南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

五郎兵衛、詰められる 嘉永7年閏7月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年08月15日 | お知らせ
五郎兵衛、詰められる 嘉永7年閏7月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。早朝に雑巾がけ、三ヶ所の床下げ。大きな的を用意するため、3人で準備。幕を日除けに張って、場所を設営。夕方に御床上げ。馬場の片付け。夜番は勇太郎殿が勤めてくれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・嘉永7年は閏月があるため、今月は閏7月をお届けします(旧暦では時々13ヶ月の年があります)。
・五郎兵衛もすっかり武家屋敷での奉公に慣れたようです。今日は本番のみで、夜番は同僚が勤めてくれました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
もともと非番であったが、昨夜勇太郎殿が夜番を勤めてくれたので、本日は本番を勤めた。
早朝ぞうきんがけ、御床下げ、時触、御弓場拵え。夕方御床上げ、鼠半切を平作と二人で三百枚つき、夕方馬場の取片付け。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛は本日は本番。本来は非番の日のようですが、同僚の勤務の関係で本番となったようです。
・「鼠半切」とは、ねずみ色の半切(半分に切った紙)。漉き返しの再生紙です。相撲の勝負付けなどを刷るのに用いたそうです。「300枚つき」は原文のままですが、意味はよくわからず。半切300枚の用途も不明です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。掃除と御床下げ。五味様の為夕方まで薪割り。
夕方牛込横寺町川柳で出火。御役所へ火元の場所を報告し、大部屋へ火元の確認を指示し、火災発生をお触れをした。火元見が帰ってきてから、御役所へも報告。夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
牛込横寺町(現新宿区横寺町)での出火への対応は興味深いです。御役所への火元の場所の報告、大部屋へ火元の確認を指示、火災発生の触れ。このような一連の事件対処はマニュアルのようなものかあって、徹底されていたのでしょう。

〈詳訳〉
・本日は添番。朝は掃除と御床下げ。その後、五味様の為夕方まで薪割り。
・堀田の湯に行った後、御役所の大野様、御次竹田様、池田様、御玄関平山様、田中様の御床上げ。
午後
・夕方、幸左衛門殿は松枝町へ行かれたが、日暮れ迄には戻って来られた。
・勇太郎殿は遊びに出かけてしまい戻らなかったので、夜番も勤める。
・夕方牛込横寺町川柳で出火。御役所へ火元の場所を報告し、大部屋へ火元の確認を指示し、
火災発生をお触れをした。火元見が帰ってきてから、また御役所へ報告した。
・安左衛門様が火災見舞いの使者として派遣された。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、御床下げ。安達様から頼まれた本町の小西利左衛門という砂糖屋へ行き、そのついでに松枝町の借家に寄る。
幽学先生は私を見ると、お出かけになってしまわれた。
伊兵衛父が心配して話しをしてくれたが…。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
外に用事に出かけたついでに松枝町の借家に顔を出した五郎兵衛ですが、幽学先生は顔を合わせないようにと外出してしまいますし、留守番役の伊兵衛(元名主)からは的確ですが、辛辣なことを言われてしまいますし、散々な目にあっています。しかし、五郎兵衛は全く挫けず、「誠に恥ずかしい。心得違いをしていた」と反省するのでした。

〈詳訳〉
・早朝掃除、御床下げ。安達様から頼まれた本町の小西利左衛門という砂糖屋へ行き、そのついでに松枝町の借家に寄る。
・伊兵衛父に又左衛門殿へ送る手紙を見てもらった。また、長沼村へ手紙を送ってもらうよう頼んだ。
・幽学先生は私を見ると、お出かけになってしまわれた。
・伊兵衛父が心配して話しをしてくれた。
「病気の具合はどうだ。調子は良さそうだが、まだ安心できないぞ。油断すると、また元に戻ってしまう。ナスを食べているそうだが、どのような了簡か。ナスは気が余りなく、養生にはならない。気をつけなくてもよいだろうというような気持ちがあるから、気を緩めがちになるのだ。自分の体といっしょで、自分のだけのものではないのだ。本気で養生しなければという気持ちが大切である。」
・また、月々の収支はどうなっているかとのお尋ねがあったので、雑用帳に書いてあるものを見せて説明した。伊兵衛父は、「これではよろしくない。自分の悪いところを先生に言われても、そうではないだろうと思ってしまっているのだ。自分が間違っているのかどうかは分かりそうなものだ。よく考えることだ。」との話しがあった。誠に恥ずかしい。自分のやっていることをよくよく考えてみると、心得違いをしており、幽学先生の教えとは反対のことをしてしまっている。
・昼には借家を出て、帰り道で温飩を食べた。
屋敷のある番町まで帰り、節五郎殿とも色々話した。その後御弓場を片付け、御床上げをした。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・朝、掃除。御役所五味様の御床下げ等と薪割り。
・昼過ぎに、道友の兵右衛門殿と文平が来る。小生の間違いを指摘された。
・明日暇をもらって、松枝町でとくと話し合うことにしたので、本日は夜番も勤め、深夜まで夜回り。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日は伊兵衛父に様々な指摘をされた五郎兵衛ですが、今日は道友が職場まで来て、またまた問題を指摘されてしまいました。ここまでされても、さらに自己改革に進もうとする五郎兵衛。明日借家に行くため、本番を勤めた後、夜番まで勤めるのでした。

〈詳訳〉
・朝、掃除。御役所五味様の御床下げ。御次飯田元治様、飯田録兵衛様、御玄関田中清治様、平山昇太郎様の御床下げ。薪割り。
・昼過ぎに、兵右衛門殿と文平が来た。
兵右衛門殿の話し。
「これまでの五郎兵衛の言動に幽学先生は困っておられる。国元での評判が悪くならないように、また後世の恥にならないように指導をしたいと思うのだが、五郎兵衛が恨んだり、怒ったりすると思うと、指摘することもできなかったそうだ。ハサミや髪かきを買うことについて相談をされるから、勝手にすると良いといったのだが、そんなら買ってみせるというような相談もなく買うことをするので、幽学先生は誠に困っておられる。
五郎兵衛の言い訳はどうも間違っているようだ。幽学先生のおっしゃることは、十のうち一つしか言わないのだが、五郎兵衛はその一つのとだけを言われて、それに固執してしまうのだよ。」
明日、松枝町の借家へ行ってまた話し合いをすることとし、昼過ぎに兵右衛門らは帰っていかれた。
・御弓場の支度。薪割りの始末等する。その後御弓場を一人で片付け、三ヶ所の御床上げ。
・蔵方から番扶持として下げ343文あり、三人で分ける。
・明日の暇をもらうため、夜番を勤める。深夜まで夜回り。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
添番の者が所用で不在の為、慌ただしく一人で仕事をこなす。昼過ぎに松枝町の借家へ行くが、幽学先生はお留守。伊兵衛父らから、小生が改めるべきことについて色々と話しあり…
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・武家屋敷の奉公は人手不足のようです。シフトが決まっているにもかかわらず、急用等でその者が外出となると、一人で対応しなければなりません。
・五郎兵衛は幽学先生のいる借家に行きましたが、本日も顔を合わせてくれません。どうもうまく噛み合わない、そんな状態が続いています。

〈詳訳〉
・添番の平作殿が早朝に大崎へ行ったため、掃除、火起こし、御床下、時触、土用干しなど慌ただしいながらも、一人でこなす。
・昼過ぎに松枝町の借家へ行くが、幽学先生はお留守。
・兵右衛門殿と文平と伊兵衛父がおり、小生が改めるべきことについて色々話してくれた。
「長部村の良左衛門様のようになってもらいたいのだ。幽学先生から言われたことを一つ一つ丁寧に受け止めてほしい。隠すことは全くない、腹を割って話す気持ちがないといけない」
今後は、自分自身の心に浮かんだことは穢いことばかりであるから、言われたことを一つ一つ守る修行を致しますと申し上げたが、一同は納得してくれない。やむなくそのまま帰るほかなかった。
帰り道、節五郎殿、幸左衛門殿とウドン屋に立ち寄り、夜食を食べた。
・食べながら、先ほどのことを思い出した。
文平からは、養生してちゃんと病気を治すようにと言われて、「ちゃんと慎みますから、大丈夫です」と言ったのだが、伊兵衛父は、「そういうことだけいっても文平は安心できないだろうよ。私も安心できない。お前のやってることはいかにも不養生だ。病状が少し良くなっても油断はできない。この病気は軽く考えてはいけないぞ。油断していると大変なことになる。元のような病気になってしまったのでは、示しがつかず幽学先生の教えも面目が立たないぞ」
・こんな話しをした後に、すぐにウドンを食べてしまった。これでは安心できないというのももっともだ。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。早朝掃除、御役所御泊りの大野様、御次五味様、飯田様、御玄関田中様、平山様の御床上げ。
昼に幸左衛門殿と二人で髮結い。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は御屋敷で本番の仕事。五郎兵衛はこうやって体を動かしているときの方が落ち着いて見えます。借家で幽学先生の補佐役を務めるのは、五郎兵衛には向いていないです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。早朝掃除、御床下げ、昼まで薪割り。昼に道友の兵右衛門殿と文平の来訪あり。「このままだと二十年来の丹精も水の泡だ」といわれる。小生一人の問題ではない。心を入れ替えることを約束。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は添番。いつもどおり、早朝掃除、御床下げ、昼まで薪割り等していたところへ、道友が職場に来訪。「このままだと二十年来の丹精も水の泡だ」とはかなりキツい言葉です。ここのところ連日この問題に直面している五郎兵衛ですが、小生一人の問題ではなく、心を入れ替えることを約束と、至って謙虚な対応です。


〈詳訳〉
本日は添番。早朝掃除、御床下げ、昼まで薪割り。
昼に兵右衛門殿と文平が屋敷に来で、私の心得違いと心を改めるべきことの話し合いをした。
「このままだと二十年来の丹精も水の泡だ。
長部村や十日市場村等とともに長沼村も、幽学先生の教える永続の法を立て、先生の志を継ぐと決めてこの江戸に出てきたのであろう。それなのに、先生のお言葉をそのまま受け入れることはできないというのでは困る。
五郎兵衛一人の問題ではない。幸左衛門殿や節五郎殿も同類と見られてしまっている。五郎兵衛が改心しないのでは、彼らも先生にご迷惑をかけすることになる。」と繰り返し私に諭された。
小生は「きっと心を入替えます。自分の過ちが分からず、恥の上塗りをしていました。 今までの不誠実な行動を改め、誠実に振る舞います。」と申し上げた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。早朝から掃除、御床下げ、時触。
昼に牧野筑後守殿から手紙が届き、長谷中部屋御厩へその旨お伝え。明日10日未明にお供と共に牧野筑後守様方に赴かれるとのこと。
夕方に夜具上げ。真夜中に起き、弁当の用意を手伝う。少し寝ようとしたところ、お呼びがあり、そのまま寝ずに仕事を続けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・殿様が急用で呼ばれ、未明に出立しなければなりません。五郎兵衛は添番を勤めた後に、少し寝て真夜中に起き、皆が弁当を作るのを手伝居ました。弁当作りは時間がかかったようです。また寝ようと思ったのに、用を言いつけられ、寝ずに翌日の仕事となります。
・文中に「牧野筑後守」とありますが、筑後守となった牧野氏はいません。牧野「備後守」であれば、嘉永7年(1854年)4月26日、江戸城桜田門番に任じられた牧野貞長を指すことになります。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年閏7月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、御床下げ。昼過ぎに道友の宜平殿と幸八郎殿が来られた。国元の話し、我々の改革の話し、幽学先生が困っておられることを話された。
幸左衛門殿から、「五郎兵衛の養生は言行不一致である」との話しあり。誠にそのとおりであるので、恥ずかしながら今後は慎み、死ぬるとも養生して厳に身を慎むと決めた。
夕方御床上げし、夜番を勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は未明から殿様がお供を連れて外出されたので、五郎兵衛の仕事はさして多くないようです。道友が来て、五郎兵衛の改革の話し。一緒に働いている幸左衛門からも、「五郎兵衛の養生は言行不一致」と言われてしまいました。五郎兵衛は、死んでも養生すると言っていますが、そういうような言い方が問題では…。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大雨で土浦は水害 文政12年8月上旬・色川三中「家事志」

2024年08月12日 | 色川三中
大雨で土浦は水害 文政12年8月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月朔(1日)(1829年)
〈行商中〉
根小屋を出立。今日も雨。明け方に激しい風雨。先日からの雨で膝までの水たまりができている。夕方再び空の様子が怪しくなり、雨が降り始め、風が非常に強くなり、夜もずっと降り続いた。心が落ち着く暇もない。麻生の大黒屋に泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商14日目。雨が降り続く悪天候。雨で膝までの水たまりが其方此方にできており、洪水の様相を呈してきています。本日は根小屋(現行方市根小屋)を出立し、麻生(行方市麻生)まで。6キロ弱しか進んでいませんが、強い風雨の為でしょうか。

根小屋 to 麻生

根小屋 to 麻生



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月2日(1829年)
〈行商中〉
大雨と強風、一向に止む様子なし。湖水から出水し、山々、田、溝渠からも水があふれている。麻生から玉造まで歩いたが、途中危険なことも多く、いつもより時間がかかった。五町田(現行方市五町田)の家々は床上まで浸水したという。玉造に昼過ぎようやく到着。頭から足元までびしょ濡れ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商15日目。本日も大雨と強風が続きます。あちこちから水が溢れており、霞ヶ浦沿岸では床上浸水する集落までありました。この中を20 km近く三中たちは歩いており、頭から足元までびしょ濡れです。
麻生から玉造

麻生 to 玉造

麻生 to 玉造




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月3日(1829年)
〈行商終了〉
夕べから今暁まで雨やまず。昼前ようやく晴れる。小川、府中、稲吉、真鍋で出水。水に浸かりながら歩いたり、船に乗るなどしてようやく日没ころに土浦に戻ってきた。
銭亀川が九合に達しており、藩の役人や町役人たちが氾濫を抑えるために奔走していた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商16日目(最終日)。明け方まで雨が降り続いていたため、昼からは晴れても出水は収まりません。現代なら避難指示が出るでしょう。三中たちは水に浸かったりしながら土浦まで戻ってきました。土浦も川が氾濫しそうで町中が大変な状況になっています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月4日(1829年)晴
銭亀川が十合にまで水位が上昇。吟味衆が出役し、各所で混乱。夕方、町役人の栗山八兵衛が来訪され、今夜銭亀川の見張りの出役を交代してほしいと頼まれたが、体調不良を理由に断る。
限りある命をもって、限りなく多くのことに心を動かすことはない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
銭亀川は、土浦の町の近くを流れる川(現在は川の名は残っていませんが、銭亀橋という橋あり)。水位は土手一杯まで上がっており、危機的な状況です。しかし、三中は病を理由に、町役人の仕事はキャンセル。町は災害で混乱してますが、「限りある命をもって、限りなく多くのことに心を動かすことはない」とかなりクールな見解です。

〈詳訳〉
・銭亀川は十合にまで水位が上昇。吟味衆が出役し、あちこちで混乱。我等は昨日まで行商で取り込んでいたので、居留守を使って防水作業には赴かず。
・夕方、町役人の栗山八兵衛が来訪され、今夜銭亀川の見張りの出役を交代してほしいと頼まれたが、体調不良を理由に断った。
限りある命をもって、限りなく多くのことに心を動かすことはない。

〈その他の記事〉
・間原氏の来訪あり。隣り主人の取計らいで夕べ七兵衛殿を内へ戻したとのこと(7月13日条参照)。
・一老人の話し(⇒末尾付1)
・我らが行商で留守中に帰参願いが出ていたので、奥印をした(その書面⇒末尾付2)。この奥印の礼として、今日、山口の利兵衛から鯛一匹を頂戴した。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月5日(1829年)晴 二百十日
・簀子橋の田、七枚を刈り取ってもらい、加賀者に2貫472文を支払った。7人の手間で、1人あたり350文程度と見積もった。
・ここの田を刈れば、1把3文ほどで、1000把以上も出るところなので、よいところであろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
稲は収穫時期を迎えており、刈取りの記事。三中は高持百姓なので、田を所有していますが、田の仕事は自分では行いません。今回「加賀者」にまかせています。5月22日条にあった加賀(現石川県)からの移民のことでしょう。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月6日(1829年)晴
町役人を辞めることを決意。隣り主人と一昨日から話し合いをした。1年間は続けた方が良いのではないかとの意見もでたが、辞めるならば早く辞めた方がよい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
これまで病気を理由に町役人の仕事をサボっていましたが、ついに町役人を辞める決意をしました。まずは、親しい中にある隣り主人に相談です。「1年間は勤めたら…」という意見も出ましたが、三中は早く辞めるとの方針で考えています。
「限りある命をもって、限りなく多くのことに心を動かすことはない」(8月4日条)を実践するのでしょう。
本日の記事の詳細⇒末尾付3。

〈その他の記事〉
・新七(田中口の太兵衛の悴;28歳)から帰参願いが出ていたので奥印。
・熊野屋平兵衛が帯刀を許されたことの礼として年代五状を持参された。
・行商で留守中に片野村の手賀宗仲老のことで、同人の組合の者が来訪された。
「この度、宗仲が亡くなったため、子息はかなりの借財を引き受けざるを得ず難渋し、配当割合(任意での債務整理?)をすることとなりました。貴殿方一同もご承知下さい」とのこと。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月7日(1829年)
寶子橋の田は、5日に刈り取り。山口うらの田は3 貫 600 文で、7日に刈り取り。いずれも
加賀者たちに刈取ってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
8月5日条に引き続き、稲刈りの記事。刈取りは5日と同様「加賀者」に依頼しています。現石川県からの移民で、人別に加えられていない違法状態だったはずですが、このような形で労働力を提供していたのですね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月8日(1829年)
御公儀様の御小人目付が土浦にお出でになられた。八州御廻り方、町方掛の経費について書面提出を命じられ、一晩泊まって直ぐに江戸に戻ったとのこと。先払いは奥井(町年寄)が勤めた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
御小人目付とは江戸幕府の職名の一つで、公務執行状況の監察等を担当。今回土浦に来たのは、八州廻りや土浦藩の町方掛の経費の調査の為のようですが、一泊のみで江戸に引き上げていったさまいました。どのような目的があったのかは窺い知れません。わ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月9日(1829年)
昼過ぎから風が吹く。
水位は一寸ほど上昇。
去年の水位よりも5寸ほど高い。
6年前(申年)よりは4寸ほど低いが。
#色川三中 #家事志
(コメント)
8月4日の記事以降、水位のことは話題になっておりませんでしたが、危機的な状況はまだ続いていたようです。寸単位で水位を把握して記録しており、水害への意識の高さが見て取れます。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月10日(1829年)雨
暴風大雨、所々床の支度。風は当初は北、艮(北東風)からであったが、夕方から富士方風の大風に変わった。水位は一時(2時間)ばかりの間に三寸低くなった。まくるが如き大雨。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日暴風大雨で、出水の危険性が増しています。浸水に備え、色川家でも対策を取っています。風の向きにも敏感です。

〈その他の記事〉
・京都白木屋本店から火事見舞いに対しての礼状が届いた。
・英哲院様の二十七回忌法要が明後日(12日)に神龍寺でが行われるので、出席するよう仰せがあったが、病気を理由として法要には出席できない旨伝えた。
※「英哲院様」とは土浦藩7代藩主土屋英直のこと。 享和3年(1803) 没。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付1 8月4日条記載
一老人の話
昔、江戸で飢饉があった時に、カボチャを煮てきな粉をまぶして売ってた。それを食べてしばらく飢えをしのいだ人もいたそうだ。
翌年、豊作になり世の中が落ち着いている頃、薬研堀でカボチャをくり抜き、その皮を木魚のように叩いて子供向けのおもちゃとして売っていた人がいた。
役人はその者を捕まえて罪に問うた。そんな厳しい時代もあったのだ。

この人はその時はまだ若く、そのときは江戸にいたとのことである。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付2 帰参願い(8月4日条記載)

乍恐以書付奉願上候

乍恐れながらこの手紙をお送りいたします。
皆治(四十五歳)は、私の従弟です。従前甚だしく不行跡で、身持ちが宜しくなく、度々意見しましたが、一向に改める気配がなかったので、親類一同相談して文政十亥年三月に勘当致し、帳外の手続きを致しました。
彼は現在常州川内郡江戸崎村の名主である八郎兵衛方におりますが、前非を悔い行跡を改めたので、村に戻りたいと申してきました。名主八郎兵衛からも同様の話しがありました。我々も調べましたが、そのことに相違ありません。
誠に勝手をいって申し訳ありませんが、私の家の人別に再び加えていただき、しかと心底を見定めた上で、甚左衛門や親戚たち一同と立ち帰りのことをお願いさせてもいただこうと思います。万一、皆治のことにつき問題がありましたら、我々が引受け、いささかもご苦労をおかけしないように致しますので、何卒格段の御慈悲をもって、この願いをお聞き届けて下さいますようお願い致します。以上
中城町
親類 利兵衛
組合 庄七
同 権七
文政十二年丑年七月

このように利兵衛及びその組合の者から願いが出て、事実関係を糺したところ間違いないとのことでしたので、町役人一同奥印致します。この要望を受け入れていただけるよう、私どもからもお願い致します。
名主 入江全兵衛
年寄 栗山八兵衛
同 金之允
同 吉右衛門
同 桂助
町御奉行所様

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付3 町役人を退くことについての隣り主人との話し(8月6日条記載)

町役人を辞めたいので、一昨日と昨日、隣主人と話し合った。
三中「父が亡くなって以来、内外大小の雑事が多くて大変であったが、昨年あたりから、ようやく仕事が楽になってきたと感じていた。
しかし、去年秋の凶作で今年の米穀は近年稀に見ないほどの高値。これまで以上に仕事に精を出さなければ、大勢の人を雇っている身としては難しい状況となると、日頃から心配であった。
そのようなときに、今年の2 月突然に町年寄役を仰せつかった。不肖の身にとっては、大役であり、大事面目は余りあるものであったが、時期的にも仕事がままならない上、病弱であるため、とても御用に十分に応えられるようには思えない。このことは親類にも何度も相談し、事情を説明してきた。
しかしながら、このような役職は自分が求めたものではなく、 御上からの命であり、これを断ることは先祖に対しても不埒となってしまう。
引き受けて何とか務めようと思い、皆で協議した結果、お請けし勤めてきたところである。
ところが、2月下旬には足痛となり、3 月中旬まで休まざるを得なくなった。
さらに5 月 5 日から持病が起こり、勤めに復帰できたのは6 月 15 日になってからだ。
所用で休まなければならないこともしばしばあった。
7 月 17 日から行商に出たが、帰ってきてみれば大水である。これにも対応できなかったし、うちのことも行き届かなかった。
こんな風に中途半端な状態を長く続けているようでは弊害が多きくなってしまう。役を退くことはやむを得ない。親類にも何度も相談してきたし、理解はいただけるであろう。」

隣り主人「お話しはごもっともだが、まだ町役人となってから1年も経っていない。1年間は勤めるのがよいのではないか。」

三中「そうかといって今と同じように勤めるのも、他の役人からは良くないと思われるであろう。他の役人と同じように勤められないのであれば、居心地も良くない。長く勤められそうにはないというのであれば、早く役から退くというのも仕方ない。不行届があれば、多くの人から色々と批判されることもある。退職後に指差しされるような状況は好ましくないので、何事もなく無事に退職できるよう、一刻も早く手続きを済ませたいと考えている。」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペリー来航と大原幽学

2024年08月11日 | 大原幽学の刑事裁判
ペリー来航と大原幽学
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ペリー来航、嘉永6年6月3日)
ペリー来航は日本史上の一大事件です。
嘉永6年(1853年)6月3日当日の動きは次のとおり。
・正午。彦根藩の三崎陣屋に「4隻の異国船が城ヶ島沖を航行している」との情報が届く。三崎町の漁師からの情報。
・ペリー艦隊、浦賀に到着。午後5時過ぎ、浦賀沖に錨を下ろし、町に搭載砲を向ける。
・与力中島三郎助が通詞堀達之助と共に小船でサスケハナ号に赴き、副官コンティ大尉と交渉。コンティは国書を渡すことが目的と来航の目的を明らかにする。中島は艦隊を長崎に開航することを求めるが、コンティは拒否。
・午後10時、浦賀からの早船による報告が浦賀奉行井戸弘道の江戸屋敷に着く。井戸は直ちに老中阿部正弘の屋敷に届けを持参。阿部は老中、若年寄を招集し、江戸城内で協議。協議は夜を徹して行われた。
浦賀への黒船の進行を許してしまっており、これまでの防衛策は何だったのかと言わざるを得ませんが、その後は素早い対応で当日のうちに江戸で緊急対策会議を行っています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(大原幽学刑事裁判と五郎兵衛日記)
ペリーが来航したときは、大原幽学の刑事裁判は審理中で、幽学や道友(弟子)たちが江戸に滞在していました。
大原幽学の道友である五郎兵衛は、江戸滞在中で日記をつけており、ペリー来航の騒動も記録していますが、最初にその騒動が伺えるのはペリー来航後、1週間近く経った6月8日以降の記事です。8日及び9日の記事でペリー来航に関係ありそうな箇所を抜き書きしてみます。
---
6月8日
○小生と元俊医師が二人して公事宿から湊川の借家に行ったところ、高松様がお出でになっていた。その後、高松様は御帰宅になられ、小生らは七ツ半時に宿へ帰った。夜五ツ時、公事宿に高松様が御出になり、九ツ時迄色々とお話しをされ、そのまま宿に御泊りになった。
6月9日
○早朝に高松様は宿からご帰宅になった。元俊医師と五ツ半時に湊川の借家に行った。
平右衛門殿が四ツ時に田安家の御役所から帰ってきた。「代官の磯部様はお会いになって、たいそうお喜びでした。今般の異国船騒動については、大変なことなので、この事は決して人に言うでないし、聞いてもならぬと、厳しく仰せられました。何が起きても決して驚いてはならぬぞとも仰っていました」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(田安家代官の磯部様の話し)
6月9日の記事にある田安家代官の磯部様の言葉が当時の緊張感を良く伝えています。
日記原文にも「異国船騒動」という言葉が使われており、このように来航間近なときは話されていたことかが分かります。
磯部様は平右衛門に「今般の異国船騒動については、大変なことなので、この事は決して人に言うでないし、聞いてもならぬと」と話しておりますが、これは平右衛門から磯部様に「今般の異国船騒動はどうなりますでしょうか」などと質問した際の答えなのではないかと思います。
平右衛門は磯部様からは何も教えてもらえなかったのですが、磯部様は「何が起きても決して驚いてはならぬ」とも述べられておりますので、武士はかなりの危機感を持っていたようです。
---
平右衛門は大原幽学の道友の一人で、荒海村(現成田市荒海)の農民です。荒海村は田安家が領有しているため、江戸に滞在するときや、江戸から村に帰るときは、田安家の御役所に届を出さなければなりません。磯部様は田安家の代官で荒海村の担当だったようです。この裁判で多くの農民が江戸に出府を強制され、審理の為に待機させられている現状を何とかしたいと非常に好意的であり、色々な話しもしてくれています。異国船騒動についてこれだけのことを話してくれたのも、このような背景からです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(幕府の小人目付である高松様の行動)
6月8日の記事には「高松様」の名前が見えます。「高松様」は高松彦七郎という小人目付、つまり幕府の下級役人です。
高橋 敏『大原幽学と飯岡助五郎』には以下のように紹介されています。
▼高松彦七郎茂雅 1787~1865。小人目付、俸禄15俵 一人扶持、屋敷は江戸小石川同心町。
1856(安政3)年、御小人頭に昇任して80俵。
---
御小人頭に昇任していますから、かなり優秀であり、評価された人物であることがわかります。
幕府の下級役人ですから、異国船騒動においては現場に出ていかなければならない役回り、またこの非常事態ですから、かなり多忙だったはずです。そんな中を大原幽学のいる湊川の借家を訪れて話しをし、その日は元俊医師らが逗留している宿に泊まるとは、何か重要なことを話しに来たのではないかという推測が成り立ちますが、日記をつけている五郎兵衛が聞いていなかったのか、重要ではないと思ったから書かなかったのか、よく分かりませんが、日記にはその手の話しは一切書いておりません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(6月9日、国書受領)
ペリーは米国の国書受領を要求しており、幕府は6月6日に江戸城での評議で国書受領方針を決定、翌7日午後には与力の香山栄左衛門がサスケハナ号に向かい、ブキャナン中佐は「明後日(9日)に国書を久里浜で受領する」ことを伝えています。一方、幕府は万一に備えて東京湾の警備を増強。また、船を繰り出して艦隊に接近して見物することを禁止します。
このことからすると、6月7日時点では、ペリー艦隊との軍事衝突の危険は低くなったことが分かりますが、米国からの国書受領という前代未聞の事態でトラブルが生じる場合に備えて、幕府は緊張感を高めていた状況でした。
6月9日午前9時ころには、ペリーは久里浜に上陸。幕府は、急造の応接所でフィルモア大統領からの国書を受領しています。「単なる受領であって、交渉ではない」という立場を幕府がとったため、会話らしい会話もなく、国書受領の式典は無事終了しました。
後世からみれば、この時点で軍事衝突の危険はほぼゼロと見えるのですが、ペリー艦隊は依然として東京湾におり、退去するまでは幕府は気が抜けなかったことでしょう。ペリーが東京湾を離れ、琉球へ向かったのは6月12日のことです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(6月10日の五郎兵衛日記)
以上がペリーからの国書受領、ペリー艦隊の退去の経緯ですが、幕府からの発表もなく、マスコミもない江戸時代では情報のタイムラグが生じます。五郎兵衛日記では、6月10日以降の記事で異国船騒動がクローズアップされてきます。
---
6月10日
○公事宿から湊川の借家へ行くと、異国船の話しでもちきり。諸大名・御旗本が各所に陣取り、今日明日中にも戦となるかもしれぬとのこと。
江戸の様子。
・御府内は町方まで合図の鐘が鳴り響いている。
・十人火消しは配置につき、火事があってもよいようにとのお触れ。
・諸大名・御旗本は、今や今やと合図の鐘を待っている。
・出立の際は、水酒盃の覚悟を致すほどとのこと。
---
湊川の借家へ行くと、既に異国船の話しでもちきりです。「今日明日中にも戦となるかもしれぬ」との噂ですが、五郎兵衛日記にはさしたる緊張感はなく、これは五郎兵衛の性格だけでなく、周囲の雰囲気がお祭り騒ぎ的なものであったからのような気がします。実際には危機的な状況は、6月3日のペリー来航から6月6日の国書受領方針の決定、翌7日の受領方針の伝達までであり、それ以降は軍事衝突の危険性は低くなっているので、現代からみると一層滑稽な気がします。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(6月11日の五郎兵衛日記)
6月11日には、高松彦七郎が大原幽学を訪れています。
---
6月11日
○公事宿から湊川の借家へ行く。夕方、高松様が来られる。「この度の異国船騒動で内海(東京湾)にある陣所の見分を命じられました。夕方に深川に集合し、船で行きます。御小人目付200人の中からこのお役目に選ばれたのは4名。名誉なことです。」
---
ペリー来航の6年前から四藩(川越、彦根、会津、忍)が東京湾警備にあたっており、各藩の陣屋がありました。また、この度の騒動で各所に陣所が設けられたことでしょう。高松彦七郎は御小人目付として、見分(監察)するように命じられています。
どのような職務を行うのかを明らかにしており、今なら守秘義務違反?に問われかねませんが、明12日にはペリー艦隊が退去予定という情報を得ており、緊張がいくぶんほぐれてきた故の発言かもしれません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(6月12日の五郎兵衛日記)
6月12日には、大原幽学と五郎兵衛は高松彦七郎の両親にお祝いの挨拶に行っています。
---
6月12日
○幽学先生は、小石川(高松氏の自宅)にお祝いに行かれ、小生も同道。高松様のご両親は異国船来航に意気盛ん。
親父様「年はとりましたが、合図の鐘があればお城へ駆けつけ、命を差し出し一働きする存念です。後世に恥をさらすようなら御恩に報いたい。」
奥様「合戦になれば、私も長刀で参戦致します」
---
高松氏の両親の発言はかなり勇ましいものですが、高松父は隠居しても武士(軍人、戦闘員)であることを念頭に置く必要があるでしょう。五郎兵衛は農民であり、非戦闘員ですから、戦おうとはこれっぽっちも思っておりません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(6月13日、異国船騒動の終わり)
ペリーは6月12日に東京湾を退去していき、江戸の危機は回避されました。この情報を大原幽学らは、翌13日には得ています。
---
6月13日
○八ツ時、高松様が湊川の借家に来られる。
四日四晩徹夜で、御城からのお帰りとのこと。高松様「こ度の御役目、首尾よく終わりました。異国船は十三日九つに出帆し、立ち去りました」
---
幕府の役人高松彦七郎がここでも登場します。
高松氏は四日四晩徹夜と激務で、ペリーが出航し、仕事を終えてから、家に帰る前に幽学らのいる借家に来てくれています。危機は去り、高松氏の激務も終わりました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(終わりに)
このように武士と五郎兵衛を始めとする幽学の道友とではまるで緊張感が違います。戦争になれば、まっさきに被害にあうのは住民のはずですが、その緊張感がないのも不思議ではあります。
もっとも、6月9日の日記には次のような神田明神の祇園祭りの様子が記録されており、町は基本的にはいつもどおりの平穏を保っていたようです。ただ、神輿渡御がお触れにより中止となったことがいつもと異なっております。住民にはその程度のことと受け止められていたのかもしれません。

〈6月9日の夜の記事〉
一旦宿に戻った後、夜に小舟町(現中央区日本橋小舟町)へ行った。祇園牛頭天王など、さまざまな飾り物があった。第一の門には大きな提灯が掲げられ、天王の由来が書かれていて、神職が一人供を連れて、幣を持って参拝していた。第二の門には、天の岩戸の大神宮様の図が、第三の門には、素盞嗚尊と稲田姫、それに大蛇の絵が描かれていた。その次の門は、神々の御門のようであり、その次の門には大きな注連縄が、その次には御段家があった。
小舟町は五十何町にもわたる祇園の中心地である。祇園町内では二本ずつ幟が立てられ、天王様の御輿が置かれる場所には四方に竹が立てられ、締縄が張られ、花が飾られ、灯が灯され、また掛け提灯が無数にあった。
晩の九ツには神田明神まで、附木店の町内から迎えが出て、御輿が出されるそうなのだが今回の騒動のために、御触れがでて神輿は遠慮ということになった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

顔を見せない幽学先生 嘉永7年7月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年08月08日 | 大原幽学の刑事裁判
顔を見せない幽学先生 嘉永7年7月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昼すぎから夕方近くまで薪割り。十二抱。
本日は添番。五つと四つに時触れ。御役所、御玄関、御次では火を取る。その後、八つに御弓場を設営。七つ過ぎ、御役所、御玄関、御次で御夜具をあげ、夕方に御弓場の片付け。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
旗本屋敷での仕事も慣れてきたようです。今日の記事では、御弓場の設営や片付けについて言及されています。五郎兵衛のいる御屋敷では常設ではなかったようで、弓場の設営と片付けが仕事になっています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝、雑巾がけ。御次に御湯水取り。馬場の準備。九つに御役所から触書(明日御殿様が御登城及び増上寺へ御拝礼)。九つ半に御弓場を拵える。暮れ方に片付け。夜番も勤め、明六つまで寝ずに仕事。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
朝の雑巾掛けから始まり、馬場の準備まで忙しい五郎兵衛。御役所から触書が届き、御殿様は明日登城の予定となりました。五郎兵衛は朝から仕事でしたが、夜晩も勤め、寝ずの番です。

〈触書の内容〉
明23日五つ時に御供を揃えて御登城される。御退出後は増上寺へ御拝礼あそばされる。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番。昼過ぎに松枝町の借家へ。
伊兵衛父と話し「幽学先生は、会えば一言言ってしまうか、五郎兵衛とは会わない。心得を思い出し、食事もよく管理して病を治せ」等、ご親切なお叱りをいただいた。誠に心魂に響き、忝なく思う。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日は非番で松枝町に顔を出したのに、幽学先生は五郎兵衛とは顔を合わせないと、伊兵衛父を介して宣言されてしまいました。
これに対し五郎兵衛は、「ご親切なお叱りをいただき、忝なく思う」とのコメント。日記を読む限り真面目な五郎兵衛ですが、やはりどこかに問題があるのでしょうか。

〈詳訳〉
非番。四つ半まで薪割りをする。
御殿様は本日御登城であり、御供の者も出払ってしまった。勇太郎殿は五味様の使者の御供に行ってしまったので、小生が代わりを勤める。
八つ時、 松枝町の借家へ出かける。屋敷の者から所用を頼まれたので、途中で買物をし、丁子屋でタバコもかった。
借家には、幽学先生のほか、岡飯田村の平太郎殿(湯治帰り)、荒海村の者等がいた。
伊兵衛父から2階に来るように言われて話しをする。
「五郎兵衛に会うと一言言わないではいられない、だから、五郎兵衛とは顔を合わせないようにしてくれ、と幽学先生からは言われておる。心得を思い出して篤と考えてみよ。これまで長沼組として大勢の者を世話をする立場でありながら、死ぬ気で対応していたとはいえまい。嘘を言わず素直に話すことだ。言うのが、良いのか、不言が良いのか、この二つをよく考えてみよ。病気を治すために、食事もよか管理せよ。」等、ご親切なお叱りをいただいた。
誠に心魂に響き、忝なく思う。
大雨が降っていたが、暇乞いして番町(職場)まで暮方に帰った。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。掃除、昼前に細々とした所用をこなす。三ヶ所御床上げ。昼から薪割り。御弓場の片付け。七つ時に飯田町の薬湯に入る。
幸左衛門殿は七つ時に松枝町の借家へ行き、六つ時には戻られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は添番。掃除、御床上げ、薪割り、御弓場の片付け等の仕事をこなしています。同じ御屋敷で働いている幸左衛門が、幽学先生のいる借家に行っていますが、すぐに帰ってきています。五郎兵衛同様、先生に相手にしてもらえていないのかもそれません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝、掃除を三ヶ所、御床下げ。その後細々とした所用をこなす。
巻わらを拵え、樽に詰めて、弓の的を作り、
昼から御弓場の設営。合間に網すかり。夕方、馬場の片付け。夜通し寝ずの番。
幸左衛門殿と二人で御厩で湯沐する。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は本番。掃除、御床下げ、弓の的作り、御弓場の設営、馬場の片付けをした後、夜通し寝ずの番まで。大変な仕事ですが、会計等の事務仕事をするよりは、体を動かす方が五郎兵衛には合っているのかもそれません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。薪割り、十三抱え、七つ半迄。その後、湯に行き、九段の夜市へ行って六つ時に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は非番ですが、薪割りを夕方までしています。その後は銭湯に行き、九段でやっている夜市に顔を出しています。五郎兵衛は番町の屋敷で住込みで仕事をしているので、九段はご近所です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。岡飯田村の平太郎殿が来られる。
「幽学先生は困っておられます。五郎兵衛殿は叱っても恥じ入らないからです。先生は五郎兵衛殿に改心をしていただきたいと仰っておられます。また五郎兵衛殿の病気のことも心配されています。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は添番です。職場に岡飯田村(現香取市岡飯田)の平太郎殿が、幽学先生のご意向を伝えに来ました。五郎兵衛は叱っても恥じ入らないため、問題視しているとのこと。病気のことも心配しているので、悪意からではないようですが、五郎兵衛にとってはなかなか辛いことです。


〈詳訳〉
本日は添番。五つ、四つの時触れをする。
岡飯田村の平太郎殿が来られて、小生と幸左衛門殿に次のような話しをされた。
「幽学先生は幸左衛門殿と五郎兵衛殿のお二人に困っておられます。特に五郎兵衛殿が問題だそうです。幸左衛門殿を叱れば、恥じ入って小さくなるけれども、五郎兵衛殿はそうではないからだそうです。幽学先生は五郎兵衛殿には改心をしていただきたいと仰っておられます。今までのことをよくよく考えてみて、自分が間違っていることを自覚してほしい、五郎兵衛が改心すれば、ほかの者はどうとでもなるとも仰っています。」
「また五郎兵衛殿の病気のことも心配されています。泉屋に相談してみてはいかがとのことです。」
そこで、平太郎殿と二人で元岩井町の泉屋へ行き、診察を受けた。「体が疲れ、舌がすごく荒れていますな。この暑いのに汗があまりでないというのもおかしい。放っておいてはよくおりません」と、薬七貼をもらった。
帰りがけに、松枝町の借家に寄った。幽学先生はおられたが、小生の顔を見ると、すぐに出掛けてしまわれた。伊兵衛父と話す。
・番町の職場に戻り、御弓場を設営する。同役二人に仕事を代わってもらうので、酒を一合ずつ買って持っていった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・御殿様は本日御登城。六つ半に出立。
・本日は本番。掃除、三ヶ所の床下げ。その後細々とした所用をこなし、昼から御弓場を設営し、夕方に撤去。幸左衛門殿と大寺と三人で堀田の湯に行く。戻ってから馬場の撤去。晩は平作殿に頼み、夜番を勤めてもらった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は御殿様が御登城。五郎兵衛は採用されたばかりですから、お供ではなく、御屋敷に残って雑用です。掃除、床下げ、御弓場の設営と撤去。馬場の撤去前には、三人で銭湯に行っていますから、空き時間ができたら適宜休憩を取ってもよかったようです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝に掃除、三ヶ所床下げ。その後細々とした所用をこなす。御弓場を設営、夕方には撤去。また三ヶ所床上げ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は添番。掃除、床下げ、御弓場の設営と撤去、床上げ。毎日同じことの繰り返しですが、五郎兵衛にはこういう作業の繰り返しの方がストレスがかからないのかもしれません。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年7月晦日(30日)(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝から松枝町に借家に行く。
幽学先生は外出され、顔を見せてくれず。
昼食は白玉、茶受けは薩摩焼芋等を食べる。
伊兵衛父「気落ちしないで、あまり気にかけずに過ごしなさい」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
月の末日は弟子たち大集合の日です。
幽学先生は相変わらず五郎兵衛らと顔を合わせてくれませんが、「昼食は白玉、茶受けは薩摩焼芋」と仲間と一緒に食べるのが楽しそう。伊兵衛父も「気落ちしないで、気にかけずに過ごすように」と言ってくれていますし、なるようにしかなりません。

〈詳訳〉
六つに起床して掃除。消炭一俵をかき出す。五つ前に松枝町に借家に行く。
買物を済ませて岩元町の泉屋へ診察に行く。
龍ヶ崎出身の医師がいて、診察を受ける。
「脚気ではないです。しんが衰弱し、舌が悪く、腹の中も良くないです。養生が第一です。放置するのは良くないですね。消化の良いものを食べてください。長い事かかるので、気長に療治してください。」 薬をもらって借家に戻る。
幽学先生は五つ半時に出かけられ、七つに戻られたが、また出掛けてしまった。
諸勘定等を行う。
昼食は白玉、茶受けは薩摩焼芋等。
伊兵衛父からは、「気を楽にして一同が互いに気ままになることだな。おっつけ長部村から良左衛門殿も来られることだろう。まあ、どうにかなることであるから、気落ちしないで、あまり気にかけずに過ごしなさい」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
嘉永7年に7月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 はお休みです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行商中に大雨・洪水 文政12年7月下旬・色川三中「家事志」

2024年08月05日 | 色川三中
行商中に大雨・洪水 文政12年7月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』から

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月21日(1829年)
〈行商中〉
玉造を出立し、青柳で昼食。 鉾田に泊り。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商5日目。玉造(かすみがうら市玉造)から青柳(鉾田市青柳)を経て、鉾田(鉾田市鉾田)へ。これまた昨年と同じルートです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月22日(1829年)晴
〈行商中〉
汲上に泊まり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商6日目。鉾田宿(現鉾田市鉾田)を出立し、汲上(現鉾田市汲上)で泊。汲上は鉾田から鹿島に行く途中にあります。鉾田や鹿島といったそれなりに大きな村だけでなく、その間も開拓をしています

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月23日(1829年)
〈行商中〉
飯嶋の寿清老方では、馳走が出た。
行商しているうちに日が暮れてしまい、近くに宿もなかったので、やむを得ず武井村の百姓平四郎宅に泊まらせてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商7日目。飯嶋(現鉾田市飯島)では寿清老の歓待を受けています。「老」の尊称があるので、医師と思われます。結構、買掛を延滞してしまうことがあり、昨年10月には4両もの未払いがありました(文政11年10月26日条)。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月24日(1829年)晴、風あり
〈行商中〉
先日の大雨で又々利根川から出水。湖水あふれる。武井村を出立し、鹿島の山中屋で泊る。明日鹿島神社を参拝。弟の金次郎は初。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商8日目。武井村(現在鹿嶋市武井)⇒鹿島(現鹿嶋市)。雨が多く、利根川からの出水で湖水が溢れて洪水。災害が進行している一方で、行商の一行は明日は鹿島神宮を参拝予定。行商に同行している三中の弟にとっては初の参拝です。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月25日(1829年)
〈行商中〉
昼前時、鹿野斎院を参拝。弟の金次郎が鹿島で神事を見ている間に、一人で木滝へ行ってきた。鉾田へ戻るので、本日は札村へ泊る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商9日目。弟の金次郎は鹿島神宮が初めてなので、神事を見学。三中は鹿島神宮には何回も来ていますので、その間に木滝(現鹿嶋市木滝)まで行商に行きました。
「札村」は現鉾田市札です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月26日(1829年)
〈行商中〉
札村を出立し、鉾田で中食。当麻村で暴雨雷鳴ヒドくなり、人家に避難。特に雷は恐ろし。後で聞いた話しでは、紅葉から芹沢へ行く道で雷が落ちて松の古木が四ツに裂けたとのこと。紅葉の浜田屋に泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商10日目。今回の行商は天候に恵まれず、途中甚だしい暴雨雷鳴で、雨宿りをせざるを得ないほどです。雷が松が落ちており、生命の危険を感じてもおかしくない状況。
「当麻村」「紅葉」は現鉾田市当間、紅葉。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月27日(1829年)
〈行商中〉
紅葉を出立し、駒場へ行って営業。また紅葉に戻って泊る。終日雨天だったが、夕方には晴れた。鉾田からは、坂戸、当麻、借宿、青柳、吉影、紅葉、秋葉、小堤を通って駒場へ行った。良い道を選んだため、このような道順となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商11日目。紅葉(現鉾田市紅葉)を拠点に駒場(現茨城町駒場)まで雨の中を往復して営業しています。紅葉も駒場も昨年の行商には出てこない地名ですので、この間に新たな取引先を開拓していったのでしょう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月28日(1829年)
〈行商中〉
紅葉を出立。本日は、串引村の森作氏方に泊る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商12日目。本日は紅葉(現鉾田市紅葉)から串引村(現鉾田市串挽)まで行商。串挽は文政11年1月の行商で通っているのですが(同月9日条)、これまで泊まったことはない場所です。
新たな取引先、ルートを開拓しているようです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年7月29日(1829年)
〈行商中〉
串引を出立し、本日は根小屋に泊まる。吉川の中居織之助殿と雑談しながら時間を過ごした。酒肴も用意され、楽しい時間を過ごした。
思いもかけない菜の茎付きに冷酒で頂いた。寝ようとしたら、夜に鼠が出て難渋。なかなか寝付けず。今月は色々あり、あっというまの一月であった。今月も旅の内に暮れる。来月は中秋。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商13日目。根小屋(現行方市根小屋)で友人と酒を酌み交わして、上機嫌な三中でしたが、寝ようとしたら、鼠が出て眠れなくなってしまいました。こんな宿でも我慢して夜を過ごします。今ならクレームものですが、三中は「今月も旅の内に暮れる」と物思いにふけるのみ。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年(1829年)7月は小の月のため、30日は存在しません。)#色川三中 #家事志はお休みです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年に7月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #色川三中 #家事志 はお休みです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第六回講義

2024年08月03日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第六回講義

第六回講義(明治18年5月8日)
第三章 誰に対して公訴・私訴を行うべきか
( はじめに)
前章では、公訴・私訴を起こすことができる人を説明しました。この章では、公訴私訴を受けるべき人は誰なのか、つまり公訴私訴の被告となる人を論じます。
この章は、前章に比べて考察すべき範囲がやや狭いため、前回よりも理論は少ないです。
しかし、よく分析して考察を加えれば、論究すべきことは相応にあります。

この章は次の二つの款に分けて述べます。
第一款 誰に対して公訴を行うべきか
第二款 誰に対して私訴を行うべきか
まずは第一款から説明しましょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第一款の第一) 重罪、軽罪、違警罪を犯した人

第一款 誰に対して公訴を行うべきか

公訴と私訴を提起する主体が異なることは前回論じました。主体が異なるのですから、その対象者も異なります。以下に、公訴を受けるべき人について論じます。

第一 重罪、軽罪、違警罪を犯した人
公訴の被告となる者は、重罪、軽罪、違警罪を犯した人です。
刑法第104条の「正犯」は公訴の対象となります。なぜ正犯に対して公訴を行うのかという問題を治罪法の視点から見ると、公訴は刑を適用することを目的としているため、正犯に対して公訴を行うのは当然のことと言えます。
もっとも、本問題は刑法においてなぜ正犯を罰するのかという問題と同義です。よって、この問題は、治罪法よりも刑法の議論においてより詳しく論じられるべきものであり、ここではこの程度とします。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第一款の第二)
第二 教唆者
実行行為はしていないが、人をそそのかして罪を犯させた者(教唆者)は、正犯と同様に公訴の対象となります。
教唆者を公訴するときの注意点を申し上げましょう。
刑法第105条には「人を教唆して重罪軽罪を犯させた者亦正犯と為す」と規定されています。
重罪及び軽罪と規定されていますが、違警罪の文言はありません。刑法では違警罪の教唆者は罰しないのです。したがって、教唆者が公訴の対象となるのは重罪や軽罪に限られており、違警罪の教唆者が公訴の対象となることはありません。
しかし、だからといって違警罪に教唆者が存在しないわけではありません。たとえば、刑法第425条第9項に規定されている、人を殴打して創傷や疾病に至らない場合の罪のようなものは、実際には教唆者がいることが少なくありません。違警罪のような軽微な罪であっても、事実上、教唆者が存在しないわけではないのです。しかし、刑法でこれを罰しない以上、違警罪の教唆者に対して公訴を行うことはできません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第一款の第三)
第三 従犯
第三に、重罪や軽罪の従犯は公訴の対象となります。従犯者は、教唆者と同様、違警罪に関しては公訴の対象とはなりません。

以上まとめますと、公訴の対象者は、第一に正犯、第二に教唆者、第三に従犯です。そして、刑は犯罪者その人にのみ適用されるという原則に従い、これらの者の親戚には及ばないことは言うまでもありません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第一款に付随する問題①〜第三者の関与)
この第一款については、注意を要する問題が二つあります。以下にそれを考察します。

第一の問題は、「検察官と被告人との間に公訴が起こり、まだその結審がなされていない場合に、第三者がその公訴に関与することができるかどうか」ということです。

〈民事訴訟に関する考察〉
この問題を検討するにあたり、まず民事上の事例から考察します。民事訴訟では、甲と乙の訴訟の間に丙が関与することは許される場合があります。
例えば、不動産の売買において、甲を売主、乙を買主とした場合に、丙という者が現れて乙を被告としてその不動産の取り戻しの訴えを起こしたとしましょう。この場合、乙と丙の間に訴訟が係属することになります。乙丙間の訴訟に、甲が関与するには二つの方法があります。一つは、甲自身が被告となり、乙に代わって答弁を行うことができるというものです。これはほかでもなく、売主がその売買対象物件の担保責任を負うためです。乙丙間の訴訟において、仮に乙が敗訴することになれば、売主である甲は乙に対して損害賠償の責任を負うことになるからです。
もう一つの方法は、甲が被告ではなく、乙と共同して答弁を行うことです。この方法はどの国の訴訟法でも概ね認められているものです。フランス民事訴訟法第339条ではこれを明示しています。わが国においても民事上このような例がないわけではありません。フランス語でこれを「アンテルバンション・ド・チェール」と言います。第三者が訴訟に関与するという意味です。これは民事訴訟上不可欠な制度です。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〈刑事訴訟に関する考察〉
民事訴訟については以上のとおりです。では、刑事上の場合はどうでしょうか。
甲が公訴を受けた後に、乙が「これは甲とは全く無関係である、私が被告となって答弁するべきだ」と自ら被告になろうとする者が現れたというような場合です。
例えば、親が公訴を受けた場合に、子が親が獄中で呻吟するのを坐視することができず、自ら被告となって答弁しようとする場合です。
また、甲が公訴を受けた事件について、自分も関与しており、甲と共に答弁しようとするような例が考えられます。共犯であれば、一刻も早くその訴訟に関与し、答弁を行うことが自分の利益となるからです。

・刑事事件において許容できるか
では、刑事上でこのようなことを許すべきでしょうか。この点について治罪法の規定はありませんので、条理によって考えざるをえません。
私は、条理が指示するところに従い、次のように考えます。「民事ではこれを許すべきだが、刑事ではこれを許すべきではない」と。

・許容できない理由
以下、理由を述べましょう。
公訴は一個人の私的意向に左右されるものではありません。よって、公訴を受理しその裁判を行うのは、治罪法で規定されているところによらなければません。
公訴を受理するのは、検察官の起訴又は民事原告人の申立てある場合に限られ、その他の場合に裁判所が公訴を受理することは許されません。その例外は現行犯の場合(治罪法第202条)、弁論によって発見された附帯の事件、または法廷内での犯罪です。この例外の場合を除き、裁判官は自ら公訴を受理することができません(無告不理の原則)。
したがって、たとえ被告人が自ら甘んじて刑を受けようとする場合でも、それはただ一個人の私意に過ぎないため、法律で定められた手続きに従って起訴されたものでなければ、被告人となることはできません。第三者が自ら甘んじて被告人になろうとする場合でも、決してこれを許すべきではありません。
これを許してしまうと弊害もあります。例えば、富者が被告となり有罪の判決を受けるかもしれない不幸に見舞われた場合、すぐに大金を投じて貧者を自分の代わりに被告とさせ、自分の責任を免れようとする者がでてくるでしょう。
民事上は、基本的にすべての人の自由を尊重するものなので、自ら進んで被告人になりたいという者があれば、それを許しても大きな弊害はありません。自らに義務ありと告白する者を、法律上あえてこれを否定する理由に乏しいともいえます。
しかし、刑事上では自ら進んで刑を受けようとする者がいても、その人が犯罪者でない限り、決してこれを罰してはいけないのです。
これは、刑事と民事は性質の異なるものだからです。

・フランスにおける通説・判例とその批判
フランスの学説および判例を見ると、フランスでは刑事においても第三者が関与することを認めているようです。
その理由は、フランス治罪法には第三者の関与を禁止じていないから、というものです。
理論的には、同一事件はできるだけ一回で審理し、できるだけ同時に同じ法廷で裁判することで、判決の矛盾を来さないようにすることができるからと論じられています。
この議論は学説のみならず、フランスの大審院でも採用されています。
しかし、これらの学説及び大審院の判決は、刑法と民法を混同しているとものと評価せざるを得ません。
民事に関することは各個人の意思に委ねるべきものですが、刑事に関することは国家の秩序に関わるものであり、決して一個人の私的な意思に任せるべきではないのです。しかし、フランスでの議論は、この区別を全く考慮していないのです。
以上述べた理由から、私は民事の目的に関する事柄については第三者の関与を許し、刑事の目的に関する事柄については第三者の関与を許すべきではないと信じます。

(治罪法の規定からの自説の補強)
我が国の治罪法第303条第1項には、「民事担当人は、始審終審を問わず、いつでもその訴訟に参加することができる」と規定しています。
この規定は、民事を目的とする者に限って、民事担当人という第三者に公訴に関与することを許したに過ぎないものです。被告人が有罪判決を受ける場合、直ちに民事担当者の責任に影響を及ぼすため、その訴訟に立ち入って自らの権利を保護することを許したのです。
このような関与の仕方であれば、民事担当人だけでなく、その他の関係者にも関与を許すことが非常に理にかなっているというのが、私の考え方です。
例えば、甲が乙から物品を買い受けた場合に、甲がその訴訟に関与し、その物品が犯罪によって得られたものでないことを証明する権利を有することは、条理にかなっています。
民事担当人だけでなく、その他の関係者にも関与を許すのが妥当です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第一款に付随する問題②)
第二の問題は、「訴訟事件の審理中に被告人が他人をその訴訟に引き入れようとすることは許されるか」です。
民事上では許されます。先の例でいえば、被告(買主)は売主をその訴訟に引き入れることができることになります。実際に我が国においてもこのようなことは既に行われています。では、刑事上ではどうでしょうか。被告が「これを行ったのは自分ではなく、別の人である」として、その人を訴訟に引き入れることができるでしょうか。
私は許すべきではないと考えます。なぜなら、刑事上においてこのようなことを許可することは、被告人自身に公訴を行わせることと何ら変わりがないからです。これを許さなくても、被告人は証人としてその人を呼び出すことができるので、不利益とななりません。証人の呼び出しについては、治罪法に厳格な規定があり、証人が出廷に応じない場合には制裁が加えられるため、特に他人を被告とする必要はないのです。
以上で第一款の説明を終わります。次に第二款に移ります。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第二款 誰に対して私訴を行うべきか)
第二款 誰に対して私訴を行うべきか
公訴を受ける者は犯罪者に限られますが、私訴を受けるべき者は犯罪者に限られません。
以下この点を論じます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第二款 第一 公訴の被告人は私訴の対象となる)
第一 公訴の被告人は私訴の対象となります。
公訴の被告人は犯罪に関して既に刑法上の責任を負っている者です。したがって、それに関連する民事、つまり私訴においてもその責を免れることはできません。ここで「犯罪者」というのは、正犯のほか、教唆者、従犯者も含まれます。
教唆者、実行犯、従犯者は私訴ではその責任を連帯して負います。刑法第47条に「数人の共犯による裁判費用、贓物の還付、損害賠償は共犯者に連帯責任を負わせる」と規定されています。
同条の「共犯」とは、教唆者、実行犯および従犯者の三者を包含するものであり、複数の教唆者や実行犯がいる場合、その全員を含みます。これを狭く解釈し、共犯とは教唆者および実行犯のみを指し、従犯者は含まれないという説もありますが、正しいとは思えません。正犯、従犯はすべて連帯責任を負うべきです。
その理由は、教唆者、実行犯、従犯がいて人を殺した場合、その責任を分けて一部を教唆者の責任とし、また一部を実行犯の責任とするというようなことはできないからです。その責任に差を設けようとすると、不平等な分割法に陥ってしまうのは必然です 。よって、犯罪者に連帯責任を負わせるほかないのです。
もっとも、連帯責任を負うのは被害者に対する関係であり、犯罪者同士の間ではその責任を分割することは可能です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(第二款 第二 民事担当人は私訴の対象となる)
第二 民事担当人は、 私訴の対象となります。
民事担当人に関しては、明治14年12月8日の第73号布告で規定されており、次のとおりです。
第一 未成年者の父または母、もしくは同居している親族で監督を行う者
第二 知的障害者・精神障害者の保護者
第三 雇主
ただし、雇人がその雇主の命じた事案を行うとき

以上の四者は民事担当人として、民事上の責任を負うべき者です。この者が民事上の責任を負う理由は、自己の過失によってその責任が生じるのと同じだからということにあります。
親はその子を教育すべき責任を有しており、子が他人に損害を与えたときは、その教育が適切でなかった過失によるものであるから、その責任を免れることができないのです。
また、知的障害者・精神障害者の保護者についても、同様の理由によります。これらは結局、すべて自己の不注意によって他人に損害を及ぼすことに至ったものですので、その責任は注意を欠いた民事担当人が負うべきことは当然のことです。
雇人の行為によって他人に損害を与えた場合に、雇主がその責任を負うことは、一見非常に奇妙に思えるかもしれません。しかし、人を雇うにあたっては、注意を払うべきです。
他人に害を及ぼすような者を雇ったのは、雇い主の不注意であると言わざるを得ません。雇主が責任を負うのはこの理由によります。
もっとも、雇主が責任を負うのは、雇人が雇主の命令を実行する際に行った行為から生じた損害のみです。馭者が馬車を疾駆させて他人に害を与えた場合は、雇主の命令を実行している間に加えた損害であるため、雇主はその責任を負わなければなりません。

フランスでは、上記の四種類の他に、さらに民事担当人とされるものがあります。例えば、工業の授業をする講師や学校の教師などは、その業務を行っている間はその責任を負う者とされています。しかしながら、我が国ではこれを民事担当人とはしていないため、ここではこれ以上説明致しません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徒刑囚が2回脱走したら死罪 仮刑律的例39

2024年08月01日 | 仮刑律的例
徒刑囚が2回脱走したら死罪 仮刑律的例39

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【兵庫県からの伺】
明治2年2月20日、兵庫県からの伺い。
一、当県の支配する摂州新在家村の百姓森之助の弟松之助には、虚偽をもって自らを誇る行いにより、従前徒罪を申し付けました。にもかかわらず、再三にわたり徒刑場から脱走しました。
松之助の脱走の経緯は次のとおりです。
昨年(慶応4年=明治元年)4月4日、兵庫県で入牢。
同年8月31日、即位の礼による恩赦で出牢し、村預りとなる。
同年10月15日、再び入牢。
同年11月15日、徒罪となる。
同年11月26日、徒罪場から脱走。
同年12月23日、元の刑期を倍にしての徒罪となる。
本年(明治2年)1月2日、再び徒罪場から脱走。
同年1月12日、入牢。

松之助は、普段から行いが悪く、博奕や大酒を好み、親族や村役人の指示に従わず、村内を惑乱させていました。昨年(慶応4年=明治元年
)4月4日に召捕り入牢させましたが、改心の様子が見られないため、永牢の刑に処すべきところ、御大礼(即位の礼)の恩赦で8月31日に出牢し、村預けとなりました。
その後、松之助は、一緒に入牢していた摂州石屋村の太醇が、仕置済で出牢したことを聞き及んで、10月5日、太醇に会いに行きました。酒を酌み交わしてながら話しているうちに、太醇から今の仕事を聞かれたので、松之助は「兵庫県の役人になった」と嘘を言いました。
これを聞いて太醇は、「森村の百姓伊兵衛が、村内の安太郎から依頼を受け、大阪から金子を持ち帰る途中で賭博で負けて金子をすってしまった。兵庫県の役人に成りすまして、伊兵衛に対し召し捕るぞと脅せば、金子差し出すだろう」と話しを持ちかけました。
そこで松之助は、兵庫県の役人の佐々木八郎と名乗って、伊兵衛宅を訪れ、「安太郎の金子を横領したのは不届きである。お前を召し捕るよう内命を受けてきた。しかし、金子を返せば穏便に済ませる」と告げ、伊兵衛から金三両を受け取りました。この金は酒食に使い果たしとのことです。この一件については、松之助を徒罪の刑に処しました。
しかし、松之助は11月26日に徒罪場の窓格子を破って脱走しました。その後、松之助を召し捕り、敲の刑に加え、元の刑期を倍にしての徒罪としました。
その後、松之助は本年正月2日暁に徒刑場から再び脱走しております。播州路を徘徊していたところを召し捕って取り調べをしましたところ
松之助は、「徒罪で働くのが嫌であったので脱走した」と申し、脱走後に悪事は働いていないと述べています。
しかし、松之助は過去にも度々脱走しており、徒罪場の規律を厳守するためにも、厳罰が必要です。脱走を2回した場合は刎首に処してしかるべきと思料します。
死刑以上は天皇の御裁可を経るべきとの御布令ですのでお伺いする次第です。

【明治政府からの返答】
明治2年6月30日
天皇から裁可を経て以下のとおり返答する。
この者は、昨年8月に出牢し、徒刑を申付けたのに、再度徒罪場を脱走した。不届きの至りであり、刎首とする。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(コメント)
・松之助は摂津国新在家村の出身です。新在家村は現在の神戸市灘区新在家南町あたりでしょうか。
・松之助の犯罪について順をおってみてみます。
一度目は、永牢相当でしたが、明治天皇の即位の礼の恩赦となり、その後村預けとなっています。このときの理由が、伺いでは「普段から行いが悪く、博奕や大酒を好み、親族や村役人の指示に従わず、村内を惑乱させていました。」との記載しかなく、具体的な行為の記載がないので、これで永牢相当と言われても、ちょっとよく分かりません。いずれせよ一度目は入牢したものの、刑事処分はなかったということになります。
・二度目の犯罪は今でいえば詐欺罪に該当する犯罪です。
慶応4年=明治元年の8月31日に釈放され、10月5日には犯行に及んでいます。犯行に至る経緯な共犯者のことがかなり細かく書かれていますが、松之助の関係で整理すると次のようなものになります。
松之助は、太醇と共謀の上、明治元年10月5日、森村の百姓伊兵衛方に赴き、同人に対し自らを兵庫県の役人の佐々木八郎であると名乗り、「安太郎の金子を横領したのは不届きである。お前を召し捕るよう内命を受けてきた。しかし、金子を返せば穏便に済ませる」と告げ、伊兵衛から金三両を詐取したものである。
・松之助はこの犯罪により同月15日には再び捕まって入牢し、11月15日に徒罪の刑とされています。釈放後すぐに犯行に及んでいるところを見ると、自分の行為を反省するということがなかったようです。
・二度目の犯罪ではありますが、刑事処分としては初めてです。徒罪ですから、徒罪場で強制的に仕事をさせます。今の懲役刑と同じようであったと考えて良いでしょう。
しかし、刑を言い渡されてから2週間も経たないうちに、徒罪場から脱走しています。
・徒罪場からの逃走については、明治政府の方針は「一度目の脱走は当初の刑を倍にして役につかせ、二度目は死罪」となっています。
兵庫県は、これに従い12月23日、元の刑期を倍にして徒罪を科しています。
・しかし、これまた2週間と経たない明治2年1月2日に松之助は再び徒罪場から脱走します。二度目の逃走です。
明治政府の判断は、二度目の逃走であるから、死罪(刎首)とせよというものでした。徒罪は明治になってから始まった制度であり、逃走防止が至上命題であったことは理解できるものの、二度の逃走で死罪はいくらなんでも無茶苦茶に厳しすぎます。なお、現代では逃走罪の法定刑は懲役1年以下です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伺い本文では松之助の犯行がよくわからないと思ったのか、太醇について補足する文章が伺い中にありましたので、これも訳しておきました。
〈太醇についての補足〉
太醇なる者は、摂州御影村定次郎ら3人が所持していた紙入などを勝手に持ち帰り、村内の安太郎方においては、その母ちかえに持ちかけて融通手形を騙し取り、得た金は酒食などに使い果たしてしまっております。また、無宿の新三郎(この者の行方はつかめておりません)から融通手形を借りて、これまた使い果たしております。
これらの行為は不埒であり、太醇に入墨の上、重敲の刑に処せられるべきと思料しておりましたが、即位の礼の恩赦御により罪一等を減じ、重敲のみとし、親に引き渡しました。
太醇は、自分が刑を受けたのは村内の福松(安太郎の息子)が讒言したのだと逆恨みし、福松に恨みを晴らしてやる安太郎に恨みを抱き、安太郎から依頼を受けた伊兵衛に難題を持ちかけたということです(松之助の供述)。なお、太醇はこの一件により、11月から徒刑に処せられています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする