨がほとんど降らず渇水が甚だしいとしていた三中ですが、今月は一転大雨による川の増水という天候不順。しかも、いつもどおり燕が来ない、羽蟻の大群といった何やら不吉な兆しも。今は1827年ですが、天保の飢饉の引き金となった冷害(1833年〜)の兆候はこのころからあったのかもしれません。

・(15日)
「分散」は江戸時代の破産制度の一種です。「分散」のほかに「身代限り」という方法もありましたが、前者は債権者・債務者間の契約で奉行所の介入はなく、「身代限り」は奉行所が命じるもの(今でいえば裁判所による強制執行)という点が違います。
「分散」では、債務者が大多数債権者の同意を得て自分の全財産を委ね、債権者はこれを入札売却して、代金を債権額に応じて配分します。
なお、明治になってからも「身代限」「分散」という用語は残っていたようです(華族令15条3号)。
第十五條 華族ノ戶主及第五條第六條ノ禮遇ヲ享クル者 ニシテ左ニ揭クル事項ノ一ニ當ルトキハ其禮遇ヲ停止ス
、二 略
家資分散若クハ破產ノ宣吿ヲ受ケ復權セサル者
又ハ身代限ノ處分ヲ受ケ負債ノ辨償ヲ終ヘサル者
四 以下略

・(16日)
先日来問題行動があり、解雇するぞと通告されていた忠七ですが、やはり「不埒」(解雇)と判断されてしまいました。
普通なら、これで終わりなのですが、忠七はまだまだ騒動を起こします。一週間後(23日)、何かが起こります。

・(17日)
色川三中の叔父、向利兵衛(色川利兵衛)は身持ちが悪く、分散(破産)となりました。奥印というのは名主が行い、公証的役割を果たしていたものです。







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「裁判所による裁判」への移行作業は一大事業

2022年04月18日 | 歴史を振り返る
(司法省)
今の法務省は、明治期には司法省といいました。明治4年7月9日に設置されています。
今の法務省と違うのは、司法省の中に裁判所も含まれていたこと。戦後、法務省と裁判所は別の組織になりましたが、それ以前は同じ組織でした。

(司法省の課題)
司法省が設置された当初の課題は、裁判所を各地に設置することでした。
裁判所による裁判が今や当たり前なので、それ以前に誰が裁判をしていたのかは忘れさられていますが、裁判所が設置される以前には、各地方官が裁判を行っていました。今の県庁の中に裁判課というのがあって、そこで裁判をやっていたというイメージです。このような地方官による裁判を、「裁判所による裁判」という近代的なシステムに乗せていくかが司法省の課題でした。

(地方官による裁判)
 先ほどは、地方官裁判をイメージで説明しましたが、もう少し正確に申し上げておきますと、府県に「聴訟課」というセクションが設けられ、そこで裁判が行われていました。「聴訟」という言葉は現代では用いられませんが、今風にいうと訴訟という意味になります。
 地方官による裁判では、府知事、県令の名前で裁判が行われていました。もっとも、実務は典事以下の職員が行うという執務体制だったようです。

(裁判所での裁判とする理由)
 司法省が「裁判所による裁判」を目指したの、欧米流の権力分立システムを取り入れる必要があったからです。
 欧米からみると、行政が裁判も行うのは「遅れている」仕組みだったのです。だから、そんな国には自国民を裁判させることはできない⇒治外法権(自国民は日本の裁判を受けない)という不平等条約が押し付けられたのでした。
 不平等条約から脱却するには、欧米から自分たちと対等、当時の言葉でいうと「文明国」の地位を得なければならなかったのです。
そのための、権力分立システム=行政から独立した裁判所による裁判としなければならなかったのでした。

(裁判所での裁判への移行)
 裁判所での裁判への移行と一言で言いますが、なかなか簡単なことではありません。これまで、地方に丸投げしていたものを、司法省所属の職員にやらせなければならないからです。裁判所を設置するのも一気にというわけにはいかず(莫大な予算が必要です)、漸進的でした。
 裁判所はまず、東京にだけ置かれ、明治5年8月に神奈川、埼玉、入間の3県に設置。続いて同月に足柄県等8県に設置されます。
 ここでいう8県は、足柄、木更津、新治、栃木、茨城、印旛、群馬、宇都宮です。現在の千葉県、茨城県、神奈川県、埼玉県、栃木県、群馬県です。

(司法省への訴訟事務の引渡し)
 地方官裁判から、裁判所裁判の第一歩は、県の事務から訴訟事務(当時は聴訟断獄といいました)を司法省に引渡すことでした。新治県(今の千葉県・茨城県)では、「今般当県に裁判所が設置されたという御達がありましたので、9月2日に聴訟断獄の事務を司法省に引渡しました」という趣旨の文書を出しています。
 司法省の方からみると、裁判権を接収したこととなり、これで司法省の役人に裁判をさせる入口にようやく辿りつきました。


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弁護士の困窮化のもたらすもの

2022年04月14日 | 歴史を振り返る
(弁護士困窮化の時期)
弁護士の困窮化ということが云われた時期というのは、
①大正の終わりから昭和の初期のころ
②戦後
③現代
の3期があるような気がします。
 もちろん弁護士という制度の立ち上がりの時期(明治初期〜中期)にも経済的にペイするのは大変だったと思うのですが、そのときは食えないのがデフォルトなので「困窮化」とはいわないのでしょう。「困窮化」といわれるのは、それなりに良い暮らしができていたのに、そのレベルからの急速な貧困化という意味合いがあるようです。

(弁護士困窮化は何をもたらすか)
 弁護士の困窮化は、弁護士の非行の増加をもたらすというのが歴史的事実です。このことにより、弁護士の信用が低下し、司法という個別救済システムに支障がでます。

(大正〜昭和初期の弁護士非行増加) 
 このときの弁護士の非行増加については
、昭和4年頃の新聞には、「背任弁護士召喚か、不良弁護士退治」「やり玉に上った弁護士60名」「不良弁護士10名起訴さる。告訴50名突破」という見出しの記事にしばしば突き当たるそうです(第一東京弁護士会「われらの弁護士会史」)。
当時の新聞の見出しが今よりも刺激的なのかもしれませんが、新聞がそう書き立てるほど、弁護士の非行は話しのネタになったのでしょう。

(弁護士非行の原因)
 大正期〜昭和初期のことについて、次のように述べられています(内田博文「刑法と戦争」)。
・かなり人為的な原因による弁護士数の急増=弁護士資格の実質的引下げによる増員
+経済的不況の時期が合致
⇒弁護士の生活の急激な低下
⇒弁護士の非行が増加し、社会の非難を浴びるような事件が起こる

(貧すれば鈍する)
 弁護士の生活が急激に低下することで、弁護士の非行が増加し、社会の非難を浴びるような事件が起こると説かれていますが、「貧すれば鈍する」でして、一定割合では弁護士の非行・不祥事が現実に起きています。

(戦後)
 戦後については、第一東京弁護士会が、「こんな弁護士はいかがなものか」という内容の決議をしています。 
「第一東京弁護士会の会員は名刺だけでなく、標札や看板に官歴(自分の過去の公務員歴)や経歴を載せてはならない。新聞や雑誌についても同様である。」(昭和23年3月15日第一東京弁護士会総会決議の大意)
 これは当時そのような官歴・経歴肩を掲載することで、現職公務員と特殊密接な関係があり、他の弁護士よりも有利になりますよというふうな宣伝に使われていたことを防止する目的があったようです。
 また、食べるのに困っていたことから、千葉に来たものの、弁護士業務ではなく、田畑の耕作をしていた方もいます。昭和25年に裁判官に任用された弁護士(千葉県弁護士会員)の裁判所への上申書には、「昭和21年3月に鶴舞町(現・千葉県市原市)に帰来し、以来田畑耕作の傍ら弁護士業務に従事していたので弁護士業務は閑散であった。」と書かれたものがあります(千葉県弁護士会史)。
 その他昭和30年代になっても、なかなか弁護士業で食べるのが大変だったということは以前にも書いたことがありますのでご興味のある方はご参照ください。⇒過去記事
 
(弁護士が起こした最近の刑事事件)
 弁護士が被疑者・被告人となっている刑事事件についても、過去記事で取り上げています。






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江戸時代の困窮者給付ないしはマイクロクレジット-持合金

2022年04月12日 | 色川三中
(色川三中日記に見える「持合金」)
色川三中「家事志」を読んでいましたら、「持合金」という言葉がでてきました。
1827年4月7日(文政10年)
・八つ(午後2時)過ぎ頃、木下庄右衛門殿がお出でになり、持合金のことを話していかれた。今日の寄合いの席でそのような話が出たと見える。
1827年4月8日(文政10年)
人が来て、惣代の寄合いがあることを伝えてきたが、病気と称して参加しなかった。寄合いで持合金の拠出が議題となることが予想できたからである。

(持合金一件)
この「持合金」については、三中の日記には何ら説明がなく、いったいどういうものかよくわからないまま読み進めていたのですが、調べてみたところ、白川部達夫「天保期における一城下町の動向ー土浦東崎町持合金一件をめぐって」ー『近世の都市と在郷商人』(1979年巌南堂書店)所収)に参考になる記載がありました。

(持合金とは)
まず、持合金については次のように説明されています。
「持合金とは、明和元(1764)年9月に当時の町奉行の発案によって、町民が「門並」に日掛け一文を積み立て、これを年利一割で困窮人の夫食金や営業資金として貸付け、利分を凶作時の手当や町費とするという趣旨で開始されたものであった。明和2年5月に取立てが、翌3年より貸し付けが開始され、文政10(1827)年まで続いた。」
これは最近話題になっている困窮者給付の一種です。貸し付ける側から見れば、
今でいうマイクロクレジット、マイクロファイナンスみたいなものです。いや、マイクロファイナンスそのものでしょうか。

(持合金運用の実態)
このような理想を掲げて始まった事業ですが、実際には理想どおりにはいきませんでした。
貸付先はごく限られた町役人又は特権商人であり、貸し付けたまま回収が中止されていたというのです。その金額は、東崎町(色川三中が属していた中城の隣町)だけで660両に及んでいたそうです。

本来は、借りたくても借りられない人を救済するために、町民みんなで積み立てをしていたのですが、実際には、金持ちがその金を持って行ってしまったという見方も可能でしょう。

持合金の積み立ては、文政10(1827)年でストップしています。
その当時は、そういうような状況が知られていた可能性はあります。
そこで、色川三中も持合金についてはあまり気乗りがしなかったのかもしれません。

(持合金に関する騒動)
ところで、この持合金の件は天保8(1837)年、土浦で訴訟となり、騒動へと発展したのです。
これが論文の副題にもある「土浦東崎町持合金一件」です。
この背景には、天保の大飢饉(1833~1837年)による生活困窮があります。

町民は飢饉により生活困窮に陥っており、手元が不如意になります。
そういえば、持合金というものがあったではないか。あれは皆が積み立てた金で、困窮した者に貸し付けをするのではなかったか。そういうことが思い出されたのではないでしょうか。

しかし、実際は力のある者、権力のある者がうまいことやってしまって、あるべきはずのお金がない。
そこで、貸した金は返してもらって、今困っている自分たちに分配せよという要求が起こりました。
これが「土浦東崎町持合金一件」の発端です。

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色川三中「家事志」文政10年4月上旬

2022年04月11日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1827年4月1日(文政10年)
四方八面大乱れで、寸暇も得ることができなかった。朝から隠居が来て、とりや彦兵衛の古証文のことで話しがあったし、江戸崎の件で様々な用を足さなければならなかった。
#色川三中
#家事志

1827年4月2日(文政10年)
頭金20両で、後は毎年金20両で8年支払いとしてもらい、利息の8両は負けてもらえることで交渉が成立した。間原らが間に入ってもらえたおかげである。この解決までに3年かかった。
#色川三中
#家事志

1827年4月3日(文政10年)その1
先日中村屋の次男源三郎が出奔してしまった。中城の店のものが源三郎を見かけたと言っていたので、捨て置けず早朝から中村屋に与市を遣わしてそのことを伝えた。
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#家事志

1827年4月3日(文政10年)その2
八つ時(午後2時)頃、中村屋が来られ礼を言いに来た。源三郎は江戸に出ておかめという女と一緒になり、先日土浦に帰ってきてわびを入れてきたので、出入りできるようにしたとのこと。
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1827年4月4日(文政10年)不成日
不成日ではあるが、入夜、色川茂八に中高津の田地4箇所の売却の世話を頼んだ。
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1827年4月5日(文政10年)
・正午、田中清吉来る。飯田屋吉兵衛という者から先年親類が十両を借りていたが、昨日吉兵衛が飯田村(現土浦市飯田)で死去したとのこと。借りた金についてのトラブルが生じたことでの相談だった。
・矢口嘉兵衛の女房は先だって死去した。八歳の女の子といつも連れ立っているのを見る。彼らの艱難はいかばかりぞや。
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#家事志

1827年4月6日(文政10年)
次の田地を永代譲渡し、「親類立合議定一札之事」という書面を作成し渡した。
・遠上六右衛門前の下田 6畝20歩
・小山権之丞前の下田 2反6畝16歩
#色川三中
#家事志


1827年4月7日(文政10年)
・雨止まず。蚕が生まれ、はじめて桑の葉をあげる。
・八つ(午後2時)過ぎ頃、木下庄右衛門殿がお出でになり、持合金のことを話していかれた。今日の寄合いの席でそのような話が出たと見える。
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1827年4月8日(文政10年)
人が来て、惣代の寄合いがあることを伝えてきたが、病気と称して参加しなかった。持合金を出してほしいという件での寄合いだったからである。
#色川三中
#家事志

1827年4月9日(文政10年)
持病が出たため引籠る。
四つ(午前10時)前ころ、入江より用があるということであったので、佐助を遣わした。 是非面談して内談したいことがあるという。病気ではあったが、晩においでいただくよう申し遣わした。
#色川三中
#家事志

1827年4月10日(文政10年)
昨夜、入江(名主)に大鯛一枚(400文)を用意して遣わした。
#色川三中
#家事志

【感想等】
・(3日)
日記の舞台は1820年代の土浦ですが、結構頻繁に江戸を行き来する人がいるので、この時代にはもう江戸はそう遠いところではなかったのかもしれません。とはいえ、色川三中自身は江戸に行かずに人生を終えており、一度も行かなかった人もかなりの人数に上るのでしょう。
・(4日)
不成日は、不成就日ともいい、何事も成就しない日とされていて、あらゆることが凶とされる日です。このようなことから、田地の売却の依頼は本来はわ行いたくなかったのでしょう。
・(5日)
妻と死別し、父子家庭となった親子。「いつも連れ立っている」というので、父側の家のバックアップが期待できないのでしょうか。原文にもこの程度の記載しかないので、詳細は不明です。
・(6日)
江戸幕府は、田畑永代売買禁止令を1643年に出し、本田畑の売買を禁止し、違反者は売買両者とも重罪に処されたことが、質流れや書入 (抵当契約)などの形で事実上破られたとされています。この日記にも「永代売買」と書かれているので、禁止令が形骸化していたことが窺えます。
・(7日)
旧暦4月(太陽暦では5月)の蚕についての記載(高根沢町史 民俗編)。
「ハルゴ(春蚕)は五月初旬にハキタテし、六月下旬には繭の出荷となる。」「春蚕の時は、蚕の餌となる桑は畑で切って枝ごと与えられた。この時期は田植えとちょうど重なり大変忙しい時期でもあった。」
「ハキタテ(掃き立て)とは、蚕の卵が産み付けられている種紙から、生まれたばかりのケゴ(毛蚕)を蚕座紙に掃き落とす作業のことで、養蚕における最初の節目の作業である。」
・(7日、8日)
持合金のことが日記の話題になっています。持合金というのは、各々が町のために拠出して、その拠出金を困窮者に貸し出す等していたようです。天保期の土浦町では、持合金が不正に利用されたとの糾弾が契機となり、土浦藩奉行所を巻き込む持合金騒動というものが起こったそうです。

・(10日)
4月9日に色川三中は病気で外に出かけられなかったため、名主の入江にお出でを願ったこと、その他いろいろお世話になっていることからの贈り物でしょうか。なお、名主であっても幼なじみだからか、「入江」と常に呼び捨てにしています。


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鳥切春雄弁護士(千葉県弁護士会物故者)

2022年04月08日 | 千葉県弁護士会
鳥切春雄弁護士。
1934年(昭和9年)1月5日生
2018年9月2日没

富山県魚津市出身。中央大学法学部卒。東京弁護士会から千葉弁護士会に移籍。
千葉県弁護士会史によれば、移籍時期は1985年5月1日である。

死後に下記著作が出版されている。
・鳥切春雄追想録出版委員会『愛 辯護士 鳥切春雄』(2020年、株式会社ノラ・コミュニケーションズ)


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