#仮刑律的例 #4梟首
(要約)
(明治元年九月、備中浅尾藩からの伺)
当藩の家来が
①本年7月、留守居役の者から提出された証文をすり替えて百両を藩から掠め取り
②8月20日夕方、重役の留守に乗じて、旅館に置いた箪笥の錠前を釘で押し開け、公金1640両余りを盗んで逃亡しました。
この者につき、武士の資格剥奪の上、斬首と思料致しますが、この度の大赦により、罪一等減じて、割腹申し付けるべきと存じます。以上、お伺いします。
(返答)この者の所業は士道に背き、悪行数度に及んでいる。あまつさえ主家の大金を掠め取った罪は梟首相当である。ここから大赦による罪一等を減じて刎首とすべきである。
以上は要約です。
元のテクストに即して、以下できるだけ詳しく訳してみます。
【伺い】
明治元年九月24日、蒔田相模守(備中浅尾藩)からの伺い
当藩の家来が八月20日夕方、京都においていた重役の留守に乗じて、旅館に置いた箪笥の錠前を釘で押し開け、公金1640両余りを盗んで逃亡しました。
京都府役所にこのことを届けた上で、その者を探索したところ、同月24日江州日野で召し捕りました。
拷問して取り調べたところ、次の罪も自白しました。共犯はおりません。
・七月に留守居役の者から、提出された証文をすり替えて100両を藩から掠め取ったこと
・主人の用向きと偽り、金員を詐取したが、露顕することをおそれたこともあって、八月の件を行ったこと
共犯がおりませんでしたので、京都府御役所には届出を取下げ、当藩において処分致します。
この者につき、武士の資格剥奪の上、斬首と思料致しますが、この度の大赦により、罪一等減じて、割腹申し付けるべきと存じます。以上、お伺いします。
【返答】この者の所業は士道に背き、悪行数度に及んでいる。あまつさえ主家の大金を掠め取った罪は梟首相当である。ここから大赦による罪一等を減じて刎首とすべきである。
【コメント】
・備中浅尾藩からの伺。浅尾藩の藩庁は浅尾陣屋(現在の岡山県総社市)。一万石の譜代大名です。一万石ですから、財政規模は大きくありません。それなのに本件では家臣に公金を取られてしまうという被害にあっています。
・家来の犯罪は、
①留守居役の者から提出された証文をすり替えて100両を藩から掠め取り
②重役の留守に乗じて、旅館に置いた箪笥の錠前を釘で押し開け、公金1640両余りを盗んで逃亡
というもの。
現代であれば、窃盗罪か業務上横領罪かというところで、刑法の法定刑は10年以下の懲役刑ですから、死刑になるなんてことはありませんし、ありえません。
・しかし、江戸時代は本件程度で死罪間違いなしでしたし、明治元年も同様でした。公事方御定書では、10両以上の窃盗は死罪と規定されていたからです。本件の被害金額は1740両ですから、死罪は間違いなし、問題はどのような死罪とするかでした。
・備中浅尾藩の伺いでは、
本件は本来斬首。しかし、大赦により、罪一等減じて切腹、との考え方です。
これに対して、政府は本件は本来梟首。しかし、大赦により、罪一等減じて刎首としています。死罪の種類についても双方の認識に差があることが分かります。
・明治政府はこの時期死罪については次のように考えていました。
〈死刑〉刎首(身首処を異にす)、斬首(袈裟斬り)
〈極刑〉磔、焚、梟首(梟して衆に示す)
・現代では、極刑=死刑ですが、明治元年には死刑の上のランクを極刑と考え、江戸時代以来行われてきた刑を位置づけています。
・なお、多額の金品の窃盗に死刑が適用されなくなったのは、1870年(明治3年)12月に発布された「新律綱領」からのようです。
〈追記〉
浅尾藩の藩庁は浅尾陣屋(現在の岡山県総社市)。一万石の譜代大名。財政規模は大きくありません。本件では家臣に大金を取られてしまうという被害。
本件の伺いの前年には倉敷浅尾騒動があり、本拠地の陣屋が壊されるという大被害にあっています。財政基盤の弱く復旧も大変だったのでは。本件でも大金を持ち逃げされており、泣きっ面に蜂。
明治政府は、「所業は士道に背き、悪行数度。あまつさえ主家の大金を掠め取った罪は梟首相当」とあり、今では無期懲役にすらならない犯罪が、こんなノリで極刑に。「士道」という言葉が使われており、武士かくあるべきという思いが濃厚に。
梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首です。梟首 という言葉は、吾妻鏡にもあり、日本人は何百年もこの刑を行ってきたのですね。それが今や解説を要する言葉となったのは、それだけ進歩したということなのでしょう。
なお、梟首はこの時代、死刑ではなく、〈極刑〉に分類されています。
死刑と極刑は別物です。
死刑は、刎首(身首処を異にす)、斬首(袈裟斬り)。