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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第九回講義

2024年11月02日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第九回講義
第九回講義(明治18年5月19日)
現代語訳(試訳)
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(はじめに)
本日は第二節「刑事裁判所に私訴をなすこと」を説明致しましょう。
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第二節「刑事裁判所に私訴をなすこと」

(無告不理の原則)
刑事裁判所で私訴を裁判するということは、被害者が民事の原告人となり、損害賠償を求める申し立てを行うことが必要です(これを私訴といいます)。民事の原告人が請求をしなければ、裁判所は判決を下すことはできません。これが「無告不理」(訴えがなければ裁かれない)の原則です。
しかし、我が国の旧律においては、被害者からの請求がなくても、刑事裁判所は職権で損害賠償を命じていました。被害者の訴えがなくても、刑事裁判所が職権で損害を償わせることは異例なことです。それゆえ、治罪法においては、必ず被害者の訴えを待ってから裁判を行うことになっています。
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(無告不理の原則の例外)
しかし、例外はあります。刑法第48条には「裁判費用や盗品、損害賠償については、被害者の請求に基づいて刑事裁判所がこれを審判することができる。ただし、盗品が犯人の手元にある場合には、請求がなくてもすぐにそれを被害者に還付する」とあります。また、治罪法第308条には「被告人が刑の宣告を受けたかどうかに関わらず、没収に関係しない差押物品については、所有者の請求がなくても還付を言渡す」とあります。これら二つの条文は「無告不理」の原則には反していますが、実務に則した適切なものです。盗品が存在しているにもかかわらず、被害者が訴えなければ処分できないとし、それを犯人に返してしまうことは、犯人に利益を与えてしまうことになるからです。犯人に不正な富を得させることは許されるべきではありません。したがって、所有者が請求しなくても、その物の還付の言渡しをするのは妥当です。
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(刑法と治罪法の規定の異同について)
ところで、刑法と治罪法では規定の仕方が異なります。刑法では、「もし盗品が犯人の手元にある場合には、請求がなくてもすぐに被害者に還付する」と漠然と記載されています。そのため、「犯人の手元にある」とは具体的にどのような場合を指すのかが曖昧です。裁判所が物品を押収しているかどうかにかかわらず、犯人から他者に渡った物も含むのか、それとも犯人の手元に残っていて裁判所が押収しているものに限られるのか、いずれとも決めがたいのです。
しかしながら、治罪法では「没収に係らない差押物品」と非常に明確に規定しています。同法によれば、犯人の手元にあってもる、差押さえられていない物品については、被害者の請求がなければ還付されないこととなります。
一方、刑法では「盗品が犯人の手元にある場合には、請求がなくても直ちに被害者に還付する」と規定されています。刑法と治罪法は矛盾しているようにも見えますが、そうとるべきではありません。刑法の不明瞭な規定を治罪法が明確にしているととらえるべきです。つまり、刑法の「盗品が犯人の手元にある場合」とは、官が差押さえた物品を指すと解釈すべきであり、差押えられていない物品は、被害者からの請求がなければ還付の言渡しができないと解すべきです。なぜなら、単に盗品が犯人の手元にあるというだけでは、その物品がまだ確定しているとはいえず、確定していない以上、裁判所が還付を言渡す理由がありません。
「差押え物品」とは、裁判所が押収した物品に限るものではなく、官吏が他に移すことを禁止した物品すべてを指すと解すべきです。被告人の手元に盗品があっても、差押えの処分がある場合には、裁判所は還付の言渡しができるのです。
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(刑事裁判所が刑の言渡しをしない場合の私訴の扱い)
民事の原告人が、刑事裁判所に私訴を提起し、損害賠償を求めるには、いくつかの要件があります。その第一の要件は、違警罪、軽罪、重罪に付随する損害でなければならないこと、つまり犯罪によって生じた損害に限られるということです。
被告人は、刑の判決が言渡されるまで、無罪かつ潔白な存在として見なされるべきであることは重要な原則です。裁判の宣告があって初めて罪の有無が判断されるのです。
被告人の中には全く犯罪に関与していない者もいますし、証拠不十分で無罪となる者もいます。時には公訴の消滅により免訴となる者もいます。
これらの場合には刑が言渡されませんから、刑事裁判所が私訴を受理した理由も消滅することになります。なぜなら、刑事裁判所で私訴を受理するのは刑が言渡されることを前提としているからです。
理論上は当該行為が犯罪とならない場合には、私訴を受理する権利も消滅し、私訴を棄却することになります。
しかし、実際の運用においては必ずしもそうとは限りません。フランス治罪法では、重罪と軽罪とでは扱いが異なります。軽罪及び違警罪は、被告人が無罪または免訴となった場合は、私訴は却下されます。しかし、重罪の場合は私訴の裁判の言渡しがあります。
フランスでは、重罪の審理には陪審官という者がいて、事実の判決を行うため、たとえ無罪の場合でも、私訴の審理を行うことには問題がないのです。
一方、我が国の治罪法はフランスとは異なります。公判において私訴を受理したときは、刑の言渡しがなくても、私訴の裁判を行うのです。同法第306条第1項に「裁判所においては、公訴の裁判と同時に私訴の裁判を言渡さなければならない」とあり、第2項には「私訴についての取調べが十分でない場合は、公訴の判決があった後に、その裁判の言渡しができる」と規定しています。
第401条第1項には「犯罪について証拠が十分でない場合は、無罪の判決を下し、被告人を釈放しなければならない」、第2項には、「原告と被告間の賠償については、第399条の規則に従って判決を言渡さなければならない」とあります。
第306条及び第401条は、公訴が無罪や免訴になった場合であっても、私訴を裁判することを命じています。理論的には、刑事裁判所でこのような私訴の裁判を行うのは、その権限を超えるものであるといわざるを得ません。被告人に犯罪が成立しな場合は、私訴は民事裁判所に提起すべきであり、刑事裁判所は私訴を棄却して、民事裁判所に移すべきです。
しかし、実際の便宜を考えますと、法の規定する扱いをすることは理由があります。
刑事裁判所で十分に取調べを行い、被害者の損害についても全て立証がなされているのに、訴えを却下すれば、被害者はもう一度最初から民事裁判所に訴え出なければなりません。
このようなことでは、原告人だけでなく、被告人の貴重な時間も無駄になります。このような無駄を省くために、立法者は前述のように規定したと考えられます。
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(無罪となったときに私訴を判断しても弊害はない)
「被告人が無罪になった場合に、刑事裁判所で私訴を裁判するのは問題がある。悪意を持った者が、刑事事件を口実にして、不当に民事訴訟を刑事裁判所に持ち込むといった弊害が生じないだろうか」という指摘について考えてみましょう。
確かにこの指摘は一理あります。しかし、重罪に関しては、必ず予審を経ます。予審判事が犯罪の成立を認めない場合は免訴の言渡しをし、公判に付しません。予審判事は民事の審判を行う権限がないので、私訴を受理できません。軽罪及び違警罪は、複雑な案件は予審を経ることとなりますし、軽易な軽罪や違警罪については、必ず検察官が起訴することになっていますので、民事の原告人が申立てをしたからといって、検察官がその事実を認めない限り、起訴することはありません。
このように予審判事と検察官がいることで、原告人の専横は防ぐことができます。
フランスでは、軽罪に関して被害者が公訴を提起できますので、前述のような弊害を防ぐことは難しいのですが、本邦においては、被害者は予審判事に申立てを行うことのみが許されており、直接公訴を提起することが許されていないので、前述の弊害を防ぐことができるのです。

(その他)
被害者が予審判事に対して民事原告人として申立てを行う手続きは、治罪法第93条以下および第110条以下の二節に定められています。手続きに関しては、民事原告人の起訴を論じる際に詳しく説明致しましょう。また、民事原告人となることで、様々な権利と義務が生じますが、これらも民事原告人の起訴を論じるときに説明致します。

(第四章第二節 了)
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第三節 民事裁判所に私訴をなすこと
(治罪法第4条第2項)
治罪法第4条第2項は「私訴は、別に民事裁判所にこれを行うことができる」と規定しています。私訴は刑事裁判所で行うこともできますし、公訴とは別に民事裁判に訴えることもできるのです。
民事裁判所において私訴を提起することができることとしたのは妥当です。
刑事裁判所で私訴を裁判することは便利ですが、それだけの理由で、民事裁判所に訴えることを禁止するのは妥当ではありません。市民同士の争いを扱う訴訟は、本来、民事裁判所で受け付けられるべきであり、刑事裁判所で私訴を審理することは例外なのです。便利であるからといって、本来の管轄権を奪うことは理論的ではありません。
このように、私訴は被害者の選択次第で、刑事裁判所にも、民事裁判所にも提起できます。
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(刑事裁判所に私訴を提起する方が便利)
日本では、原告人にとっては刑事裁判所に私訴を提起する方が便利です。印紙税(人々にとって最も嫌われているものです)を免れ、また勧解を経る必要がないからです。
一方、フランスの制度では、被害者は刑事裁判所に訴えず、民事裁判所に訴えることを希望する者が多いとようです。フランスの民事裁判所の構成は非常に充実しており、裁判官も適任者が選ばれているためです。裁判所所長は全ての民事事件を管理し、裁判官の人員も民事局の方が充実しています。初審裁判所の刑事局は5人ですが、民事局は7人です。控訴院も同様です。このため、フランスでは刑事裁判所を避けて民事裁判所に訴える者の方が多いのです。
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(治罪法第6条)
治罪法第6条は、私訴が民事裁判所と刑事裁判所双方に関わる場合の規定で、民事裁判所は、公訴の裁判よりも先に私訴の裁判を行うことはできません
同条は一見解釈が難しくないように思えますが、深く検討してみると理解が難しいところがあり、その背景や根本に立ち返ってよく考察する必要があります。
フランス法では、「刑事は民事を中止すべきものである」というのが原則です。この原則は、刑事と民事の訴訟が分離して提起された場合に適用されるべきものです。刑事裁判所において公訴と私訴双方が提起されている場合には適用されません。
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(治罪法第6条の趣旨)
なぜ民事と刑事が分離して提起された場合、民事裁判所は刑事の判決を待たなければならないのでしょうか。その理由は以下のとおりです。
第一に、刑事訴訟は民事訴訟とは異なり、その影響は単に財産上の問題にとどまらず、身体・生命にも影響を及ぼすものだからです。刑事事件を裁判するには、充分に証拠を見きわめなければなりません。刑事裁判を後にすると、民事裁判と刑事裁判の結果が抵触することもありえます。二様の判決が出ることは、国民の信頼を失わせます。このため、民事裁判は刑事裁判を待って判決をすると規定されているのです。
第二に、民事裁判を先に行うと、その結果が刑事裁判に影響を与える可能性が否定できないからです。この点については、裁判の確定を説明するときに詳しくお話ししましょう。
第三に、民事裁判を先に行うことで、その影響が被告人に不利益を与える可能性があるからです。刑事裁判官は知らず知らずのうちに民事裁判の判決を頼りにしてしまうことがないとはいえません。民事判決ではなく、証拠を重視すべきです。
以上三つの理由から、民事と刑事の訴訟が分離されて提起されたときは、刑事訴訟を先に行い、民事訴訟を後に行うと規定されているのです。
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(公訴が提起される前に私訴が起こされた場合の取扱い)
治罪法第6条を適用する際には、他にも注意すべき点があります。それを以下に説明しましょう。
第一に、公訴が提起される前に私訴が起こされた場合についてです。
公訴が提起されていないときに、私訴が提起された場合、手続きはどのように進めるべきでしょうか。
民事裁判所において、その事件が犯罪に起因するものであると認められたときには、治罪法第96条は「官吏がその職務を行うときに、重罪や軽罪があることを認知し、又は重罪や軽罪があると思料した場合には、速やかにその職務を行う地の検事に告発すべきである」と定めていたす。
民事裁判官がこの告発を行った場合、その民事審判は中止すべきかが問題となりえますが、中止する必要はないと考えます。治罪法第6条には「公訴と私訴が同時に提起された場合」とあり、告発を行っただけで、公訴が提起されていないのですから、民事裁判官が審理を中止する理由がありません。
検察官が告発を受理しても、公訴を提起するとは限りませんから、裁判官が何もせずただ手をこまねいて、検察官がどのようにするかを待つ必要はありません。裁判官と検察官は互いに抑制し合うものではなく、それぞれ独立した権利を持って公平な裁判を維持する者です。告発を行ったとしても、検察官が公訴を提起していない以上、民事裁判官は私訴を審理するのが当然です。
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(私訴審理中に公訴が提起された場合の取扱い)
第二 私訴審理中に公訴が提起された場合
私訴の審理中に公訴が提起されると、刑事と民事が並行して進行する状態となりますので、治罪法第6条により、民事訴訟は中止となります。刑事の判決を待ち、判決が出た後に民事裁判を再開すべきです。
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(民事裁判の中止は刑事の終局判決が出るまで)
民事裁判を中止して刑事裁判の判決を待つといいますが、どのような判決を待つべきなのでしょうか。条文ではこの点が明確ではありません。私は、刑事の終局裁判を待つべきではありますが、確定裁判まで待つ必要はないと考えています。
確定裁判と終局裁判は異なります。確定裁判は、最終の判決であり、上訴することができない判決です。一方、終局裁判とは、一旦その事件が落着したものです。予審の言渡しにおいても、終局のものとそうでないものがあります。
免訴は、それ以上の異議や上訴ができないものですので、終局裁判です。
これに対して、公判に移す旨の言い渡しは終局裁判ではありません。これからさらに審理し、取調べが必要だからです。
このように、予審における免訴は、終局の判決ですから、民事裁判を進めることができますが、予審から公判に移す場合は、終局の裁判ではないため、民事裁判を審理することができません。
以上のように、民事裁判は終局裁判を待つものであり、確定裁判を待つものではありません。確定裁判を待つと、奇妙な結果を招くことになります。予審における免訴の言渡しは確定裁判ではないため、後日新たな証拠が発見されたときには後日裁判となることがあります。
確定裁判を待つとするならば、公訴時効の満了や欠席裁判の場合には、刑罰の時効に至るまで待たなければなりません。刑罰の時効期間は、短ければ7年、長ければ30年にも及びます。このような長い期間を待つとすれば、民事原告人の損害は非常に大きくなってしまいます。
フランス治罪法第3条第2項においても、「民事を中止するのは、終局裁判を待つべきものでって、確定裁判を待つものではない」と規定されています。
刑事裁判所においては、私訴が提起された場合は、公訴の裁判と同時に私訴の判決を言渡さなければなりません。確定裁判を待つのであれば、民事と刑事を同時に裁判することなどできません。このことからも、確定裁判ではなく、終局裁判を待つべきものであることがわかります。
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(私訴の判決を公訴の判決よりも先に言渡した場合の取扱い)
私訴の裁判を公訴の判決よりも先に言渡してしまった場合は、私訴の裁判だけでなく公訴の裁判も効力がなくなります。
民事と刑事が同時に提起されている場合、刑事の判決が先に行われなければ、民事の判決を言渡すことができません。これに反した場合、民事と刑事の両方の判決は効力がありません。形事上の予断を防ぐためです。民事と刑事の両方の判決を取消すためには上告を要することになります。
(第四章 第三節 了)
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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第八回講義

2024年10月10日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第八回講義
(明治18年5月15日)

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(はじめに)
本日は第二款「私訴の施行に関する規則」から説明致しましょう。
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第二款「私訴の施行に関する規則」

(付帯私訴が許される理由)
判決を行う権限は民事裁判所及び刑事裁判所に属します。民事事件は民事裁判所で担当し、刑事事件は刑事裁判所で担当します。
このように民刑という二個の裁判所があるのですから、刑事事件の公訴は刑事裁判所に行い、私訴は刑事事件を契機として起こった場合でも、民=民の争いですから、民事裁判所に提起することになるはずです。
しかし、法律上特に私訴 を刑事裁判所に提起することが許されています。その理由は次のとおりです。
①公訴と私訴の証拠を共通とすることができる
②公訴と私訴を同じ裁判所で裁判することで、事務が簡便となり、公訴と私訴の裁判に齟齬がなくなる
③民事の原告人を保護するという観点からも、公訴に付帯して私訴を行うことを認めた方が良い。
民事と刑事の2つの訴えが同時に別の裁判所に提起された場合、民事裁判所では刑事裁判が終わるまで裁判を中止せざるをえません。そのため、民事の原告人は刑事判決があるまで待たされることになります。被害者に一日でも早く損害を回復させるためには、公訴に付帯して私訴を行うことを認めた方が良いのです。
さらに、④私訴を刑事裁判所に提起することを認めると、民事の原告人は検察官を助けて証拠を提出し、それによって犯罪を証明し確実なものとすることができるという利点もあります。
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次に、私訴の施行に関する規則を三節に分けて説明しましょう。

第一節 民事原告人は裁判所選択権があること
犯罪によって損害を受けた者は、民事裁判所と刑事裁判所のどちらかを選んで訴える権利があります。このような選択権があることは、民事原告人にとって利益ですが、民事原告人が刑事裁判所で訴えを起こす際には、一定の制約があります。それは公訴に付帯させる必要があるということです。
民事原告人が刑事裁判所に私訴を行うには公訴と分離独立してこれを行うことはできず、公訴に付帯してしなければなりません。
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(付帯私訴の方法)
付帯私訴を行うには2つ方法があります。1つは検察官の起訴がある時に、私訴の申立て行う方法、もう1つは予審判事に対して私訴の申し立てをすることです。
民事原告人が刑事裁判所に私訴を行うときは、通常民事裁判所の事物管轄に制約されません。治罪法第4条に「私訴はその金額の多寡に拘わらず公訴に附帯して刑事裁判所にこれを為すことを得」との規定があるからです。
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(民事裁判所の事物管轄と付帯私訴)
民事裁判所の事物管轄は次の規定があります(明治14年12月第83号布告)。
第2条「治安裁判所は請求の金額及び価額100円未滿の訴訟に付き始審の裁判を為す」
第4条「始審裁判所は請求の金額及び価額100円以上並びに第3条に揭げる治安裁判所権外の訴訟につき始審の裁判を為す」
以上のように、民事訴訟では金額100円以上となると、治安裁判所に訴えを提起できません。
しかし、刑事事件での付帯私訴ではこの制限を受けず、損害の金額100円以上であっても違警罪裁判所(治安裁判所)に提起できます。また民事訴訟では金額100円未満のものは始審裁判所に訴えを提起することができませんが、刑事事件では損害額が100円未満であっても、軽罪裁判所(始審裁判所)に提起できます。
このように刑事裁判所に付帯私訴を提起する場合は、通常民事裁判所の事物管轄の制限を受けません。
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(付帯私訴ができない刑事裁判所)
もっとも、例外はあります。治罪法第4条但書が「法律においてその裁判所に私訴を為すことを許さない場合はこの限りにあらず」と規定されめいるとおりです。「私訴を為すことを許さない場合」とは、次のものです。
①陸軍治罪法第1条第2項「軍法会議は刑事付帯の民事を受理せず」
②海軍治罪法第1条「海軍軍人の犯した重罪・軽罪は軍法会議においてこれを審判す。軍法会議は刑事付帯の民事を受理せず」

現行法では例外はこの2つですが、治罪法第4条に「私訴を為すことを許さざる場合はこの限りにあらず」とあり、後日法律で規定されることが予定されていると見ることができます。
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(フランスにおける例外)
フランスでは、これ以外にも私訴ができないものがあります。会計官吏の犯罪です。
日本では会計官吏の犯罪は、他の犯罪と同様に通常裁判所で審判しますが、フランスでは会計検査院が審判し、通常裁判所には管轄がありません。
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(軍事裁判所で付帯私訴を認めない理由)
陸海軍裁判所が付帯私訴を許さないのは、軍事裁判所が厳格を主とすることから、私訴の審判に適さないからです。また、軍人が裁判官を務めることからは、民間の争論を判決するに適さないのです。
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(高等法院で付帯私訴を受理すべきか)
高等法院では、付帯私訴を受理すべきでしょうか。このような問題が起こることは稀有ではありますが、法的には重要な問題です。
治罪法第91条には、「高等法院の訴訟手続きは、通常の規則に従う」と規定され、また、同法第4条には「その裁判所に私訴をなすことを許さない場合はこの限りではない」と規定されており、高等法院に私訴を許さないとの規定は存在しません。そうしますと、条文上からは高等法院でも私訴を受理することは可能なように見えます。
しかし、私は法理論上の理由から、高等法院での私訴は許されないと考えます。高等法院は、通常裁判所とは異なります。審判事項は皇族・貴顕の犯罪及び国事犯であり、いずれも一国の大事件です。また、高等法院では大審院判事及び元老院議官が裁判官となります。このように高等法院は特殊であり、皇族・大臣の犯罪及び国事犯のような大事件を審判するのは通常裁判所の適任ではないので、一種特別の裁判所を設けたといえるでしょう。
このような裁判所で、一私人の争論に過ぎない私訴を審判するのは当を得ないものと考えます。それだけでなく、私訴の審判をなすことは、高等法院の尊厳を冒涜するものともいえます。高等法院を設けた趣旨からして、一私人の争論の審判といったような瑣事を任せるべき機関ではありません。よって、条文上は高等法院に私訴を提起することが禁止されていなくても、法理論上の理由から高等法院には私訴を提起できないと考えざるを得ません。
この点フランスはどうかといいますと、日本と同じく治罪法中には明文の規定はなく、通常裁判所の原則を適用するか否か解決がついておらません。この点の裁判例もありません。
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(私訴移転ができるか)
私訴は、民事刑事どちらの裁判所を選んで提起してもよいのですが、一度どちらかの裁判所を選んで提起した場合に、他の裁判所に私訴を提起することができるかという問題があります。
ローマ時代には、一度どちらかの裁判所を選んで提起した場合には、他の裁判所に訴えの提起をすることは許されませんでした。
フランス法では、この点についての明文がなく、どのように解すべきか問題となっています。
我が国では、この点明文をもって規定していますが、その規定の趣旨について知るためには、往古に遡って検討する必要があります。
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(ローマ法及びフランスでの考え方)
ローマ法では「ひとたびある道を選んだときは、他の道は閉ざされてしまう」との格言に基づき、一度どちらかの裁判所を選んで提起した場合には、他の裁判所に変えることはでき混ぜんでした。
フランスでは、法学者の間で説が分かれています。
第一説はローマ法と同様、 一度どちらかの裁判所を選んで提起した場合には変更はできないとするものです。
第二説は、当初民事裁判所に訴えを提起したときは、刑事裁判所に訴えを提起することはできないが、先に刑事裁判所に訴えを提起した場合は、改めて民事裁判所に訴えることができるとしています。
第一説は次のように考えるものです。
「もともと人には選択の自由があり、法律がこれを禁じてない以上は、人がその欲するところに従い、変更することは自由である。しかし、法律手続きにおいてはこのような自由を許すべきではない。よって、一度ある裁判所に訴えを提起したときは、他の裁判所に訴えを提起することはできない」
第二説は次のように考えるものです。
「刑事裁判所は厳格な性質をもっているが、民事裁判所は緩容な性質をもっている。被告人の立場からみて、緩から厳に移るのであれば、被告人の権利を害することはないが、厳から緩に移るのであれば、被告人の権利を害するおそれがない。よって、刑事裁判所から民事裁判所に移すことは許されるが、民事裁判所から刑事裁判所に移すことを許されない。」
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(日本の治罪法の規定)
我が国の治罪法は次のように規定しています。
第7条第1項「民事裁判所に私訴を行ったときは、検察官の起訴があるときでなければ、願下げを行って、刑事裁判所にその訴えを提起することができない」
第2項「刑事裁判所に私訴を提起したときは、被告人の承諾を得て願下げをなして、民事裁判所にその訴えを提起することができる」
このような規定としたのは妥当と考えられます。
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(民事裁判所から刑事裁判所への私訴移転)
裁判所から刑事裁判所に訴えを移すことができるのは、検察官が起訴を行った場合に限ると規定されていますが、これは被告人の利益のためです。なぜなら、民事裁判所で訴えが提起されている途中で、刑事訴訟が開始されると、民事訴訟は中止となり、刑事裁判の終了を待たなければならないからです。
これを刑事裁判所に移すことができるとすれば、原告と被告の双方がその権利を保護できるのはもちろんのこと、同時に付帯する事件を裁判することができますので、被告人にとって利益は少なくありません。
━━
(刑事裁判所への私訴移転の利点)
さらに、検察官が起訴を行ったことで、刑事裁判所に私訴を移すことができる利点としては次の3点があります。
①被告人は少なくとも一度は法廷に出ざるを得ず、出廷回数を減らすことができること
②検察官が犯罪を証明するのに、原告人の援助を得ることができること
③同一の事件を同一の裁判所で審判することにより迅速かつ簡便な処理ができること

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(刑事裁判所から民事裁判所への付帯私訴の移転)
また、一度刑事裁判所に私訴を行ったときは、
被告人の承諾がなければ、私訴を民事裁判所に移すことはできません。これは、民事原告人の意向だけで、被告人に不利益を与えることを防ぐためです。
原告人が当初刑事裁判所に付帯私訴を提起したのに、これを民事裁判所に移すというのは、刑事裁判所の審判が自分に不利だと判断するからでしょう。このようなことを許すと、被告人の不利益となるため、一旦刑事裁判所で私訴を提起した場合は、被告人の承諾がなければ、民事裁判所に訴訟を移すことはできないと規定したのです。
被告人が移転を承諾する例としては、刑事裁判の審理が遅延する等、刑事裁判所での審理が不適当だという被告人が考える場合には、民事裁判所に移すこと場合が考えられます。
以上、原告人がその訴訟を民事裁判所から刑事裁判所に移す場合、また刑事裁判所から民事裁判所に移す場合の詳細について説明しましたので、諸君も理解されたことでしょう。
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(治罪法第7条の適用要件)
このことから考えるに、治罪法第7条は私訴移転の制限法ということになります。原告人の立場からみると、権利を制約することになります。
原告人に治罪法第7条を適用するのは次の三要件が必要です。
①訴訟の目的が同一であること
②訴訟の原因が同一であること
③訴訟人が同一であること
以上の三つの要件を満たさない場合、原告人には治罪法第7条を適用することができません。以下例を示します。
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(第一の例 離婚と損害賠償請求)
第一の例として、犯姦罪(姦通罪)のケースをとりあげます。
夫が姦婦(妻)に対して賠償を求め、その後離婚を請求した場合はどうでしょうか。この場合、原因と訴訟人は同一ですが、目的が大きく異なります。つまり、一方は離婚を求め、もう一方は損害賠償を求めているのです。このように目的が異なる場合は、治罪法第7条を適用する要件を満たしていません。よって、離婚請求を民事裁判所に訴えることは、被告人の承諾を必要としません。
民事裁判所で離婚を訴えた後に、刑事裁判所で損害賠償を求めた場合はどうでしょうか。
この場合は、検察官が起訴していなくても、原告人は公訴を提起することができます。訴訟の原因と訴訟人は同一ですが、その目的が異なるため、治罪法第7条を適用することはできないからです。
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(第二の例 委託物返還請求と財産犯)
第二の例として、民事裁判所で委託物の返還を求める訴訟を行っており、その審理中に詐欺による財産取得や寄託財産に関する犯罪であることが分かった場合について考えてみます。
この場合も、検察官が起訴するのを待たずに、公訴を提起することができます。
訴訟の目的と訴訟人は同一ですが、その原因が異なり、治罪法第7条を適用することができないからです。
━━
(第三の例 民事担当人への請求と本人への請求)
第三の例として、民事裁判所で民事担当人に対して損害賠償を求め、刑事裁判所で犯人に対して私訴を提起する場合を考えてみます。この場合、訴訟の目的と原因は同一ですが、訴訟人が異なるため、治罪法第7条を適用することはできません。
━━
(まとめ)
このように、治罪法第7条を適用するためには、訴訟の目的、原因、および訴訟人すべてが同一である必要があります。この三つの要件のいずれかが異なる場合には、同条を適用することはできません。
治罪法第7条についての説明は以上です。
民事原告人が刑事裁判所で私訴を提起することの可否については、次回お話し致します。
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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第七回講義

2024年09月07日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第七回講義

第七回講義(明治18年5月13日)
(はじめに)
前回は、私訴の対象者が①公訴の被告人、②民事担当人であることを説明しました。今回は③脏物(盗品)の占有者から説明します。
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(私訴の対象者③〜脏物の占有者)
第三 脏物(盗品)の占有者
脏物(盗品)の占有者も私訴の対象者となります。脏物とは、強盗、窃盗、詐欺などの財産犯の被害物品のことです。
脏物を占有する者が私訴の対象者となるのは、脏物は犯罪によって得た物品であり、所有者の正当な移転方法とはいえないからです。
脏物の占有者とは、犯罪者ではなく、犯罪者からその犯罪によって得た物品を買い受け、または譲り受け、あるいは交換によって得た者をいいます。
刑法附則第54条には「脏物が犯人の手にある時は、直ちに被害者に還付する。しかし、もし転々として他人の手にある時は、被害者の請求によって還給させるものとする」とあり、また同第55条第2項には「もし公商によらずに買い取った物品は、その還給を拒むことができない。ただし、その買取者は、売り手に対して転償を求めることができる」とあります。この両条によれば、公商によらずに脏物を買い取り、または譲り受けた者は、被害者の要求を拒むことができず、取戻の訴え(私訴)の対象者となります。
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(私訴の対象者④〜犯罪者の相続人等)
第四 犯罪者の相続人
犯罪者の相続人は私訴の対象者となります。刑法附則第62条には「脏物の還給と損害の賠償は、本犯が死亡した場合はその相続人に対してこれを要求することができる」とあります。この条文によれば、本犯が死亡した場合には、その相続人に対して要求を行うことができるのは明らかです。また、本犯の相続人に対してだけでなく、本犯の民事担当人に対しても要求を行うことができると考えるべきです。そうであれば、その民事担当人が死亡した場合には、民事担当人の相続人に対しても要求ができると考えられます。
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(例〜鉄道馬車会社)
例えば、鉄道馬車会社の御者が、不注意で馬車を御する際に他人に傷を負わせた場合、その被害者は鉄道馬車会社に対して損害賠償を求めることができます。その会社は御者の民事担当人の立場にあるからです。仮に、私訴が起こされる前にその会社が他人に譲渡された場合には、後の所有主、すなわちその会社を譲り受けた人に対して損害賠償を求めることとなります。
なぜなら、その譲受人は、民事担当人の相続者と異なるところがなく、会社に属するすべての権利と義務を引き継ぐ者であるため、その義務の一部である賠償の責任を免れることができないからです。

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(フランス及びアメリカの法制度)
私訟は、犯罪者が死亡しているときには、その相続人に対して行うことができるとする国は、本邦(刑法附則に規定)及びフランスです。
このような訴訟を認めない国としてアメリカが挙げられます。アメリカでは、被害者または犯罪者のいずれかが死亡すると、私訴の権利が消滅します(アメリカ法原論を参照)。相続人に対して私訴を行うことができるか否かは世界共通ではありません。
相続人に対して私訴できることの当否については、ここでは論じません。これを論じるには哲学的な検討をしなければならず、法律学の範囲を逸脱するからです。これを論じることは後日に譲ることとします。

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第四章 公訴および私訴の施行に関する規則
前章では、公訴および私訴の対象者が誰であるかを論じました。本章では、公訴および私訴の手続きを説明します。
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第一款 公訴の施行に関する規則
(検察官の公訴権)
検察官は定められた管轄の区別に従い、重罪、軽罪、違警罪について公訴を起こす任務を負っています。その行為を行う権限は法律によって付与されているため、他者の命令によって左右されることはなく、自らの意見に従い、これを行うか、行わないかを決定することができ、その権限は独立しています。

(検察官の公訴権濫用の防止方法)
検察官権限の独立性は、個人の専横や怠慢といったことで、公訴を提起すべきなのにそれをしないということが起こり得ます。そのため、法は、検察官の専横や怠慢を防止するための制度も定めています。
一つは行政権による監督、もう一つは私人による監督です。
前者は、司法卿または検事総長からの命令により検事に公訴を提起させるもので、行政権により検察官の専横と怠慢を防止するものです。
後者は、民事原告人に公訴提起権を与えるもので、私人に検察官の専横や怠慢を防止させるものです。

(フランスの制度)
フランス治罪法では、この二種類の監督方法のほかに、さらに控訴院による監督があります。フランス治罪法第9条では控訴院は検事に対して公訴を提起するよう命令することができまるのです。
フランスは行政権と司法権の分立を重視していますが、それにもかかわらずこのような条項を設けた理由は、検察官の怠慢を防ぐために他なりません。
検察官は行政官の監督に属しているため、重要な官吏または皇族の犯罪がある場合、その権威に屈して公訴を提起しないことがないとは言えません。そのようなことが起これば、法の厳明を維持することができません。そのために、独立不羈なる控訴院が検察官に対して起訴命令を下すことができるとしたのです。もっとも、この命令を行うのは極めて稀です。

(ナポレオンの弟への起訴命令)
一例を挙げると、ナポレオン第一世の威望が絶頂にあった時、その皇弟がある新聞記者を砲撃して負傷させたことがありました。
ところが、検察官はその権威を恐れて皇弟を起訴しなかったのです。控訴院はこの事件について特別に会議を開き、その決議をもって検察官に起訴命令を下したといいます。

(検察官に公訴提起権限が付与されている理由)
検察官は公訴権を独立自由に行使することができます。しかし、起訴を行うにあたっては法律に従うべきことは当然であり、また起訴を行うにあたっても常に社会の利害を考慮してこれを処理しなければなりません。一私人の些細な秘密を暴くことをもってその職務を全うしたとはいえないのです。


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(検察官と裁判官の権限の対比)
検察官は公訴提起に関して絶大な権力を有しています。これに対抗する十分な権力を有する者が裁判官です。
この二者の職権は明確に区別されており、互いに侵すことはできません。すなわち検察官は裁判の領域に入ることはできません。また裁判官は起訴の領域を侵すことはできません。その例外は現行犯です。この場合は裁判官は検察官の起訴を待たずに直ちにこれを受理することができます。
このような例外を除き、検察官は裁判官の命令を受けず、裁判官は検察官の命令に従いません。二者が対峙して初めて公平な裁判が得られるのです。治罪法第158条第2項に「また検事の請求があったときは、いかなる場合でも臨検すべし」とあり、これは検察官の意見をもって裁判官を拘束するものですが、これは例外に属します。
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(起訴の放棄をすべきではないこと)
検察官は一度起訴した以上は簡単にこれを放棄してはならず、裁判官の判決を受けなければなりません。一旦起訴した以上は国家および公衆の利益となるため、検察官個人の意見でこれを簡単に放棄できないからです。このような考え方は、治罪法にある放棄ができるとの明文に反するように見えますが、ここにいう放棄とは公訴権を放棄する意味ではなく、ただ検察官自身の意見を放棄する意味であると解釈すべきです。したがって裁判官は検察官がその意見を放棄した場合でも、判決を言い渡さなければならないのです。

(起訴の不当性を発見した場合の検察官の対処)
また、検察官が最初に起訴した時の考えと同じ判決を得たとしても、その後に起訴及び判決の不当性を発見した場合には、上訴して是正しなければなりません。公訴は検察官自身のためにするものではなく、国家のためにするものなので、自分の意見が誤っていることを悟った場合には、正しいものに従わなければならないからです。このことが公訴と私訴の大きな違いです。民事の訴訟においては、原告が請求したこと以上の理由により、上訴することはできません。

(検察官単独では起訴できない場合)
検察官が起訴を行うのに他の者の行為が必要な場合があります。①被害者の告訴が必要な場合です。また、②皇族、華族、勲章を帯びた者、位階のある者に対しては、直ちに公訴できず、あらかじめ上奏して裁定を待つ必要があります。その理由は、後日「公訴の停止について」という題目を設けて説明致しましょう。

以上、公訴の施行に関する規則を説明しました。次回には私訴の施行に関する規則を説明しましょう。


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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第六回講義

2024年08月03日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第六回講義

第六回講義(明治18年5月8日)
第三章 誰に対して公訴・私訴を行うべきか
( はじめに)
前章では、公訴・私訴を起こすことができる人を説明しました。この章では、公訴私訴を受けるべき人は誰なのか、つまり公訴私訴の被告となる人を論じます。
この章は、前章に比べて考察すべき範囲がやや狭いため、前回よりも理論は少ないです。
しかし、よく分析して考察を加えれば、論究すべきことは相応にあります。

この章は次の二つの款に分けて述べます。
第一款 誰に対して公訴を行うべきか
第二款 誰に対して私訴を行うべきか
まずは第一款から説明しましょう。
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(第一款の第一) 重罪、軽罪、違警罪を犯した人

第一款 誰に対して公訴を行うべきか

公訴と私訴を提起する主体が異なることは前回論じました。主体が異なるのですから、その対象者も異なります。以下に、公訴を受けるべき人について論じます。

第一 重罪、軽罪、違警罪を犯した人
公訴の被告となる者は、重罪、軽罪、違警罪を犯した人です。
刑法第104条の「正犯」は公訴の対象となります。なぜ正犯に対して公訴を行うのかという問題を治罪法の視点から見ると、公訴は刑を適用することを目的としているため、正犯に対して公訴を行うのは当然のことと言えます。
もっとも、本問題は刑法においてなぜ正犯を罰するのかという問題と同義です。よって、この問題は、治罪法よりも刑法の議論においてより詳しく論じられるべきものであり、ここではこの程度とします。
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(第一款の第二)
第二 教唆者
実行行為はしていないが、人をそそのかして罪を犯させた者(教唆者)は、正犯と同様に公訴の対象となります。
教唆者を公訴するときの注意点を申し上げましょう。
刑法第105条には「人を教唆して重罪軽罪を犯させた者亦正犯と為す」と規定されています。
重罪及び軽罪と規定されていますが、違警罪の文言はありません。刑法では違警罪の教唆者は罰しないのです。したがって、教唆者が公訴の対象となるのは重罪や軽罪に限られており、違警罪の教唆者が公訴の対象となることはありません。
しかし、だからといって違警罪に教唆者が存在しないわけではありません。たとえば、刑法第425条第9項に規定されている、人を殴打して創傷や疾病に至らない場合の罪のようなものは、実際には教唆者がいることが少なくありません。違警罪のような軽微な罪であっても、事実上、教唆者が存在しないわけではないのです。しかし、刑法でこれを罰しない以上、違警罪の教唆者に対して公訴を行うことはできません。

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(第一款の第三)
第三 従犯
第三に、重罪や軽罪の従犯は公訴の対象となります。従犯者は、教唆者と同様、違警罪に関しては公訴の対象とはなりません。

以上まとめますと、公訴の対象者は、第一に正犯、第二に教唆者、第三に従犯です。そして、刑は犯罪者その人にのみ適用されるという原則に従い、これらの者の親戚には及ばないことは言うまでもありません。

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(第一款に付随する問題①〜第三者の関与)
この第一款については、注意を要する問題が二つあります。以下にそれを考察します。

第一の問題は、「検察官と被告人との間に公訴が起こり、まだその結審がなされていない場合に、第三者がその公訴に関与することができるかどうか」ということです。

〈民事訴訟に関する考察〉
この問題を検討するにあたり、まず民事上の事例から考察します。民事訴訟では、甲と乙の訴訟の間に丙が関与することは許される場合があります。
例えば、不動産の売買において、甲を売主、乙を買主とした場合に、丙という者が現れて乙を被告としてその不動産の取り戻しの訴えを起こしたとしましょう。この場合、乙と丙の間に訴訟が係属することになります。乙丙間の訴訟に、甲が関与するには二つの方法があります。一つは、甲自身が被告となり、乙に代わって答弁を行うことができるというものです。これはほかでもなく、売主がその売買対象物件の担保責任を負うためです。乙丙間の訴訟において、仮に乙が敗訴することになれば、売主である甲は乙に対して損害賠償の責任を負うことになるからです。
もう一つの方法は、甲が被告ではなく、乙と共同して答弁を行うことです。この方法はどの国の訴訟法でも概ね認められているものです。フランス民事訴訟法第339条ではこれを明示しています。わが国においても民事上このような例がないわけではありません。フランス語でこれを「アンテルバンション・ド・チェール」と言います。第三者が訴訟に関与するという意味です。これは民事訴訟上不可欠な制度です。
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〈刑事訴訟に関する考察〉
民事訴訟については以上のとおりです。では、刑事上の場合はどうでしょうか。
甲が公訴を受けた後に、乙が「これは甲とは全く無関係である、私が被告となって答弁するべきだ」と自ら被告になろうとする者が現れたというような場合です。
例えば、親が公訴を受けた場合に、子が親が獄中で呻吟するのを坐視することができず、自ら被告となって答弁しようとする場合です。
また、甲が公訴を受けた事件について、自分も関与しており、甲と共に答弁しようとするような例が考えられます。共犯であれば、一刻も早くその訴訟に関与し、答弁を行うことが自分の利益となるからです。

・刑事事件において許容できるか
では、刑事上でこのようなことを許すべきでしょうか。この点について治罪法の規定はありませんので、条理によって考えざるをえません。
私は、条理が指示するところに従い、次のように考えます。「民事ではこれを許すべきだが、刑事ではこれを許すべきではない」と。

・許容できない理由
以下、理由を述べましょう。
公訴は一個人の私的意向に左右されるものではありません。よって、公訴を受理しその裁判を行うのは、治罪法で規定されているところによらなければません。
公訴を受理するのは、検察官の起訴又は民事原告人の申立てある場合に限られ、その他の場合に裁判所が公訴を受理することは許されません。その例外は現行犯の場合(治罪法第202条)、弁論によって発見された附帯の事件、または法廷内での犯罪です。この例外の場合を除き、裁判官は自ら公訴を受理することができません(無告不理の原則)。
したがって、たとえ被告人が自ら甘んじて刑を受けようとする場合でも、それはただ一個人の私意に過ぎないため、法律で定められた手続きに従って起訴されたものでなければ、被告人となることはできません。第三者が自ら甘んじて被告人になろうとする場合でも、決してこれを許すべきではありません。
これを許してしまうと弊害もあります。例えば、富者が被告となり有罪の判決を受けるかもしれない不幸に見舞われた場合、すぐに大金を投じて貧者を自分の代わりに被告とさせ、自分の責任を免れようとする者がでてくるでしょう。
民事上は、基本的にすべての人の自由を尊重するものなので、自ら進んで被告人になりたいという者があれば、それを許しても大きな弊害はありません。自らに義務ありと告白する者を、法律上あえてこれを否定する理由に乏しいともいえます。
しかし、刑事上では自ら進んで刑を受けようとする者がいても、その人が犯罪者でない限り、決してこれを罰してはいけないのです。
これは、刑事と民事は性質の異なるものだからです。

・フランスにおける通説・判例とその批判
フランスの学説および判例を見ると、フランスでは刑事においても第三者が関与することを認めているようです。
その理由は、フランス治罪法には第三者の関与を禁止じていないから、というものです。
理論的には、同一事件はできるだけ一回で審理し、できるだけ同時に同じ法廷で裁判することで、判決の矛盾を来さないようにすることができるからと論じられています。
この議論は学説のみならず、フランスの大審院でも採用されています。
しかし、これらの学説及び大審院の判決は、刑法と民法を混同しているとものと評価せざるを得ません。
民事に関することは各個人の意思に委ねるべきものですが、刑事に関することは国家の秩序に関わるものであり、決して一個人の私的な意思に任せるべきではないのです。しかし、フランスでの議論は、この区別を全く考慮していないのです。
以上述べた理由から、私は民事の目的に関する事柄については第三者の関与を許し、刑事の目的に関する事柄については第三者の関与を許すべきではないと信じます。

(治罪法の規定からの自説の補強)
我が国の治罪法第303条第1項には、「民事担当人は、始審終審を問わず、いつでもその訴訟に参加することができる」と規定しています。
この規定は、民事を目的とする者に限って、民事担当人という第三者に公訴に関与することを許したに過ぎないものです。被告人が有罪判決を受ける場合、直ちに民事担当者の責任に影響を及ぼすため、その訴訟に立ち入って自らの権利を保護することを許したのです。
このような関与の仕方であれば、民事担当人だけでなく、その他の関係者にも関与を許すことが非常に理にかなっているというのが、私の考え方です。
例えば、甲が乙から物品を買い受けた場合に、甲がその訴訟に関与し、その物品が犯罪によって得られたものでないことを証明する権利を有することは、条理にかなっています。
民事担当人だけでなく、その他の関係者にも関与を許すのが妥当です。

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(第一款に付随する問題②)
第二の問題は、「訴訟事件の審理中に被告人が他人をその訴訟に引き入れようとすることは許されるか」です。
民事上では許されます。先の例でいえば、被告(買主)は売主をその訴訟に引き入れることができることになります。実際に我が国においてもこのようなことは既に行われています。では、刑事上ではどうでしょうか。被告が「これを行ったのは自分ではなく、別の人である」として、その人を訴訟に引き入れることができるでしょうか。
私は許すべきではないと考えます。なぜなら、刑事上においてこのようなことを許可することは、被告人自身に公訴を行わせることと何ら変わりがないからです。これを許さなくても、被告人は証人としてその人を呼び出すことができるので、不利益とななりません。証人の呼び出しについては、治罪法に厳格な規定があり、証人が出廷に応じない場合には制裁が加えられるため、特に他人を被告とする必要はないのです。
以上で第一款の説明を終わります。次に第二款に移ります。

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(第二款 誰に対して私訴を行うべきか)
第二款 誰に対して私訴を行うべきか
公訴を受ける者は犯罪者に限られますが、私訴を受けるべき者は犯罪者に限られません。
以下この点を論じます。
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(第二款 第一 公訴の被告人は私訴の対象となる)
第一 公訴の被告人は私訴の対象となります。
公訴の被告人は犯罪に関して既に刑法上の責任を負っている者です。したがって、それに関連する民事、つまり私訴においてもその責を免れることはできません。ここで「犯罪者」というのは、正犯のほか、教唆者、従犯者も含まれます。
教唆者、実行犯、従犯者は私訴ではその責任を連帯して負います。刑法第47条に「数人の共犯による裁判費用、贓物の還付、損害賠償は共犯者に連帯責任を負わせる」と規定されています。
同条の「共犯」とは、教唆者、実行犯および従犯者の三者を包含するものであり、複数の教唆者や実行犯がいる場合、その全員を含みます。これを狭く解釈し、共犯とは教唆者および実行犯のみを指し、従犯者は含まれないという説もありますが、正しいとは思えません。正犯、従犯はすべて連帯責任を負うべきです。
その理由は、教唆者、実行犯、従犯がいて人を殺した場合、その責任を分けて一部を教唆者の責任とし、また一部を実行犯の責任とするというようなことはできないからです。その責任に差を設けようとすると、不平等な分割法に陥ってしまうのは必然です 。よって、犯罪者に連帯責任を負わせるほかないのです。
もっとも、連帯責任を負うのは被害者に対する関係であり、犯罪者同士の間ではその責任を分割することは可能です。

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(第二款 第二 民事担当人は私訴の対象となる)
第二 民事担当人は、 私訴の対象となります。
民事担当人に関しては、明治14年12月8日の第73号布告で規定されており、次のとおりです。
第一 未成年者の父または母、もしくは同居している親族で監督を行う者
第二 知的障害者・精神障害者の保護者
第三 雇主
ただし、雇人がその雇主の命じた事案を行うとき

以上の四者は民事担当人として、民事上の責任を負うべき者です。この者が民事上の責任を負う理由は、自己の過失によってその責任が生じるのと同じだからということにあります。
親はその子を教育すべき責任を有しており、子が他人に損害を与えたときは、その教育が適切でなかった過失によるものであるから、その責任を免れることができないのです。
また、知的障害者・精神障害者の保護者についても、同様の理由によります。これらは結局、すべて自己の不注意によって他人に損害を及ぼすことに至ったものですので、その責任は注意を欠いた民事担当人が負うべきことは当然のことです。
雇人の行為によって他人に損害を与えた場合に、雇主がその責任を負うことは、一見非常に奇妙に思えるかもしれません。しかし、人を雇うにあたっては、注意を払うべきです。
他人に害を及ぼすような者を雇ったのは、雇い主の不注意であると言わざるを得ません。雇主が責任を負うのはこの理由によります。
もっとも、雇主が責任を負うのは、雇人が雇主の命令を実行する際に行った行為から生じた損害のみです。馭者が馬車を疾駆させて他人に害を与えた場合は、雇主の命令を実行している間に加えた損害であるため、雇主はその責任を負わなければなりません。

フランスでは、上記の四種類の他に、さらに民事担当人とされるものがあります。例えば、工業の授業をする講師や学校の教師などは、その業務を行っている間はその責任を負う者とされています。しかしながら、我が国ではこれを民事担当人とはしていないため、ここではこれ以上説明致しません。

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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第五回講義

2024年07月06日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第五回講義

第五回講義(明治18年5月6日)
本日は前回に引き続いて、私訴を行うべき者について説明致しましょう。

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私訴を起すことができるのはどのような者でしょうか。
一 被害者
二 被害者の相続人
相続人は先人の権利義務を継ぐ者ですので、起訴の権利もまた相続人に移転します。有形の財産だけでなく、無形財産も相続するからです。
権利は無形財産の一種ですから、先人が損害を受け、その者が私訴権を有していた場合には、相続人が先人の権利を継承して起訴することができるのです。ただし、相続人が起訴する際には、犯罪の時期によって多少の違いがあります。被害者の死亡時期の前後に分けて説明致しょう。
1. 被害者の死去前に係る犯罪
2. 被害者死去の原因となった犯罪
3. 被害者死去後に係る犯罪
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第一の場合:被害者の死去前に係る犯罪について説明しましょう。
被害者が生存中に他人の犯罪によって財産に損害を受けた場合、要償の権利(私訴権)を持つことは当然です。
被害者が死亡した場合、相続人はその財産を引き継ぐため、損害を受けた者は先人に代わって損害賠償請求をすることができるのです。
例えば、先人が生存中に他人に土地を横奪されたとします。横奪がなければ、相続人はその土地を引き継いでいたはずです。しかし、相続人は横奪されたことで土地を引き継げなくなったのですから、相続人に起訴権が与えられなければなりません。


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身体の安全や自由などに対して損害を受けた場合にも相続人は起訴権を有します。
なぜなら、訴権は無形財産の一種であり、先人が起訴せずに死亡した場合、その訴訟権は相続人に移転するからです。さらに、自由や安全が侵害されたことは、道義上の損害であり、間接的には財産にも損害を及ぼす性質を持っているので、相続人が起訴権を持つのは当然のことだと言えるでしょう。


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名誉毀損の場合
損害を受けたのが、財産でも身体の安全・自由でもなく、名誉であった場合、相続人に起訴権があるでしょうか。
これは前の二つの場合と大きく異なります。
前の二つの場合における損害は有形のものであり、目で見ることができるものでした。しかし、名誉毀損の場合は無形損害に属するものなので、目で見分けることができないのです。この点については少し詳しく説明する必要があります。
名誉毀損罪は被害者の告訴がなければ成立しません。そのため、被害者である先人が起訴せずに死亡した場合、相続人に訴権がないといわなければなりません。
もともと、名誉毀損罪を訴えるかどうかは被害者自身の選択に委ねられるべきものです。
よって、被害者が起訴せずに死亡した場合、被害者には起訴する意思がなかったと考えざるをえません。
被害者に起訴する意思があった場合には、自ら訴えるか、又は事故などで自らが訴えられない場合は、他人へ委託するか、又は生前に子孫へ起訴を遺言するといった方法で意思を示すことができたはずだからです。これらの方法を何もせずに死亡した場合は、被害者には起訴する意思がなかったと考えるのです。
先人に起訴する意思がなかったのに、相続人が勝手に起訴した場合、先人の意思に反する結果になります。
本人の意思に反する行為は、法律の趣旨にも反することになります。
先人が起訴せずに死亡した場合、相続人に訴権を持たせないのは以上の理由によります。
名誉の損害は、人の立場や感覚によって大きく異なるだけでなく、被害者の気持ちによっては訴えることでさらに名誉を損なうと考える場合もあります。
しかし、この訴権を他人に委ねた場合は、他人が訴訟を起こすことで、かえって被害者の心情に苦痛を増す可能性があります。
そのため、この訴権は検察官にも委託させていないのです。

先人が起訴せずに死亡した場合、相続人に起訴権がないのはおわかりいただけたかと思います。
一方、先人がすでに訴訟を起こして死亡した場合、相続人はその訴権を引き継ぐことができます。この場合には、先人の意思に反する心配はないからです。
このように、被害者である先人が起訴したかどうかによって、相続人の訴権の有無が変わってくるのです。これが名誉の損害と他の損害との違いです。
我が国のように新法が制定されて間もない国では、これらの区別は実際には必要ないかもしれません。しかし、条理上はこうであるべきして、実際にフランスではこのような判決例が存在しています。


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第二の場合:被害者の死因となった犯罪の場合には、相続人に私訴権があるのは当然です。
既に述べたように、親子や夫婦は直接の被害者として、相続人としての名義ではなく、相続人固有の名義で起訴することができます。しかし、このような犯罪に関する起訴は、多くは公益に関わるため、検察官に属すべきものです。

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第三の場合:被害者死亡後の犯罪の場合
第三のケースは、被害者が死亡した後の犯罪に関係するものです。
「人は一度死んでしまえば、もう二度と害を受けることはないのではないか」 と疑問を抱く人もいるでしょう。
しかし、死者に害を加える可能性がないわけではありません。具体的には死者の名誉が毀損される場合です。
そして、この場合には、死者も依然として人として扱われるべきです。そもそも、死者を人として扱うべきかどうかについては、古くから議論されてきました。
しかし、私は場合によっては死者も人として認めるべきだと考えています。実際に、我が国の法律もこの説を取っています。例えば、刑法第359条には「死者を誹毀した者は誣罔に出たるに非ざれば、前条の例に従って処断することを得ず」と規定されています。
この規定を見ると、死者を一個人として認め、これを保護する精神に基づいていることが分かります。法律の美徳と言ってよいでしょう。
刑法第264条や第265条のように、死者を人と同視して、保護する法条も存在します。このように、死者を人と見なす場合があることを知っておいていただきたいのです。


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死者の名誉を誹毀する犯罪について、4点に分けて説明致しましょう。
(第一) 直接に相続人自身の害となるべき場合
この場合においては、相続人として訴える必要はありません。直接、自分名義で起訴することができます。例えば、ここに一人の富豪がいて、その父親が死去した後、ある人がそれを誹謗して、「某は、かつて不正な行為によって富を得た者である。今は富豪と呼ばれ、人から尊敬されているけれども、その当初の不正な行為によって富を得た者だから、今日の富は不正な富である。何を以てこれを誉れとするに足るだろうか」と言ったとしますな。
この誹謗は死者に対する罪です。
しかし、この誹謗が世間に広まれば、相続人の信用が地に落ち、仕事や人間関係に大きな影響を及ぼすでしょう。このような損害は相続人にの直接の損害として、相続人本人の名義で起訴することができます。もし、事実の如何によって刑事裁判所に訴えることができない場合は、民事裁判所に損害賠償請求をすることができます。|


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(第二)相続人の損害とならない場合
相続人は起訴の権利を有しません。
通常、相続人が先人の権利を相続するときは、その相続を受けた時点に現存するもの以上のものを受け取ることはできません。しかし、相続人が損害を受けていないのですから、その権利は相続の時点で異なるところがありません。
訴権が相続人に移転される理由がないのですり。
刑法を適用する上で、死者に対する誹毀罪は、その誹毀が誣罔に出るか否かによって、即ち事実の存否によって罪を問うか否かを決定します。このように事実の有無に基づいて罪の有無を定めることは、公益の観点から定められたものです。
死者に対する中傷を生者に対する場合と同様に、事実の有無を問わないとすると、歴史を編纂する者は、刑罰に触れることを恐れ、筆を燃やしてその仕事を廃することになるでしょう。歴史叙述は讃美のみとなり、批判することがなくなり、世に正史の一篇のみ残ることとなります。このような結果は、公益を害します。
日本の刑法では、このように明文があるのですが、フランス刑法には明文の規定がなく、この点に関しては説が分かれており、議論がなされています。
死者に対する誹毀の罪では、相続人は告訴権のみを持ちますが、この告訴は、犯罪があったことを裁判官に報告することにとどまりますので、告発と同じです。相続人は私訴権を持ちません。

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(第三) 被害者の債権者は起訴権を有する
被害者の債権者が起訴権を持つ理由を詳細に説明すると長くなるので、ここでは要点のみ説明します。
被害者が窃盗などの被害に遭い、財産を失った場合、被害者は債務を弁済できなくなる可能性があり、その結果、債権者も直接的な損害を受けることになります。
「義務者の財産はすべて権利者の抵当である」というのは民法一般の原則です。この原則は、フランス民法2092条及び2093条に存在し、日本の民法草案でもこの点が規定されています。
この原則は、債務者が支払いを怠った場合、債権者は債務者の財産を売却して弁済を受けられることを黙示的に承諾したことを意味します。
よって、上記の原則に基づき、被害者の財産が損害を受けた場合、債権者は自らの権利を守るために私訴を行うことができるというべきです。
もし債権者に私訴権がないとすると、どのようなことになるでしょうか。
一人の富豪に金銭を貸していた人がいるとしましょう。賊が富豪宅に忍び込んで大金を盗んだとします。富豪は、残りの財産を全て売却しても債務を支払えなくなったとしましょう。この場合、債権者は加害者である盗賊に対して直ちに起訴をする権利があります。そのように考えなければ、債権者は債務者をして加害者に対する賠償請求をさせるしかありませんが、何かの理由でこの請求をしなかった場合、債権者は損害を回復することができません。
債権者がただちに加害者に対して賠償の訴えを起こすことができるならば、何ら不都合はありません。
刑法上の観点からいうと、その当否につき問題もありますが、民法上の観点からは全く疑いのないところです。
債務者が身代限りとなった場合に、債権者が直ちにこの権利を行使するのは、我が国で現に実施されていますから、私訴においても同様であるべきです。
被害者の債権者が、私訴を行うのは、財産上の損害に関する場合に限ります。身体や名誉など損害の場合には私訴権はありません。身体や名誉などの場合にまで私訴権があるとすると、適用範囲が際限なくなってしまいます。したがって、私は財産上の場合に限るものと考えております。

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(第四) 私訴の権利の譲渡を受けた者は起訴をすることができる
訴権は一種の財産とみることができ、被害者がそれを有しているので、その処分は被害者の意思次第です。訴権の譲渡が法律で禁じられていない以上、有形物と同様、譲渡できるということになります。即ち、わが国においては、私訴の売買は禁じられていないので、理論上、譲渡はできるものと解するほかありません。
この点、裁判官が最も注意すべきことは、賠償の金額を定めるにあたっては、寧ろ少額になりすぎても過大になりすぎないようにすることにあります。賠償の金額が常に売買の金額を超える点で決めるようなことになれば、これによってますます濫訴の風潮を招くようになりかねないからです。
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小括
私訴を行うことができる人は、次のとおりです:
1. 被害者
2. 被害者の相続人
3. 被害者の債権者
4. 私訴権の譲渡を受けた人
私訴を行うことができる人については、治罪法で明文化しておらず、民法に委ねられています(治罪法第2条には、民法に従い、被害者に属するものとされています)。
以上で、公訴を行うことができる人と私訴を行うことができる人を説明しました。次回からは公訴と私訴を受くべき人について説明します。



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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第四回講義

2024年06月08日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第四回講義

第四回講義(明治18年5月1日)
前回は公訴を行うべき者について説明致しましたが、今回は私訴を行うべき者についてご説明しましょう。
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第二款 私訴を行うべき者
治罪法第2条では、「私訴は犯罪により生じた損害賠償、贓物の返還を目的とするもので、民法に従って被害者に属する」と規定されていますが、この点は詳細な説明が必要です。

同条により、私訴の権利が被害者に属すること、被害者がいかなる場合に私訴を行うことができるのかは、民法によって定められることが明らかとなってきます。しかし、日本ではいまだ民法が制定されていません。よって、治罪法第2条を解釈する際には、「道理」により判断すべきということになります。

明治8年6月3日第103号公布の第3条でも、「民事の裁判で成文の法がないものは習慣により、習慣がないものは条理を推考して裁判すべき」と規定しているからです。

「道理」とは、欧米の学者や各国の法典に照らして最も適切と認められるものをいいます。
「民法に従って被害者に属する」との意義を理解するには民法の領域のお話しをしなければなりませんが、民法はこの講義の範囲外ですので、これ以上お話しを進めることはいたしません。

一点だけご理解いただきたいのは、「民法に従って被害者に属する」という意味は、権利の関係を示したものであって、手続きを示したものではないということです。この条文を私訴の手続きを示したと理解する説もありますが、論じるに値しません。
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〈損害賠償の範囲〉
それでは、まず私訴とはいかなるものであるのか、どのような要素から成立するかを論じていきましょう。言い換えれば、損害賠償(贓物の返還も含みます。以下同じ)の範囲とはどのようなものかということです。

私訴の目的は損害の賠償を要求することにあります。ですから、その他の事柄を私訴の目的とすることができません。これは、治罪法第2条において、「損害賠償、贓物の返還を目的とする云々」と規定されていることからも明らかです。

通常、民事訴訟の目的は損害賠償に限られません。例えば離婚の訴えや姦通による親子関係不存在の訴訟は、損害賠償を目的とはしていません。よって、これらは私訴の目的とはされません。もっとも、姦通によって損害賠償を請求するときは、私訴を起こすことができるのは明白です。
要するに損害賠償は私訴の要素なのでありまして、これがなければ通常の民事訴訟により解決されるべきものなのです。

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〈財産上の損害だけでなく徳義上の損害でも私訴は可能〉
また、損害賠償請求をする際には、その損害を算定することができなければなりません。想像的な損害に対して回復を求めることはできません。例えば、趣味や習慣、愛情などの事柄に関連する損害賠償を私訴の目的とすることはできません。

もっとも、私訴の目的となる損害は財産上の有形の損害に限定されるわけではなく(そのような説もありますが、皮相な説というべきです)、徳義上における無形の損害であっても、それを私訴の目的とすることができるます。

犯罪は国の公益安寧及び個人の私益安全を害するものであり、どのような場合であっても犯罪を行った者は、国家のためには刑法の制裁を受け、被害者のためには損害を賠償させることが必要です。この二つの措置が同時に取られることで、初めて国家の秩序を維持することができるのです。刑罰のみが行われ、損害が賠償されなければ、個人の権利が平等に取り扱われたことにはなりません。なぜならば、損害を受けた者の被害回復ができなければ、被害者は常に加害者によって権利を侵害され、互いの平等を保つことができないからです。

このように、損害を賠償することによって権利の平等を維持するためには、単に財産上の損害だけに留まらず、徳義上の損害にも及ぼされるべきです。

例えば、議員選挙の場合に、役人が被選挙権を有する者を被選挙権名簿から除外するという場合は財産上の損害がないのですが、単に刑罰をもって十分とはいえず、権利を害された者に損害を賠償するべきです。
また、身体に関する損害の例として、強姦罪や女性が髪を切断された場合、中傷や罵倒によって精神的な苦痛を受けた場合などが挙げられます。この場合には財産的な損害は存在せず、いわゆる無形の損害であり、徳義的な損害というべきものです。強姦の際に怪我をさせられ、その治療費は財産的な損害となりますが、全く負傷しなかった場合は財産上の損害は存在しません。

女性が髪を切られた場合、財産上の損害はありません。美容院代が節約できて経済的に得をしたという見方もできてしまいます。 よって、財産上の損害のみを賠償の対象とするならば、強姦、讒謗中傷、罵詈侮辱などの場合には、被害者は損害賠償請求ができなくなり、屈辱を甘受するほかないこととなります。であればこそ、損害賠償とは、財産上の損害だけでなく、德義上の損害についても賠償を求めることができるものと解釈すべきなのです。

その根拠は刑法附則第五十九条にあります。「人の名誉や殺傷に関わる損害その他犯罪によって実際に発生した損害について、その賠償を求めることができる。」
この規定には、名誉や身体に関する損害であっても賠償を要するものであることが明らかです。
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〈賠償とは何か〉
以上で損害の賠償は財産上の損害だけでなく、無形の損害も含まれことはお分かりいただけたかと思います。それでは次に賠償とは何かについて説明致しましょう。

個々人の権利は平等であるべきです。この権利の平等を維持するためには、損害賠償の法が必要です。
この損害賠償を財産上の損害だけとし、名誉や身体に関する損害を含めないとすると、権利の平等を保つことができません。
かつての野蛮な時代には、暴力を制するには暴力にもって対処したものでした。しかし、社会が文明化していくにつれて、暴力で暴力に対抗する野蛮な習慣は捨てられ、賠償法にとって代わられました。つまり、賠償法は、世の中がより良い方向へ進んでいることを示す証拠と言えるでしょう。

賠償は金銭で行われるのが原則です。これを「償金」といいます。人民の間で行われる賠償は、刑罰とは同一ではありませんが、すでに被った損害を賠償させるものであることから、ある意味では私人間における刑罰と言ってもよいでしょう。

また、賠償はたいてい現実の損害よりも多額の要求を認めるのが慣例となっているようです。
例えば、国と国との間の賠償は、通常、現実の損害よりも多額の請求がなされます。
このように、実際の損害を超える要求をするのは、国と国の間だけでなく、個人間でも同じです。欧米各国で行われている例を見ると、離婚の損害賠償として数万円以上の巨額を要求したり、新聞紙上での誹謗中傷に対して莫大な賠償金を要求したりするなど、多くの場合、実際の損害を超える金額を請求しています。
そして、このような巨額の賠償金を得た人は、それを自分のものにするのではなく、学校、病院、貧院などに寄付するのが習慣になっている国もあります。
これは、おそらく実際の被害を超える賠償金を得ることから生まれた習慣と言えるでしょう。
その是非はさておき、このように実際の被害額よりも多額の要求を認めるということは、刑罰とほとんど同じだと言えるのではないでしょうか。

「徳義上の損害は算定基準がないため、弊害がある」との指摘もありますが、私はそのような考えが正しいとは思いません。
立法官が法律を制定する際、どのような行為に対してどのような刑にするのか、何円の罰金を科すべきか等、いちいち具体的な金額まで量定して決めているではありません。刑を量定するのは、立法者の智能によるのではないのです。
そうであれば、損害賠償請求があった場合も、裁判官は原告と被告の主張を参考に、事実関係と損害状況を考慮することで、賠償額を算定できるはずです。これは、立法者が刑罰の軽重を定めることよりも、はるかに簡単な作業と言えます。

以上から、刑罰とは別に損害賠償法が必要であること、そして損害賠償は財産上の損害だけでなく、無形な損害にも適用されるべきであることが理解していただけると思います。
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〈直接的な被害者でなくても私訴ができる場合〉
さて、それでは損害賠償に関する注意すべき事項を述べ、その後、被害者に関することをご説明いたしましょう。

前にも述べたように、愛情を害されたような場合は、その賠償を要求することはできません。
例えば、私と断金の交わりのある友人が殺害されたとしましょう。この場合、私の彼に対する愛情は甚だしく害されます。しかし、私は賠償請求要はできません。愛情が害されたとしても、私の権利はいささかも害されていないからです。人の情というのは空漠なものでありまして、風を捕らえるがごとく、影を捉えるがごとく、決して測定することができないからです。よって、私訴を成立させる理由とすることはできません。

それでは、親子・夫婦が殺害された場合も、私訴は成立しないものなのでしょうか。
子供を殺害された親、親を殺害された子供、妻を殺害された夫、夫を殺害された妻は、私訴は成立します。友人を殺害された場合とは大きく異なるからです。そもそも、親子や夫婦の関係は、分身同体ともいうべきものでして、親の害は即ち子の害、子の害は即ち親の害であり、夫婦の間においても同様です。よって、この損害は自分自身に害を受けたと同一視することができ、私訴を行うことができるのです。
古代ローマ時代には、このような場合を「痛苦の訴え」と呼び、徳義上の損害賠償ができるとしています。

親子・夫婦に関する賠償については欧州各国でも様々な議論があります。日本でも導入しようとすると、賛成と反対の意見が必ずぶつかるでしょう。
しかし、親子・夫婦間には賠償が認められるべきです。

かつてフランスの大審院検事長だったシュパン氏(1830年代即ち今より50年前の人です)は、以下のように述べています。
「世の中には、親を殺害された子供、夫を殺害された妻には損害賠償請求権がないのだという誤った考えを持っている人がいます。この人は次のように説いています。
『後見を必要とする幼者であれば、親が殺害されたときは、幼者が私訴をできるのは当然でしょう。しかし、生活費を子に頼っている親が殺害された場合、子は逆に生活費の支払いを免れるのです。この場合には、子にとって親は害を加えられたのではなく、むしろ義務を免除してくれたと言えます。そのため、子どもは殺害者に感謝こそすれ、損害賠償請求はできないというべきです。』」

これは、財産上の損害がない限り訴権が発生しないという偏見に基づく誤った論理です。損害賠償は財産上のものにとどまらないことは、既に論じましたので、皆さんもご承知のことと思いますので、この誤った説にわざわざ反論する必要はないでしょう。

さて、ここで一つの疑問が生じます。
それは、損害賠償は親子夫婦間にのみ存在するのか、それとも他の親族にも及ぶのかという問題です。
私は、他の親族に及ぼす必要はないと考えています。もっとも、親を亡くした幼者が兄や叔父に育てられている場合、その兄や叔父が殺害された際に、弟や姪は損害賠償請求権を行使できるべきです。
このようなケースでは、裁判官の判断に委ねられるべきであり、必ずしも親子・夫婦間に限定されると断言することはできません。しかし、一般論としては、原則として他の親族は損害賠償請求できないと考えた方が妥当です。


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〈被害者とは誰か〉
以上、損害の範囲について説明しました。次に、被害者とは誰かについて説明します。

第一に被害者とは、まず犯罪局面に当たったもの、即ち直接被害を受けた者を意味します。
しかし、犯罪の局面に当たらなくても、被害者として私訴をを起こせる場合があります。例をあげていえば、妻や又は親が被害を受けた場合は、夫や子は直接被害を受けていなくても、被害者として私訴を起こすことができます。その理由は既に述べましたので、詳述は致しません。

ここでは報道されたことのある例を紹介し、諸君の参考といたしましょう。
妙齢の美女のいる一家がありました。ある新聞記者はこの女性と結婚したいと申し込みましたが、父親から断られました。記者は怒り、報復しようと、娘の素行について捏造記事を新聞に掲載しました。
父親はすぐに裁判所に訴えたのですが、裁判所は娘の告訴を要するとして、父親の訴えを却下しました。
諸君はこの裁判所の却下の判断を妥当だと思いますか。

私は、この却下の判断は誤りだと考えます。
なぜならば、親である者が讒謗の直接の被害者ではない場合であっても、子を中傷されてしまったとき、親の不行届であることを公言されたものといえ、親もまた名誉を害をせられたものとして、被害者であるというべきです。
そのようにいえないとしても、親はその子の後見人者としての地位があり、その子の委任を要せずして、子を代理として私訴を行うことができ、私訴を起こすべき義務を有すると考えられるからです。
裁判所が却下したことを誤りと考えるのは以上の理由からです。


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〈私訴権の成立と損害〉
私訴権を行使するためには、現実に損害を受けていることが必要です。将来得られるであろう予望の利益が害せられたとしても、損害賠償請求権を行使することはできません。
例えば、代言人や医師は特種の営業で、厳しい規則や試験があり、特別な能力を持つ者でなければ営業に従事することができません。
試験を受けずに密かに営業を行う者がいた場合、具体的な被害者はいなくても、代言人や医師の全体に間接的に多少の損害が生じていることには疑いありません。

このような場合、代言人や医師が損害賠償請求権を行使できるのでしょうか。この点は、
フランスの学説では4つの説に分かれています。
第1説:損害賠償請求権を行使できないとする説 この説は損害が漠然としていることを理由としています。
第2説: 損害賠償請求権を有するとする説
「損害があれば訴権が生じる」という古来からの格言に基づく。
第3説:これらの営業者が団結すれば損害賠償の権利を行使できるとの説
損害は営業全体に及ぶため、個々の営業者が権利を行使することはできないと考える。
第4説:損害の有無のみが問題であり、団結するか否かは損害賠償とは関係ないとの説

私は、第4説が最も合理的と考えます。
第1説から第3説の問題点を簡単に説明しましょう。

第1説は、現に損害があるにもかかわらず、賠償責任を負わないとするものです。損害があるのに責任を負わないというのは、いかなる理由によるのでしょうか。根拠のない説と言わざるを得ません。

第2説は、どのような場合でも損害があれば賠償責任を負うべきとするものですが、これは極端な説言わざるを得ません。
例えば、東京で1名の無免許医が患者を治療したとしましょう。この場合、都下の医師全体に多少の損害があったことは明白ですが、個々の医師については損害があったことを明確に認識することは難しいでしょう。損害が明確に認識できないのであれば、何を基準に賠償責任を負わせることができるでしょうか。第2説も根拠のない説と言わざるを得ません。

第3説は団結の有無によって賠償請求権の有無を定めるものですが、この説に従うと、一個人が損害を受けていても、被害者が団結しなければ賠償請求できないことになります。これは実に不合理な説と言えるでしょう。

第4説は損害の有無によって訴権の有無を定め、損害があれば訴権を認める説であり、四説の中で最も妥当な説と言えるでしょう。

例えば、人口1000人、世帯数300戸の村があるとしましょう。古くから医師が一人いて、祖先から代々医療業を営んでおり、村人は皆その治療を受けています。一年の収入は概算でき、その予算で一家の生計を立てているのです。
しかし、突然一人の医師が現れて開業し、村全体がその医師の治療を求めるようになったとしましょう。しかし、その医師の免許状は偽造であったのです。この場合、ニセ医師が営業していた期間の損害は明確に把握できるので、この者が損害賠償責任を負うのは当然です。

もう一つの例として、生糸製造で有名な商社があるとしましょう。ところが、別の製造者が自身の商品を売りさばくために、その商社の製品を粗悪品だと公言し、世間の信用を損ねました。この場合、被害者は商社であり、損害を受けたことは明白なので損害賠償請求することができます。しかし、商社ではなくある地方の生糸についてそのようなことをした場合は、損害を受けた者はその地方全体の製造者であり、個々の製造者については損害を認識することができません。よって、この場合個人の名義で損害賠償請求することはできません。
結局のところ、損害が明確に把握でき、計算できるものでなければ、訴権を成立させることはできないのです。また、讒言を受けた場合も、この考えを類推することで、訴権の有無を判断することができます。


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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第三回講義

2024年05月04日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第三回講義

第三回講義(明治18年4月29日)
第二章 公訴と私訴を行う者
本日から、公訴と私訴をどのような場合に、誰が行うべきかについて説明していきます。まず公訴を行うべき人について説明し(第一款;今回)、次に私訴を行うべき人について説明します(第二款;次回以降)。
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第一款 公訴を行うべき人
治罪法第1条は、「公訴は、犯罪を証明し刑を適用することを目的とするものであり、法律に定められた区別に従って検察官が行う」と規定しています。この条文からは公訴を行うべき者は検察官であることは明確です。条文には、「法律に定められた区別に従って」ともありますので、これがどのような意味かを理解することは重要です。

公訴を提起する権限には3つの区別があります。
①公訴を実行する権限
②公訴を提起する権限
③公訴提起を命令・指揮する権限
①の「公訴を実行する権限」とは、被告人に対して刑罰の適用を求め、その目的を達成するために必要な手続きを行う権限です。例としては、公訴を提起した後、裁判所で無罪または免訴の判決があっても、それに不服の場合は控訴・上告を行って刑罰適用の目的を達成しようとしますが、この権限が「公訴を実行する権限」です。
②の「公訴を提起する権限」とは、すぐに犯罪者に対する刑の適用を求めるのではなく、裁判所に対して私訴を行うことで、刑の適用を目的とする公訴を起こさせることをいいます。検察官が訴追を行う前に、民事の原告人が私訴の申立てを行うことは、公訴の提起です。
③の「公訴提起を命令・指揮する権限」とは、官吏がその下にいる官吏に対して公訴を起こすよう命令・指揮するという意味であり、治罪法の第67条では、公訴の提起を告達すべき人を定めています。
まず、治罪法第1条で示されている「法律で定める区別」の意味について述べます。
この点、裁判所の種類による区別(重罪裁判所、軽罪裁判所、違警罪裁判所)を指すとの見解があります。
しかし、検察官の職務上の区別を指すと考えるのが妥当でしょう。なぜなら、軽罪裁判所の検事は軽罪のみについて公訴を実行する権限を有するわけではありません。重罪・軽罪・違警罪の三者共に公訴を実行する権限を有しています。軽罪裁判所の検事は、軽罪については、予審公判を求めることもできますし、上訴を行う権利もあります。違警罪については控訴権を持っています。また、控訴裁判所の検事は、重罪や軽罪の控訴について、公訴をなす権利があります。このように「区別」を裁判所の種類による区別と考えることはできず、検察官の職務上の区別を指すと考えるのが妥当です。

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次に、職務上の観点からの検察官の区別を説明しましょう。
第一 大審院の検事長およびその指名を受けた検事
第二 控訴裁判所の検事長およびその指名を受けた検事
第三 軽犯罪裁判所の検事長およびその指名を受けた検事補
第四 違警罪裁判所所在地の警部警察署
これらの四つ以外に、裁判所としては高等法院、重罪裁判所がありますが、高等法院の検察官は大審院の検事がこれを兼任しますし、重罪裁判所の検察官は控訴裁判所の検事がこれを兼任しますので、上記のとおりに四つに分類しました。
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第一節 公訴権を実行する人
公訴権を実行する者は検察官です。よって、上は大審院から下は違警罪裁判所に至るまで、必ず検察官という者を置かなければなりません。そもそも、検察官は裁判所構成の一部分であり、これが欠けてしまうと完全な構成とはいえません。そのため、検察官は裁判所には必要不可欠な者です。
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一 違警罪裁判所の検察官
治罪法第51条には、「違警罪裁判所の検察官は、その裁判所所在地の警部がこれを行う」と規定しています。つまり、違警罪を審理する際には、違警罪裁判所の所在地の警部が検察官の職務を行うのです。
この条項は便宜上のものです。警部が違警罪裁判所の検察官の職務を行うことは、この法律上の規定によって与えられた職務であり、府知事や県令の命令によって職務を行っているのではありません。違警罪の公訴に関わる場合は、府知事や県令の指揮命令によるべきではありません。この点は、皆さんに留意しておいていただきたい重要な点です。違警罪裁判所の所在地の警部は、その検察官としての業務を行うために、特に政府の指名に基づいて任命されているのではありません。警部たる者には、誰彼の別なく公訴権が委託されているのです。よって、違警罪裁判所の所在地にに二人以上の警部がいても、双方とも公訴を行う権利を有しています。
フランスでは、違警罪裁判所の検察官となる者は、我が国の法律と同様に、警部または副邑長であり他から指名される必要ありません(治罪法第144条、第167条参照)。但し、警部が数名いるときは、検事長が指名する等の規定となっています。しかし、このような制度として、実際にはそれほど便利ではないため、我が国においては例外的な規定は採用しませんでした。
違警罪裁判所の所在地の警部は、その管轄内の違警罪については、公訴の全権を有します。
よって、違警罪の裁判に不服であるときは、控訴をすることができます。また、証拠が不十分であると考えるときは、公訴を提起しないとすることもできます。そのような取捨選択はひとえに警部の意見によるのですが、法律上例外が定められています。控訴裁判所の検事長から告達を受ける場合です。この場合は、告達に従って、公訴を提起しなければなりません。
この例外を除いはて、警部は違警罪に対して完全に独立した立場を持ち、その職務を遂行することができます。
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二 軽罪裁判所の検察官
軽罪裁判所の検察官の職務は、始審裁判所の検事及びその指名した検事補が行います。これは治罪法第58条に規定されています。
その職務は以下のとおりです。
1. 違警罪についての控訴を担当すること。
2. 重罪の予審を求めること。
3. 軽罪についての公訴を担当すること。
軽罪裁判所の検察官は、この三種の職務を担当することにより、検察官の中でも最も重要な職権を有するものといわなければなりません。
よって、軽罪裁判所の検察官に有為な人材を得られるかどうかは非常に重要です。
人材を得ることができなければ、予審や公判を行わなければいけないのに、それを行わないこととなります。予審を求めてはいけない事件なのに、強引に予審を求めてしまうのは、人々の利益を害します。
現在の状況は検事に人を得ることができるかどうかは、あまり考慮されていませんが、法律上の観点からは、人を得ることができるかとうかは、地域の人々の利害に大いに関係を有します。
検事補について説明します。
検事補は、検事の指揮がなければ、前記三種の職務を行うことができません。
しかし、現状では検事補の名義で控訴や上告を行っており、これは規定に違反するといえます。本来検事補は、検事の指揮を受けるべきであり、検事の意見に反する控訴・上告は行うことができないからです。
検事補と警部との職権には違いがあることも理解してください。
検事補は、検事の意見に反して控訴や上告をすることはできません。これに対して、警部は、一部例外を除いて、違警罪に関する控訴に対して独立した権限を持っています。
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三 控訴裁判所の検察官
控訴裁判所の検事長及びその指名した検事は次の職務を行うことができます。
1. 軽罪に対する控訴を担当すること。
2. 重罪に対する公訴を担当すること。
控訴裁判所の検事長は、この2つの権限のほかに、管轄内の検察官に対して告達を行い、起訴を命じるという重要な権限を有しています。
この権限は非常に重要です。なぜならば、司法卿は司法部の長官として重要な地位を占めていますが、特別な場合を除いて、公訴の点に関しては直接介入することはできないからです。控訴裁判所の検事長は、検事に公訴提起を命令・指揮する権限を持ち、この一点については司法卿を超える権限を持っているといっても良いでしょう。
控訴裁判所検事長の職務は、このように重要なのですが、一般の国民にはほとんど知られていないようで、少しも注目されていません。しかし、フランスでは、控訴裁判所の検事長の処置に注目し、その職務を尊敬しています。検事は
、政府の代理として活動しているからであります。フランスでは、新聞に国事に関連した犯罪が報道されると、その処分は控訴裁判所の検事長の指示によって行われ、非常に注目されます。
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四 大審院の検事長およびその指名を受けた検事
我国の治罪法では、大審院の検事長および指名を受けた検事は、公訴を行う権限を有しています。これはフランスの法律と異なっています。フランスでは、大審院の検事は裁判の当不当について意見を述べることができるにとどまり、刑の適用につき請求することはできません。しかし、我が国では、裁判の当不当について意見を述べるほかに、刑の適用を求める(公訴を実行する権限)こともできます。
大審院は非常に高い地位にあります。が、大審院の検事長の職務は、控訴裁判所の検事長よりも制限されています。控訴裁判所の検事長が重罪、軽罪、違警罪の公訴に関しては、管轄内の検察官に対して告達をする権限がありますが、大審院検事長はその権限がないからです。
以上のように、我が国では、公訴を行う権利を有する者は検察官です。もっとも、公訴の実行において、各検察官の間に差があることは理解してください。
我が国の法とフランス法との違いについても説明しておきましょう。我が国では、公訴を行う権利を有する者は検察官ですが、フランスでは、森林の犯罪に対する公訴に関しては、森林監視人に公訴権を与えられ、税関に関連する犯罪については税関官吏に公訴権が与えられています。我が国ではどのような場合でも検察官の名目を有する者が公訴を実行しますので、この点が異なります。
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第二節 公訴を提起する人
公訴を提起する者は誰かといえば、民事の原告人ですが、民事の原告人が直ちに公訴を「なす権限」を有する者ではなく、公訴を「提起する資格」を有するに過ぎません。
今、「提起」と申し上げましたが、これはフランス語の「ミーズ・アン・ムーブマン」のことでして、これを直訳しますと「運動に於て置く」という意味ですので、「提起」という言葉で訳しております。
さて、民事の原告人が公訴を提起するには、単に告訴を行うことでは足りません。告訴というのは、犯罪を報告するという意味しかないからです。公訴を提起しようとするのであれば、予審判事の面前において民事の原告人であること、即ち私訴を行う旨の申立てをしなければなりません。これは治罪法第110条第2項に、「予審判事が、被害者から民事の原告人となる旨の申立てを受けた場合、検察官が起訴を行っていない場合でも、公訴と私訴を併せて受理したものとする。」と規定しています。
このように、被害者が民事の原告人となるべき旨を申し立てた場合、検察官の起訴を要せずに公訴が起こるのです。
公訴が起きたときは、予審判事は、被告人を引致し、証人を召喚し、家宅捜査等の処分を行い、事実を取り調べて有罪と認めるときは、これを公判に移す言渡しをしなければなりません。
民事の原告人がこの行為を行う場合、単に公訴を提起するだけであり、直接に公訴を行っているのではありません。ただ、予審判事に向かって公訴を起こすように提起を行っているだけです。
公訴は国家に属するものであり、被害者に属するものではありません。政府は公訴権を検察官に委託しておりますが、公訴提起権を私人にも与えたのは、被害者が泣き寝入りしないようにし、検察官の横暴や怠慢を防ぐためです。仮に、被害者にこの提起権を与えないと、検察官が起訴しない場合は、被害者は起訴をする道がなくなってしまい、泣き寝入りをするほかなくなってしまいます。また、検察官が公訴を起こすべきであるのに、検察官の横暴や怠慢により公訴かを起こさない場合がありえます。この場合、被害者に公訴提起権を与えて、被害者が直接予審判事に対して私訴を申し立てることにより、検察官の横暴や怠慢を防止することかわできるのです。以上が被害者に公訴提起権を与えた理由です。
民事の原告人は直接裁判官に私訴を申し立てることができるだけでおり、その権限は非常に限られています。しかし、予審判事の判断に不服があるときは、不服を申し立てることで、公訴提起権を実行することができます。
ところで、重罪と軽罪については公訴提起権が私人に与えられてるのに、違警罪には与えられていないのは、違警罪が微罪であるからだろうかとの疑問を持たれる方もいるかもしれません。
しかし、これは治罪法が違警罪に予審を認めなかったことにその理由があります。
では、民事の原告人に公訴提起権を認めるとして、どうしてこれを予審に限ったのでしょうか。民事の原告人に公訴提起権を認めて、公判を求めことができてしまうと、何もしていない
人々を裁判所に呼び出すこととなってしまいまって、妥当ではありません。人を誣告し、人を陥れて、私怨が晴らすことに使われる可能性があるからです。それでは、人々の名誉を傷つけるという悪弊が後を絶たないことになってしまいます。
予審においては、事実を詳しく調査することもできますし、私訴が誣告に出たものであるかも発見することが可能です。訴えられた者が無実であることが明らかな場合、直ちに免訴を宣告すればよいのです。
また、予審は秘密主義ですので、被告人が一時的に法廷に呼び出されることがあっても、公衆の目に触れることはなく、被告人の名誉を傷つけることは、ほとんどありません。
公判が行われてしまうと、法廷は公開であり、傍聴を許すものですから、被告人が無罪または免訴となる判決を受けた場合でも、法廷で被告人となって訊問を受けたことで、その栄誉を害されることになりましょう。
このように、濫訴の弊害を防ぐため、民事の原告人に公訴を求める権利を与え被告人の栄誉を損なわない為に、民事の原告人に公訴を求める権利を付与しているのです。
ところで、このように思われる方もいるかもしれません。
「人を誣告する者は刑法により制裁をされます。誰が好んで誣告するのでしょうか。誰かを誣告することにの弊害防止という理由で、私人に公訴を許さないのは、全く理解できません。
しかし、この説は実際的ではありません。この説からすれば、法律上既に制裁を科すことになっているのだから、盗賊等するものはいないということになりますが、そうでないことは明白です。
以上のとおり、民事の原告人に公訴をなすことを許さなかったのは、公判を行えば刑を適用することに直結し、被告人には様々な不利益が生じかねないということ、予審がなければ被告人は自己の権利を十分に主張できず、冤罪者が出じかねないからです。
フランスでは軽罪に関しては、民事の原告人が被告人を法廷に呼び出すことが許されており、フランス語では「シタション・ヂレクト」と呼ばれています。フランスのような国では、このような措置を許すことは大きな弊害をもたらすことはないでしょう。人々が知的に進歩しており、誣告されても弊害が大きいとはいえないからです。また、民事の原告人が公訴をなす場合には、証拠を集めて訴えることとなりますので、法官の証拠収集の業務負担を軽減するという利点があります。しかし、我が国はいまだそのようなフランスのレベルに達していないので、治罪法において、予審のみに限定して公訴
提起権を与えているのです。
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第三節 公訴の提起を指揮命令する人
公訴の提起を命令・指揮するのは、司法卿及び控訴裁判所の検事長です(治罪法第435条、第440条、第448条)。実際には控訴裁判所の検事長が行うことが一般的です。
以上説明した、公訴の実行、公訴の提起、および公訴の指揮・命令の三点により、公訴権が完全に実現されます。この三点が機能することで、無辜の不処罰を実現できますし、有罪者の取りこぼしもなくなるのです。

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次回

橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第四回講義 - 南斗屋のブログ

橋本胖三郎『治罪法講義録』・第四回講義第四回講義(明治18年5月1日)前回は公訴を行うべき者について説明致しましたが、今回は私訴を行うべき者についてご説明しましょう。━...

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橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第二回講義

2024年04月01日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第二回講義 明治18年4月24日

前回は治罪法の総論を講義致しました。今日からは治罪法の本文に入っていきます。全体を六巻に分けて、逐次講義していきます。治罪法は六編から成り立っていますので、その区別に従って順に講義していくのが、諸君の研究にも便益となることでしょう。
第一巻:総則
第二巻: 刑事裁判所の構成と権限
第三巻: 犯罪、捜査、起訴、および予審
第四巻: 公判
第五巻: 大審院の職務
第六巻: 裁判執行、復権および特赦
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
まず第一巻から始めます。
第一巻 総則
諸君もご存知のように、総則は概ね公訴と私訴の原則を明らかにしつつ、治罪の手続きを示すものです。第一巻は次の二編に分けて講義を致します。
第一編 公訴及び私訴
第二編 雑則
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第一編: 公訴および私訴
公訴と私訴に関しては、学問上の理論が多岐にわたっており、論ずべき事項も多くならざるをえません。
公訴と私訴は治罪法の眼目です。これを理解すれば、他の事柄は自ずから容易にこれを理解することができます。治罪法を深く学ぶ者は、公訴私訴の二者を研究することが極めて重要なのです。
公訴私訴が何かということを知るためには、まず、犯罪とは何かを知らなければなりません。
犯罪とは何か。法律上重罪、軽罪、違警罪によって罰せられる行為です。刑法第一条には「およそ法律において罰するべき罪は三種類とする。一重罪、二軽罪、三違警罪」と規定されており、いかなるものが犯罪となるかはこの規定の解釈に委ねられますが、今はこの規定を離れて学問上の観点から考察してみましょう。
学問上、犯罪には、刑法上の犯罪と民法上の犯罪との二つの意義があります。刑法上の犯罪とは、社会の安寧を害するものであって、かつ道義に背く行為です。民法上の犯罪とは、故意又は不注意により正当の権利なく他人に損害を加える行為をいいます。このように二つの意義がありますが、今回論じるのは刑法上の犯罪についてです。
刑法上の犯罪が生じたときは、直ちにこれを罰しなければなりません。そうでなくては、一日も社会を保つことができないでしょう。犯罪に対して刑の適用を求める訴えを「公訴」というのです。犯罪は社会に害を与えると同時に、一個人にも損害を与えます。その損害は償わせなければなりません。被害者が賠償を要求する訴えを「私訴」といいます。
この公訴と私訴の2つの名称は、治罪法の制定によって初めて用いられたものです。
治罪法第一条には、「公訴は犯罪を証明し、刑を適用することを目的とするものであって、法律に定めた区別に基づき、検察官がこれを行う」とあり、また、第二条には、「私訴は犯罪により生じたる損害の賠償・贓物の返還を目的とするものであり、民法に従って被害者に属する」と規定されているところです。
現在では、公訴・私訴の目的とその区別は明白であって、今、皆さんに対してこの2つの区別についてどのように説明するか、という問いを発しても、明快に答えることができるでしょう。
しかし、我が国では、これらが区別されたのはほんの数年前のことであります。治罪法制定前はこの区別ははっきりとはしておりませんでした。欧米諸国においても、この区別が明らかになったのは近世のことにすぎません。けれども、この区別は偶然の出来事ではなく、自然の道理に基づいたものなのです。そこで次に公訴と私訴の根元及び性質を論じましょう。
━━━━━━━━━━━━━━
第一章 公訴・私訴の根元及び性質
公訴と私訴の区別が明らかになったのは、近来のことであり、往古にはこのような区別はありませんでした。
往古の渾沌野蛮な世の中では、他人に怪我を負わされたり、所有物を奪われた場合は、加害者を傷つけることで復讐を行い、又は所有物を回収して、怒りを和らげるといったことしかできませんでした。
世の中が進歩し、酋長や統領といった指導者が、その部落内での民の紛争を裁判で解決するようになっても、その裁判は復讐法に過ぎないのでありまして、公訴と私訴の区別はなく、私訴の性質をもつものばかりで、公訴の性質は見当たりませんでした。
およそ人が二人以上集まるときは、その間に争いが起こるものです。争いがあるときは、当事者の一方は損害を被っており、損害を被っている者は賠償を求めるのは理の当然です。この請求が私訴です。私訴は天然自然に生じるもので、近年始まったというものではありません。往古には公訴と私訴の区別は明らかではありませんでしたが、私訴と呼ばれるべきものについては、既に存在していたことは前記のとおりです。
時が進み、世の中が進歩するとともに、人民自らが裁判を行う旧習を去り、法衙というものを設けて、紛争あるときは相応の手続きを経て解決する仕組みが整い、公訴と私訴の区別が生じました。欧米各国の歴史でも、公訴・私訴の区別が明白になったのは、今からおよそ百年前のことです。ギリシャやローマといった国でも公訴・私訴の区別は判然としませんでした。フランスでも1789年の建国以前には、裁判官自ら犯人を糺問しており、公訴・私訴の区別はなかったのです。建国以後、「ミュニステール・ピュブリック」(検察官)なるものを置きました。これが初めて公訴・私訴が区別され、不告不理の原則が実施されたのです。フランスにおいて、刑事裁判史上、一大新面目を開いたのは、実にこの検察官を設置したときなのです。
このように公訴・私訴の区別が明確になったのは、近来のことでありまして、往古にありては
公訴・私訴の区別はなく、私訴しかなかったといってよいのです。以上、公訴・私訴の根元を略述致しました。次いで、公訴・私訴の性質について説明しましょう。
国法を犯す者がいれば、国家の安寧と個人の安全を脅かすことになります。例えば、ここに人を殺傷し、人の財産を横奪する者がいるとします。この者をのさばらせることは、国全体の安寧を害することになります。国法を犯す者がいれば、良民は自らの業を安心して営むことができず、良民が安心して業を営むことかわできないときは、国は繁栄することができないからです。また個人の身体、生命、名誉、財産を害することになるからです。
国家の安寧と個人の安全を害する者には、刑罰を加えてこれを懲戒し、今後犯罪を輩出することを防止しなければなりません。そうでなくては、その国は一日も安寧ではないでしょう。これが刑罰が必要となる理由であり、ここに公訴権というものが生じる理由があります。
犯罪者に対して刑罰を加えてさえいれば、国家は安寧となるかといえば、そうではありません。犯罪があれば、国家の安寧だけでなく、私人の私益を害するのでありまして、その私益を回復するのでなければ、充分な国家の安寧を保つとはいえないのです。このように刑罰に服従させると同時に、被害者の損害を賠償させること、これが私訴というものが生じる理由です。

国家の安寧を維持するためには、公訴と私訴の双方が不可欠であることは既に述べたとおりです。公訴といい、私訴といい、一つの犯罪から生じるものですが、その性質と目的は大いに異なるのでありまして、これに同じ原則を適用するわけにはいきません。公訴は社会に属し、私訴は被害者に属するからです。
以上述べたことから、公訴と私訴が異なる理由はお分かりいただけたかと思います。
━━━━━━━━━━━━━━
ここからは、条文に基づき公訴私訴の目的がどのようなものかを講述致しましょう。
治罪法第一条には、「公訴は犯罪を証明し、刑を適用することを目的とするものであって、法律に定めた区別に基づき、検察官がこれを行う」とあります。
「犯罪を証明し、刑を適用する」とはどのような意味でしょうか。二つの解釈が考えられます。
「犯罪を証明する」と「刑を適用する」とを別に考えて、それぞれの目的があるとの考え方。また、「犯罪を証明する」とあるのは、「刑を適用する」の形容詞であり、その目的は刑を適用することにあるとの考え方。
いずれの考え方を取るかは、人民の権利に影響を及ぼしますので、軽くみることはできません。
公訴の目的が、犯罪を証明することと、刑の適用との二点にあると解するときは、数罪が発生した場合には、刑を適用しない犯罪についても公訴を提起せざるを得ないことになります。これに対して、「犯罪を証明する」とあるのは、「刑を適用する」の形容詞であると解するときは、刑を適用することのない犯罪には公訴を提起する必要はないことになります。
私は、治罪法第一条にいう「犯罪を証明し、刑を適用する」とあるのは、それぞれ別個の目的があるものと解するべきだと考えています。その理由は、もし目的が刑の適用だけにあるのであれば、「犯罪を証明し、刑を適用する」とは規定せず、「犯罪を証明して刑を適用する」と規定するべきです。「犯罪を証明し、刑を適用する」と規定しているのは、文法上それぞれ別個の目的があるからに他なりません。また、文法上の理由だけでなく、理論的な理由ももあります。賞罰というものは、単に賞を与え、罰を加えるだけで良いというものではありません。世の中に知らしめてこそ、賞罰の効が奏するというものです。公訴というものは単に刑罰を科するのではなく、犯罪があったことを世の中に知らしめ、どこの何某なるものは、何の日、何処において何の悪事をしたかを明白にすることで、その事実を証明し、刑罰を加えると同時にその邪悪なることを世に表すものなのです。そうでなくては、刑罰は決して充分な効果をあげないでしょう。
法文に「証明」とあるのは、単に立証のことだけをいうと狭く解釈すべきではなく、立証をなし、かつ、これを世に知らしめるの意味に解釈すべきです。
私訴に関する治罪法第二条の規定には「証明」との文言はありません。仮に、「証明」が単なる立証のことだけを意味するのであれば、第二条にも「証明」の文言がなければならないはずです。しかるに、第二条には存在せず、第一条のみに「証明」の文言があるのは、私の解釈が正しいことを裏づけているというべきです。治罪法第九条公訴消滅の原因の中でも数罪が発生した場合を規定せず、旧法においても旧悪減免、自首全免等の場合にはこれを証明し、裁判言渡しをもって放免するのてす。これらも、第一条の目的が、「犯罪の証明」と「刑の適用」のそれぞれ別個の目的があるという解釈の理由となります。
━━━━━━━━━━━━━━
私訴の目的について説明しましょう。治罪法第二条に、「私訴は犯罪により生じたる損害の賠償・贓物の返還を目的とするものであり、民法に従って被害者に属する」と規定されています。
私訴の目的は「損害の賠償」にあります。第二条には「贓物の返還」との文言もありますが、返還というのは損害賠償に含まれるものであることは、詳しく説明する必要はないでしょう。
━━━━━━━━━━━━━━
以上述べたところで、公訴・私訴の目的については概ね理解いただけたかと思います。次に公訴権の実行について説明しましょう。
公訴権は国家に属するものであり、一私人に属するものではありません。国家は法人でありますので、実際にいかなる者に公訴権を実行させるかは非常に難しい問題です。この問題については欧米各国においてもいまだ議論が続けられており、定説をみないようです。そのため、イギリスとフランスとでは公訴を行う者が異なりますし、オーストリアとフランスでも違いがあります。
どのような者に実行させるかについては次のようなものが考えられます。
一 直接の関係を有する被害者に委託する
二 一般の人民に委託する
三 民選をもって推挙したる者に委託する
四 施政権に委託し、再びこれを一種の官吏に委託する
以上の四種の長所短所を見てみましょう。
第一の方法である「直接の関係を有する被害者に委託する」には大きな弊害があります。例えば、被害者が公訴を起こすにあたって、被告人がかなりの権力を有していたり、かなりの知識を有している者であるときは、被害者はその権力と知力とに圧倒されて、公訴を行うべきであるのに、公訴を提起しないということがありえます。また、公訴を行う者は徳義と忠情をもつべきでありますが、被害者は公訴権を自己の私憤を晴らす目的で使うことが懸念されます。以上から、第一の方法は適切とは思われません。
第二の方法である一般の人民に委託するというのも、第一の方法と同様弊害があります。公訴権を行使する者は、相応の学識経験、財産を有するほか、報国の志を懐く者でなければなりません。
報国の心のない者は、学識経験と財産があっても、時間と財産を費やすのを嫌って公訴を提起しないことがありえます。人々が報国の心を有すべきは当然のこたとなのですが、今日の社会では一般人民全てに報国の志を望むことは容易ではありません。
往古のギリシャ、ローマのような文物制度の美が燦然として光輝を放っていた時代には、すべての人民が報告の念をもってこの制度を用いることもできたでしょうが、その後の時代には弊害が頻発しております。イギリスには検察官の制度があり、検察官が起訴を怠ることがあれば人民が直ちに起訴をすることができるとしています。これは公訴権を一般人民に委託するといってよいかと思いますが、様々な弊害が生じています。
第三の方法である代議士のような人民が公選した者に公訴権を委託することも、採用すべきではありません。この制度では公訴権を独立したものとするのはかなり困難です。この方法では委託者は、常に人民の意を気にし、人民の意に反する公訴を起こすことをおそれるので、独立に権限を行使することが甚だ困難です。また、自己の財産を費やし、もって公益に供するような者を見つけることも困難です。
第四の方法である施政権に委託したものを再びこれを一種の官吏(検察官)に委託する方法が現代ではもっとも適切です。政府は国家人民を保護するために設けられています。刑罰もまた、国家人民を保護するためのものです。よって、公訴権を政府に委託するのは妥当です。政府がこれを一種の官吏に委託するときは、その監督権限を行使することができますし、独立不羈ならしむることも容易です。
四種の方法のうち、第四の方法が最も良いというべきです。

欧米各国がどの方法を採用しているかですが、フランスは第四の方法をとっています。イギリスは、第二の方法をとっています。イギリスのように文明が開けて、人民が国家を愛する念が厚い国でも、第二の方法をとることで様々な弊害を生じていますので、血がころではこの方法を改正したほうがよいという声も有力となっています。
ドイツでは、第一の方法を採用しているといってよいでしょう。告訴を待ってから公訴を提起することが多いからです。オーストリアは検察官の制度はありますが、検察官が公訴を提起しないときは、被害者が公訴をなすことができる制度がありますので、第一の方法と第四の方法を併用しているといえましょう。
このように各国は様々な方法を採用しておりますが、私は第四の方法が完璧な制度であると考えます。
━━━━━━━━━━━━━━
今回の講義を終わるにあたって、公訴・私訴の区別を再度確認しておきましょう。
①公訴と私訴とは起訴する主体を異にし、公訴は検察官がこれを行い、私訴は一私人がこれを行うものです。
②公訴は社会に属するものですから、これを放棄するのもまた社会の要求するところに従うべきです。大赦令を発することはその一つの例です。検察官が公訴を行うのは、国会から委託を受けているからで、検察官自体に公訴権があるのではありません。検察官が公訴を提起した以上は、その権利を放棄することは許されません。これに対して、私訴権は被害者が有しているものですから、これを放棄するのもその一私人の選択に関わっています。以上が、公訴・私訴の異なるところです。
公訴を掌る官吏及びその権限等は次回に講義いたしましょう。
━━━━━━━━━━━━━━
⇒次回

橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第三回講義 - 南斗屋のブログ

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橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第一回 総論

2024年03月28日 | 治罪法・裁判所構成法

橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第一回 総論

【コメント】
第一回講義のうち「総論」を紹介します。原文には小見出しがありませんが、文が長いと意味を取りにくくなりますので、小見出しを括弧書きで入れました。以下、要約です。
①治罪法の法典は明治以前には存在せず
治罪法は刑事手続きに関する法律です。実体法である刑法には、刑法典が存在したものの、刑事手続きに関する法典は日本では存在しまさんでした。
②明治以降の沿革
刑事手続きに関する法律につき、明治になってから治罪法制定までの沿革を紹介しています。治罪法の公布は、明治13年7月ですが、短期間に刑事手続きにつき改良進歩を遂げたことは、古今の万国の歴史に比しても稀有なことであると著者は述べています。
③治罪法とはいかなる法律か
著者は、治罪法を学理上からの観点において考察し、フランスの法学者の「治罪法は、刑事裁判を組成する法式の集合である」との定義を紹介しています。また、治罪法には、凶悪な犯罪を鎮圧する機能だけでなく、人民を保護する機能があり、両者の機能を考慮することが法の制定、解釈に必要であることを強調しています。
④治罪法と国の政体との関係
自由な政体の国と専制政体の国を比較しています。前者では治罪法の内容が充実しており、人民の自由が尊重されることに特徴があります。
⑤治罪法と国家経済との関係
治罪法は国家の経済にも関係し、例として監獄に関する費用をあげています。



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総論
(治罪法の法典は明治以前には存在せず)
古来我が国の律令においては、刑法典はありましたが、治罪法(刑事訴訟手続き)の法典は存在しませんでした。我が国の制度は、中国を模倣しており、中国が治罪法なるものを制定していなかったからです。
しかし、古来から断獄(刑罰)は存在しており、これに伴う刑事手続きの理は存在しておりました。ただ今日のような法典というものが存在していなかったのです。
特に、覇政(江戸時代)の頃には、哀訴・誤判・再審等が存在していたのであり、治罪の條規に基づいたことは言うまでもありません。治罪法の歴史を研究することは非常に難しい作業であり、多くの時間がかかります。しかし、現行の治罪法を学ぶにはそれほどの必要はありません。よって、維新以後の沿革のみお話ししましょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(明治以降の沿革)
わが国においては、王政維新(明治維新)以降、様々な制度や文物が進歩しました。刑法は明治3年に新律綱領六巻が頒布され、同6年5月には改定律例三巻が頒布されました。同7年には司法警察仮規則が制定され、同8年5月には断罪依証法が発布されました。この断罪依証法は、拷問により自白を取るという野蛮な旧弊を除去する端緒となりました。これは人権を重んじる精神から生まれたものです。法律を学ぶ者は、この法令の発布の日を記憶すべきです。
その後、明治9年に司法警察假規則が改正され、糾問判事仮規則が発布されました。同13年3月に拷問を行ってはならないことが天下に公布されました。
同13年7月には刑法及び治罪法が発布され、同15年1月1日から両法ともに施行されました。
以上が維新後の我が国治罪法の沿革です。
治罪法の改良と進歩は最も著しいものと言わざるをえません。刑法は、往古には大宝律令のようなものもありましたし、覇政(江戸時代)の頃には禁令百箇条(公事方御定書)が設けられておりました。しかし、治罪法は前にも述べましたように、古来法典が存在しなかったのです。僅か数年の間にこのような改良進歩を遂げたことは、古今の万国の歴史に比しても稀有なことです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(治罪法とはいかなる法律か)
治罪法とはいかなる法律でしょうか。
形式的には、「公訴私訴の手続き及びこれを裁判する際の規則の集成」といえるでしょう。しかし、学理上からの観察するときは、このような単純なものではありません。
治罪法は刑法による制裁の効力を顕わし、その運用を成すべきものと言えます。刑法だけが制定されていても、治罪法の運用がなければ、刑法の実際の効力は発揮できないのです。刑法と治罪法はお互いに補完し合って、初めてその効果が実際に顕れるものなのです。
有名なフランスの法学者フヲースタンエリー氏の「治罪法は、刑事裁判を組成する法式の集合である」との言葉は、その真意を尽くしているといえるでしょう。
一方、同国の法学者オルトラン氏は次のように説かれています。
「物事を生み出すには、必ずそれを生み出すのに必要な力が存在しなければならない。草木が地上に繁茂するのは、地中の温熱と気候との二つの力に由来するものである。また、湯が沸騰するのは火力に由来している。これらの力を運用するには、順序・方法を整えなければならない。刑法と治罪法の関係においてもこれらと同様である。裁判所及びこれに属する官吏は〈力〉である。予審・公判の手続きは〈順序・方法〉である。その〈結果〉が刑の適用である。」
この説はいい得て妙ですが、一方に偏しているといわざるをえません。治罪法は単に犯罪者を刑罰に処するのみではないからです。治罪法は、凶悪な犯罪を鎮圧するだけでなく、同時に人民を保護するのです。オルトラン氏の説では、治罪法は犯罪者を刑罰に処するためだけに設けられたように見えます。これが、一方に偏すると私が述べる理由です。これに対して、フヲースタンエリー氏の説は、そのような非難を受けることがなく、当を得たものです。
このように理解することで、「治罪法」は名実相適するものとなります。「治罪」という文言は、行刑の意味であり、罪悪を鎮圧するの意味だからです。
フランス語では、治罪法を「コード・ダンストリックション・クリュミネール」といいます。犯罪を治めるところの法という意味です。箕作氏がフランス六法を翻訳するにあたり、「治罪法」という文言を用いたのは、このためです。
治罪法のフランス語案では、「コード・ド・プロセジュール・ペナル」と記載されておりました。これは「刑事訴訟手続法」という意味であり、このような文言が最も適しているといえるでしょう。もっとも、「治罪法」の文言は慣用的に長く使われており、今急にこれを改めると
却って不便を生む可能性があります。私は、「治罪法」を「刑事訴訟手続法」に変えるべきだとの説を唱えるものではありませんが、「治罪法」という文言が甚だ不穏当であると考えております。
聞く所によれば、近年のフランスにおいても、「コード・ダンストリクション・クリミュミネール」という文言は穏当ではないとの議論が起こり、「コード・ド・プロセジュール・ペナル」にすべきだとの主張をする学者が少なくないとのことです。このことも「治罪法」という文字が穏当ではないということの証左となるでしょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(治罪法と国の政体との関係)
治罪法は刑法を実際に運用するものですから、刑法と共に公法に属することは当然です。それゆえ、治罪法はその国の政体と密接な関係を持ちます。人身保護律、家宅不侵入、書信の秘密、一事不再理などの原則は、最も重要なものであり、これらはしばしば各国の憲法で明記されています。そして、これらの原則が実際にどのように適用されるかどうかは、治罪法の制定内容如何に関わっているのです。どのように制定されるかは、政体の良否によって差異が生じます。自由な政体の国では、治罪法の制定が最も充実しており、人民の自由が尊重されます。その例としては、裁判官以外にも民から選ばれた陪審官を置き、事実を認定します。また、また、弁護人に弁論を許し、法廷を公開し、公平を得ようとします。
これに対して専制政体の国では、治罪法の制定は不備であり、陪審官の置かれないことが多く、甚だしいときには弁護人の弁論は禁じられ、法廷の傍聴は許されないことも少なくありません。
このように、治罪法はその国の政体によって寛厳精疎の差が最も顕著なものとなのです。これは治罪法が国家全体の安寧と人民の個々の自由の両方を保持する必要があり、片方に偏することなく、常に中道を得て、双方の保護をしなければならないからです。
国家全体の安寧と人民の個々の自由の両立は容易ではなく、国家の安寧を重んじるときは人民の自由を害することがあり、人民の自由を尊重すれば、国家の安寧を損なうことがあります。
例として、未決拘留者をあげましょう。未決者は、未だ有罪無罪が明らかとなっておらず、彼らの中には無罪で順良の人もいるかもしれません。彼らを捕らえて獄舎に繋ぐのは、その人の自由を奪うものです。しかし、未決拘留を廃止すれば、証拠は隠滅され、犯人は逃走します。良民が安心することはできませんし、国家の安寧を全うすることもできません。
一方で、国家の安寧を保護する点にのみ偏するときは、順良で無罪の人を獄舎に繋ぎ、自由を束縛することとなってしまいます。人民の自由を束縛することが甚しきに至ると、民間百般の事業を妨げるために、一国の衰頹を招きます。こうなりますと、国家安寧を保ち、国民の繁栄を増進するためにある刑罰が、却って国家を害すすることとなります。
これに対して、人民個々の自由をのみ尊重することになれば、その害もまた前者と異なることはないでしょう。
されば、治罪法は人民の自由と国家の安寧とに注目し、決して一方に偏することなく、必ず二者の中道を得るをことを目的とすべきなのです。治罪法を制定する立法者は、この点に注目すべきです。既に制定されている法典を解釈する場合にもこの点に注目しなければなりません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(治罪法と国家経済との関係)
治罪法はその制定の如何により国家の経済に大いに関係します。その例として監獄をあげておきましょう。監獄は未決・既決を留置することにより公費が必要となります。その費用の多寡は治罪法の制定如何に関連します。
今回軽罪について控訴が許されたことにより、控訴する者が次第に増え、特に東京控訴裁判所では控訴者がかなり多くなったそうです。その結果、これらの者が東京の監獄署に集まることになり、それに伴い当該監獄署の費用が増加することになります。この費用の増加は東京府民の負担となります。また、新潟において罪を犯した場合、その者を新潟県の監獄署に収容し、その費用は新潟の住民が負担することは理にかなったことです。しかし、控訴がされ、その費用を東京府民が負担することは理にかなったことでしょうか。現にこのことにつき世の中で議論が生じています。
このように、治罪法は一国の経済と関連を有しており、影響は少なくないのです。世の中には刑法や民法のような制裁関係の法を貴び、治罪法・訴訟法等の手続法をを軽視する傾向がありますが、そのような理解は間違いであります。
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⇒次回

橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第二回講義 - 南斗屋のブログ

橋本胖三郎『治罪法講義録』を読む・第二回講義明治18年4月24日前回は治罪法の総論を講義致しました。今日からは治罪法の本文に入っていきます。全体を六巻に分けて、逐次講...

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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第一回 序文

2024年03月18日 | 治罪法・裁判所構成法

橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第一回 序文

【コメント】
治罪法(ちざいほう)は、刑事手続について規定した法律です(明治13年太政官布告第37号)。現在は刑事訴訟法といいますが、当時は治罪法という名称でした。刑事手続きに関する法典としては、本邦初であり、法執行機関には治罪法の習得は必須でした。
橋本胖三郎『治罪法講義録 : 上・下』は治罪法が公布後5年経った明治18年に警察官向けに講術されたものです。同書は、明治19年に警官練習所蔵版として博聞社から出版されています。
警官練習所は、現在の警察大学校の前身で、明治18年に警官練習所として創立されています。橋本胖三郎は、警官練習所の教官です。
今回は講述の第一回です。第一回は序文及び総論から成り立っていますが、今回紹介するのは序文です。原文は漢字にカタカナで句点・読点がなく、また修辞的な言辞も多いため、できるだけ平易な現代語とし、その大意を紹介致します。

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第一回(明治18年4月22日)
序文
諸君。私は浅学寡聞の者ではありますが、教官の末席に加えられ、この度治罪法を諸君に講述する栄誉を与えられました。
さて、この講述では、警部諸君と巡査諸君と同時に行わなければならず、少しく困難を感じております。と申しますのは、警部諸君と巡査諸君とでは、修業の長短が異なるからです。執務の難易軽重も大いに異なっております。別々に講述をするのが良いのですが、そうもいきませんので、「長大は短小を包む」という諺に従い、精密な説明を致します。言辞が不明であったり、論理がよくわからず、諸君の胸中に釈然としないものがあれば、質問をして下さい。

さて、ここで述べるのは、専ら治罪法の法理及びその適用論の概要です。文章、字句の配置、法条の整序などの瑣末な説明は致しません。その理由は、諸君の修業時間に限りがあり、詳細な講述ができないこと、諸君は経験豊富であり、実践により自ずから法の細目を了解していただけるものと信じていることにあります。法学の要旨は法理を研究するものであって、細かな章句に拘泥すべきものではありません。
法理を講じるものは、実際の法の活用をしない空論に過ぎないという者もおります。しかし、私が法理を講述するのは、哲学的な領域で高尚な理論を扱うのではありません。法律を執行する者が理解しなければならない法理を講述するのです。法の活用をしない空論などではありません。法理の一原則を理解すれば、数十の問題を解くことができるのです。
私は、ボアソナード氏に法学を学びましたが、氏は常に法理を詳論し、やむを得ないとき以外は章句の枝葉末節に論及しませんでした。
法律を研究するには様々な方法があり、一つではありません。法章の順序に従って逐条で解説するという方法もあります。また、事項ごとに適宜の区別を設けて講述するという方法もあります。前者は注釈体といい、後者は講義体といいます。現在、我が国で刊行されている法典の解釈や書の多くは注釈体であり、講義体と呼べるものはほとんどありません。
今回、治罪法を講述するにあたっては、講義体により行います。法理を講じるには、この方法が最も適しているからです。刑法の講義を担当する高木氏も同じ方法を取られると聞いておりますので、治罪法でも講義体を取ることは諸君にも便益の多いことでしょう。
本日はまず、治罪法の総論を簡単に述べ、次回以降は治罪法を詳しく説明する予定です。
⇒次回

橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第一回 総論 - 南斗屋のブログ

橋本胖三郎『治罪法講義録』を読む・第一回総論【コメント】第一回講義のうち「総論」を紹介します。原文には小見出しがありませんが、文が長いと意味を取りにくくなります...

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