南斗屋のブログ

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裁判所構成法を読む 第3章 地方裁判所

2023年10月30日 | 治罪法・裁判所構成法
裁判所構成法を読む 第3章 地方裁判所

公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)

第3章 地方裁判所
#裁判所構成法
第19条 地方裁判所ヲ第一審ノ合議裁判所トス。
2 各地方裁判所ニ一若ハ二以上ノ民事部及刑事部ヲ設ク。
(コメント)
現在の地方裁判所は一人制・合議制の両方があるが(裁判所法26条)、裁判所構成法では一人制は区裁判所、合議制は地方裁判所と区別されている。また、地裁には民事部と刑事部を置く。

#裁判所構成法
第20条 各地方裁判所ニ、地方裁判所長ヲ置ク。
2 地方裁判所長ハ、裁判所ノ一般ノ事務ヲ指揮シ、其ノ行政事務ヲ監督ス。
3 地方裁判所ノ各部ニ部長ヲ置ク。部長ハ部ノ事務ヲ監督シ其ノ分配ヲ定ム。
(コメント)
本条では地方裁判所所長及び部長につき規定する。現行法(裁判所法)では、司法行政事務を行うのは裁判官会議である。裁判官会議は裁判所全員の判事がこれを構成し、地方裁判所長はその議長であるに過ぎない。しかし、裁判所構成法では地裁所長が裁判所の一般事務を指揮し、行政事務を監督することとなっている。

#裁判所構成法
第21条 司法大臣ハ、毎年各地方裁判所ノ判事一人若ハ二人以上ニ、其ノ裁判所ノ裁判權ニ屬スル刑事ノ豫審ヲ爲スコトヲ命ス。
(コメント)
戦前までは刑事訴訟には予審制度がありました。本条は予審担当裁判官に関する規定。司法大臣が毎年一人以上の予審担当裁判官を任命しなければならないとしている。

#裁判所構成法
第22条 各地方裁判所ノ事務ハ、司法大臣ノ定メタル通則ニ從ヒ、各部及各豫審判事ニ之ヲ分配ス。
2 各地方裁判所ノ各部長及ビ部員ノ配置及ビ所長・部長・部員、差支アルトキノ代理モ亦毎年前以テ之ヲ定ム。
3 前二項ニ掲ケタル諸件ハ、裁判所長・部長及ビ部ノ上席判事一人ノ會議ニ於テ、裁判所長會長トナリ、多數ヲ以テ之ヲ決ス。可否同數ナルトキハ、會長ノ決スル所ニ依ル。
4 地方裁判所長ハ、次年自ラ部長トナルヘキ部ヲ指定スヘシ。
(コメント)
①地裁の事務は司法大臣が定めた通則に従って分配される、②部長や部員の配置も年度前に定める、③これらは裁判所長・部長及び部の上席判事の会議で決める等が規定されている。

#裁判所構成法
第23条 或ル部ニ於テ著手シタル事務ニシテ、司法年度ノ終リ若ハ休暇ノ始メニ臨ミ未タ終結ニ至ラサルモノハ、裁判所長便利ト認ムルトキ、同部員ヲシテ引續キ之ヲ結了セシムルコトヲ得。
2 豫審判事ノ取扱フ事務ニシテ、未タ終結ニ至ラサルモノモ亦前項ニ同シ。
(コメント)
事件の引継ぎに関する規定。裁判所構成法では、司法年度は1月〜12月(126条)。休暇は7月11日〜9月10日と規定されています(127条)。休暇中は原則として既に着手した民事訴訟を中止し、新しい訴訟には着手しないとされているので(128条)、これを補完する規定となっている。

#裁判所構成法
第24条 第二十二條ニ從ヒ、事務ノ分配及ビ判事ノ配置一タビ定マリタルトキハ、休暇中ヲ除キ、一部ノ事務多キニ過ギ、又ハ判事轉退シ、又ハ疾病其ノ他ノ事故ニ因リ、久シク闕勤スル者アル等、引續キ差支アルニ非ザレバ、司法年度中之ヲ變更セズ。
2 裁判所ノ事務、其ノ現在ノ部ニ過多ナル場合ニ於テ、司法大臣適宜ト認ムルトキハ、新タニ一部又ハ數部ヲ設クルコトヲ得。
(コメント)
事務の分配及び判事の配置は原則として司法年度中は変更しない(1項)。裁判の事務が過大な場合は新たに部を設置することができるが、その権限は司法大臣にある(2項)。

#裁判所構成法
第25条 地方裁判所ノ判事差支ノ爲、或ル事件ヲ取扱フコトヲ得ズ、且同裁判所ノ判事中其ノ代理ヲ爲シ得べキ者ナキ場合ニ於テ、其ノ事件緊急ナリト認ムルトキハ、裁判所長ハ其ノ管轄區域内ノ區裁判所判事、又ハ豫備判事ニ其ノ代理ヲ命ズルコトヲ得。
(コメント)
判事が差支えのときは、毎年前もって定めることとされているため(22条2項)、判事差支えで、かつ、代理をするものがいないということもありうる。その際には裁判所長が代理を命じることができる規定する。

#裁判所構成法
第26条 地方裁判所ハ、民事訴訟ニ於テ左ノ事項ニ付裁判權ヲ有ス。
第一 第一審トシテ
區裁判所ノ權限、又ハ第三十八條ニ定メタル控訴院ノ權限ニ屬スルモノヲ除キ其ノ他ノ請求
第二 第二審トシテ
(イ) 區裁判所ノ判決ニ對スル控訴
(ロ) 區裁判所ノ決定及命令ニ對スル法律ニ定メタル抗告
(コメント)
地裁の民事訴訟の事物管轄。区裁判所、控訴院の権限以外のものという規定の仕方になっています。

#裁判所構成法
第27条 地方裁判所ハ刑事訴訟ニ於テ左ノ事項ニ付裁判權ヲ有ス
第一 第一審トシテ
區裁判所ノ權限、竝ビニ大審院ノ特別權限ニ屬セザル刑事訴訟
第二 第二審トシテ
(イ) 區裁判所ノ判決ニ對スル控訴
(ロ) 區裁判所ノ決定及命令ニ對スル法律ニ定メタル抗告
(コメント)
地裁の刑事訴訟の事物管轄。民事訴訟と同様に区裁判所、控訴院の権限以外のものという規定の仕方になっています。

#裁判所構成法
第28条 地方裁判所ハ、破産事件ニ付キ一般ノ裁判權ヲ有ス。
(コメント)
破産事件は民事訴訟でもなく、刑事訴訟でもないため、前2条では破産事件の管轄が不明。本条により、破産事件が地裁の管轄であることを明らかにした。破産事件は、裁判所構成法施行と同年の1890年に旧商法が破産編として規定していた。

#裁判所構成法
第29条 地方裁判所ハ、非訟事件ニ關ル區裁判所ノ決定及ビ命令ニ對シ、法律ニ定メタル抗告ニ付キ裁判權ヲ有ス。
(コメント)
区裁判所は非訟事件を扱っており(15条)、その決定・命令には地裁が抗告権を有するという規定。

#裁判所構成法
第30条 地方裁判所ノ權限、竝ビニ其ノ裁判權ヲ行フノ範圍及ビ方法ニシテ、此ノ法律ニ定メザルモノハ、訴訟法又ハ特別法ノ定ムル所ニ依ル。
(コメント)
裁判所構成法以外にも、訴訟法や特別法の規定により地方裁判所が管轄を有するとする規定。地方裁判所の管轄はこの条をもって終わる。

#裁判所構成法
第31条 司法大臣ハ、地方裁判所ト其ノ管轄區域内ノ區裁判所ト遠隔ナルカ、若ハ交通不便ナルガ爲、至當ト認ムルトキハ、地方裁判所ニ屬スル民事及ビ刑事ノ事務ノ一部分ヲ取扱フ爲、一若ハ二以上ノ支部ノ設置ヲ命ズルコトヲ得。且支部ヲ開クべキ區裁判所ヲ定ム。
2 支部ニハ之ヲ設置シタル區裁判所、若ハ近隣ノ區裁判所ノ判事ヲ用ヰルコトヲ得。此ノ場合ニ於テ、判事ヲ選用スルノ權ハ司法大臣ニ屬ス。
3 司法大臣ハ支部ニ勤ムべキ豫審判事及檢事ヲ命ズ。
4 司法大臣ハ、支部ノ本部タル地方裁判所ノ管轄區域内ノ區裁判所判事ニ、豫審判事ヲ命ズルコトヲ得。
5 代理ニ關ル第二十五條ハ支部ニモ亦之ヲ適用ス。
(コメント)
地方裁判所の「支部」に関する規定。地方裁判所支部に関する規定はこの一条である。

#裁判所構成法
第32条 地方裁判所ニ於テ、訴訟法ニ依リ法廷ニ於テ審問裁判スべキ事件ハ、三人ノ判事ヲ以テ組立テタル部ニ於テ之ヲ審問裁判ス。其ノ三人ノ判事中一人ヲ裁判長トス。且豫備判事ハ如何ナル事情アルモ、二人以上其ノ部ニ列席スルコトヲ得ズ。其ノ他ノ事件ハ訴訟法又ハ特別法ノ定ムル所ニ從ヒ、判事之ヲ取扱フ。
(コメント)
地方裁判所は合議裁判所(19条1項)。本条により具体的内容が規定されている。①合議体は3人の判事で組立てる、②うち一人を裁判長とする、③予備判事を列席させる場合は一人に限る。これは訴訟法により法廷で審問裁判すべき事件に適用される。

#裁判所構成法
第33条 各地方裁判所ノ檢事局ニ、檢事正ヲ置ク。檢事正ハ檢事局ノ事務取扱ヲ分配・指揮及監督ス。但シ檢事局ノ其ノ他ノ檢事ハ、事務取扱ニ付キ何等ノ事件ニ拘ラズ、特別ノ許可ヲ受ケズシテ檢事正ヲ代理スルノ權ヲ有ス。
(コメント)
裁判所には検事局が附置されている(6条1項)。本条により、検事正を置くべきこと、検事正の職責が検事局の事務取扱の分配・指揮監督であることが明らかとなる。


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嘉永6年10月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年10月26日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年10月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年10月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記
借家暮らしで必要なものを各自買いに行く。 鉢を買う者、キセルを取り替えに行く者。日没後、大家がまた碁を打ちにきた。夜、大風が吹いたため眠れず。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今回江戸に出てきてからは公事宿に泊まらず、神田松枝町の借家で一同暮らしています。この借家の大家は相当な碁好きらしく、今日もまた碁を打ちに来ました。

嘉永6年10月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼過ぎに 力蔵様がおいでになられた。以前みんなが力蔵様に書誦の師匠を懇願したことについてのご相談であった 。高松様は、お台場に御出役で、 四勤一休とのこと 。夕方また大家が遊びに来て 、幸左衛門と碁を打っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
高松様は幕府の役人(御小人目付)。ペリー来航時には、東京湾の陣屋の見分の役目を行うなど、下級役人として活躍をしています(6月11日条)。今度はお台場に御出役とさらに活躍しているようです。


嘉永6年10月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、 大原 幽学先生から荒海村の先祖株のことでお話しがあった 。「自分の好きなものを好き勝手に買うのでは、誰も身上を持つことができない。決め事を守らず、 各自好き勝手なことをするのでは物事は永続しない。干潟の方では改革ができているのだから、これを手本として荒海村も改革をすべきである。」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
荒海村は現成田市荒海。日記の著者五郎兵衛が住む長沼村の隣村。「干潟」は大原幽学が本拠としていた長部村のことでしょう。 長部村の方が先に改革ができたのだから、荒海村でも改革ができると叱咤激励しています。

嘉永6年10月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨。朝食後、外川屋が火鉢の灰を買いに来た。幸左衛門と 源兵衛は碁に夢中で、馬喰町に碁石を買いに行った。 昼に大家が来て碁を打つ。大家は晩にも来て、また碁を打った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
灰買い。灰は藍染め、日本酒、土壌改善等に役立つため、江戸時代は灰を買うのが商売として成立していました。「外川屋」は公事宿。副業として灰買いもやっていたようです。外川屋に表向きはいることになっている裁判関係者の監視という側面もあるのかも。

嘉永6年10月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後一同髪結い。良祐殿と源兵衛殿は、邑楽屋で肴を買い、小石川の高松様にも持って行った。帰りには鉄瓶を持って帰ってきた。晩に邑楽屋が遊びに来て碁を打った。幸左衛門殿らが二階で大原幽学先生に叱られた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
邑楽屋は大原幽学が宿泊していた公事宿。奉行所には表向き邑楽屋に宿泊していることになっているのかも。そのため、邑楽屋としては遊びに来たという体で、松枝町の借家の様子を見に来ているという側面もあるのかもです。

嘉永6年10月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝から大原幽学先生に叱られた。
「無駄遣いして、永続の法を破ることばかりしている。皆が豊かになるために仕法を立てても、皆の腹が変わらないなら無駄なことだ。長部村のご老人のように、自分のものは人にあげ、人のものは 三文でも損をさせないという了見があれば、身上を持てる。予と同じ考えにならなければ、予亡き後は身上を持つことは難しかろう」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学先生は、昨日幸左衛門らを叱っていましたが、今日は五郎兵衛らが叱られました。幽学の言はよくわからないところもあるのですが、五郎兵衛が日記にその言葉を書き残しているのを見ると、五郎兵衛ら農家の心には沁み入るような言葉だったのでしょう。

嘉永6年10月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
正太郎殿が帰村される。その時大原幽学先生は、「これまで心得違いをしていたことをよく考えよ。皆で決めたことを自分も道友も守り通すことができるならば、仕法は必ずなる」とお話になられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「正太郎」は林正太郎。十日市場村の名主林伊兵衛の子。林伊兵衛は組与力給地四ヶ村の割元名主を勤めた村内最有力の地主。それもあってか、正太郎は金銭を塵芥のように使い捨て、他人が意見しても聞かない不良であったという。大原幽学に出会い改心。幽学在世中は若手門人の中心的存在であった。この時代、人々は個人主義に走り、自分勝手に生きてもよいという風潮があったようです。そんな考え方は心得違い(間違い)であり、仕法のためには皆で決めたことを守っていくことが必要というのが 大原 幽学の教えです。


嘉永6年10月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幸左衛門殿、平右衛門殿、良祐殿と昼前に雨障子を張った。幸左衛門殿は、その後 幽学先生と小石川の高松様のお宅へ行き、両国亀屋で足袋を買ってきた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所からの呼び出し もないため、平凡な日常が記録されています。障子を張ったり、足袋を買ったり。今では日常の風景としては失われてしまったものばかりですね。

嘉永6年10月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生から「身上を持つのは難しくない。隠居の祖父が借金をしていて名主を務めている者から物をもらっても、貰った気がしないから、その名主は人からそしられない。根性が汚くないからだ。そういう者は身上が持てる」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日の大原幽学先生のお話も、何を言ってるのか今一つ私にはよくわかりません。心を清くして生きていれば、身上がもてる=皆で豊かになれるということでしょうか。この時代でもそこまで単純だったとは思えませんが、五郎兵衛ら門弟の個人主義的な考えを変えようとの幽学の気魄は五郎兵衛には伝わったと思われます。

嘉永6年10月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記
一同髪結。蓮屋が来たので、今後の裁判の見通しについて話す。小生は源兵衛殿と二人で丁子屋でタバコを、山口屋で炭を買った。晩に 永之助殿夫婦が来た。幽学先生は 「世の中は変化する。良いものが富まず、悪しきものが富むこともある。一生楽しく暮らすも苦しく暮らすも、自分の了見一つ。夫婦が心をそろえれば家内を治めることは難しくない」とお話しになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
丁子屋でタバコ、山口屋で炭。どちらも何回か日記で言及されています。なんてことない日常の風景であり、日記の記事なのですが、なぜか心にささります。我々の日常もそのようなことの積み重ねだからでしょうか。

丁子屋でタバコ(2月2日条)

山口屋で炭(嘉永6年10月8日条)







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亥の子のおはぎをもらう 文政11年10月中旬・色川三中「家事志」

2023年10月23日 | 色川三中
文政11年10月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年10月11日(1828年)晴
以前、竹中七兵衛殿が裏に物置を建てたいと言ってきており、これを認めることとした。今日、建てはじめ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
竹中七兵衛は、ひものやとのトラブルで間に入ってもらい、三中の為に解決に尽力。その人からの頼みでは、聞くしかないですよね。



文政11年10月12日(1828年)
夜 大風雨。十月の大雨は珍しい。今年は雨ばかりで水が引く暇がない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この年はどうにも雨が多く、水害も起こっています。旧暦十月ですから、今の暦なら11月末か12月。確かに普通ならそんなに大雨は降らないはず。やはりこの年は異常気象?


文政11年10月13日(1828年)
本日、色川三中先生休筆。
#色川三中 #家事志

文政11年10月14日(1828年)晴
亥の子のおはぎを拵えて、木原様と塚本にも持っていかせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
亥の子のおはぎを木原様(土浦藩士)と塚本さんからいただいたので(10月9日条)、そのお返し。木原様は三中にいろいろと気を遣っており、最近ではお見舞いとして白玉しるこを三中に贈っていました(8月14日条)。



文政11年10月15日(1828年)
(編集より)本日の日記には、老中水野忠成の発した御触書を写したものが記載されていますので、その要点をご紹介します。
#色川三中 #家事志
【御触書】(九月)
老中水野出羽守様から。古金銀をまだ引換えていないものがあるようだが、引替所を廃止してしまえば不都合になるのだから、精をだして引替えよ。引替えていないことが後でわかったら、御代官領主地頭が穿鑿することになるぞ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水野出羽守は、老中水野 忠成(みずの ただあきら)のこと。老中在職期間は文化14年(1817年) - 天保5年(1834年)。「水の(水野)出て元の田沼になりにけり」といわれ、将軍家斉期に田沼政治の再来をもたらした。
財政再建策として、貨幣改悪鋳=出目獲得が取られる(文政貨幣改鋳)。今日の記事の御触書はこの改鋳に関わるもの。庶民は古金銀を保持し、改悪鋳したものに引替えない。これに苛立ち、脅すような御触書。三中がこれをわざわざ日記に写したのは、商人として古金銀を相当数保持していたからでしょう。

文政11年10月16日(1828年) 晴
与兵衛と佐助、鹿島への営業に出立す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛と佐助は10月2日に鹿島方面に営業に行っています。三中の事業(薬種商)は好調なようです。もっとも、日記にはいつ帰ってきたかが書いておらず、この二人がどれだけ土浦で休めたのかは不明。


文政11年10月17日(1828年)晴
ゆみが生まれたお祝いをいただいたところにこわめしを配るよう申し付ける。
今日ゆみ出初め。与兵衛妻に頼み、連れ歩いてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
子ども(ゆみ:本年8月27日生)関係の記事。出初め。子どもの初外出。お祝いをいただいたところに、赤飯を持って子ども連れで挨拶回りにいくんですね。

文政11年10月18日(1828年)
(編集より)本日の日記は、関東取締出役の御用書付の写しです。要点をツイートします。
#色川三中 #家事志
【関東取締出役下山逢吉・原戸一郎・堀口与四郎】
本年8月12日以降、武州、上州又は生国不明な20-30歳の者を見かけたら、取り逃さないようにせよ。髪を剃った道者風か、俗体での物貰いかどちらもありうる。
旅籠屋や木賃宿は当面入念に改めること。寺社も同様。なお、手荒なことはしないように。
(コメント)
関東取締出役は関東を管轄とする警察のようなもの。もっとも、人員が少なく現代のような警察活動とは大違い。
武州、上州の20代の者が8月中旬の事件に関与しているようですが、随分と大雑把な手配書です。8月中旬に事件があり、9月に手配書を書いて、土浦まで書付が回ってくるのにさらに一ヶ月。

文政11年10月19日(1828年)曇
・昨夕、色川庄右衛門殿が土浦に帰宅された。私が送った手紙は届いておらず、ご覧になっていないとのこと。
・昨日、高津台の畑で大根を収穫。廿四駄四束有り。太くできて良い出来。
#色川三中 #家事志
(コメント)
見事な大根を収穫できたようですね。
現在、土浦市には中高津、下高津の地名があり、「高津台」はこのあたりのことかと思われます。土浦は低地ですが、高津は台地で、畑作で大根を作っていたのでしょう。

文政11年10月20日(1828年)晴
・夷講 大景気
・今日、ゆみ笑い初め
#色川三中 #家事志
(コメント)
・夷(えびす)講は、えびすを祀る庶民信仰。10月20日と1月20日の年2回またはいずれかに年1回開催する地域が多いとされています。10月20日に開催された夷講の人手が多く、景気が良かったようです。
・ゆみちゃん(本年8月27日生)は、今日笑い初め。子への言及多し。この辺の親バカぶりは古今東西変わらぬものでしょう。


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大原幽学の門人 菅谷幸左衛門

2023年10月19日 | 大原幽学の刑事裁判
大原幽学の門人 菅谷幸左衛門

(はじめに)
大原幽学の刑事裁判を記した『五郎兵衛日記』には大原幽学の門人の名が多く記されています。しかし、同日記を読んでいるだけでは、門人のがどのような人なのかはわかりにくいです。木村礎編『大原幽学とその周辺』は、大原幽学の門人について解説していますので、同書をもとに門人を紹介していきます。
今回は「幸左衛門」こと、菅谷幸左衛門です。

(十日市場村、林家の婿となる)
菅谷幸左衛門は文政4年(1821年)の生まれ。大原幽学の刑事裁判か始まったのは嘉永5年(1852年)ですので、このとき幸左衛門31歳。幸左衛門は香取郡諸徳寺村の出身。諸徳寺は千葉県旭市清和甲にあたるものと思われます。同地域には諸徳寺城跡があります。
幸左衛門が大原幽学に入門したのは、天保8年(1837年)、幸左衛門17歳(数え)のときのことです。
翌天保9年(1838年)、幸左衛門は海上郡十日市場村の林家の婿となります。このとき、幸左衛門18歳(数え)。十日市場村の林家の当主は林伊兵衛。林伊兵衛は、組与力給地四ヶ村の割元名主を勤めた村内最有力の地主であり、農業以外にも醤油、漁業、呉服商、雑貨商を営み富裕な暮らしをしていました。
跡取り息子として、正太郎がいたものの、生活は乱れており、また伊兵衛自身病身であったため、家を継がせるために幸左衛門を婿に取ったのです(森伊兵衛の娘すわと結婚)。

(林家での苦労)
「林家では幸左衛門を素直に迎え入れることをしなかった。家の者は幸左衛門を軽蔑した。また幸左衛門が性学を学んでいるということで嘲弄した」(木村礎編『大原幽学とその周辺』)。
林家では幸左衛門は歓迎されなかったようです。正太郎という跡取り息子がいるのに、婿となったのですから、当主は別として、他の者には金目当ての結婚と受け取られたでしょう。将来の当主の地位を奪われたと正太郎は考えたでしょうから、正太郎に同情的なものは、幸左衛門を憎んだことでしょう。大原幽学の説く「性学」もこのころは受けが悪かったようで、幸左衛門にとってマイナスイメージとなっています。
普通の者ならばここで心が折れてしまってもやむを得ない状況です。しかも、幸左衛門はまだ二十歳にもなっていないのです。
しかし、幸左衛門は違いました。
後に「性質は柔和・沈着・実直・胆量のあるもの」といわれただけの人物らしく、「幸左衛門の誠意は伊兵衛及び正太郎を性学に赴かせ、改心させることに成功」しました。また、林家の乱れた家政も改革。さらに十日市場村への性学浸透の端緒にもなったのです。

(諸徳寺村に帰る)
天保12年(1841年)、諸徳寺村の父親が亡くなったため、幸左衛門は妻子を連れて諸徳寺村に戻りました。幸左衛門にはもともと伊兵衛の財産には興味がなかったのでしょう。
十日市場での数年間の苦労は、大原幽学の門人の中でもトップクラスの人材へと幸左衛門を磨きあげたようです。

菅谷幸左衛門は明治35(1902)年12月20日に死去。享年82歳でした。

付:諸徳寺村の変遷
江戸時代の諸徳寺村
⇒明治13年合併、清和村
⇒明治22年合併、庄内村
⇒明治23年中和村に改称
⇒昭和30年合併、干潟町
⇒平成17年合併、旭市(現在旭市清和甲)



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江戸に出府すれど相変わらず審理なし 嘉永6年10月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年10月16日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年10月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

8月7日〜10月2日まで #五郎兵衛の日記
はお休みです(五郎兵衛、帰村につき)。10月3日から再開。
#大原幽学刑事裁判 

嘉永6年10月3日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
日の出前に長沼村を出立。大森に正午ころ着き、江戸出府の為の手続き(添翰を願い出る)。昼過ぎ諸徳寺村の三人(又左衛門、良蔵、源兵衛)と合流し、昼食。白井に夕方着、藤屋に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は長沼村(現成田市長沼)の農民で、大原幽学の門弟。大原幽学は門弟らと共に江戸で刑事裁判となっており、五郎兵衛も当事者として江戸に行かなければなりません。五郎兵衛は前年の12月から江戸に呼出されていますが、裁判は遅々として進みません。
奉行所は、大原幽学や五郎兵衛らに10月5日までの帰村を認めていました(8月2日条)。長沼村から江戸までは一泊二日の行程。余裕を見てか、本日3日に同村を出立しています。
今回の宿は白井(現白井市)の藤屋。白井宿は木下(きおろし)街道の宿場町ですが、旅籠は2軒のみ。安政期~文政期頃とされている史料には白井宿に2軒の旅籠があり、名前は藤屋と森田屋と記載されているそうです。この藤屋には渡辺崋山も宿泊しています(白井市郷土史の会のブログ)。


嘉永6年10月4日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
日の出ころ白井宿を出立。鎌ケ谷宿までは駄賃を払ってそれぞれ馬一匹頼む。昼前に行徳着。昼食。行徳からは船で小網町まで。神田松枝町の借家に寄った後、晩は邑楽屋で幽学先生、良祐殿と泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
白井宿を出て江戸に着きました。木下(きおろし)街道で行徳(市川市行徳)まで行き、行徳からは船。五郎兵衛にとっては定番のコースです。
江戸小網町(現中央区日本橋小網町)には江戸時代、行徳河岸があり、ここから行徳行きの船が出ます。

嘉永6年10月5日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
松枝町の借家の2階に幽学先生の持物を運ぶ。今後はここが拠点。諸徳寺村から村役人の武左衛門が幽学先生に相談に来たので、先生は村役人となる心得について説いていた。
小生は本日三河町の万徳で泊。越後の客と同宿。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学が諸徳寺村の武左衛門に説いていた内容
「村役人を勤めるには自分の考えでやってはならないぞ。村中の者に知恵を借りて、事に当たるのが第一。お上のところでも、『私は不器量なものですから、村方へ相談の上でお話し致します』と日延べを願う方がお上への通りもよいものだ」
なかなか含蓄のある大原幽学先生の教え。村役人は村と領主の間に立って調整をしていかなければならないので、自分の考えを押し出さず、村中の者に知恵を借りなければ村はまとまらないでしょう。お上(領主)にも不器量という体にして日延べを願うくらいがよいとのアドバイス。
ところで、大原幽学らはこれまで湊川の借家を借りていましたが、神田松枝町の借家に変えました。今後は、松枝町で大原幽学先生と道友一同が起居するようになります。経費節減の為です。

嘉永6年10月6日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
三河町の万徳で書面を作成し、御奉行所腰掛へ一人で行った。公事宿の蓮屋の手代がいたので、着届けの手続きをお願いした。奉行所「おって沙汰があるまで公事宿で控えておれ」との仰せ。
その後、淀藩上屋敷に行き、御添翰をお渡しした。松枝町の借家に寄った後、日暮れに万徳に帰り、同所泊。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛も江戸での訴訟に慣れてきて、書面を作成し、御奉行所腰掛(裁判所待合室)に一人で行っています。その後、長沼村の領主である淀藩の上屋敷へ。江戸出府の手続きとして、大森の淀藩の役所で発行してもらった御添翰(出府許可証)を提出しています。

嘉永6年10月7日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
今日から道友一同、松枝町の借家で寝泊まりすることとなった。ここ数日宿泊した万徳の勘定を済まし、暇乞い。松枝町へ行く。無駄遣いしないため、所持金は一旦幽学先生に預け、一両八百文を貰って各自の出費を帳面を付け、晦日に決算することを決めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学らはこれまで湊川の借家を借りていましたが、神田松枝町の借家に変え、ここで大原幽学先生、門弟一同が起居するようにしました。今日から五郎兵衛も合流。経費節減の為に金銭の管理ルールを決めています。

嘉永6年10月8日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が松枝町の借家に膳棚を拵えた。小生は泉橋川岸の山口屋に炭を、新橋川岸に薪を買いに行った。外川屋が来て、源兵衛と将棋を指した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
松枝町の借家の生活を整える為に、五郎兵衛は炭や薪を購入しに、行っています。
「良祐殿」は長部町の名主遠藤家の孫。このとき10代後半のはずですが、率先して膳棚を作っています。
「良祐殿」は遠藤良左衛門の子になりますが、五郎兵衛は親には「良左衛門君
」となぜか君付け。良左衛門の弱腰の性格もあってのことでしょうか。
良左衛門弱腰で大原幽学に叱責さる


嘉永6年10月9日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
所用で三河町の万徳に行ったら、連絡先を教えてほしいというので、「松枝町家主彦十郎店組弁慶橋通り横町の三軒目」と書いて渡した。
借家に夜家主が来て、夜半まで良祐殿、善兵衛殿、幸左衛門殿と碁を打っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
松枝町の借家の位置が記録されている記事。家主は彦十郎。その家主が夜中に碁を打ちに来ています。夜中まで碁を打っており、この家主余程の碁好きなのか。それにしても、裁判にかけられた訳ありの大原幽学一門に家を貸すとは、この家主、なかなか太っ腹です。

嘉永6年10月10日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
一同で髪結い。浅草に散歩に行った者がいて、菊見物をしてきたとのこと。幸左衛門は馬喰町に碁盤を買いに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幸左衛門は、昨日家主が来て、碁を打った相手の一人。昨日打ったので碁盤を買いたくなったのでしょうか。経費節約しなければならないのに、碁盤を買う余裕があるのか?とツッコミたくなります。
幸左衛門の性格=強情










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十月亥の日。亥の子のおはぎ 文政11年10月上旬・色川三中「家事志」

2023年10月12日 | 色川三中
文政11年10月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年10月1日(朔)(1828年)雨
今年の吉事三つ。
①中高津に新田を開き、収穫が増えた
②商売が思いのほか繁盛
③8月27日に子が生まれた(女の子で名前は有美)
一方、いろいろと支払いもある(詳細は訳さず)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
商売がうまくいっており、子どもも生まれたので、三中も機嫌が良く、「今年の吉事」を記載しています。一番に新田開発、収穫増をあげており、やはり年貢が最も気になるのでしょう。吉事を書きながら、支払いのことも気になり、あれこれと日記には書いております。

文政11年10月2日(1828年)
・霧が降り、天気朦朧。
・与兵衛と佐助が鹿島への営業に出立す。
・夜、上方の宗伯様を名乗る高額の漢方薬の注文があったが、使いの者がどうも怪しい。確かめたら、文書は偽造であり、危うく詐欺にあうところであった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員を鹿島(現鹿嶋市)に営業に行かせており、商売は順調。そういうのを狙うけしからん輩も現れています。危うく高額な漢方薬を詐取されるところでしたが、慎重な三中は文書偽造に気がついて危機を回避しています。

文政11年10月3日(1828年)
本日、色川三中先生休筆につき、三中の日記 (家事志 )は1お休みです。
#色川三中 #家事志

文政11年10月4日(1828年)晴
新宅のお七さまの十七回忌。
白餅一重いただく。
200文分の小椎茸をお贈りした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
十七回忌。遺族が白餅を作って配り、それに対して返礼をしています。こういうことができるのは、近くに住んでいるからですね。血縁関係と地域のコミュニティが密接であった時代ならではです。

文政11年10月5日(1828年)
色川三中先生休筆につき、三中の日記 (家事志 )は10月8日までお休みです。
#色川三中 #家事志

文政11年10月6日(1828年)
色川三中先生休筆につき、三中の日記 (家事志 )は10月8日までお休みです。
#色川三中 #家事志

文政11年10月7日(1828年)
色川三中先生休筆につき、三中の日記 (家事志 )は10月8日までお休みです。
#色川三中 #家事志

文政11年10月8日(1828年)
色川三中先生休筆につき、三中の日記 (家事志 )は本日お休みです。明日から再開します。
#色川三中 #家事志

文政11年10月9日(1828年)晴
・亥の日。亥の子のおはぎを木原様と塚本からいただく。
・与兵衛と佐助が鹿島への営業に出立す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「亥の日」は旧暦10月の最初の亥の日のこと。この日に亥の子餅を食べる風習がありますが、200年前の土浦では餅ではなく、おはぎ。色川家では作らなかったようですが、木原様(土浦藩士)からいただいています。



文政11年10月10日(1828年)
竹中七兵衛殿が挨拶に来られた。
先日、ひものやの件の解決に骨を折ってもらったゆえ、300文でブリ一本を贈っておいたので、そのお礼の挨拶。
#色川三中 #家事志
(コメント)
間に入ってトラブルを解決してくれた竹中殿へのお礼の品が興味深い。現代では金銭でのお礼が一般的ですが、江戸時代は殆どが物。三中は魚を贈るのが、こういうときの礼儀と心得ているようです。わざわざ「300文で」と書いているのは、今後の参考とするためでしょう。

ひものやの件の解決(9月13日条)


名主へのお礼
大鯛一枚(400文)(文政10年4月10日条)




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明治の裁判官 布施文四郎 又は文亮

2023年10月09日 | 歴史を振り返る
明治の裁判官 布施文四郎(文亮)

千葉県出身の明治の裁判官布施文四郎について。複数の文献に同人の経歴が記載されていました。検討する暇がないため、とりあえずそのまま掲載し、検討は後日したいと思います。

千葉県香取郡役所『千葉県香取郡誌』(大正10年)
布施文四郎
「飯高村飯高区の人。父を八左衛門という。幼にして高野隆に学び、東京に至り、明治17年司法省学校に入り、明治19年2月卒。同月長野始審裁判所判事。松本、静岡の区裁判所裁判所判事を経て、東京控訴院判事。従五位勲六等に叙す。明治37年2月、病により職を退き、郷里に静養す。明治38年9月4日、銚子別荘に没す(45歳)。人の為り方正にして、志行頗る高し。少時教鞭取りしをもって、郷里の子弟、教を受けるもの多く、有用の士を出せり。」

東大のホームページには以下のような記載がありました。
「布施文四郎(文亮)は天保元年の生まれ。文四郎は、江戸に出て、神田お玉ケ池にあった千葉道場に赴き、 幕末の剣客として有名な北辰一刀流の祖千葉周作の門に入り、 「北辰一刀流兵法箇条目録」一巻の伝授を受けた剣の達人であった。 千葉道場で目録を貰ってから、嘉永七年正月二十六日、華岡青州の塾に入門した。 一八六四年に、八日市場村近郊の貝塚において、水戸藩尊攘派天狗党と書生党との激しい白兵戦が行われたとき、 文四郎は臆せず戦場内に進入し、負傷者の治療を行い、数十人を救ったという。」
布施文四郎の子孫に眼科医布施郁三が出て、東大文学部に寄付。布文館が設置された。


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裁判所構成法を読む 第1編 裁判所及檢事局  第2章 区裁判所

2023年10月07日 | 治罪法・裁判所構成法
公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)

今回は第2章 區裁判所の条文を読んで行きます。裁判所構成法11条〜18条です。

第2章 區裁判所
第11条 區裁判所ノ裁判權ハ、單獨判事之ヲ行フ。
2 判事二人以上ヲ置キタル區裁判所ニ於テハ、司法大臣ノ定メタル通則ニ從ヒ、其ノ裁判事務ヲ各判事ニ分配ス。
3 此ノ事務分配ハ、毎年地方裁判所長前以テ之ヲ定ム。
4 區裁判所判事ノ取扱ヒタル事ハ、裁判事務分配上其ノ事他ノ判事ニ屬シタリトノ事實ノミニ因リ、其ノ効力ヲ失フコトナシ。
5 判事二人以上ヲ置キタル區裁判所ニ於テハ、司法大臣ハ其ノ一人ヲ監督判事トシ、之ニ其ノ行政事務ヲ委任ス。
(コメント)
11条から18条まで区裁判所に関する規定。11条では区裁判所の判事は単独で裁判を行うことを規定。地裁、控訴院、大審院では合議裁判所とされており、単独判事は区裁判所の最大の特徴。
監督判事(11条5項):判事が二人以上置かれている区裁判所では、司法大臣から一名監督判事として任命を受け、司法行政事務はその判事が行うこととされている。

第12条 事務分配一タヒ定マリタルトキハ、司法年度中之ヲ變更セス。但シ、一人ノ判事ノ分擔多キニ過キ、又ハ判事轉退シ、又ハ疾病其ノ他ノ事故ニ因リ久ク闕勤スル者アル等引續キ差支ヲ生シタル場合ハ、此ノ限ニ在ラス。
(コメント)
前条(11条)で、判事二人以上いる区裁判所では司法大臣が定めたとおりに裁判事務を各判事に分配すること、事務分配は毎年地方裁判所長が前もって定めることを規定。これを受けて、本条では事務分配は原則司法年度中は変更しないとしている。

第13条 區裁判所ノ判事差支アルトキハ、毎年地方裁判所長ノ前以テ定メタル順序ニ從ヒ、互ニ相代理ス。但シ、監督判事ノ職務ハ、其ノ裁判所ノ判事官等ノ順序ニ從ヒ、之ヲ代理ス。
2 一ノ區裁判所ニ於テ、法律上ノ理由若ハ特別ノ事情ニ因リ事務ヲ取扱フコトヲ得サルトキ、之ニ代ルヘキ他ノ區裁判所ハ、前項ニ同ク毎年前以テ之ヲ定ム。
(コメント)
1項:区裁判所判事が差支えあるときは相互に代理する(地裁所長が前もって規定した順序に従う)。監督判事の職務はこれとは別に判事官等の順序に従って代理する。
2項:ある区裁判所が法律上の理由等で事務取扱いをできないときの規定を前もって地裁所長がすべきこと。

第14条 區裁判所ハ、民事訴訟ニ於テ左ノ事項ニ付裁判權ヲ有ス。但シ反訴ニ關リテハ、民事訴訟法ノ定ムル所ニ依ル。
第一 百圓ヲ超過セサル金額又ハ價額百圓ヲ超過セサル物ニ關ル請求
第二 價額ニ拘ラス左ノ訴訟
(イ) 住家其ノ他ノ建物、又ハ其ノ或ル部分ノ受取・明渡・使用・占據若ハ修繕ニ關リ、又ハ賃借人ノ家具若ハ所持品ヲ賃貸人ノ差押ヘタルコトニ關リ、賃貸人ト賃借人トノ間ニ起リタル訴訟
(ロ) 不動産ノ經界ノミニ關ル訴訟
(ハ) 占有ノミニ關ル訴訟
(ニ) 雇主ト雇人トノ間ニ雇期限一年以下ノ契約ニ關リ起リタル訴訟
(ホ) 左ニ掲ケタル事項ニ付旅人ト旅店若ハ飮食店ノ主人トノ間ニ又ハ旅人ト水陸運送人トノ間ニ起リタル訴訟
(一) 賄料又ハ宿料又ハ旅人ノ運送料又ハ之ニ伴フ手荷物ノ運送料
(二) 旅店若ハ飮食店ノ主人又ハ運送人ニ旅人ヨリ保護ノ爲預ケタル手荷物金錢又ハ有價物
(コメント)
区裁判所の事物管轄に関する規定(民事訴訟)。百円が基準となっていて、それ以下の請求を扱う。また、金額の多寡に関わらず、扱える訴訟があり、これが結構いろいろとある。簡易裁判所は、140万円以下の請求が事物管轄となっており、簡裁よりも区裁判所の方が扱える案件が広い。区裁判所を簡裁と同一視してしまってはいけない。

第15条 區裁判所ハ、非訟事件ニ付、法律ニ定メタル範圍及方法ニ從ヒ、左ノ事務ヲ取扱フノ權ヲ有ス。
第一 未成年者、瘋癲者、白癡者、失踪者其ノ他法律若ハ判決ニ因リ治産ノ禁ヲ受ケタル者ノ後見人若ハ管財人ヲ監督スル事
第二 不動産及船舶ニ關ル權利関係ヲ登記スル事
第三 商業登記及特許局ニ登録シタル特許意匠及商標ノ登記ヲ爲ス事
(コメント)
区裁判所の事物管轄に関する規定(非訟事件)。区裁判所では非訟事件も取り扱っている(現在の簡裁では取扱わない)。登記登録関係(第二及び第三)は現在では法務局等が所轄しており、裁判所の所轄ですらない。登記関係があったので、裁判所構成法時代の裁判所は、現在の裁判所よりも身近だったかもしれない。

第16条 區裁判所ハ刑事ニ於テ、左ノ事項ニ付裁判權ヲ有ス。
第一 違警罪
第二 本刑五十圓以下ノ罰金ヲ附加シ若ハ附加セサル二月以下ノ禁錮、又ハ單ニ百圓以下ノ罰金ニ該ル輕罪
第三 刑法第二編第一章ヲ除キ、其ノ他ノ輕罪ニシテ、本刑二百圓以下ノ罰金ヲ附加シ若ハ附加セサル二年以下ノ禁錮又ハ單ニ三百圓以下ノ罰金ニ該リ、其情第二ニ掲ケタル刑ヨリ更ニ重キ刑ニ處スルコトヲ要セスト認メ、地方裁判所若ハ其ノ支部ノ檢事局ヨリ區裁判所ニ移付シタルモノ。
2 前項ノ手續ニ因リ、訴追ヲ爲シ犯罪ノ證明アリタル場合ニ於テ、判決ヲ爲ス前何時ニテモ其ノ情第二ニ掲ケタル刑ニテハ相當ニ罰スルコトヲ得スト認ムルトキハ、區裁判所ハ之ヲ裁判スル權限ヲ有セストノ言渡ヲ爲ス。此場合ニ於テハ、檢事ハ被告人ヲシテ、相當ノ裁判所ニ於テ裁判ヲ受ケシムル爲適當ノ手續ヲ爲ス。
(コメント)
区裁判所の事物管轄に関する規定(刑事訴訟)。違警罪及び軽罪を管轄とする。違警罪とは旧刑法第9条に定められた拘留または科料をもって主刑となす罪をいう。違警罪については、違警罪即決例で警察署長が即決できた。

第17条 前數条ニ掲ケタルモノヲ除ク外、區裁判所ノ權限ハ、此ノ章ニ掲ケタル事件ニ關リ、訴訟法又ハ特別法ノ定ムル所ニ依ル。
(コメント)
区裁判所の管轄は14〜16条に規定されるもののほか、訴訟法・特別法が定めるところによるとする規定。

第18条 各區裁判所ノ檢事局ニ、檢事ヲ置ク。
2 區裁判所檢事局ノ檢事ノ事務ハ、其ノ地ノ警察官・憲兵・將校・下士又ハ林務官、之ヲ取扱フコトヲ得。
3 司法大臣ハ適當ナル場合ニ於テハ、區裁判所判事試補又ハ郡市町村ノ長ヲシテ、檢事ヲ代理セシムルコトヲ得。
(コメント)
区裁判所には検事局が設置され、検事を置く。区裁判所検事局の検事の事務は警察官・憲兵等が取り扱うことができ、司法大臣の命により、区裁判所判事試補や市町村長に検事の代理をさせることができる。


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五郎兵衛日記に出てくる「坂佐井」は逆井宿場(現江戸川区)だった

2023年10月05日 | 大原幽学の刑事裁判
五郎兵衛日記
五郎兵衛は大原幽学の弟子。大原幽学が江戸で刑事裁判にかけられましたが、その際の記録を日記として残しています。詳しくはこちら

五郎兵衛日記を抄訳して、簡単なコメントをつけているのですが、やはりときどき分からないものがあります。嘉永6年1月29日の日記に出てくる「坂佐井」も分からないものの一つでした。

嘉永6年1月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝、組頭の五兵衛殿が大森の役所に行き、江戸へ行く手続きを済ませた。村から出るときは大森の役所で手続きしなければならないのだ。五ツ半時に大森宿を出立。鎌ヶ谷宿の鹿嶋屋で昼食。坂佐井で暮六ツとなって、大雨も降ってきたので同所泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大森宿(現印西市大森)で江戸へ行く手続き。大森には長沼村の領主である稲葉氏(山城国淀藩)の役所(陣屋)があり、村を出るときは届けを出します。
鎌ケ谷(現鎌ケ谷市鎌ケ谷)で昼食を取りました。坂佐井で泊と書いてあるのですが、坂佐井が今のどこなのか同定できません。五郎兵衛たちが通っている木下街道の宿場の名前では坂佐井という宿はないのです。

「坂佐井」についてはこのときよく分からず、同定できませんでした。
その後の調べで五郎兵衛のいう「坂佐井」(さかさい)がどこを指すのかが分かりました。
【結論】逆井の渡し跡にあった逆井宿場(現在の江戸川区小松川2丁目)
①「坂佐井」(さかさい)は当て字で、「逆井」が(少なくとも現在の)正式な表記。
②五郎兵衛が泊まったのは、逆井の宿場です。これは逆井の渡しの千葉よりのところにありました。歌川広重による浮世絵が残っています
名所江戸百景第58景「逆井のわたし」

逆井のわたし

逆井の渡しは、本所にあり、江戸と下総の国境を渡しているところからその名が付けられたと言われています。のどかな田園風景にゆっくりと流れる中川を描いています。二艘の...

- stylefesta


③逆井の渡しがあるのは、現在の江戸川区小松川2丁目。「逆井」は地名としては失われています。

逆井の渡し跡

江戸川区


④逆井宿場は元佐倉道沿いにありました。逆井道とも呼ばれ、佐倉道よりもショートカットで日本橋に行くことができるため、江戸と房総を結ぶ主要な道の一つとして機能していました。なお、現在でも、逆井の渡し跡から北小岩3丁目の小岩市川の渡しに至る一直線の道が残っています(現在の千葉街道)。

元佐倉道跡

江戸川区



五郎兵衛日記の記載からも見てみましょう。
逆井に来るときの記事(嘉永5年1月29日条)。
「鎌ケ谷宿で昼食⇒坂佐井で暮六ツ(午後6時)となり、同所泊。」
鎌ケ谷〜逆井の渡し跡は約19 km。時速4キロとして、約5時間かかりますから、矛盾はありません。

鎌ヶ谷大仏 to 逆井の渡し跡

鎌ヶ谷大仏 to 逆井の渡し跡



逆井から出立するときの記事(同月晦日条)。
「五ツ半(午前7時)に坂佐井を出立し、九ツ時(正午)には江戸の本銀町蓮屋に到着」
逆井の渡し跡〜本銀町までは約7.3 km。この距離なら4時間はかからないのが一般的ですが、江戸に入ってくる道ですので、ぶらぶらしながら本銀町までやってきたのかもしれません。こちらも矛盾はありません。

逆井の渡し跡 to 本銀通り

逆井の渡し跡 to 本銀通り



(まとめ)
五郎兵衛は木下街道を利用していたので、木下街道沿いばかりを見ていましたが、実際に利用したのは佐倉道でした。逆井という地名は、現代の住居表示上存在せず、また現代の逆井の渡し跡も往時の姿を留めていません。広重の名所江戸百景「逆井のわたし」がビジュアルとしては最上です。

追記:逆井道と佐倉道
逆井道は千葉方面から、市川の関所⇒小岩⇒東小松川⇒逆井の渡し⇒日本橋というルートをとる道。
一方、佐倉道は市川の関所⇒小岩⇒新宿(現葛飾区新宿)⇒千住⇒日本橋というルート。佐倉道の方が小岩から新宿へと迂回をしており、道のりが長いです。しかし、この佐倉道の方で脇往還として正式な江戸往復の道でした。即ち、佐倉城主が参勤交代で江戸から往復するには佐倉道が原則であり、逆井道を使うには幕府に伺いを出し、許可を得る必要がありました。
参考:佐倉市史第2巻








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長女が生まれた後のお祝い続く 文政11年9月下旬・色川三中「家事志」

2023年10月02日 | 色川三中
#コメント済 #色川三中
文政11年9月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年9月21日(1828年)雨
夕方、妻の母が土浦に来る(栄吉殿同道)。「中村屋さんに本来なら寄らなければならないところですが、今回は略しました」とのことなので、当方から利助・与兵衛両人に中村屋へ挨拶に行かせた。が、主人は留守。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中の義母、土浦来。里帰り出産ではなく嫁ぎ先での出産ですから、孫に会うには娘の婚家に赴くことになります。中村屋さんは双方共通の知り合い(又は親戚)なのでしょう。三中側が気を遣って挨拶に行かせてますが、主人が留守で空振り。
中村屋


文政11年9月22日(1828年)
船で川口の中惣(中村惣左衛門)宅に行く。大町の清八の婿や彦兵衛も来た。中惣宅に泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中惣とは、中村惣左衛門のこと。中惣さんのところに昨年お子さんがうまれたときは、初生衣を仕立てて贈っているので、近しい関係なのでしょう(文政10年5月9日条)。気心の知れた仲間も集い楽しい会になったようです。


文政11年9月23日(1828年)
昨夜は中惣宅に泊まった。昼前に家に戻る。妻の実家からは小袖二重、宅三郎殿からは金百疋、栄吉殿からも金百疋をいただく。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨晩は中惣さんのお宅に泊まった三中でしたが、妻の母が会いに来たので、気を遣ったのかな。


文政11年9月24日(1828年)晴
中城(現土浦市中央)分の年貢が210俵に決まった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は本百姓ですので、年貢を収める義務があります。何俵年貢として出すのかは、重要な関心事。今の我々が税金にどのくらい取られるのかと同じ感覚でしょうか。

文政11年9月25日(1828年)
小白の惣兵衛殿が土浦に来た。初産衣料として桟留一端をいただく。
#色川三中 #家事志
(コメント)
小白村の惣兵衛さんは、三中の奥さんが谷田部の実家に戻るときに、付添いをしてくれた人(文政11年4月9日条)。小白村は谷田部村の近く。現在のつくば市小白硲(こじらはざま)か。谷田部に近いことから、奥様の実家と懇意の方のようです。



土浦城 大手門跡 to つくば市立谷田部小学校

土浦城 大手門跡 to つくば市立谷田部小学校




文政11年9月26日(1828年)
(編集より)本日、日記の記載はありません。
#色川三中 #家事志

文政11年9月27日(1828年)
(編集より)本日、日記の記載はありません。明日には再開。
#色川三中 #家事志

文政11年9月28日(1828年)晴
叔父の利兵衛殿とともに、板橋不動尊へ参詣。
#色川三中 #家事志
(コメント)
板橋不動尊は、三中が深く帰依している寺です。現在のつくばみらい市板橋2370番地。大同年間(806~809年)の創建とされ、本尊不動明王は国の重要文化財。「板橋不動尊」「板橋のお不動さん」として古くから関東一円に親しまれ信仰されていたといいます。
28日は不動明王の縁日。三中は半年前も28日の縁日に板橋不動尊を訪れています。楽しみなんでしょうね。


茨城県の板橋村 - 南斗屋のブログ

(はじめに)土浦の薬種商色川三中の日記を読んでいます。日記中に「板橋」という地名が時々でてくるので(末尾参照)、茨城県にも板橋があるのか&...

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文政11年9月29日(1828年)
江戸に滞留中の色川庄右衛門殿宛に手紙を書く。明日、土浦から江戸に行く者がいるというので、その者に持っていってもらうこととした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川庄右衛門は、百姓代を務めている村役人(文政11年6月1日条参照)。村役人が江戸に滞留中ということは、村の誰かが訴訟をしており、その差添人として江戸に出張っているのかもしれません(その辺の事情は日記には記載なし)。
今の郵便は、江戸時代の飛脚と思い込みがちですが、今日の日記の記事にあるように知人に持っていってもらうことも多かったのでしょう。この方が費用もかかりません。




文政11年9月は小の月のため9月30日はありません。
#色川三中 #家事志 はお休みです。



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