五郎兵衛、体調を崩す 嘉永7年6月下旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年6月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝早く、伊兵衛父が私のために鏡を取り寄せてくれた。「幽学先生はじめ一同心配しているから、医者に見せて治療したが良いぞ」と言われた。幽学先生にもご相談。高橋医師のところへ脚気の薬を買いに行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛も体調を崩しており、脚気ではないかも心配されています。伊兵衛父のアドバイスで、五郎兵衛も脚気治療で評判の高橋医師に薬を買いに行っています。
〈その他の記事〉
・幽学先生は早めに昼飯を食べてから出かけられ、夕方にお戻りになった。
・暮方には長左衛門殿が来て、晩には家主様が来て夜遅くまで碁を打たれた。
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嘉永7年6月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生から次のお言葉あり。
「予が何かいうと、皆不機嫌になってしまう。予がこの借家を出た方が皆のためかもしれぬな。もうすぐ良左衛門が江戸に来るので、そのときに決めることとする」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生、かなり弱気になっております。五郎兵衛が脚気となったことが、こたえたのでしょうか。「予が他所に行った方が皆のためかもしれぬな」と借家から別の場所に移りたいとの発言も飛び出しており、精神的にかなり追い詰められた感じとなっています。
〈詳訳〉
朝飯後、幽学先生からお話しがあった。「予が何かいうと、皆不機嫌になってしまう。何か反抗めいたことをいわれているようで誠に困る。」「五郎兵衛の脚気は養生・治療したが良い。帰村して治療しても良い。ここで暮らすとなると、病気なのに予のせいで国元へ帰さないといわれそうである。これも予の不徳のせいであるから仕方ない。予が他所に行った方が皆のためかもしれぬな。よく皆で相談しなさい。」
先生は、良左衛門殿が江戸に来るまでは我慢して待っているとも仰った。
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嘉永7年6月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は非常に困った様子。
「親父様(伊兵衛)は予の助けというが、自分勝手に網のことをやっており誠に困る。どこへいってもその人その人の好むところを勤めて、その人の心持ちを良くするのが人の情だ、それがなければ礼とはいえぬ」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は今日も弱気な発言。伊兵衛父(名主まで務めた人物)の言動まで何やら気に食わず、愚痴をこぼしています。長期間裁判を待たざるを得ないプレッシャーからでしょうか。
〈その他の記事〉
・石川様(旗本)の新部屋から白米を持ってきた。
・幸左衛門殿は昨日藪様の御門番から小頭となった。惣右衛門殿が早朝借家に来られ、贈物としては何が良いだろうかと相談をして、昼前に職場に戻られた。
・昼から平太郎殿が来られ、夕方帰られた。
・武左衛門殿が来られ、内済書附を持参して先生に御目に懸けられ、夕方帰られた。
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嘉永7年6月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝に高橋医師で脚気の薬を買いに行った。
・幽学先生は「節五郎の病気がぶり返さないようにしないとな。まずは食事に気を付けることだ。養生が悪いようでは仕方がないから、よく気を付けよ、節五郎にもよくよく言っておくように」と仰られた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛も節五郎も脚気にかかっており、なかなか良くなりません。この時代、脚気になる原因(ビタミンB不足)が分かっていないのですから、治療も功を奏しないでしょう。江戸で白米を食べること自体が原因なので、帰村して玄米を食べる生活になれば改善するのですが…。
〈その他の記事〉
・先生は朝早くクボ町へ行き、脇差1本を買って、昼ころお戻りになられた。
・昼から長左衛門殿が来られて浅草へ行かれた。
・井上先生が来られ、神道仏道の講釈をして、夕方帰られた。
・晩に長左衛門殿が来られて、夜遅く帰られた。
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嘉永7年6月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝、喜兵衛殿が暇乞いのために借家に来た。が、碁を打ちだすとに熱中し、今日は借家に止まると言いだした。昼からは堀之内へ参詣に行き、夕方に帰ってくるとまた碁打ち。晩には家主も来て、一緒に碁。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・喜兵衛殿は荒海村の人。裁判の当事者ではなく、村役人として差添(付添)で江戸に来ているのでしょう。暇乞いに来たのですから、今日江戸を出立する予定だったはずですが、碁を打っているうちに気が変わり、江戸を立つのは明日に延期してしまいました。
・喜兵衛が参詣にいった「堀之内」は、「堀之内のお祖師様」として知られる妙法寺(現杉並区堀ノ内)。思いついて参詣に行ったようですが、借家のある神田松枝町からは10キロ以上あります。
〈その他の記事〉
・幽学先生は昼から買い物にお出かけになり
、大小を買って、昼過ぎにお戻りになられた。
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嘉永7年6月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・良祐殿は小石川の高松家に土用見舞に行き、昼過ぎに戻られた。
・伊兵衛父は新橋向の医学館に土産物をもっていった行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
良佑殿や伊兵衛父は世話になったところに挨拶に行っています。「土用見舞」(≒暑中見舞)と記されています。この時期がちょうどシーズンなのでしょう。
〈その他の記事〉
・昼前に幽学先生は藤元屋にお出かけになられた。一度お戻りののち、昼からはまた外出され、夕方お戻りになった。
・宝田村の忠兵衛殿が文平からの手紙を持参された。
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嘉永7年6月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿に会いに、旗本の石川様の御屋敷までいく。田安家の御役所への暑中見舞につき節五郎殿と打合せ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
田安家は、荒海村(現成田市荒海)を領有しており、今回裁判の為に江戸長期滞在を強いられている村民に同情的です(嘉永6年12月10日条等)。荒海村の平右衛門がパイプ役でしたが、別件で幽学先生に叱られて江戸にはいません(2月4日条)。五郎兵衛と節五郎が田安家担当となっており、贈答品の打合せをしています。
〈その他の記事〉
・幽学先生は、昼からお出かけになられ、夕方ころお戻りになられた。
・長左衛門殿が昼頃来られ、夕方に「深川の方へ行く」とのことで帰られた。
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嘉永7年6月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝、節五郎殿が田安家に暑中見舞いに行かれた。御代官様には泡盛一升、御立合二人にら上酒二升ずつ、御手代へは上酒一本ずつ、物手士へは200文を持参された。
・昼からは原様や村上様へも泡盛を持って行かれた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日、田安家への暑中見舞いにつき節五郎と相談しており(6月27日条)、節五郎が田安見るとを訪れています。贈答品の費用は幽学一門の財布から出ているはずです。これも裁判対策費用のうちです。
〈その他の記事〉
・幽学先生は、昼からお出かけになられ、夕方ころお戻りになられた。
・晩に先生と良祐殿は薬研堀へ植木見物に行かれた。
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嘉永7年6月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・良祐殿は鰹節を買いにいき、強い餅米を選んで餅屋に頼んで二升四合の餅を搗いてもらった 。
・伊兵衛父は両国の筒井筒で、こうせん、あられを買って来られた。
・小生は幽学先生と二人で掃除。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
月の末日は道友が集まり、皆で食卓を囲みます。良祐殿が鰹節を買いにいき、餅屋に頼んで餅を搗いてもらったのも、伊兵衛父が両国で、こうせん、あられを買って来てくれたのも、明日の準備でしょう。明日が楽しみです。
〈その他の記事〉
・良祐殿は石川様屋敷での仕事を辞めることになった。本日、石川様方の書読師匠のところへ暇乞いに行かれた。
・幽学先生は、昼からお出かけになられ、夕方ころお戻りになられた。
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嘉永7年6月晦日(30日)(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝に節五郎殿と惣右衛門殿、昼には七右衛門殿、武左衛門殿が借家に来られる。餅を食べる。
・幸左衛門殿が昼過ぎに来てから、一同大食。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
月の末日は道友が集まり、皆で食卓を囲みます。幽学先生から叱られて、捨て台詞を吐いてしまった幸左衛門殿も顔を見せました。「一同大食」したといいますから、ストレス発散にもなったのでしょう。
〈その他の記事〉
・幸左衛門、節五郎、小生の三人で良祐殿の帰村の話しをしていたら、幽学先生は御立腹になって、「お前たちが良祐の帰村につきとやかくいうことではない」と叱られた。
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