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文政11年7月下旬・色川三中「家事志」

2023年07月31日 | 色川三中
文政11年7月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年7月21日(1828年)
〈行商中〉晴れ、暑さ甚だし。蜘蛛病の婦人の処方を思いついたので、同女を診ている日向医師に、便りを送っておいた。玉造を立ち、鉾田に泊まる。
鉾田:鉾田市鉾田
玉造:かすみがうら市玉造
#色川三中 #家事志
(コメント)
蜘蛛を吐く婦人のことが気にかかり、行商先から担当医に自分の考える処方を書き送っています。色川三中は薬種商であって、医師ではないのですが、後に国学者として名を残すだけあって、探求心が旺盛。担当医としては迷惑でしょうけど(笑)


文政11年7月22日(1828年)
〈行商中〉鉾田に連泊する。
鉾田:鉾田市鉾田
#色川三中 #家事志
(コメント)
鉾田も重要拠点。三中の行商のターゲットは医者。三中が医者と会って売り込みをします。医者方に薬種を置き売りし、その後は店の者が随時巡回して不足分の補充や注文品を届けます。集金(年2回)は三中が行ったようです。
参考:中井信彦『色川三中の研究 伝記編』


文政11年7月23日(1828年)
〈行商中〉二百十日。少々雨が降り、昨日より少し涼しくなる。鉾田を立つ。汲上に泊まる。
鉾田:鉾田市鉾田
汲上:鉾田市汲上
#色川三中 #家事志
(コメント)
二百十日は、立春から数えて210日目の日。 太陽暦の9月1日ごろ(今年も同日)。最近ですと、9月に入っても暑いのは当たり前になってしまいましたが、江戸時代は9月に入れば涼しかったのでしょう。厳しい暑さで始まったが行商ですが、ようやく暑さからは解放されそうです。

文政11年7月24日(1828年)
〈行商中〉汲上を立つ。かしま泊。
汲上:鉾田市汲上
かしま:茨城県鹿嶋市
#色川三中 #家事志
(コメント)
今回の記事では鹿嶋のことを「かしま」と平仮名で書いていますので、ツイートでも平仮名にしています。鹿嶋は三中の商売には重要な拠点。6月9日条でも従業員2名を営業に派遣しています。鹿島では訪問するところが多いので、連泊するのが通例です。


文政11年7月25日(1828年)
〈行商中〉かしまに連泊。神事を見る。色々と思うことあり、別に紀行を一巻書いた。与兵衛に筆記してもらった。
かしま:茨城県鹿嶋市
#色川三中 #家事志
(コメント)
鹿島神宮で神事を見学しています。昨年7月の行商でも神事を見ており、日記に神事の様子を書き残していました。今回は、日記以外に別の紀行文を書いたことが記されています。



文政11年7月26日(1828年)
〈行商中〉かしまから原道を飯嶋へ戻る。札に泊まる。
かしま:茨城県鹿嶋市
飯嶋:鉾田市飯島
札:鉾田市札
#色川三中 #家事志
(コメント)
飯嶋なんて初めて聞く名前だぞと思ったのですが、検索してみたら昨年7月の行商でも立寄って歓待されていました。「飯嶋」は人の名前かと思っていたのですが、地名だったのですね(現鉾田市)。「札」も地名。


文政11年7月27日(1828年)
〈行商中〉札を立つ。水原の民家に泊まる。
札:鉾田市札
水原:潮来市水原
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の記事に出てくる札、水原はいずれも地名。水原ではわざわざ「民家泊」とあるので、一般家庭に泊まったのでしょう。三中の行商は村々を歩いて医師に営業していったと思うのですが、どこの村にも医師がいたのでしょうか。興味は尽きません。
札城跡-水原(16 km)

札城跡 to 水原

札城跡 to 水原



文政11年7月28日(1828年)
〈行商中〉水原を立つ。牛堀に泊まる。十六島では米がよく取れて上作という。半分ほどは水に浸かって捨てたというが、早く植えた分収穫も良かったようだ。
水原:潮来市水原
牛堀:潮来市牛堀
十六島:香取市等
#色川三中 #家事志
(コメント)
牛堀は現茨城県潮来市。これまでの行商では来訪したことがないと思うので、新たに営業ルートを開拓したのでしょう。現香取市などに属する十六島の米の取れ高について記録しています。年貢を収めるので、豊作不作は重大関心事です。

牛堀は、葛飾北斎の富嶽三十六景で取り上げられています。富嶽三十六景の中では一番東。
常州牛堀


文政11年7月29日(1828年)
〈行商中〉牛堀を立つ。玉造泊。
牛堀:潮来市牛堀
玉造:かすみがうら市玉造
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商も終盤。明日には土浦に戻ります。最後の宿泊は玉造(現かすみがうら市玉造)。ここには今回の行商前半でも連泊しており(7月19、20日)、三中にとって重要な拠点でした。
牛堀公民館-玉造 (21 km)

牛堀公民館 to 玉造

牛堀公民館 to 玉造

玉造は霞ヶ浦に接しており、水運もある町。明治の町村制施行以来、玉造町でしたが、2005年9月2日、麻生町・北浦町と合併し行方市となりました。

7月30日、
文政11年に7月は小の月のため7月30日はありません。
#色川三中 #家事志 はお休みです。

7月31日
旧暦に31日はないので。
#色川三中 #家事志 はお休みです。

(追記)
2023年の7月30日は旧暦でいうと6月13日になります。6月13日の色川三中の日記は
土浦祇園祭りの記事。この時期に祇園祭りだったのですね。7月に夏祭りが多いわけです。









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脱藩した犯罪者は呼び戻さなくていいですよね? 仮刑律的例 #5脱籍者処置

2023年07月27日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #5脱籍者処置

【超訳】
(信濃高遠藩から質問)明治元年
うちの藩から脱籍した者は、藩に呼び戻せってことですが、犯罪を犯した者まで呼び戻す必要ないですよね?
(政府返答)
呼び戻せ。
悪いやつを追い出したままなら、よその迷惑になるだろ。自分の藩の者は自分とこに置いてやれ。

【要約】
(明治元年十月、信濃高遠藩からの伺)
脱籍した者は呼び戻せとのご布告がありましたが、悪事を犯した者は当藩に呼び戻すべきでないと思料しますが、それでよろしいですか。
(返答)脱走して住所がわかっている者は、呼び戻すべきである。大赦をしたのだから、既往の罪を問題としてはならない。改心し難い者も領内に置くべき。他領に追い出せば他領の害となる。

以上はかなり要約したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。

#仮刑律的例 #5脱籍者処置
【伺い】
明治元年10月18日、内藤若狭守(信濃高遠藩)からの伺
本年8月に脱籍者についてご布告がありましたが、念のためお伺い致します。
一 悪事及び不行跡で罪を免れ難く、家を差し出してしまった者。呼び戻せば、その家の取締りにも関係するため、呼び戻さないつもりです。住所は尋ねますが、家を差し出した年月や姓名まで尋ねておくべきでしょうか。そこまで調べるとしたら、何年前まで遡って調べておくべきでしょうか。
一 悪事及び不行跡で改心もしない為、家風に障りのある者、一家の家長の権限で家を出したのであり、これは家の刑法に基づいたものですから、当藩では呼び戻しらしないつもりです。このような場合、都度都度お届けした方が良いでしょうか。
以上、お伺い致します。
【返答】脱走して住所がわかっている者は、呼び戻すべきである。大赦をしたのだから、既往の罪を問題としてはならない。改心し難い者も領内に置くべきである。他領に追い出せば他領の害となる。

【コメント】
・「脱籍者」とは戸籍地から無許可で移動している者。江戸時代には宗門人別帳で農民の籍が管理されており、宗門人別帳は明治元年当時は有効でした(明治4年に廃止)。
・戸籍地からは自分勝手に移動できず、領主の許可が必要というのが、江戸時代の建前。明治初年も江戸時代と同じ、否、呼び戻せとは江戸時代よりも厳しくなっています。
・今は居住・移転の自由が認められています。一方、この時代は建前では他領への移動には領主の許可が必要だったのです。もっとも、それはあくまでも建前で実態は相当緩くなっていたのですが…。
・信濃高遠藩からの「犯罪をした脱籍者は、自領にいてほしくない。そういう者は、呼び戻さないでよいですか?」という伺いからは、管理する領主の身勝手さも窺えます。管理の緩さともいえましょうか。この緩さが、江戸時代後期・幕末の特徴だったのかもしれません。
・一方、明治政府の返答は、「そういう者でも領内に置きなさい」です。管理の原則重視。犯罪者だからといって他領に追い出してしまえば、他領が迷惑であるという理屈はごもっとも。しかし、個人を管理していく傾向が強すぎで露骨。明治政府は命じるだけで実行するのは藩というのも、何だかなと思います。
・戸籍制度は人民の把握を目的としています。脱籍者=犯罪者ではありませんが、脱籍は秩序を乱す行為であり、彼らを復籍させることが、他の様々な施策の基礎となると明治政府は考えていたといえましょう。


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文政11年7月中旬・色川三中「家事志」

2023年07月24日 | 色川三中
文政11年7月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年7月11日(1828年)雨
お盆で与市殿は国元(下総富谷村)に帰る予定。しかし、今日も雨で出立は延期。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦7月(太陽暦でいえば8月)なのに雨が降り続く日々。文政11年も天候は不順です。与市もお盆で国元(下総富谷村・現千葉県匝瑳市)に帰る予定なのに、なかなか帰ることができません。


文政11年7月12日(1828年)曇
雨が止み、与市殿は国元(下総富谷村)に向け出立した。新盆の供物料として、与市殿に金一朱を遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
降り続いた雨がようやく止み、与市は下総に向けて出立していきました。与市は名主まで務めただけあって人生経験も豊富で三中の仕事にはなくてはならない人物です。


文政11年7月13日(1828年)曇
新盆を迎えたいせ九にそうめん15わ、ひものやに線香5わを遣わす。東光寺など四箇所へ白米五合ずつ(例年のとおり)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦7月13日、お盆の入り。中でも新盆に供物を贈ることは大事だったようであり、誰に何を贈ったかが記されています。


ひものやババは6月14日死去。



文政11年7月14日(1828年)
夕方、色川吉右衛門の子が亡くなったとの知らせ。私が名付け親になった子である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
知り合いの子が亡くなってしまいました。昨年六月に生まれていますので、一歳ちょっと。幼い子の訃報は胸が痛みます。三中は名付け親でした(6月9日条)。



文政11年7月15日(1828年) 
熊野屋の借金の交渉を行う。元金5両負けさせ、支払総額15両。うち10両を本日支払い、残りの5両を本年12月と来年7月の二回支払うことで合意。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の日記には、自身の債務整理の記事が多いのですが、これは他人(熊野屋)の債務整理記事。年二回払いとするときは、7月と12月。7月はお盆であり、債務支払いの時期と感じていたのでしょう。
文政10年の記事からも、お盆が支払時期と認識されていることがわかります。



文政11年7月16日(1828年)曇
中城の田が不作。先日その見分があり、本日、不作田方帳面に押印をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の所有の中城(現土浦市)の田が不作。このようなときは、見分の上、不作田方帳面なるものに記録されていたようです。収穫の多寡は年貢に関わりますので、このような書面が各地で作成されていたのですね。
国税庁が「検見と年貢勘定」と題してホームページでこのあたりのことを取り上げています。「当寅田方立毛内見合付取調書上帳」の引用もあり。名称は様々だったようです。


文政11年7月17日(1828年)晴
〈行商出立〉残暑甚だし。暁、船で真鍋まで行く。安食泊(かすみがうら市)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
前回の行商は本年1月。昨年も7月17日~7月30日で行商していますから、年始明け、盆明けに行商するのが、三中のここ最近のルーティン。お盆の前あたりまで雨が続きでしたが、このところ晴れて暑くなりました。お盆明けなのにまだまだ暑く、行商廻りは大変そうです。
https://maps.app.goo.gl/cxMvXaccyc6RvZBTA

土浦市 to 安食の道祖神

土浦市 to 安食の道祖神



文政11年7月18日(1828年)
〈行商中〉暑し。今日は、安食(かすみがうら市)から高浜(石岡市高浜)まで。三村の出水が甚だしい。水が膝上まで来たという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一泊目安食⇒二泊目高浜(従前の行商に同じ)。行商ルートが確立しているようです。先日来の雨で水が引いていない場所があり、膝上まで浸水があったと記しています。

安食の道祖神 to 高浜

安食の道祖神 to 高浜




文政11年7月19日(1828年)
〈行商中〉高浜(石岡市高浜)を出発して、玉造(現かすみがうら市玉造)泊。徳兵衛と同所で落ち合う。
#色川三中 #家事志
(コメント)
二泊目高浜から三泊目玉造へ。これも前回と同じ。玉造で落ち合った徳兵衛は、うっかり二階に提灯を忘れてあやうく火事を出しそうになった従業員(4月26日条)。うっかり者ですが、営業は得意なのかもしれません。

高浜 to 行方市役所玉造庁舎

高浜 to 行方市役所玉造庁舎



徳兵衛のうっかり


文政11年7月20日(1828年)
〈行商中〉玉造に連泊。暑さ甚だし。
#色川三中 #家事志
(コメント)
四泊目。玉造宿に連泊(玉造連泊は前回行商に同じ)。玉造周辺にお客さん(医師)が多く、連泊しないと回りきれないのでしょう。「暑さ甚だし」との記載があり、今回、かなり暑く行商廻りも大変なようです。

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主家の大金を盗んだ者はさらし首 仮刑律的例 #4梟首

2023年07月20日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #4梟首
(要約)
(明治元年九月、備中浅尾藩からの伺)
当藩の家来が
①本年7月、留守居役の者から提出された証文をすり替えて百両を藩から掠め取り
②8月20日夕方、重役の留守に乗じて、旅館に置いた箪笥の錠前を釘で押し開け、公金1640両余りを盗んで逃亡しました。
この者につき、武士の資格剥奪の上、斬首と思料致しますが、この度の大赦により、罪一等減じて、割腹申し付けるべきと存じます。以上、お伺いします。

(返答)この者の所業は士道に背き、悪行数度に及んでいる。あまつさえ主家の大金を掠め取った罪は梟首相当である。ここから大赦による罪一等を減じて刎首とすべきである。

以上は要約です。
元のテクストに即して、以下できるだけ詳しく訳してみます。
【伺い】
明治元年九月24日、蒔田相模守(備中浅尾藩)からの伺い
当藩の家来が八月20日夕方、京都においていた重役の留守に乗じて、旅館に置いた箪笥の錠前を釘で押し開け、公金1640両余りを盗んで逃亡しました。
京都府役所にこのことを届けた上で、その者を探索したところ、同月24日江州日野で召し捕りました。
拷問して取り調べたところ、次の罪も自白しました。共犯はおりません。
・七月に留守居役の者から、提出された証文をすり替えて100両を藩から掠め取ったこと
・主人の用向きと偽り、金員を詐取したが、露顕することをおそれたこともあって、八月の件を行ったこと
共犯がおりませんでしたので、京都府御役所には届出を取下げ、当藩において処分致します。
この者につき、武士の資格剥奪の上、斬首と思料致しますが、この度の大赦により、罪一等減じて、割腹申し付けるべきと存じます。以上、お伺いします。

【返答】この者の所業は士道に背き、悪行数度に及んでいる。あまつさえ主家の大金を掠め取った罪は梟首相当である。ここから大赦による罪一等を減じて刎首とすべきである。

【コメント】
・備中浅尾藩からの伺。浅尾藩の藩庁は浅尾陣屋(現在の岡山県総社市)。一万石の譜代大名です。一万石ですから、財政規模は大きくありません。それなのに本件では家臣に公金を取られてしまうという被害にあっています。
・家来の犯罪は、
①留守居役の者から提出された証文をすり替えて100両を藩から掠め取り
②重役の留守に乗じて、旅館に置いた箪笥の錠前を釘で押し開け、公金1640両余りを盗んで逃亡
というもの。
現代であれば、窃盗罪か業務上横領罪かというところで、刑法の法定刑は10年以下の懲役刑ですから、死刑になるなんてことはありませんし、ありえません。
・しかし、江戸時代は本件程度で死罪間違いなしでしたし、明治元年も同様でした。公事方御定書では、10両以上の窃盗は死罪と規定されていたからです。本件の被害金額は1740両ですから、死罪は間違いなし、問題はどのような死罪とするかでした。
・備中浅尾藩の伺いでは、
本件は本来斬首。しかし、大赦により、罪一等減じて切腹、との考え方です。
これに対して、政府は本件は本来梟首。しかし、大赦により、罪一等減じて刎首としています。死罪の種類についても双方の認識に差があることが分かります。
・明治政府はこの時期死罪については次のように考えていました。
〈死刑〉刎首(身首処を異にす)、斬首(袈裟斬り)
〈極刑〉磔、焚、梟首(梟して衆に示す)
・現代では、極刑=死刑ですが、明治元年には死刑の上のランクを極刑と考え、江戸時代以来行われてきた刑を位置づけています。
・なお、多額の金品の窃盗に死刑が適用されなくなったのは、1870年(明治3年)12月に発布された「新律綱領」からのようです。

〈追記〉
浅尾藩の藩庁は浅尾陣屋(現在の岡山県総社市)。一万石の譜代大名。財政規模は大きくありません。本件では家臣に大金を取られてしまうという被害。
本件の伺いの前年には倉敷浅尾騒動があり、本拠地の陣屋が壊されるという大被害にあっています。財政基盤の弱く復旧も大変だったのでは。本件でも大金を持ち逃げされており、泣きっ面に蜂。
明治政府は、「所業は士道に背き、悪行数度。あまつさえ主家の大金を掠め取った罪は梟首相当」とあり、今では無期懲役にすらならない犯罪が、こんなノリで極刑に。「士道」という言葉が使われており、武士かくあるべきという思いが濃厚に。
梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首です。梟首 という言葉は、吾妻鏡にもあり、日本人は何百年もこの刑を行ってきたのですね。それが今や解説を要する言葉となったのは、それだけ進歩したということなのでしょう。
なお、梟首はこの時代、死刑ではなく、〈極刑〉に分類されています。
死刑と極刑は別物です。
死刑は、刎首(身首処を異にす)、斬首(袈裟斬り)。




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酔って仲間の家臣を斬殺した者は切腹 仮刑律的例 #3酔狂の上の殺人の処置

2023年07月17日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #3酔狂の上の殺人の処置

(要約)
(明治元年九月、山城淀藩からの伺)
金子という藩士が、竹中という藩士を殺害しました。二人は仲が良かったのですが、二人して酒を飲み、酔って口論となり殺害したというものです。金子には切腹を申し付けようと思料しますが、如何でしょうか。
(返答)伺いのとおりでよい。

以上は要約です。
元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。


#仮刑律的例 #3酔狂の上の殺人の処置
【伺い】
明治元年九月、稲葉美濃守(山城淀藩)からの伺い
当藩の家来同士の殺人の件です。家来金子栄助が、家来竹中伝三郎を殺害しました。審理したところ、金子はもともと竹中と懇意で、恨みはなく、飲酒して酔狂の上、口論となって刃傷に及んだというものでした。
このような経緯であっても、助命相当とは考えられず、切腹を申し付けようと考えておりますが、過日のお達しもありましたので、お伺いする次第です。
【返答】伺いのとおり。

(コメント)
山城淀藩の家来同士の殺人事件。加害者とが、被害者と酒を飲んでいて、酔っ払って口論の上に殺害したというもの。加害者の金子は、もともと竹中と懇意で、恨みはなかったとの事実認定がされています。酒を飲んでいるときも帯刀してるってことですよね。刀は武士の魂とはいえ、物騒なことです。
・現代では、傷害致死か殺人かで刑にかなりの違いがあるので、殺意の有無が刑事裁判では問題になります。しかし、御定書ではこの点は区別して論じられていないようで、「殺害」という前提で伺いは書かれています。
・計画的殺人ではない、恨みが動機ではないという事案ですが、死罪は免れないというのが淀藩・明治政府共通の考え方です。
・江戸時代の死刑は、庶民と武士とで区別されたいました。庶民には鋸引、磔、獄門、火罪、死罪、下手人の6種類。武士には斬罪及び切腹の2種類です。
・本件の加害者は武士(淀藩の家来)ですから、死刑であれば、斬罪及び切腹のどちらかの選択です。
・淀藩は恨みのある犯行ではなく、酔った上での計画的でない殺人であることを理由に切腹を選択すべきとの伺いを出しております。政府側も同じ考えであり、返答では伺いのとおりとしています。



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文政11年7月上旬・色川三中「家事志」

2023年07月13日 | 色川三中
文政11年7月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年7月1日(朔)(1828年)
昨夜の大風雨で、水溢れること多し。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日は「暴雨。今年は天候が定まらず、難しい年である」と記されておりまして、悪天候の年。土浦は霞ヶ浦近くの低地ですので、三中は水害に敏感です。


文政11年7月2日(1828年)晴
栗山長屋に住んでいる婦人(年のころ25〜26歳)が蜘蛛を吐く奇病を患っている。今日までで25匹蜘蛛を吐いた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
蜘蛛を吐くという奇病にかかった婦人の記事。これは一体どういう病気なんでしょうか。何かのストレスで蜘蛛を口にしては吐いているんでしょうか。三中はこの蜘蛛がを吐く婦人にかなり興味を持っており、この後も熱心に記録しています。

文政11年7月3日(1828年)晴、大風
平右衛門様のお宅で債権者と交渉。本日、合意に至る。平右衛門様が酒肴を出され、四ツ半(午後11時)まで飲む。債権者の儀右衛門とも酒を酌み交わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の父親の代に事業に失敗してしまい、
かなりの負債が残っています。債務の支払い方法についての記事は頻繁に出てきますが、合意が成立したあと、債権者と一緒に夜遅くまで酒を酌み交わしたというのは珍しい。債権者がよい人なのか、それとも間に入った平右衛門の人徳のなせるものでしょうか。

文政11年7月4日(1828年)晴・炎熱快晴
今日はとみ友(とんだや友七)との交渉。高砂屋が、とみ友の家に行って交渉をしてくれることになっている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
債務の支払いについての交渉の記事です。直接債権者とやり取りすることはなく、必ず間に誰か入っています。今回は高砂屋さん。弁護士がいない時代ですから、高砂屋さんのように間に入って交渉する人は、この日記に複数出てきます。

文政11年7月5日(1828年)晴
なべや平七殿が逗留されているお宅まで、与市に菓子一折を持って行かせた。平七殿に交渉ごとをお願いしているが、うまくまとまらなかった由。
#色川三中 #家事志
(コメント)
最近債務の支払い交渉関係の記事が多いのですが、この記事に出てくる交渉もおそらく同じでしょう。まだ交渉は成功していませんが、菓子一折を持って行かせています。話しの上手い従業員の与市を行かせていますので、三中はかなり交渉の状況が気になっているようです。


文政11年7月6日(1828年)曇
蜘蛛を吐く婦人は、今日今までで一番大きな蜘蛛を吐いたと。蜘蛛に喉を食われたのか、血が出ていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
蜘蛛吐き婦人の続報。三中は医師ではなく、薬種商ですが、珍しい病気にはかなりの好奇心を持っています。婦人が吐いた蜘蛛までもらったりしたこともあり、探求心がスゴい。



文政11年7月7日(1828年)曇
昨夜、江戸崎の者と合意。債務総額125両。本年10月限り35両、残金90両を十年払い。利息は切り捨てで、元金のみの支払い。出見世伊兵衛が交渉をうまくまとめてくれた。酒肴を出しもてなす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
債務総額125両の支払い交渉が合意に達しました。交渉人は出見世伊兵衛。百両を越える多額の債務の交渉で、十年の分割払いを認めてもらっていますから、三中もホッとしたことでしょう。

文政11年7月8日(1828年)
先日の雨で、川から出水。かなり酷い。土浦は大丈夫だが、安食(かすみがうら市)では土手が切れた由。
#色川三中 #家事志
(コメント)
安食は、現在のかすみがうら市にあり、土浦からは20キロ弱の地域。土浦と同じく霞ヶ浦に面しています。三中は行商初日は安食に泊まるのが通例ですから、安食の水害情報は気になるのでしょう。


文政11年7月9日(1828年)
とみ友(とんだや友七)と合意。高砂屋が間に入ってくれたおかげ。債務総額25両(利息延滞金込み)。本日7両支払い。来年から3年間に毎年4両支払えば、残額は請求しないとの内容。
#色川三中 #家事志
(コメント)
高砂屋さんが交渉していた債務の分割払いが合意に達しました。7両+4両×3=19両であり、債務総額25両に満たないですが、25両は利息延滞金でだいぶ膨らませた額なのでしょう。7月7日に妥結した合意でも利息はカットされていますので、元金だけでも回収できれば良いと債権者は考えていたのではないでしょうか。
「とんだや」は富田屋でしょうか。だから省略するときに、「とみ友」(富・友)になるのでしょう。三中は日記本文では、大体略称が書いてあって、本名が誰だかよくわからないのもあるのですが、「とみ友」は特定できました。


文政11年7月10日(1828年)雨
・交渉をまとめてくれた高砂屋に礼をいいにいった。
・利根川の堤防が3箇所切れ、水害が発生したとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
利根川堤防の破堤は、戦後カスリーン台風でも起こっていますから、江戸時代は度々起こっていてもおかしくありません。土浦は利根川からは離れていますが、利根川水系ではあるので、そのあたりのニュースには敏感になっています。
「太平洋戦争終結後、利根川流域で発生した大水害は、昭和22年9月に来襲したカスリーン台風によって引きおこされたものでした。この洪水で埼玉県東村(現:加須市)地先が破堤し、濁流が埼玉県内のみならず、東京都にまで流れ込んで大きな被害を出しました」



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明治初年の破産 仮刑律的例 #2金銀取引処置

2023年07月10日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #2金銀取引処置
(要約)
(明治元年八月、丹後田辺藩からの伺)
複数の債権者のうち一人だけが今訴えています。この場合、債務者に身代限り・分散をして、一人の債権者だけに債務者の財産を与えても良いものでしょうか。
(返答)身代限り・分散は全ての債権者のために行うべきである。後で他の債権者から訴えがあったら、審理の上、債権額に応じて分散すべきである。

以上は要約です。
元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。

#仮刑律的例 #2金銀取引処置
【伺い】
明治元年八月、丹後田辺藩からの伺い
当藩の由良村の平兵衛は、昨年所有していた船2艘が破船し、積荷、水主全て行方不明となってしまいました。平兵衛は約1万4000両を借入れて対応しました。しかし、正規の支払いができなくなったため、債権者に弁済の猶予を交渉していました。
綾部領の岡村嘉助は、この交渉に応じず、木綿代約700両の支払いを求めて提訴しました。
平兵衛には、一括の支払いを申し付けたいところですが、平兵衛はこれまでの経緯を主張して承知致しません。この上は、平兵衛に身代限・分散を申し付けるほかないと思料致します。平兵衛は「この後他の債権者かわ出訴してくるでしょうから、岡村嘉助一人に対して資産を引渡すべきではない」というものです。
そこでお伺いしたいのは、
・岡村嘉助一人に対して平兵衛の身上を処分してしまってよいか
・債権額について争いがないのであれば、債権者が出訴しなくても、当事者立ち会いの上、分散をしてしまってよいな
というものです。
この点、お伺いを致します。

【返答】
平兵衛の身代限は岡村嘉助一人に対して行うべきではなく、分散の財は各債権者に対して行われるべきである。
本件のような案件の記録には、次のような付箋をつけておくのがよろしいというのが間島万次郎(間島冬道)刑法官権判官事の見解である。
「先訴の者の為に身上限りを言い渡し、その後債権者から願いがあった場合は、その主張の虚実をよくよく審理して、債権額に応じて分配をすべきこと」


【コメント】
・由良村(京都府宮津市由良)の平兵衛の身代限・分散に関する伺いです。
由良村

由良 · 〒626-0071 京都府宮津市

〒626-0071 京都府宮津市

由良 · 〒626-0071 京都府宮津市


・平兵衛は、昨年所有していた船2艘が破船し、積荷、水主全て行方不明となってしまいました。損害保険のない時代ですから、損害は全て平兵衛が負わなければなりません。平兵衛は約1万4000両を借入れてこれに対応。
・しかし、これで全ての問題を解決できたわけではなかったようです。綾部領(綾部市)の岡村嘉助という債権者が、平兵衛との交渉に応じず、木綿代約700両の支払いを求めて提訴してしまいました。平兵衛は木綿代を航海先で売りさばいてから支払おうとしたのでしょう。岡村嘉助には代金を支払っていませんでした。
なお、岡村の住んでいた綾部は内陸にあり、由良までは30キロ以上あります。由良の船乗りが広範に地域の産品を集めていたことが分かります。
・平兵衛が訴えられてるのは、岡村嘉助だけです。もっとも、平兵衛には他にも債務があることは明白。その点も踏まえて身代限(身上限とも)や分散-今の破産-の決定をしてしまってよいかが問題となりました。
・身代限(身上限とも)や分散というのは、今でいえば破産手続きで、借金を返済できなくなった債務者に対し、官が全財産を没収して債権者に与え、借金の弁償に充てさせたこと、等と説明されます。
・身代限は公事方御定書に規定されています。破産手続きは、現代では民事の手続きとされていて、刑事手続きとは認識されていないのですが、この時代は刑事手続きと認識されていたようです。
・【返答】に間島万次郎刑法官権判官事の名前が見えます。間島万次郎は間島冬道のこと。江戸時代は尾張藩士でした。万次郎は通称ですが、公文書にこのように名前が出ているところをみると、当時は万次郎で通していたのでしょう。
・刑法官というのは、慶応4年の政体書に基づいて明治政府に設置された七官の一つで司法部門を担当。この伺いが出された明治初年は、裁判は府藩県それぞれで地方官により行われていましたから、地方官からの刑事法適用に関する伺いに対応すること等が刑法官のメインの仕事でした。

追記
明治初年の民事判決の強制執行について
概説書で以下の記載を見つけました(浅古外『日本法制史』)。
「判決の強制執行は、旧幕時代の手続きを踏襲し、刑罰を背景とした執行手続きであった。期限を定めての履行命令が職権で申し渡され、履行しないときは処罰された」
なるほど、昔は民事事件とはいえ、刑事処罰の威嚇を背景としていたのですね。民事と刑事は、現代のように截然と分かれてはいなかったようです。


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嘉永6年6月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年07月06日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年6月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分・大意)。

嘉永6年6月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
一人で湊川の借家に行く。元俊医師は過労のため休み。大原幽学先生に、自分を改革するにはどうしたら良いですかと相談。「改革は辞めにして、自分の料簡でできるだけのことをした方が良いだろう。改革をするといっても、2〜3日で元に戻ってしまって無駄になるぞ。」
(コメント)
五郎兵衛さん、張り切って幽学先生に自己改革の方法を聞いたのに、幽学先生は「自分の料簡でできるだけのことをした方が良い」とつれない回答。日記を読んでおりますと、五郎兵衛さんは良い人なのですが、自己改革というのには向かない感じは私もしておりました。


嘉永6年6月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
重吉(山形屋の下代)と共に奉行所に行き、帰村願いを訴所に提出。
「元俊は大病で難渋していますので、帰村のご許可をお願いします」と口頭で申し上げ、腰掛に日暮れまで控えていたがお呼び出しなし。重吉が聞きに行ったら、「細かい事情を願書にして差し出すように」とのこと。明後日までに願書を出さねば。
(コメント)
元俊を病扱いにして(実は仮病)、帰村願いを五郎兵衛が奉行所の訴所に出しましたが、腰掛(控え)でかなり待たされています。差添の重吉が聞きにいってようやく、書面を出すようにという奉行所の注文が分かりました。それにしても、このサービスの悪さ。今も昔も変わらないような気がします。


嘉永6年6月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行き、元俊の帰村願いの件について報告。これを聞いた元俊は、「俺は大病なのか、これは困った(笑)。外を歩くときは笠を深く被って見られないようにしなければな」と冗談をいいながら、仕事で外出した。
(コメント)
元俊は仮病なのです。病気を理由とした帰村願いは方便。江戸でも仕事(医師)をこなしている元俊は、外出するときは笠を深く被る必要がある等と冗談をいっています。

嘉永6年6月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
元俊医師の帰村願いの件について、重吉(山形屋の下代)と共に奉行所へ。奉行所から要請のあった願書を提出。正午に呼び出しがあって、訴所から「願いのとおり聞き届けてつかわす」との仰せ渡しあり。
(コメント)
元俊医師の帰村願いの手続きのため、今日も奉行所に五郎兵衛は行っています。奉行所から要請された願書を提出したところ、ようやく帰村願いが認められました。それにしても、奉行所のこの上から目線はなんとかなりませんかね。

嘉永6年6月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
奉行所で元俊の帰村願いが認められたことを、淀藩上屋敷の足達様にご報告。淀藩への正式な届け等は明日行う予定。
(コメント)
淀藩の上屋敷は、現在の神田小川町にあります。山形屋は馬喰町ですから、2キロ前後の距離。気楽に行ける距離だからか、帰村にの届けは明日することにしています。 

嘉永6年6月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
淀藩上屋敷に伺い、元俊医師の帰村の届けをし、承認書(御返翰)をいただく。淀藩上屋敷の足達様は、我々の江戸での出費が嵩むことを心配しており、親切な言葉をかけていただいた。
(コメント)
江戸から村に帰るときには、江戸の領主の屋敷に帰村する旨の届出を提出し、御返翰(承認書)を頂戴する必要があります。五郎兵衛の長沼村は淀藩の所領なので、淀藩に届けを出す必要があります。それにしても、藩の役人が結構親切なのでビックリ。武士と農民の距離感は意外と近かったのかもしれません。

嘉永6年6月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
元俊医師の帰村願いが許可されたので、一同相談し、全員の帰村を奉行所に願うこととした。重吉を差添として腰掛に行き、願書を提出した。昼過ぎ、重吉に聞いてもらったら、「明日呼び出すから、今日は宿に帰れ」とのご指示であった。
(コメント)
もともとは元俊医師だけの帰村を狙っていたのかと思いましたが、全員が帰村願いという急展開。元俊の帰村願いは、奉行所がどう出るかを確かめるためのテクニックだったのでしょうか。そうだとすれば幽学一派の裁判技術も相当なものです。

嘉永6年6月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
朝飯を食べてから、奉行所の腰掛へ行く。着届けを出して、昼過ぎにようやく呼び出し。訴所で「七月末まで帰村を認める」との仰せ。湊川の借家に行って、このことを報告。
(コメント) 
昨日、全員の帰村願いを奉行所に出しましたが、あっさりと帰村が認められました(7月末まで)。やはり田安家、清水家(御三卿)からのプレッシャーが効いているのでしょうか。しかし、一ヶ月となると結構忙しいですね。村に帰ってしばらくしたらまた江戸に帰ってこなければなりません。


嘉永6年6月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
奉行所で帰村願いが認められたことを、淀藩上屋敷にお届けし、承認書(御返翰)をいただいた。本日から湊川の借家に移るので、山形屋を引き払う。山形屋から茶半斤の餞別。
(コメント)
今日は帰村の準備に忙しい五郎兵衛です。
奉行所での帰村の許可⇒領主に届けて承認を得るというお決まりの手続き。そこから、宿(山形屋)の引き払い。山形屋さんからは茶半斤の餞別をもらっています。江戸に戻ってきたら、また是非当宿にご宿泊をという趣旨でしょうか。


嘉永6年6月30日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
明日江戸を立つので、湊川で掃除や片付け。昼は馬喰町のうんどん屋(うどん屋)で大食。昼過ぎ、又左衛門らと小石川の古家に葭のスダレを三枚担いでもっていく。大門通りの伊勢屋、大丸向かいの岸部屋に勘定。
(コメント)
明日は朝に江戸を立つので、しばらく江戸の昼飯を食べる機会はないとばかり、五郎兵衛はうどん屋で大食。わざわざ「大食」と書いているのが、五郎兵衛らしい。愛すべきキャラです。





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文政11年6月下旬・色川三中「家事志」

2023年07月03日 | 色川三中
文政11年6月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年6月21日(1828年)
本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年6月22日(1828年)
本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年6月23日(1828年)雨少々降る
・白木屋廻り善兵衛という人が代替りをしたのでとのことで挨拶に来た。扇子一対を持参された。
・佐助と与兵衛が本日鹿島路に出立。
#色川三中 #家事志
(コメント)
営業のための挨拶廻りは今も昔もビジネスの基本。何を手土産にするかは時代により移り変わるものです。このころは扇子一対が流行りのようです。3月に三中宅を訪れた日本橋の薬店の営業も扇子一対を持ってきていました。


文政11年6月24日(1828年)曇
名主の入江から、「入樋の分担金の願い書は、四五日前には御代官に提出しておいたが、どうも御代官の受けはよくないな」との話しあり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代の農民は代官のいうとおりに動いていたようなイメージもありますが、今日の記事のように自分たちの主張は願い書として提出しており、言うべきことはいうというスタンスを取っています。もっとも、提出は名主を通してとはなりますが、議員というものがないだけに、メッセージはストレートに代官に伝えています。

文政11年6月25日(1828年)土用明け
色重(色川重兵衛)が来た。
「今度後妻をもらうことになった。縫い物と洗濯をしてもらわないとな。そういえば、新宅の伊勢屋左兵衛も再婚するらしいな。相手は新宅のぬいだそうだ」
#色川三中 #家事志
(コメント)
後妻を「もらう」、「縫い物と洗濯をしてもらわないと」と男女の性別役割意識が根強い発言。江戸時代の庶民の考え方がわかります。

文政11年6月26日(1828年)曇
ぬい殿が伊勢屋に嫁ぐと聞いたので、与市を名代として駿河小半紙を十丈持って行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、色重(色川重兵衛)さんから、ぬいさんが伊勢屋左兵衛と結婚するということを聞いたので、お祝いを送っています。駿河半紙は、駿河国(静岡県)で漉かれた和紙で、その名は江戸時代末期から明治時代を通じて全国的に知られたそうです。

文政11年6月27日(1828年)曇
熊野屋の負債(20両)のことで、我々が間に入って交渉。元金5両と利息は免除してもらい、残金15両を3回払いとする。今年の7月、12月、来年の7月に各5両。
#色川三中 #家事志
(コメント)
負債の交渉。注目したいのは、支払い時期。今だと毎月払いが多いのではないかと思いますが、ここでは半期払いで、7月と12月。この月が支払いの月という感覚なのでしょう。


文政11年6月28日(1828年)
大塚氏が先日結婚したので、お祝いを持って挨拶に行った。隣主人が鰹の大魚(350文)一匹を持っていったというので、同じく鰹の大魚(364文だった)を持っていった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この月は結婚に関する記事が多く、今日はお祝いに鰹の大魚を持っていったという記事。6月26日の記事では、駿河小半紙がお祝いでしたし、三中の時代は物を贈ることで結婚の祝意を表していたのですね。


文政11年6月29日(1828年)晴
6月26日に与市を江戸崎(稲敷市)の和泉屋に遣わした。本日、与市は土浦に戻ってきた。交渉につき詳細な報告を受けた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸崎で何かトラブルがあるようですが、詳細は書かれておらず不明。トラブルがあっても三中が遠方に赴くことはほとんどなく、従業員をいかせます。与市は名主まで務めた人物なので、難しい交渉は与市に依頼しています。

文政11年6月30日(晦日)(1828年)
暴雨。今年は天候が定まらず、難しい年である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今も昔も天気は人の感心事です。作物の出来に直結するので、三中は特に関心をもっています。




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